高度成長期〜現代その2
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<解説編>
 

1105 黒四ダム・発電所の建設の目的は?                 | 問題編へ |

 黒部川の電源開発に関する基本的な視点を、先生と生徒の問答形式で考えます。
  ※正解そのものは、このページの下の方にあります。直接読みたい人は、↓こちらです。


生徒

「電源開発って、黒部川は、信濃川や利根川なんかに比べたら、そんなに大きな川には思えませんが。どうしてこの川にいくつもダムをつくることになったのですか?」

教師

「水力発電というのは、川が長ければいいというわけではありません。基本的に水の落差を利用してそのエネルギーでタービンを回して電力を作るわけですから、重要なのは、川が急流であることと、水量が豊富であることの二つなのです。」

生徒

「黒部川はそんなにすごいんですか?」

教師

「黒部川はその長さは85kmで、現在の国土交通省の河川整備基本方針・河川整備計画の対象となっている全国109水系の中では、60番目です。この点ではたいしたことはありません。
 しかし、立山連峰・後立山連峰の年間降水量は、なんと4000mmに達します。(国土交通省の資料では、仙人谷が最高地点で、年間4200mm)冬の降雪量、梅雨時期の降水量とも断然多いのです。
 しかも、川は僅か85kmの間に約3000mを下るわけですから、平均河床勾配は、3/85、黒4ダムを造った上流部では、1/25にもなります。この数字は別の言い方、千分率で言えば、
40/1000つまり、40‰ということになります。これは、日本の旧国鉄の最高勾配だった旧信越線碓氷峠の66.7‰ほどではないですが、相当な急傾斜ということになります。」
 ※碓氷峠の急勾配はこちら→「長野・群馬・新潟・富山旅行記5」 

生徒

「それで、黒部川では、どれぐらいの発電が行われているのですか?」

教師

「現在では、次のようになっています。」 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


教師

「僅か85kmの川に、18もの発電所があります。そして合計、97万キロワットの発電が可能です。ちなみに、それを図に示すと右のようになります。」

生徒

「でも、現代の原子力発電所や火力発電所に比べれば、それほどのことはありませんね。」

教師

「それは確かにそうです。
 しかし、これらのダムや水力発電所ができた年代をたどっていくと分かるように、下流の発電所は、大正時代に開発が計画されて、大正末年の1926年に完成しています(現在の北陸電力黒東第一・第二発電所)。
 この黒部川の電源開発を最初に発案した人は、日本史や理科の教科書にも出て切る
高峰譲吉博士、そうあの、タカジアスターゼの発明で有名な科学者です。彼は、黒部川の電源開発とアルミニウムの精錬を結びつけ、黒部川に水利権を得ました。これが第一次世界大戦中の1917(大正6)年のことです。
 そのあと、第一世界大戦後の不況の中で水利権は
日本電源開発株式会社に継承されました。この日本電源開発というのが、黒部川を本格的に開発することになります。
 したがって、黒部第二・第三発電所にしても、戦前の開発になっています。
高熱隧道で有名な仙人平ダムと黒部川第三発電所は、1940(昭和15)年の完成ですが、その時の最大出力8万1000kWは、当時の日本の最大の発電所でした。」 

生徒

「黒4ダムは、戦後の話ですね。どうしてさらに山奥に、とんでもないお金(総工費は513億円)とたくさんの犠牲者(1956年の着工から完成の1963年までの足かけ8年間に、殉職者171人)を出して、大きなダムを造ったのですか。火力発電所の方が安上がりではないでしょうか。」

教師

「そこがポイントです。
 関西電力が黒四ダムの計画を決断したのが
1955(昭和30)年のことです。翌1956年に工事が始まりました。日本はこの頃から戦後の復興の時代が

終わって、経済成長の時代へと進んでいきます。その時に、なぜ、黒4が必要だったかです。」 


 日本史の教科書には、次のように書かれています。「朝鮮特需と経済復興」の部分です。
「1951(昭和26)年以降、政府は重点産業に国家資金を積極的に投入し、税制上の優遇措置をとったので、電力@・造船・鉄鋼などの部門は活発に設備投資を進めていった。
 脚注@ 深刻な電力不足の解消を目指し、中部山岳地帯でダム式の大型水力発電所がぞくぞくと建設された。」

「 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P369

 ここで言う中部山岳地帯でのダム式大型発電所とは、木曽川の丸山ダム(岐阜県:1954年完成)、天竜川の佐久間ダム(愛知県・静岡県:1956年完成)、大井川の井川ダム(静岡県:1957年完成)、庄川の御母衣ダム(岐阜県:1960年完成)をさすものと思われます。
 時期的には、黒4ダムも含まれることになりますが、少し詳しく見ると、これだけでは説明不足です。
 下の
表01を見てください。9電力会社の1951年と1960年の発電設備出力の比較です。
   ※橘川武郎著『日本電力業発展のダイナミズム』(名古屋大学出版会 2004年) P231・238から作製 




 この表を見ると、むしろ、この10年間の大きな動きとしては、発電電力量から見ると水力発電所の建設よりも、火力発電所の建設の方が多くなっています。9電力会社総計では、9年間に水力は、344万8千kWの増加ですが、火力は、578万1千kWの増加となっています。明らかに、時代は、水主火従から、火主水従へと移り変わっていきました。

 関西電力そのものも、火力発電所による発電の増加量が水力のそれを上回り、1960年には、全体として火力が水力を引き離しています。
 
それなのに、なぜ黒4の建設が必要なのかと言うことです。

 
お待たせしました。ここで問題の正解です。

 関西電力自身の説明がとてもわかりやすいので、ちょっと長いですが、引用します。(注:赤い太字は、引用者が施しました。)

「電源開発方式の転換
 電力需要の急速な増加傾向に対処するため、電源の開発には一刻の中断も許されない状態が続いたが。しかし、開発の進展に伴って、水力においては、経済性の上から開発可能な地点が、次第に残り少なくなってきた。その一方、火力においては、熱効率の高い、したがって経済性のすぐれた設備が出現した結果、開発め重点は、火力に移行する傾向になってきた。
 従来、わが国の電源は、水主火従の形をとってきた。この開発方式が発達した背景には、わが国エネルギー対策の特徴として、比較的豊富な水力資源を有効に利用し、それによって貧弱な燃料資源の消費節減を図ることが必要であるという事情があった。
 また、経済性の上からも、これまでの火力発電は熱効率が低く、水カに比べて発電原価が高価であったので、火力は、渇水時における水力出力低下の補給用として水力と併用し、それによって総合的に発電原価の低減を図るという基本的な考え方があったのである。
 しかし、火力において、その技術進歩による著しい経済性の向上があった反面、水力では包蔵水力資源に限度があって、経済的にみて開発可能な地点が減少してきたので、ここに残された水力資源の最も有効な利用方法の検討が必要になった。
その結果、電力供給の主体を火力に置き、ピーク負荷供給用として、大貯水池式水力を建設することが、最も経済的であるとの結論に達した。
 元来、電力需要は、夕刻の点灯時などピーク時には、深夜軽負荷時に比べて最大電力が約2.5倍に達し、また冬期においては、夏期に比べて、概して需要が増加する。このように、電力需要は、1日のうちに、また年間において、大幅な変動を示すという性質を持っているが、これに対し常に安定した電力を、最も経済的に供給するためには、
供給施設を最も有効に利用し得るよう、水火力の合理的な組み合わせによる運用が必要である
 火力発電設備は、一度発電を開始した後には、需要に応じて一日のうちに出力を大幅に変更し、あるいは停止・起動をたびたび繰亡返すと、はなはだしく効率の低下をきたすという特性がある。したがって、火力によってピーク負荷供給を行なうことは、非常に不経済である。これに対して
調整能力のある水力は、負荷即応が容易であり、しかも、経済的損失を伴わずに、そのような運営ができるいう利点がある。
 ここにおいて、電力のベース負荷供給を、経済的な新鋭火力に受け持たせ、ピーク負荷供給を調整能力の大きな水力に受け持たせるという、新たな供給方式が生まれたのであり、したがって電源開発も、それに適応するような方式によって、行なわれることになったのである。

 27年度の第2回電源開発調整審議会における電源開発の構想は、Iまだ従来どおり水主火従方式によるものであったが、その後各地において新鋭火力の建設があい次ぎ、また水力では電源開発株式会社の佐久間発電所のような、大貯水池式発電所の建設が行なわれるに及んで、31年度策定の電力5カ年計画では、従来と異なる水火力最も経済的な組み合わせの開発方式がとられた。
 これよりさき、当社においては、すでにこの方式に着眼し、(昭和)
30年秋大貯水池式大出力の黒部川第四発電所建設を決意するとともに、翌年1月には、当時わが国最大、最新鋭と目された大阪火力発電所(出力 624、000kW)の建設準備を開始したのであった。

ピーク時負荷供給力としての価値
 黒部川第四発電所は、それ自体の最大出力は、258、000kWである。しかし、標高1、448mの高地点に建設された大貯水池は、1億5、000万立方メートルの有効貯水量を保持し、年間を通じて下流の既設発電所の設備をフルに稼働せしめ得るので、渇水時には10万kW程度に低下していた既設発電所の出力が、27万kWにまで回復することになる。したがって、実質的には、この差が黒四の建設によって加増となり、43万kWの大電源を開発したと同様の結果になる。」

関西電力株式会社 黒四建設記録編集委員会編『黒部川第四発電所建設史』(関西電力1965年)P9−11

 つまり、黒四は、火主水従時代へ移行していく電源開発の戦略の中で、ピーク時負荷供給の調整能力を期待された大貯水池式発電所という位置づけであったわけです。
 ※立山黒部アルペンルートの旅行記は、こちらです。→『立山黒部アルペンルートはすごかった』
 ※黒部渓谷トロッコ列車のyろこうきは、こちらです。→『高岡・富山・宇奈月旅行2

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