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 もうひとつの端 九州北端 関門海峡 12/10/08記述 12/10/09修正 | 先頭へ |

 九州両端旅行というぐらいですから、鹿児島ともう一つの端にも行かなければなりません。その端とは、関門海峡です。
 3日目の朝、早朝の鹿児島市内散策を終えた私達は、鹿児島中央駅9時38分発の九州新幹線さくら550号で鹿児島をあとにし、小倉へ向かいました。
 11時21分に
小倉に到着したあと、在来線の鹿児島本線に乗り換えて、門司港駅に向かいました。
 小倉の次が
門司駅です。

「あれ、門司だよ。降りなくていいの?」

ここは門司駅。私達が向かっているのは、門司港駅。ちょっと違うの。」

「ややこしい。」

 妻が勘違いするのも無理はありません。
 鹿児島本線には、ややこしいですが
門司港駅とは別に門司駅があります。現在の在来線は、門司駅と神戸駅との間が山陽本線となります。門司駅を出た山陽本線は、直ぐに海底の関門海峡トンネルをくぐり、下関駅へと向かいます。
 
門司港駅は、その路線とは違って、門司駅を出て海底トンネルの方へは向かわずにそのまま東へ向かいます。つまり、門司港駅は関門海峡トンネルができる前の、鹿児島本線の本当の端っこの駅(鹿児島本線の起点駅)だったのです。
 最初は現在の現
門司港駅が門司駅でした。しかし、太平洋戦争中の1942年(開通は前年)に関門鉄道トンネル線の旅客営業の開始によって、現門司港(旧門司)駅と小倉駅の途中にあった大里(だいり)駅がトンネル路線とそれまでの鹿児島本線の接続駅となり、駅名が門司駅と改称されました。同時に旧門司駅は現在の門司港駅となったのです。冷静に説明しても、やはりややこしいです。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、関門海峡地域(小倉・門司・下関)の地図です。


 写真05-01 北九州市は鉄の町です。住友金属小倉製鐵所高炉です。          (撮影日 12/08/06)

 小倉駅西の新幹線車内からの撮影です。もちろん、新日本製鐵の八幡製鐵所もあります。八幡製鐵所開業時の高炉も保存されています。
 新幹線は、小倉と福岡の間は、長いトンネルに入ってしまいますから、八幡地区の製鐵所は車内からは撮影することはできません。
 実は、以前に2度ほどそこにも行っていますので、いつか「幕末・明治の製鉄技術」かなんかの特集を打ちたいと思っています。
 また、新日本製鐵と住友金属はしばらくすると合併をしますから、この製鐵所の名称も変わるでしょう。

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 門司港レトロ   | 先頭へ |

 小倉-門司港駅間は、普通電車で15分弱です。
 やがて由緒ある端っこの駅につきました。端っこの駅につきものの、「
0マイルポスト」もありました。 

「ホームの端が行き止まりになっている。」

今回の旅行では、九州新幹線鹿児島中央駅が端っこの駅だった。これが二つ目。」


 写真05-02 鹿児島本線の起点駅、門司港駅。ホーム端は行き止まりです。    (撮影日 12/08/06)


 写真05-03 「ゼロ哩(まいる)」表示と古い腕木式信号機             (撮影日 12/08/06)


 写真05-04 ゼロ哩の説明 (撮影日 12/08/06)

 写真05-05 なぜかベル  (撮影日 12/08/06)

 最初に門司港駅(当初の呼称は門司駅)が開業したのは、1881(明治24)年です。門司港駅と玉名駅(熊本県玉名市、当時は高瀬駅)間の路線が開通し、門司港駅に九州の鉄道の起点を示す、「ゼロ哩表示」がつくられました。
 その後駅の駅舎の移転により表示は撤去されましたが、1972(昭和47)年に、鉄道開業100周年を記念してここに再建されました。
 ベルは、九州最南端の駅、指宿・枕崎線の西大山駅にもありました。
 


 門司駅は、高度経済成長期にはだんだん取り残され、寂れていく一方でしたが、古い景観を残す観光エリアとしてよみがえりました。これが、「門司港レトロ」です。その中心は、門司港駅の駅舎そのものです。

「これはすごいね。重々しい。」

「ガイドブックによれば、1914(大正3)年に建築された木造駅舎だそうだ。1988年に駅舎としては全国で初めて国の重要文化財に指定されている。」


 写真05-06 門司港駅正面 噴水が出ていて子どもたちの格好の遊び場となっていました(撮影日 12/08/06)

 この駅舎は木造で、ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの監修でつくられたネオ・ルネッサンス様式と呼ばれるものだそうです。この様式は、左右対称の外観デザインが特徴です。 

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 トロッコ列車   | 先頭へ |

 門司港駅から、関門海峡の最狭隘部へ向かいます。現在では関門海峡大橋が架かっているところです。

 
門司港駅の直ぐそばから、海峡大橋の東まで、観光用のトロッコ列車が運行されています。この線路は、以前は鹿児島本線の貨物支線で、主に石灰石の運搬用線だったそうです。
 2009年に観光用として開業し、現在は
北九州レトロラインと名付けられています。
 JR
門司港駅の近くの九州鉄道記念館駅から乗車して、終点の関門海峡めかり駅へ向かいます。


 写真05-07・08 北九州レトロラインのトロッコ列車 (撮影日 12/08/06)

 左:九州鉄道記念館駅に停車中のトロッコ列車
 右:
九州鉄道記念館駅近くの踏切。路線は、門司港駅近くの九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅間2.1kmです。


 写真05-09・10 トロッコ列車 (撮影日 12/08/06)

 左:車窓からは、門司港レトロ地区全体や関門海峡が臨めます。
 右:途中のトンネル内では、暗闇を利用して、車両の天井が光ります。なかなかの趣向です。
 


 写真05-11・12 めかり駅と関門海峡  (撮影日 12/08/06)

 左:トロッコ列車の終点、関門海峡めかり駅そばの公園には、歴史的記念物の電気機関車、EF30 1号機が展示されています。
 この電気機関車は、1961(昭和36)年から活躍した
交流・直流両用電気機関車です。
 関門海峡鉄道トンネルは開業時から直流1500Vで電化されており、電気機関車による牽引が行われました。しかし、その両側の山陽本線と鹿児島本線は、まだ未電化でした。
 
 この年6月には、東から伸ばされてきた山陽本線の小郡駅以西の電化が直流1500Vで完成し、また同時に、鹿児島本線の門司港-久留米駅も交流2万ボルトで電化が完成しました。つまり、下関までと関門海峡鉄道トンネルは直流、門司駅からは交流というややこしい電化となったのです。門司駅と関門鉄道トンネルの入り口の区間には、電気が通らないデッドセクション区間が設営されました。
 このため、タイプの異なる電化区間を通しで運行する特別な機関車が必要となり、関門海峡トンネルを通過する交直両用の電気機関車として、このタイプが製造されました。連結されている客車は、1948(昭和23)年製造のオハフ33 488号です。
 右:
和布刈(めかり)公園から関門海峡へ続く海沿いの遊歩道です。左端は関門海峡大橋です。日頃海を見ていない岐阜県人には、目の前を通る巨大な船に驚くばかりです。 

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 関門海峡とトンネル   | 先頭へ |

 今回の門司行きは、レトロな門司港を見るだけがねらいではありません。海峡を歩いて下関側に渡ることも目的でした。


 写真05-13 関門海峡と大橋です。以前に訪問した時の写真です。         (撮影日 04/01/10)

 右が門司側、左が下関側です。関門連絡船の門司港側の船着き場、マリンゲート門司からの撮影です。 

「海の下を歩いて簡単に渡れるの?なんか恐い。」

「大丈夫だ。別に水の中を進むわけではない。普通にトンネルの道を歩くだけ。距離も、800m弱で、あの上越線土合駅の階段に比べれば、たいしたことはない。ただの散歩。」

 私達の旅行では、「苦労の度合い」をたとえるのに、いつも、「上越線土合駅の階段」が比較対象となります。
  ※→旅行記:「長野・群馬・新潟・富山旅行7 水上駅から土合駅へ」


 写真05-14 トンネル断面図(撮影日 12/08/06)

 写真05-15 海峡散策マップ(撮影日 12/08/06)

 左:国道トンネルの下に、人道トンネルがあります。
 右:関門海峡周遊マップです。桃色の点線がお薦めコースです。
門司港駅からトロッコ列車めかり駅へ、歩いて人道トンネルを通って下関側へ渡り、みもすそ川公園からバスで下関の唐戸桟橋へ行き、そこから関門連絡船門司港駅近くのマリンゲート門司へもどってくるルートです。
 私は、2000年1月8日に連絡船に乗り、人道トンネルを歩いています。その時は、
トロッコ列車はまだありませんでした。私の方もその時はまだデジカメを持っていませんでしたので、いい写真はありません。(僅か12年前ですが、その時はまだデジカメは、ポピュラーではありませんでした。もちろん、携帯に写真機なんぞ付いていません。ちょっとの間に代わるもんです。)


 写真05-16 門司から下関(撮影日 12/08/06)

 写真05-17 トンネル門司側(撮影日 12/08/06)

 左:この海の下をくぐります。県道脇にある人道に通じるエレベーターで下に降ります。
 右:片道800m弱ですから、たいしたことはありません。泳ぐなら大変ですが、歩くのですから・・。
 


 写真05-18 人道トンネル県境(撮影日 12/08/06)

 写真05-19 全長780mです(撮影日 12/08/06)

 このトンネルをジョギングしている人と何人もすれ違いました。往復1560mですから、ほどよい距離です。雨の日も風の日も同じ条件ですから、習慣づけて走るのには、とてもいいコースです。ただし、単調なのが難点でしょうか。 

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 攘夷と長州藩砲台(下関市みもすそ川公園)   | 先頭へ |

 ゆっくり歩いても、10分ちょっとで、下関側に到着です。こちらは山口県、江戸時代は長州藩の領地でした。
 下関側のエレベータを上がった直ぐ海峡側に、
みもすそ川公園があります。ここには、幕末の長州藩が1863~64年に外国艦隊と戦った砲台跡があり、そこに大砲のレプリカが置かれています。
 下関訪問の目的は、この砲台と大砲のレプリカを見ることです。


 写真05-20 下関市みもすそ川公園(旧壇ノ浦砲台跡)、対岸から臨んでいます。    (撮影日 12/08/06)

 関門海峡の最も細い部分、この地は、源平の合戦で有名な壇ノ浦です。
 左手手前の平屋の建物を下関の陸側から撮影したのが次の写真です。


 写真05-21 関門海峡の復元天保製青銅長州大砲               (撮影日 12/08/06)

 コンクリート製の東屋の下に、大きな復元大砲があります。ここに集まっているみなさんは、地元のボランティアの方が演じている「壇ノ浦の合戦」歴史紙芝居を聞いている観光客です。
 ここは、
源平の壇ノ浦合戦の舞台でもありました。


 写真05-22 これが復元天保製青銅長州大砲です。             (撮影日 12/08/06)

 1844(天保15)年に郡司喜平治信安が製造した荻野式青銅砲で、砲身は長さ1.65m、口径は8.7cmです。下半分は、射撃時の反動を吸収するために砲身を滑らす部分とのことです。


「この大砲、なんか由緒があるの?」

「これはレプリカで、本物は、ここからちょっといったところの下関市立長府博物館(0832-45-0555)に展示されている。2004年に長男Kと見に行ったことがある。残念ながら写真撮影はできなかった。
 この大砲は、1840年代に長州藩で製造され、海峡の砲台に据え付けられたが、1864年の四国艦隊下関砲撃事件で長州軍が敗北し、上陸部隊によって砲台も占領された。この時、この大砲はフランス軍によって戦利品として本国に持ち去られた。それから120年。長く、パリのアンヴァリッド(軍事博物館)に展示・収蔵されていたが、1984年に里帰りができた。このレプリカは、その時に記念品として設置された。」

「へえー、戦争で活躍したんだ。」

  「いや、活躍したとは言い難い。」 
 ※参考文献1 古川薫著『わが長州砲流離譚』(毎日新聞社 2006年)P25
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 長州藩の幕末の歴史については、ここでいちいち説明するわけには行きません。しかし、ついでですから、この砲台と大砲に直接関係することについては、以下に概略を説明します。
  ※長州藩の詳しい動きは、こちらです。→日本史クイズ:「写真のこの大砲が使われた戦争は?」

 幕末の長州藩が一時期尊王攘夷の考えで積極的な、といえば聞こえがいいですが、現実的にはむちゃくちゃな行動を取ったのは、多くの方がご存じと思います。
 長州藩は、
1863(文久3)年6月に、「攘夷決行」と称して、関門海峡を通航する外国の商船や軍艦に砲撃を加えました。以下の年表にあるように、その翌年8月にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国の連合艦隊の砲撃(教科書に表記された受験用語では、四国艦隊下関砲撃事件、昔の言い方では馬関戦争。馬関とは下関のこと)を受けて壊滅的敗北を被るまで、関門海峡では都合7度の戦闘が行われました。(から


で き ご と

1863

4

将軍家茂上洛。孝明天皇以下の攘夷論に押され、5月10日を「攘夷」期限(攘夷を実行)とする旨、上奏。

5

長州藩、下関で攘夷決行。アメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃。

 ※このころ、尊王攘夷派の最盛期。

6

アメリカ軍艦、フランス軍艦、長州藩砲台を報復攻撃。長州藩、アメリカ商船を攻撃。

7

薩摩藩、生麦事件の報復のため来襲したイギリス艦隊と鹿児島湾で交戦。薩英戦争。薩摩藩敗北。

8

八月十八日の政変おこる。薩摩・会津の公武合体派、主導権回復。

1864

7

長州藩軍、京都で薩摩・会津藩軍と交戦。蛤御門の変。長州藩敗北。

幕府、第一次長州征伐(幕長戦争)を実施。

8

四国艦隊、下関を砲撃。長州藩敗北。

9

下関砲撃事件の結果、幕府が賠償金300万ドルを支払うことに決定。、

 ※参考文献2 原剛著『幕末海防史の研究』(名著出版 1988年)P68-81

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 薩摩と並んで「富国強兵」に務めていた長州藩は、海峡の近辺には次の地図のように砲台を構築していました。


 しかし、彼らは、①・②・③の戦いでは凱歌を上げたものの、④・⑤では、外国軍艦の砲力と軍艦のスピードに苦杯をなめており、翌年へ向けて、さらに陣地を増やし、砲数を増強しました。
 この結果、15kmの間に14の砲台が設営され(図中にはそのうちの12を提示)、配備された大砲の合計は
115門になっていました。(この数には異説があります。)

 こうして、長州藩は攘夷の意識に燃えて、1864年8月のイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4国の連合艦隊との戦いを迎えます。
 これに対し、連合国側は、攘夷の急先鋒である長州藩を完膚無きまでにたたいて、日本人に攘夷という愚かな行為をあきらめさせ欧米列強の武威を示そうと意図していましたから、こちらも半端な軍事力ではなく、アメリカ以外は、本格的な戦力を派遣して、連合国艦隊を編成しました。この結果、総勢17隻の大艦隊となり、搭載する大砲の数は、
276門にも及びました。艦隊の中心は、9隻の軍艦を派遣したイギリスです。総司令官にはイギリスのキューパー提督が、副司令官にはフランスのジョレス提督が就任しました。
 キューパー提督は、艦隊を第一艦隊(中型高速でそこそこの大砲を搭載するコルベット艦中心)、第二艦隊(小型艦中心、補助的任務)、別働隊(大型艦の旗艦ユーリアラス、コンカラー、セミラミスと小型艦)にわけ、第一艦隊の機動力によって砲台の抵抗力を奪い、時を見て別働隊によって長州兵力を殲滅する作戦をとりました。

 戦闘は旧暦8月5日午後3時20分過ぎからはじまりました。連合国艦隊は長州藩砲台のうち主力であった
壇ノ浦砲台と前田砲台に対して砲撃を集中しました。第一艦隊は関門海峡の最狭隘部の東側から壇ノ浦砲台を砲撃し、また別働隊のユーリアラス・セミラミス・コンカラーは、田野浦沖から前田砲台を攻撃しました。
 連合国軍がこのような攻撃を実行できたのは、大砲の性能、とりわけ射程距離に優れていたからです。長州砲台の大砲は海峡の反対側にいる艦隊にまともに届きませんでしたが、艦隊の多くの艦に装備されていた
アームストロング砲は、4km程の射程を誇りました。
  ※参考文献3 岩堂憲人著『世界銃砲史 下』(国書刊行会 1995年)P722-726
 
 旗艦ユーリアラス(英)の最大距離の砲弾は、4800ヤード(4389m)離れた陣地に命中したと記録されています。
  ※参考文献4 アーネスト・サトウ著坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫 1960年)P129 

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 写真05-23 「下関に到着した連合艦隊」 

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 長崎大学のキャプションによれば、この写真は、ベアト撮影によるもので、「下関の攻撃64年9月5日」と記されているそうです。四カ国連合艦隊の下関砲撃を画家のワーグマンが描き、これをベアトが撮影したものです。フランスのセミラス号をはじめアメリカ、オランダ、イギリスの艦隊が勢揃いです。


 こうして砲数・砲力に勝る連合国軍は、砲台を一つ一つつぶして行くことに成功し、攻撃開始から僅か一時間半後には、長州砲台はすっかり沈黙させられました。第二艦隊のパーシューズとメデューサは、前田砲台に接近して数十名の兵隊を上陸させ、遺棄された砲にくさびを打ち込んで使用不能としました。
 翌8月6日早朝には、陣地を修復した長州側から小規模な反撃がなされたが、これも直ぐに鎮圧され、連合国艦隊は砲台占領を企図し、将兵2000名余を上陸させました。
 砲台を完全に制圧した連合国艦隊は、6月7日・8日には、砲台の大砲を戦利品として持ち帰るため、艦船に積み込む作業をしました。


写真05-24
「占拠された長州藩前田御茶屋低台場」

 イギリス軍が長州藩前田御茶屋(茶臼山)の低台地にある砲台を占拠した様子を写した写真です。

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

  この写真は、この戦争に従軍したイギリスの新聞社「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(The Illustrated London News)の特派員・フェリス・ベアト(Felice Beato)によって撮影されました。論文等にまた授業の説明資料に、実に貴重な写真です。


 写真05-25 「占拠された長州藩前田洲崎砲台」  

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 この写真も、ベアト撮影です。「9月6日に占拠され血に染まった砲台と下関の丘に引き上げられた艦隊のボート、65(4)年9月6日」と記されている。場所は前田・洲崎砲台です。


 この時外国に持ち去られた大砲は、イギリス艦隊分だけでも109門になり、他の3国の分も合わせると、合計150門ほどと推定されます。海岸防備用の大砲と野戦用の大砲を合わせて、ごっそり持ち去られました。

 その大砲の多くは、この140年あまりの間に行方知れずとなってしまいました。しかし、そのうちのほんの一部が現存していることを確認したのが、参考文献1『わが長州砲流離譚』の著者、古川薫氏です。
 古川氏は山口新聞編集局長を経て作家となった方で、1966(昭和41)年に訪問したパリのアンヴァリッド(軍事博物館)で長州砲を発見したのをきっかけに、本格的な「
長州砲探し」を続けられました。
 この結果、次の長州砲の存在が明らかになりました。

海外に残留する長州から持ち去られた大砲の一覧

 フランス

 パリ アンヴァリッド(軍事博物館)   荻野式青銅砲×1 洋式青銅砲×2 

 イギリス

 ロンドン 大砲博物館   荻野式青銅砲×2

 アメリカ

 ワシントンD.C. ワシントン海軍基地   日本製36ポンド青銅砲 
   オランダ  アムステルダム国立美術館   日本製真鍮砲の砲身を切断したものの一部 
   オランダ  デン・ヘルダー海軍資料館   ドイツクルップ社製野砲ダ 

  ※参考文献1 古川前掲書 P181-182

 先に述べたように、このうちパリにある一門のみが、現在
下関市立長府博物館に里帰りしており、そのレプリカが海峡に展示されているというわけです。
 この1門をフランスから里帰りさせるのにも、古川氏や元外務大臣の阿部晋太郎氏(山口県出身)らは、一苦労されました。フランスやイギリスの博物館は、かつて戦利品として持ち帰ったものを、元の国へ返すということは決して行わないのです。理由は簡単です。当然の権利として持ち帰ったものであり、また、その要望に応じていては、博物館の所蔵品の大半はなくなってしまいます。(-_-;)アンヴァリッドには800門の戦利品大砲があるそうです。
  ※参考文献1 古川前掲書P96
 
 今回の里帰りも、山口県側から長府藩主が使用していた立派な甲冑(紫糸威、むらさきいとおどし、時価1200万円)を代わりにフランスに貸すという、いわば「物々交換」の形を取ってようやく実現しました。大砲は、甲冑という人身御供を出して一時戻してもらったのです。あくまで、「貸与」品で、一時帰国です。返してもらったわけではないのです。(現実には、どちらかが異議を唱えない限りは、2年ごとの自動更新の契約となっており、半永久的に日本に滞在できる。)
 150年前のこととはいえ、戦争に負けるというのは、厳しい現実を生むということです。


 海峡には、この東屋の荻野式大砲以外にも、新しく設置された5門の立派なレプリカ大砲があります。

「この立派なものは何?こっちのとは違うね。」

「これは、2004年のNHK大河ドラマ『新選組』にあわせて、下関市が造ったものということだ。」

「見てみて、大砲の先から煙が出てる。」


 写真05-26・27  80斤(ポンド)砲レプリカ  (撮影日 12/08/06)

 このレプリカは、2004(平成16)年に、NHK大河ドラマ「新選組」のヒットに会わせて、下関市観光施設課が設置したものです。モデルとなった大砲は、長府藩の大砲を製造していた安尾家に伝わっていた「八十斤」(ポンド)砲の20分の1模型とのことです。この模型は現在は下関市立長府博物館に収蔵されています。
  ※この部分は、下関市立長府博物館に直接電話(083-245-0555)して確認しました。
 砲身の全長3.56m、口径は20.0cmです。
 右の写真のレプリカは、旋回車輪と台がついているもの、左はないものです。
 


 写真05-28・29 全部で5門のレプリカが並んでいます。     (撮影日 12/08/06)

 左:全部で5門並んでいます。中央の3門が旋回輪と台車付きで高さは3.52mもあります。左右の2門は旋回輪なしで、高さは、2.92mです。どちらもレプリカとは言え、なかなかの代物です。
 鹿児島県の仙巌園にある、
薩摩反射炉で鋳造された鉄製150ポンド砲(砲身長4.56m)のレプリカよりは、少し小ぶりです。
 右:中央の砲には、料金を入れるボックスがあって、100円を投入すると、発射音が5秒間隔で3回こだまし、煙が出ます。まあ、子どもだましですね。
 


 写真05-30 関門海峡大橋と5門のレプリカ80斤砲 なかなか壮観です      (撮影日 12/08/06)

 5門を並べて見応えある景観をつくった下関市観光施設課はなかなかのものです。
 しかし、1864年の四国艦隊の砲撃時に、ここに80斤砲5門が並んでいたかどうかについては、いささかの疑問があります。参考文献2、原剛前掲書P74の「元治元年(1864)下関海峡砲台備砲」一覧によれば、14の砲台にあった110門を超える備砲のうち、最大のものは、150斤砲が1門、ついで80斤砲(前田砲台)が2門となります。
 この壇ノ浦砲台の5門のレプリカの何にもとづいて復元・設置されたのでしょうか?もう少し調べてみなければなりません。

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 最後に2日間に及ぶ海峡でのこの戦闘の死傷者を推測します。
 両軍の死傷者は、どれぐらいだったでしょうか?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。数字は古川前掲書P87-89などによります。

 17隻の艦隊と砲台が大砲を撃ち合ったという点では、画期的な戦闘でしたが、幸いにも人員の被害は意外に少ないものでした。のちの戦争と比べると、この時代の大砲や小銃は、まだまだ穏やかなものだったということです。


 写真05-31 荻野流和式青銅砲レプリカの照準です              (撮影日 12/08/06)

 本物の大砲は撃ったことはありませんが、ゲームの感覚では、右手の貨物船など百発百中の感じがします。

「この海峡の幅は、どれぐらい?」

「人道トンネルの海底部分よりも少し短くて、700m弱かな。」

「それほど遠くないのに、この大砲の弾は届かなかったの?」

  「向こう岸までは全然届かなかった。江戸時代末の日本の軍事力はその程度だった。」 


 みもすそ川公園からはバスに乗って、JR下関駅へ行き、そこから山陽本線の関門海峡トンネルをくぐって、小倉へ戻りました。小倉から、名古屋へ向かう新幹線で帰路につきました。
 下関発の小倉向かう電車は3両編成で、その先頭車両に乗っていると、なんと関門海峡トンネルに入るのに、電車は右側通行をしました。その時点では、すっかり帰りモードで、すでにカメラは鞄の中にしっかりしまってあったので、撮影はできませんでした。あとで調べると、関門海峡トンネルは列車の運行をスムーズに行うため、複線ではなく「単線が2本」になっているとのことでした。単線が2本なら、どっちを通ってもいいわけです。
  ※JR電車の右側通行については、次をご覧ください。
    →岐阜・美濃・飛騨「岐阜県の東海道線あれこれ、 垂井線の謎 一見右側通行電車」

 どのタイミングでいつ思いがけないいいチャンスが来るかは、わかりません。ほっとして気を緩めないことは、いいレポートのネタを集めるコツですね。 


 【九州両端旅行 参考文献一覧】
  このページ05の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。
古川薫著『わが長州砲流離譚』(毎日新聞社 2006年)

原剛著『幕末海防史の研究』(名著出版 1988年)

岩堂憲人著『世界銃砲史 下』(国書刊行会 1995年)

アーネスト・サトウ著坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫 1960年)


 このページも長編となりました。
 これで九州両端旅行記を終わります。最後まで読んでいただいてありがとうございました。


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