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 石見銀山です  10/09/05記述 10/09/14修正 

 さてさて、やっと今回のメイン訪問地にやってきました。
 もともと今回の旅行は、
石見銀山が主目的でした。そこへ、一畑電鉄が割り込み、ついでに余部橋梁が付け加わり、何が主役かわからなくなってしまいました。
 しかし、地歴公民科教師の「研修」旅行としては、やはり、
石見銀山、すなわち、昔から石見大森銀山と称されて、2007(平成19)年に世界遺産に登録された、現在の島根県大田市大森町の銀山遺跡がメイン訪問地です。
 このページは、
石見銀山や我が国の鉱山の歴史に関する学習のページです。

 石見銀山は、16世紀前半(
1626年)に発見され、1923年に採掘が休止されるまで、400年ほど銀鉱石・銅鉱石等を産出した銀山です。
 2007年7月にユネスコ世界遺産委員会によって世界遺産一覧表に記載されました。日本では14番目の世界遺産であり、鉱山遺跡としてはアジアで初めての登録です。 


 【参考文献一覧】
  このページと次のページの記述には、主に次の書物を参考にしました。

中田広二・高橋一正著『地図で旅する日本の世界遺産 石見銀山』(東京地図出版 2008年)

村上隆著『金・銀・銅の日本史』(岩波新書 2007年)

石見銀山歴史文献調査団編『石見銀山 研究論文編』(島根県教育委員会 2002年) 

島根県教育委員会編『石見銀山街道 鞆ヶ浦・沖泊集落調査』(島根県教育委員会 2005年)

島根県教育委員会編『「石見銀山遺跡世界遺産登録一周年記念事業」記録集』(島根県教育委員会 2009年)

  小葉田 淳著『日本歴史新書 鉱山の歴史』(至文堂 1956年) 
  永原慶二・山口啓二編『講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金』(日本評論社 1983年) 
  小寺雅夫著『石州の歴史と遺産 ー石見銀山・浜田藩・津和野藩ー』(渓水社 2009年) 
  田中琢監修『別冊太陽 世界史に刻まれた産業遺跡 石見銀山』(平凡社 2007年) 
  10 彌永芳子著『日本の金』(東海大学出版会 2008年) 



 ※上の地図は参考文献中の以下のページを参照にして作成しました。
   参考文献1:中田・高橋2008 P55  同2:村上2007 P117
   参考文献3:所収 大國晴雄著「石見銀山『柵内』の復原」P120

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 写真05-01 石見大森銀山の採掘の中心、仙ノ山。  (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会)

 石見銀山の説明では、島根県教育委員会・太田市教育委員会の作成によるHP「世界遺産石見銀山遺跡」にある「写真ダウンロードのページ」からいくつかを複写・転載します。私のページでは、自分で撮影した写真との識別のため、「by島根県・太田市教育委員会」と標記します。また、撮影日は、同HP記載の年月日を記載します。
 これらの写真の著作権は島根県教育委員会・太田市教育員委員会にあります。利用の際は、以下のページを確認してください。
島根県教育委員会・太田市教育委員会編「世界遺産石見銀山遺跡」
Topページ http://ginzan.city.ohda.lg.jp/index.php
写真ダウンロードページ http://ginzan.city.ohda.lg.jp/index.php?action_post_photo_list=true

 上の写真05-01は、地図07詳細図の一番右下の上空から、仙ノ山の東側を撮影したものです、正面に見える谷が、大久保間歩釜屋間歩などのいわば、「本谷」と呼ばれる谷を臨んだものです。
 仙ノ山の中央の平坦地は、石銀、石銀千畳敷などの地名が残り、往時には銀山坑夫等の集落が立ち並びました。
 中央右よりの別の頂が、要害山です。

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 教科書に書かれている石見銀山   | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 鉱山の歴史というものについては、中学校や高等学校の歴史の授業では、ほんの少ししか登場しません。日本史を頑張って勉強した方でも、記憶にはあまり残っていないかと思います。
 クイズ仕立てで、復習します。

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 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 ○はわかるが、△はなんじゃということになります。以下で説明します。

 かの有名な山川出版の教科書の記述を最初から拾っていくと、次のようになります。表現が微妙なので、「え、正解はどれ?」となるかも知れません。下で説明しますので、とりあえず、見てください。



 上記引用の山川版教科書によれば、日本における鉱山開発は、戦国時代から盛んに行われたことがわかります。
 ただし、奈良時代の記述には、
「周防の銅、陸奥の金などの
鉱物資源の採掘も行われた。」
とあります。
 こう記述されていると、金を鉱山から採掘したのではないかと思えますが、実は違います。
 古代の金は、現在の岩手県平泉の中尊寺金色堂で有名な
奥州(東北地方)の黄金文化が有名ですが、ここで利用された金は、鉱山によって土中から掘りされたものではなく、表土に混じる砂金の採集によって得られたものでした。
 もっとも銅の方は、『続日本紀』等によれば、奈良時代・平安時代には、とくに
長門・周防(現山口県)の鉱山から採掘されたと記されています。また、教科書記述にはありませんが、室町時代には、中国地方にいくつかの銅山があり、採掘されていました。
  ※参考文献6 小葉田1956年P32-34
 
 したがって、上記山川版教科書によれば、金銀鉱山の開発は、戦国時代になってからということになります。

 ただし、別の教科書には、次の記述があります。それが、黒板の「△1奈良時代」の意味です。



 武蔵からの銅は、708年の自然銅の献上のことを意味します。自然銅というのは、酸化した銅鉱石ではなく、Cuのままの形で地表面で発見された銅のことです。この時の献上を記念して、元号は、慶雲から「和銅」へ改元されました。
 また、「
対馬から銀が産出した」というのは、これは、正真正銘の鉱山からの銀の産出です。対馬は、このあと8世紀から13世紀まで我が国唯一の産銀地でした。しかし、しだいに、採掘場所が地表から深くなり、浸水によって採掘ができなくなりました。
 ※参考文献6 小葉田1956年P15-20  同7所収山口啓二「金銀山の技術と社会」P143

 したがって、後の石見銀山等に比べれば産出量は少なく、詳細はわかりませんが、正確に言えば、この
対馬銀山が、日本最初の金銀山開発ということになり、その歴史は、奈良時代にさかのぼることになります。


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 石見大森の銀山はどんなにすごかったか | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 対馬の銀山が「歴史と伝統」はあるものの、今ひとつ詳細が不明ということになると、金銀山で、一番最初に大量の生産量を誇ったのはどこか?教科書の戦国時代の記述には、「甲斐・駿河・伊豆の金山、但馬・生野の銀山」と列記してあります。このうちどれなのでしょうか?
 実はそれが、この
石見銀山なのです。
 そして、銀産出量は、必ずしも確かな数字が把握されているわけではありませんが、断片的には次のような驚くべき数字が記録されています。



 後で詳しく説明しますが、石見大森の仙ノ山という高さ537.8mの山の頂上付近で銀鉱脈が発見されたのは、1526年のことです。この石見大森銀山では、坑道を使った最新式の採掘技術や、灰吹(はいふき)法と呼ばれる朝鮮伝来の精錬技術が活用された結果、世界有数の銀産出量を誇るようになりました。
 そして、さらに、その技術が
但馬生野の銀山佐渡相川の金銀山に伝わり、16世紀後半から17世紀前半にかけての、日本全体での空前の金銀産出量につながりました。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 日本は、世界全体の銀産出量の半分ほどの額を輸出していたことになります。その先駆けとなったのが、石見大森の銀山でした。

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 世界史の中における位置づけ | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

  それでは、上の黒板で説明された輸出された銀は、どこへ行ったのでしょうか?言い換えれば、16世紀後半の世界の貿易の構造はどうなっていたのでしょうか?
 次のクイズに答えてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 16世紀後半から17世紀前半と言えば、ヨーロッパ勢力が東アジアにも来訪し、盛んに貿易を行った時代です。とりわけ、最初に東アジアにやってきた、ポルトガル船やスペイン船がその主役となりました。
 日本の銀山の銀は、日本国内の需要をまかなうだけではなく、主に
中国へ輸出されていきました。その代わりに日本へ輸出されたのが、中国の生糸であり、また、ヨーロッパの鉄砲や火薬はその脇役でした。
 鉄砲や火薬が、戦国時代の分裂から安土桃山時代の統一へと向かわせた一つの要因であることはよく知られていますが、安土桃山時代の豪華絢爛な文化を支えたもののひとつに、絹織物があることを忘れてはいけません。

 また、中国(明)が大量の銀を必要とした理由は、商工業が発達した明においては、16世紀には国家が、各種の税や遙役(労働によって負担する租税)を銀に一本化して納入するという
新税制度、一条鞭法(いちじょうべんぽう)が採用したためです。
 この制度は、16世紀中頃に銀が流入し始めた頃にはすでに揚子江流域の江南地方で実施されており、日本からの銀の輸入が拡大するにつれて広がり、1580年代に
万暦帝のもとで活躍した宰相張居正のもとで、全国に広がりました。

 以下に教科書からの引用を掲載して確認します。



 平成21年に改正され、平成25年から全面実施される「地理歴史科」の新学習指導要領では、世界史・日本史・地理のそれぞれの科目に、相互の関連を見い出して学習することが強調されています。
 しかし、現学習指導要領に基づく上記の教科書においては、世界史と日本史の結びつきが強く意識されている記述とは、とても思えません。今後、改善が期待されるところです。

 さて、これで、私たちが訪れた石見銀山が、高校の歴史の教師としては、「是非訪問したいところ」であることが、とりあえず理解していただけたでしょうか?保存状態がいいことももちろんですが、こういう意義があるからこそ、「
世界遺産」なのです。

 島根県立古代出雲歴史博物館には、1595年にベルギーのアントワープで製作された「ティセラ日本図」というのが所蔵されています。その地図には、ラテン語で日本の地名が記されていますが、そのひとつに、「
Hivami」(石見)「Argenti fodinae」(銀鉱山)とあります。
 ※島根県立古代出雲歴史博物館 
    ○トップページはこちらです。http://www.izm.ed.jp/
    ○該当地図の紹介ページはこちらです。 ・総合展示一覧」の「尼子氏と益田氏と石見銀山」  
                     
http://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=24


古代・中世・近世の貿易品と輸出品に占める金属については、→クイズ日本史:江戸時代「輸出品と金属」を参照のこと。


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 銀山開発の歴史     | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 私たちは、2010年7月31日の16時半ごろ一畑電車の出雲市駅を後にし、そのまま国道9号線を西へ走り、この日の宿泊地、温泉津(ゆのつ)温泉へ向かいました。60kmあまり走って、1時間半弱で、温泉津に到着しました。
 
温泉津温泉の説明の前に、まず中国地方の歴史や鉱山開発について、説明します。

 最初に、ちょっと確認のクイズです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 石見銀山は、山口に拠点を置く大名大内氏の支配下に於いて開発されました。
 直接開発に携わったのは、博多の商人、
神屋寿禎(かみやじゅてい)です。
 当時大内氏は
周防山口を中心に、西中国を支配し、さらに博多商人と結んで日明貿易を支配していました。その大内氏の配下にあった神屋寿禎は、山陰地方にもともと産していた銅の買い付けのために、船に乗って夜間に石見沖を通過しました。その時、仙ノ山(写真01)が輝くのを発見し、大内義興(よしおき)の支援によって鉱山開発に着手します。1526年のことです。なおこの2年後の1528年には大内義興が死に、その子の大内義隆が跡を継ぎました。義隆は、日本史の教科書にも登場する大内氏最後の当主です。
 1533年には、神屋寿禎は、朝鮮から
宗丹慶寿の二人の技術者を招き、新たに灰吹法という精錬方法を確立して、銀の増産に成功しました。
 
 
16世紀~17世紀初頭の石見鉱山の歴史を略年表にすると以下の通りです。 

  1526年  神屋寿禎、仙ノ山の銀鉱脈を発見。大内氏の支援で鉱山開発を開始。
  1528年

 大内義隆、家督を相続。

  1533年

 神屋寿禎、朝鮮から宗丹・慶寿の二人の技術者を呼び、灰吹法と呼ばれる精錬法による精錬を開始。

 1537年  出雲富田城に本拠を置く戦国大名尼子経久、石見銀山を奪取。 
 1539年  大内義隆、石見銀山を奪還。 
 1551年  大内義隆、家臣の陶晴賢に討たれ、大内氏滅亡。銀山をめぐって、毛利氏と尼子氏が争う。 
 1562年  毛利元就、銀山を支配。 
 1585年  毛利氏、豊臣秀吉に屈服。石見銀山、豊臣氏と毛利氏の共同管理下に入る。 
 1600年  関ヶ原戦いで徳川家康が勝利。石見銀山は、徳川氏の支配下に入る。 
 1601年  石見銀山奉行として、大久保長安が任命される。 
 
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 温泉津温泉     | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 さて、私たちが宿泊した、温泉津(ゆのつ)温泉について説明します。温泉と書いて「ゆ」と読むのです。
 温泉津温泉の開闢は、今から1300年ほど前の奈良時代に入る直前の700年頃と言われています。戦国時代にこの地を領していた国人勢力(地方の領主)は、温泉氏、つまり「ゆし」でした。
 この町は、石見銀山とも深い関係があります。
 銀山を開発した神屋寿禎は、当初銀の積み出し港として、直線距離で一番銀山に近い海岸にある良港、
鞆ヶ浦(ともがうら)とし、銀山と港の間の道を鞆ヶ浦道として整備しました。
 16世紀後半に石見銀山を支配した毛利氏は、距離は短くても起伏の激しい鞆ヶ浦道にかわって、やや南の温泉津温泉の西部にある
沖泊(おきとまり)への運搬路=沖泊道を整備し、鞆ヶ浦に変わって沖泊を積み出し港としました。
 銀の運搬路そのものは、江戸幕府の直轄領となった江戸時代には、南へ向かって中国山地を越え、尾道まで陸路で行って、そこから船に積み替えられるルートに変わりました。
 しかし、温泉津の港そのものは、銀山町に運ぶ物資の荷揚げ港として活躍しました。江戸時代後半に石見銀山が衰退すると、温泉津は、日本海を回って大坂と東北地方を結ぶ北前船の寄港地として繁栄しました。 

 写真05-02 温泉津と沖泊と鞆ヶ浦           (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会)

 日本海上空、つまり西側から、温泉津と銀山方面を撮影した写真です。(→「地図07 石見銀山周辺図」で確認ください。)
 左上の
鞆ヶ浦が最初の積み出し港です。毛利氏の時代になってから、温泉津温泉にほど近い、沖泊が積み出し港となりました。

 写真05-03 ■。(撮影日 10/08/01)

 お世話になった石見銀山世界遺産センターにあるこの地域のパノラマです。
 上の写真05-02とは、反対側の東側から日本海を方面を眺めた位置関係の写真です。鉱山と言っても、何十キロも内陸ではなく、比較的海岸に近いところに存在したことが、石見銀山の開発を盛んにした要因の一つになりました。

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 写真05-04 温泉津温泉(撮影日 10/04/01)by教委

 写真05-05 温泉津漁港 (撮影日 10/08/01)

 私たちの宿は、温泉津温泉街のほぼ中央にある輝雲荘でした。右は、早朝の漁港の様子です。 


 写真05-06 温泉津温泉街(撮影日 10/08/01)

 写真05-07 温泉津漁港 (撮影日 10/08/01)

 輝雲荘は左側です。右は外湯、薬師の湯です。1872年の浜田大地震の時に湧出した湯がその起源です。

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 写真05-08 温泉津温泉(撮影日 10/08/01)

 写真05-09 沖泊漁港 (撮影日 10/08/01)

 左は、現在の温泉津温泉で最も古い湯、元湯です。ややしょっぱい食塩泉です。湯船は、46度の熱い湯から3段階に分かれています。私たちは、宿泊した夜は宿の温泉に入り、次の日の朝、外湯に出かけました。松山の道後温泉と同じパターンです。熱い湯の嫌いな私はもし空いていたら入ろうかどうしようか悩みつつ古びた扉を開けました。
 ところが、朝6時台だというのに、男湯は満員です。
 中年のおじさんが二人ほどと、残りは、高齢者のかたが5人ほどで、洗い場は満員状態でした。
 ちょっと場所を空けてもらった中年のおじさんに尋ねたら、みなさん近くの漁師の方で、「今日は天気はいいけど波が荒いのために漁は休み」と言うことで、みんなでやってきたそうです。

 右は、現在の沖泊漁港です。 


 写真05-10 沖泊の入り江(撮影日 10/08/01)

 写真05-11 鼻ぐり岩 (撮影日 10/08/01)

 入り江のあちこちには、自然の岩盤をくりぬいて、船を係留するための場所とした、鼻ぐり岩が数多く残されています。
 急に深くなる自然に良港で、写真に見える中央の防波堤までは、波止場からの距離は180m程ですが、水深は6.0mにもなります。
 ※参考文献4 島根県教育委員会2005年 P53~70 所収
  鳥谷芳雄著「沖泊・鞆ヶ浦における繋留遺構 付 沖泊の石切場後他調査報告」
 

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 写真05-12 沖泊の恵比須神社 (撮影日 10/08/01)

 沖泊の浜のすぐそばの崖にあるこの恵比須神社は、創建が、なんと1526年伝えられています。つまり、石見銀山が発見された年と同じ年です。この拝殿そのものは、江戸時代末期の建物です。 


 さて、8月1日の早朝、朝から温泉を楽しんだ私たちは、いよいよ、石見銀山探検に出発しました。 
 続きは、次ページをご覧ください。


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