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石見銀山です 10/09/05記述 10/09/14修正 |
さてさて、やっと今回のメイン訪問地にやってきました。 |
【参考文献一覧】
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※上の地図は参考文献中の以下のページを参照にして作成しました。 |
写真05-01 石見大森銀山の採掘の中心、仙ノ山。 (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会) |
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石見銀山の説明では、島根県教育委員会・太田市教育委員会の作成によるHP「世界遺産石見銀山遺跡」にある「写真ダウンロードのページ」からいくつかを複写・転載します。私のページでは、自分で撮影した写真との識別のため、「by島根県・太田市教育委員会」と標記します。また、撮影日は、同HP記載の年月日を記載します。
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上の写真05-01は、地図07詳細図の一番右下の上空から、仙ノ山の東側を撮影したものです、正面に見える谷が、大久保間歩・釜屋間歩などのいわば、「本谷」と呼ばれる谷を臨んだものです。 |
教科書に書かれている石見銀山 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
鉱山の歴史というものについては、中学校や高等学校の歴史の授業では、ほんの少ししか登場しません。日本史を頑張って勉強した方でも、記憶にはあまり残っていないかと思います。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
○はわかるが、△はなんじゃということになります。以下で説明します。 |
上記引用の山川版教科書によれば、日本における鉱山開発は、戦国時代から盛んに行われたことがわかります。 |
武蔵からの銅は、708年の自然銅の献上のことを意味します。自然銅というのは、酸化した銅鉱石ではなく、Cuのままの形で地表面で発見された銅のことです。この時の献上を記念して、元号は、慶雲から「和銅」へ改元されました。 |
石見大森の銀山はどんなにすごかったか | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
対馬の銀山が「歴史と伝統」はあるものの、今ひとつ詳細が不明ということになると、金銀山で、一番最初に大量の生産量を誇ったのはどこか?教科書の戦国時代の記述には、「甲斐・駿河・伊豆の金山、但馬・生野の銀山」と列記してあります。このうちどれなのでしょうか? |
後で詳しく説明しますが、石見大森の仙ノ山という高さ537.8mの山の頂上付近で銀鉱脈が発見されたのは、1526年のことです。この石見大森銀山では、坑道を使った最新式の採掘技術や、灰吹(はいふき)法と呼ばれる朝鮮伝来の精錬技術が活用された結果、世界有数の銀産出量を誇るようになりました。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
日本は、世界全体の銀産出量の半分ほどの額を輸出していたことになります。その先駆けとなったのが、石見大森の銀山でした。 |
世界史の中における位置づけ | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
それでは、上の黒板で説明された輸出された銀は、どこへ行ったのでしょうか?言い換えれば、16世紀後半の世界の貿易の構造はどうなっていたのでしょうか? |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
16世紀後半から17世紀前半と言えば、ヨーロッパ勢力が東アジアにも来訪し、盛んに貿易を行った時代です。とりわけ、最初に東アジアにやってきた、ポルトガル船やスペイン船がその主役となりました。 |
平成21年に改正され、平成25年から全面実施される「地理歴史科」の新学習指導要領では、世界史・日本史・地理のそれぞれの科目に、相互の関連を見い出して学習することが強調されています。 |
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古代・中世・近世の貿易品と輸出品に占める金属については、→クイズ日本史:江戸時代「輸出品と金属」を参照のこと。 |
銀山開発の歴史 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
私たちは、2010年7月31日の16時半ごろ一畑電車の出雲市駅を後にし、そのまま国道9号線を西へ走り、この日の宿泊地、温泉津(ゆのつ)温泉へ向かいました。60kmあまり走って、1時間半弱で、温泉津に到着しました。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
石見銀山は、山口に拠点を置く大名、大内氏の支配下に於いて開発されました。 |
1526年 | 神屋寿禎、仙ノ山の銀鉱脈を発見。大内氏の支援で鉱山開発を開始。 |
1528年 |
大内義隆、家督を相続。 |
1533年 |
神屋寿禎、朝鮮から宗丹・慶寿の二人の技術者を呼び、灰吹法と呼ばれる精錬法による精錬を開始。 |
1537年 | 出雲富田城に本拠を置く戦国大名尼子経久、石見銀山を奪取。 |
1539年 | 大内義隆、石見銀山を奪還。 |
1551年 | 大内義隆、家臣の陶晴賢に討たれ、大内氏滅亡。銀山をめぐって、毛利氏と尼子氏が争う。 |
1562年 | 毛利元就、銀山を支配。 |
1585年 | 毛利氏、豊臣秀吉に屈服。石見銀山、豊臣氏と毛利氏の共同管理下に入る。 |
1600年 | 関ヶ原戦いで徳川家康が勝利。石見銀山は、徳川氏の支配下に入る。 |
1601年 | 石見銀山奉行として、大久保長安が任命される。 |
温泉津温泉 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
さて、私たちが宿泊した、温泉津(ゆのつ)温泉について説明します。温泉と書いて「ゆ」と読むのです。 |
写真05-02 温泉津と沖泊と鞆ヶ浦 (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会) |
日本海上空、つまり西側から、温泉津と銀山方面を撮影した写真です。(→「地図07 石見銀山周辺図」で確認ください。) |
写真05-03 ■。(撮影日 10/08/01) |
お世話になった石見銀山世界遺産センターにあるこの地域のパノラマです。 |
写真05-04 温泉津温泉(撮影日 10/04/01)by教委 |
写真05-05 温泉津漁港 (撮影日 10/08/01) |
私たちの宿は、温泉津温泉街のほぼ中央にある輝雲荘でした。右は、早朝の漁港の様子です。 |
写真05-06 温泉津温泉街(撮影日 10/08/01) |
写真05-07 温泉津漁港 (撮影日 10/08/01) |
輝雲荘は左側です。右は外湯、薬師の湯です。1872年の浜田大地震の時に湧出した湯がその起源です。 |
写真05-08 温泉津温泉(撮影日 10/08/01) |
写真05-09 沖泊漁港 (撮影日 10/08/01) |
左は、現在の温泉津温泉で最も古い湯、元湯です。ややしょっぱい食塩泉です。湯船は、46度の熱い湯から3段階に分かれています。私たちは、宿泊した夜は宿の温泉に入り、次の日の朝、外湯に出かけました。松山の道後温泉と同じパターンです。熱い湯の嫌いな私はもし空いていたら入ろうかどうしようか悩みつつ古びた扉を開けました。 |
写真05-10 沖泊の入り江(撮影日 10/08/01) |
写真05-11 鼻ぐり岩 (撮影日 10/08/01) |
入り江のあちこちには、自然の岩盤をくりぬいて、船を係留するための場所とした、鼻ぐり岩が数多く残されています。 |
写真05-12 沖泊の恵比須神社 (撮影日 10/08/01) |
沖泊の浜のすぐそばの崖にあるこの恵比須神社は、創建が、なんと1526年伝えられています。つまり、石見銀山が発見された年と同じ年です。この拝殿そのものは、江戸時代末期の建物です。 |
さて、8月1日の早朝、朝から温泉を楽しんだ私たちは、いよいよ、石見銀山探検に出発しました。 |
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