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5 丹後由良、丹後宮津・天橋立、但馬城崎・余部鉄橋
 2・3・4は、舞鶴から、満州・シベリアへ時間旅行をしてしまいましたが、小旅行記5では、また元に戻って、丹後から但馬へかけての旅路を進みます。 

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丹後由良

A

丹後宮津・天橋立

B

但馬・城崎、余部鉄橋

@ 丹後由良                         | このページの先頭へ |

 今回の旅行は、素早く移動するためと経費節減から、自動車での旅行となりました。しかし、風情のある旅行といったら、やはり、鉄道です。
 鉄道の撮影ポイントを2つめぐりました。足の短い橋と長い橋です。 

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上の地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。都市・鉄道の位置ともフリーハンドで書いていますので、正確さは今ひとつです。あくまでイメージ図です。


 京都府と兵庫県の北部には、第3セクターの鉄道が走っています。
 
北近畿タンゴ鉄道宮津線宮福線です。
 もともと、京都府の西舞鶴と兵庫県豊岡を結ぶ
国鉄宮津線がありましたが、JRになってから、1990年、第3セクターの北近畿タンゴ鉄道宮津線となりました。タンゴは丹後であり、踊りのタンゴとかではありません。

 そのあとで、途中までできていた
山陰線福知山駅と宮津駅を結ぶ路線も全線開通し、宮福線となりました。(山陰線が向かう先は京都駅です。一方同じ福知山から南へ向かうのは福知山線です。三田、宝塚を経て尼崎でJR東海道線(神戸線)と接続します。あの2005年4月の列車事故の福知山線です。)
 
宮津駅を要として、T字型に路線をもっている鉄道です。
 ご多分に漏れず経営は赤字です。2004年度は、5億円の赤字額を計上しました。
 しかし、この鉄道の状況は、本県の第3セクターなど一般のそれとはちょっと事情が違う点があります。
 赤字の理由が、
デラックスな特急車両を購入した減価償却分というのです。
 
日本三景のひとつ天橋立というドル箱観光資源をもっているため、第3セクターとはいえ、自前で特急車両を保有し、また、JRの特急電車が乗り入れています。年間輸送人員は200万人以上となっており、宮福線と宮津線宮津−天橋立間は、電化されています。
 ちょっとぜいたくな第3セクターです。

 そんな鉄道ですが、いかにもローカルといった美しい情景のポイントがあります。
 それが下の写真、
由良川鉄橋です。


 由良川の河口部分にある由良川鉄橋を渡る普通列車です。

 上の地図をご覧ください。
 
西舞鶴を出たディーゼルのローカル列車は、山あいを抜けてすぐに由良川に沿って北上をはじめます。
 
由良川は、京都府北部、丹波高地の三国岳(標高959m)に源を発し、綾部市、福知山市などを流れて、舞鶴市と宮津市の境で、若狭湾に注ぐ延長146kmの川です。
 由良川沿線には大都市がないため、水はすごくきれいです。
 列車は、河口の手前で、川を渡って
丹後由良駅に向かいます。
 この鉄橋が、なかなか定番の撮影ポイントです。
 この鉄橋のあたりでは、河口部で川幅が広く、中流部のような「増水」もないため、鉄橋の橋脚は低く(足が短い)、列車が水面のすぐ上を走るという感じになります。
 
 撮影の時間はほぼ満潮の時でしたので、水面と列車が特に接近した写真となりました。

橋梁の中央部分を渡るディーゼルカー。まるで海の上を走っているようです。


A 丹後宮津・天橋立                        | このページの先頭へ |

 丹後といえば、天橋立です。
 この辺り一帯の海岸線は、リアス式海岸です。
 山々が沈下してリアス式海岸となった時は、江尻と文殊の間はただの海でした。
 その後、山側からの川による土砂の流入と海流による土砂の運搬の微妙なバランスによって土砂が堆積し、
砂州となりました。 

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この写真は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。


 定番の写真です。それでも「ほー」とおもわず感嘆詞が出る美しい景色です。


B 但馬城崎・余部鉄橋                     | このページの先頭へ |

 今回の旅行の宿泊地は、かの有名な城崎温泉です。
 外湯を楽しんで1泊です。


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 城崎は、日本海に注ぐ円山川の河口から5kmほど上流にある温泉地です。

 円山川に注ぐ支流の大谿川に沿ってホテルや外湯の浴場が並んでいます。

 写真は、大谿川を渡る山陰線の特急「はまかぜ」2号。06:08鳥取発で、07:19に城崎駅に到着する直前です。


 そして、翌日、この旅行の一番遠い目的地、かの有名な山陰線余部鉄橋に向かいました。

「何でこの鉄橋が有名なの?」

「いってみれば分かる。美しい鉄橋だ。それに事故もあった。」

D

「事故って?」

「それは君が生まれる前の話だ。」


標記について
鉄橋のある町は、兵庫県美方郡香美町香住区余部です。町の名前も橋梁の名前も、「余部」という漢字を使います。ただし山陰本線の駅名は、「餘部駅」と難しい字を使います。

余部鉄橋の架け替えについて
 余部鉄橋は、2010(平成22)年7月-8月に新コンクリート橋が完成し、線路が架け替えられました。
 これについては、旅行記::「出雲・石見旅行1・2」で説明しています。→こちらです。


 余部鉄橋が
有名な理由の第1は、そもそも日本で一番高いトレッスル橋だからです。この鉄橋の高さは41.45m、長さは310.59mです。トレッスルは橋梁の種類です。

参考文献です。

佐々木富泰・網谷りょういち著『続 事故の鉄道史』(日本経済評論社 1995年)

成瀬輝男編『鉄の橋百選』(東京堂出版 1994年)

松村博著『日本百名橋』(鹿島出版会 1998年)

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 やって来ました。
 山陰線余部鉄橋です。

 鉄橋の作り方は、いろいろありますが、この鉄橋は、線路を高いところに通すため、鉄橋を架ける足の部分がコンクリートとかアーチとかではなく、
鉄骨を組み合わせた台(架台)を並べてつくられています。鉄橋の土台部分が川とか海では、鉄骨は使えませんが、この餘部は陸上ですから、可能です。
 この架台を英語でトレッスルといい、このタイプの橋をトレッスル橋といいます。

 余部鉄橋は日本で一番高いトレッスル橋です。 
 つまり、北近畿タンゴ鉄道宮津線の由良川鉄橋とは対照的に、足の長い鉄橋です。 


 海側からの撮影した写真です。
 このあたりの山陰海岸は、山が海側まで迫った険しい地形となっています。
 このため、鉄道路線の決定に際し、ある程度効率よく直線にし、しかも、
トンネルを少なくするために、地上から高いところに線路を敷設する案が採用されました。
 この鉄橋ができた明治末年(20世紀初め)においては、コンクリートの品質はあまり高くなく、現代では

普通となっているコンクリートの橋脚ではなく、鉄骨の橋脚となったわけです。 

この写真は、転用フリー写真集「デジタル楽しみ村」『山陰本線余部鉄橋の風景』からお借りしました。いつもながら利用させていただいて感謝します。


 餘部を海側から見た3D画像です。海まで迫る険しい地形と、鉄橋の位置がおわかりいただけると思います。


 3D地図ソフト、カシミールを使って作図しまし。カシミールのはこちらです。http://www.kashmir3d.com/

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 鉄橋下の餘部の集落から撮影した鉄橋上の普通列車。
 この鉄橋には、橋を載せるための
架台(トレッスル)が全部で、11あります。

 この鉄橋ができたのは、1912(明治45)年3月1日で、3年4か月の工期でした。
 鉄橋部分は日本製ですが、トレッスルはアメリカの会社で作られ、船で門司へ運び、さらに沿岸船に積み替えられて日本海を航行してこの地に運ばれました。

  この時代は、今と違って陸上交通ではこのような構造物は運べません。

 余部鉄橋付近の航空写真。左の入り江が餘部です。右の入り江の港のすぐ陸側に、餘部のひとつ城崎よりの駅、鎧(よろい)駅があります。この写真は、ちょっと古くて、1985年ののものです。
写真は、国土交通省ウェブマッピングシステムの航空写真を借用しました。サイトはこちらです。


上の写真の、余部鉄橋部分のアップです。20年以上前の航空写真です。


 余部鉄橋が有名な理由の第2は、1986(昭和61)年にこの鉄橋で列車転落事故が起こったからです。

 1986年の暮れも押し詰まった12月28日13時24分、この鉄橋の上から、回送列車の客車が橋の下まで転落し、乗務員の車掌さんと、下のカニ加工工場で働いていた従業員5名の合計6名の方が犠牲となりました。
 事故原因は、秒速33mと記録された限界を超えた海側からの風により、客車があおられて落下したと推定されました。この列車は、福知山線谷川駅始発、香住駅行きの臨時団体列車「山陰買い物ツアー」のお座敷列車「みやび」(ディーゼル機関車が牽引)で、香住駅で乗客を降ろし、浜坂駅へ回送される途中でした。乗客に犠牲者がいないのは、この列車が回送列車だからでした。

 事故報告書では、強い風が原因となっています。
 しかし、前掲佐々木・網谷共著では、単純な強風の作用ではなく、
1968年からの8カ年計画で実施された橋梁の補強工事が、かえって、橋梁全体のバランスを崩した結果、強風による海側からの力で橋梁上の線路がゆがみ、列車が脱線した上に、強風の作用が加わって転覆・落下に至ったと推定しています。

この推定は、「失敗知識データベース」(topepage)の「余部鉄橋からの列車転覆」にあります。
東京大学大学院中尾政之氏の論文です。事故直後の写真も掲載されています。


 乗客がいなかったため軽かった列車は、強い風を受けて7両編成の中央車両から陸側に倒され、橋梁上から落下しました。7両全部の客車が引きずられて落下し、先頭のディーゼル機関車だけは重いため連結器がはずれて橋梁上に残りました。
 落ちた客車のうち、5両目が橋梁下のカニ加工工場を直撃しました。
 現在、その後には、大きな観音様が立てられ、献花が絶えることがありません。
この写真は、「神戸観光壁紙写真集・兵庫と神戸の風景壁紙写真」からお借りしました。感謝。


 余部鉄橋のホームです。
 鉄橋の西側の見晴らしのいい場所にホームがあります。
 下の集落からは、坂道をフーフーと5分ほど「登山」しなければなりません。
 ずいぶん待って、やっと列車がやって来ました。浜坂発城崎温泉行きの普通列車で、餘部10:43発です。この前の上り列車は、08:25発、このあとは、12:21発、つまり、昼間は片道2時間に1本の運行です。写真を撮影するのも簡単ではありません。待つ時間の長いこと長いこと。 
 この日はお盆前の土曜日でしたから、観光客やアマチュアカメラマンがたくさんいました。

 普段は無人駅ですが、この日は臨時に駅員さんが派遣されてきており、記念乗車券やらなにやらいろいろ商売熱心でした。

 ある観光客のおばさんが、「隣の駅まで行って往復してもいい。」と聞きました。
駅員さんは、「どうぞ」といっていましたが、これはなかなか簡単ではありません。
 10:43の列車で隣の鎧(よろい)駅に行くと、鎧駅では、この列車がホームにはいると同時に下り列車(餘部駅方面)が発車してしまいます。つまり、さっと乗り換えて戻ってくるということはできません。
 次の下り列車は、鎧駅発12:44、餘部駅着12:48です。僅か1.8km離れているだけの隣の駅との往復が、2時間仕事になります。


 最近、余部鉄橋を訪れる人が増えているそうです。
 理由は、この鉄橋の架け替え工事が行われることが発表され、この鉄橋を見ることができるのも後数年となったからです。

 架け替え理由は、鉄橋の強度的にはもう少し寿命があるそうですが、強風により列車の運行がしばしばストップするため、この地域の住民や長距離列車の運行に多大のマイナスが生じているためです。
 単純な発想をすれば、鉄橋の横に風よけの壁を付ければいいのですが、現在の鉄橋では強度上それを取り付けることはできません。
 そこで、風よけの覆い付きの頑丈なコンクリート橋を現在の橋の陸側に造って、風に左右されない鉄道に進化しようというわけです。
 
 
工事は、平成18年度末、つまり2007年2月ころからはじまる予定とか。
 ホームで切符を売っていた臨時駅員さんの話では、現在の鉄橋の陸側にもう一つ別のコンクリートの新橋を作って、現在の餘部駅につなごうという計画だそうです。 

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 待ちに待ってやっと鉄橋上のローカルトレインの写真が撮れました。


 駅で、妻と次男Y、三男Dと別れました。
 私は、そのまま駅に残り、駅裏の丘から鉄橋を渡る列車の写真を撮影しました。それが上の写真です。

 妻たちは、列車に乗り込み、「いい写真を撮って来いよ」と期待して別のカメラを渡しました。つまり、上の写真の赤い列車の中には、妻たち3人が乗っているのです。

 次男Yの作品、「鉄橋を渡る列車から撮影したトンネルの入口」が右の写真です。今イチです。

 ま、珍しい写真には、なっています。ミラーに運転手さんも映っています。

 
 茶色っぽい本物のレールの内側に白っぽいレールのようなものが見えますが、これは、脱線防止用の橋上ガイドレールです。
 ただし、この種類のレールは、1986年の転落事故の時もありましたが、横風による転覆には効き目はありませんでした。

   
 トンネルの向こうの鎧駅と背景の海です。
 この駅も高いところにあります。


 

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 これで、若狭・丹後・但馬旅行記を終わります。


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