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もうひとつの端 九州北端 関門海峡 12/10/08記述 12/10/09修正 | 先頭へ | |
九州両端旅行というぐらいですから、鹿児島ともう一つの端にも行かなければなりません。その端とは、関門海峡です。
妻が勘違いするのも無理はありません。 |
上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、関門海峡地域(小倉・門司・下関)の地図です。 |
写真05-01 北九州市は鉄の町です。住友金属小倉製鐵所高炉です。 (撮影日 12/08/06) |
小倉駅西の新幹線車内からの撮影です。もちろん、新日本製鐵の八幡製鐵所もあります。八幡製鐵所開業時の高炉も保存されています。 |
門司港レトロ | 先頭へ | |
小倉-門司港駅間は、普通電車で15分弱です。
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写真05-02 鹿児島本線の起点駅、門司港駅。ホーム端は行き止まりです。 (撮影日 12/08/06) |
写真05-03 「ゼロ哩(まいる)」表示と古い腕木式信号機 (撮影日 12/08/06) |
写真05-04 ゼロ哩の説明 (撮影日 12/08/06) |
写真05-05 なぜかベル (撮影日 12/08/06) |
最初に門司港駅(当初の呼称は門司駅)が開業したのは、1881(明治24)年です。門司港駅と玉名駅(熊本県玉名市、当時は高瀬駅)間の路線が開通し、門司港駅に九州の鉄道の起点を示す、「ゼロ哩表示」がつくられました。 |
門司駅は、高度経済成長期にはだんだん取り残され、寂れていく一方でしたが、古い景観を残す観光エリアとしてよみがえりました。これが、「門司港レトロ」です。その中心は、門司港駅の駅舎そのものです。
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写真05-06 門司港駅正面 噴水が出ていて子どもたちの格好の遊び場となっていました(撮影日 12/08/06) |
この駅舎は木造で、ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの監修でつくられたネオ・ルネッサンス様式と呼ばれるものだそうです。この様式は、左右対称の外観デザインが特徴です。 |
トロッコ列車 | 先頭へ | |
門司港駅から、関門海峡の最狭隘部へ向かいます。現在では関門海峡大橋が架かっているところです。 |
写真05-07・08 北九州レトロラインのトロッコ列車 (撮影日 12/08/06) |
左:九州鉄道記念館駅に停車中のトロッコ列車 |
写真05-09・10 トロッコ列車 (撮影日 12/08/06) |
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左:車窓からは、門司港レトロ地区全体や関門海峡が臨めます。 |
写真05-11・12 めかり駅と関門海峡 (撮影日 12/08/06) |
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左:トロッコ列車の終点、関門海峡めかり駅そばの公園には、歴史的記念物の電気機関車、EF30 1号機が展示されています。 |
関門海峡とトンネル | 先頭へ | |
今回の門司行きは、レトロな門司港を見るだけがねらいではありません。海峡を歩いて下関側に渡ることも目的でした。 |
写真05-13 関門海峡と大橋です。以前に訪問した時の写真です。 (撮影日 04/01/10) |
右が門司側、左が下関側です。関門連絡船の門司港側の船着き場、マリンゲート門司からの撮影です。 |
私達の旅行では、「苦労の度合い」をたとえるのに、いつも、「上越線土合駅の階段」が比較対象となります。 |
写真05-14 トンネル断面図(撮影日 12/08/06) |
写真05-15 海峡散策マップ(撮影日 12/08/06) |
左:国道トンネルの下に、人道トンネルがあります。 |
写真05-16 門司から下関(撮影日 12/08/06) |
写真05-17 トンネル門司側(撮影日 12/08/06) |
左:この海の下をくぐります。県道脇にある人道に通じるエレベーターで下に降ります。 |
写真05-18 人道トンネル県境(撮影日 12/08/06) |
写真05-19 全長780mです(撮影日 12/08/06) |
このトンネルをジョギングしている人と何人もすれ違いました。往復1560mですから、ほどよい距離です。雨の日も風の日も同じ条件ですから、習慣づけて走るのには、とてもいいコースです。ただし、単調なのが難点でしょうか。 |
攘夷と長州藩砲台(下関市みもすそ川公園) | 先頭へ | |
ゆっくり歩いても、10分ちょっとで、下関側に到着です。こちらは山口県、江戸時代は長州藩の領地でした。 |
写真05-20 下関市みもすそ川公園(旧壇ノ浦砲台跡)、対岸から臨んでいます。 (撮影日 12/08/06) |
関門海峡の最も細い部分、この地は、源平の合戦で有名な壇ノ浦です。 |
写真05-21 関門海峡の復元天保製青銅長州大砲 (撮影日 12/08/06) |
コンクリート製の東屋の下に、大きな復元大砲があります。ここに集まっているみなさんは、地元のボランティアの方が演じている「壇ノ浦の合戦」歴史紙芝居を聞いている観光客です。 |
写真05-22 これが復元天保製青銅長州大砲です。 (撮影日 12/08/06) |
1844(天保15)年に郡司喜平治信安が製造した荻野式青銅砲で、砲身は長さ1.65m、口径は8.7cmです。下半分は、射撃時の反動を吸収するために砲身を滑らす部分とのことです。 |
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長州藩の幕末の歴史については、ここでいちいち説明するわけには行きません。しかし、ついでですから、この砲台と大砲に直接関係することについては、以下に概略を説明します。 |
年 |
月 |
で き ご と |
1863 |
4 |
将軍家茂上洛。孝明天皇以下の攘夷論に押され、5月10日を「攘夷」期限(攘夷を実行)とする旨、上奏。 |
5 |
長州藩、下関で攘夷決行。①アメリカ商船、②フランス軍艦、③オランダ軍艦を砲撃。 |
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※このころ、尊王攘夷派の最盛期。 |
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6 |
④アメリカ軍艦、⑤フランス軍艦、長州藩砲台を報復攻撃。長州藩、⑥アメリカ商船を攻撃。 |
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7 |
薩摩藩、生麦事件の報復のため来襲したイギリス艦隊と鹿児島湾で交戦。薩英戦争。薩摩藩敗北。 |
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8 |
八月十八日の政変おこる。薩摩・会津の公武合体派、主導権回復。 |
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1864 |
7 |
長州藩軍、京都で薩摩・会津藩軍と交戦。蛤御門の変。長州藩敗北。 |
幕府、第一次長州征伐(幕長戦争)を実施。 |
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8 |
⑦四国艦隊、下関を砲撃。長州藩敗北。 |
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9 |
下関砲撃事件の結果、幕府が賠償金300万ドルを支払うことに決定。、 |
※参考文献2 原剛著『幕末海防史の研究』(名著出版 1988年)P68-81 |
薩摩と並んで「富国強兵」に務めていた長州藩は、海峡の近辺には次の地図のように砲台を構築していました。 |
しかし、彼らは、①・②・③の戦いでは凱歌を上げたものの、④・⑤では、外国軍艦の砲力と軍艦のスピードに苦杯をなめており、翌年へ向けて、さらに陣地を増やし、砲数を増強しました。 |
こうして、長州藩は攘夷の意識に燃えて、1864年8月のイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4国の連合艦隊との戦いを迎えます。 |
写真05-23 「下関に到着した連合艦隊」
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長崎大学のキャプションによれば、この写真は、ベアト撮影によるもので、「下関の攻撃64年9月5日」と記されているそうです。四カ国連合艦隊の下関砲撃を画家のワーグマンが描き、これをベアトが撮影したものです。フランスのセミラス号をはじめアメリカ、オランダ、イギリスの艦隊が勢揃いです。 |
こうして砲数・砲力に勝る連合国軍は、砲台を一つ一つつぶして行くことに成功し、攻撃開始から僅か一時間半後には、長州砲台はすっかり沈黙させられました。第二艦隊のパーシューズとメデューサは、前田砲台に接近して数十名の兵隊を上陸させ、遺棄された砲にくさびを打ち込んで使用不能としました。 |
写真05-24
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この写真は、この戦争に従軍したイギリスの新聞社「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(The Illustrated London News)の特派員・フェリス・ベアト(Felice
Beato)によって撮影されました。論文等にまた授業の説明資料に、実に貴重な写真です。 |
写真05-25 「占拠された長州藩前田洲崎砲台」
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この写真も、ベアト撮影です。「9月6日に占拠され血に染まった砲台と下関の丘に引き上げられた艦隊のボート、65(4)年9月6日」と記されている。場所は前田・洲崎砲台です。 |
この時外国に持ち去られた大砲は、イギリス艦隊分だけでも109門になり、他の3国の分も合わせると、合計150門ほどと推定されます。海岸防備用の大砲と野戦用の大砲を合わせて、ごっそり持ち去られました。
※参考文献1 古川前掲書 P181-182
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海峡には、この東屋の荻野式大砲以外にも、新しく設置された5門の立派なレプリカ大砲があります。
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写真05-26・27 80斤(ポンド)砲レプリカ (撮影日 12/08/06) |
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このレプリカは、2004(平成16)年に、NHK大河ドラマ「新選組」のヒットに会わせて、下関市観光施設課が設置したものです。モデルとなった大砲は、長府藩の大砲を製造していた安尾家に伝わっていた「八十斤」(ポンド)砲の20分の1模型とのことです。この模型は現在は下関市立長府博物館に収蔵されています。 |
写真05-28・29 全部で5門のレプリカが並んでいます。 (撮影日 12/08/06) |
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左:全部で5門並んでいます。中央の3門が旋回輪と台車付きで高さは3.52mもあります。左右の2門は旋回輪なしで、高さは、2.92mです。どちらもレプリカとは言え、なかなかの代物です。 |
写真05-30 関門海峡大橋と5門のレプリカ80斤砲 なかなか壮観です (撮影日 12/08/06) |
5門を並べて見応えある景観をつくった下関市観光施設課はなかなかのものです。 |
最後に2日間に及ぶ海峡でのこの戦闘の死傷者を推測します。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。数字は古川前掲書P87-89などによります。 |
17隻の艦隊と砲台が大砲を撃ち合ったという点では、画期的な戦闘でしたが、幸いにも人員の被害は意外に少ないものでした。のちの戦争と比べると、この時代の大砲や小銃は、まだまだ穏やかなものだったということです。 |
写真05-31 荻野流和式青銅砲レプリカの照準です (撮影日 12/08/06) |
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本物の大砲は撃ったことはありませんが、ゲームの感覚では、右手の貨物船など百発百中の感じがします。
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みもすそ川公園からはバスに乗って、JR下関駅へ行き、そこから山陽本線の関門海峡トンネルをくぐって、小倉へ戻りました。小倉から、名古屋へ向かう新幹線で帰路につきました。 |
【九州両端旅行 参考文献一覧】
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このページも長編となりました。 |
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