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各地の鉄道あれこれ25
 全国各地の鉄道の話題あれこれについて紹介します。

 東京駅から一番近いトンネルその513/06/23

 東海道新幹線のトンネル2 東京駅に一番近いトンネルは八ツ山トンネル

 前ページでは、東海道新幹線のトンネルとして、東京から3番目の日吉トンネル、2番目の矢上トンネルを紹介しました。矢上トンネルは、東京駅から19kmあまりです。
 では、東海道新幹線のトンネルとして、東京駅に一番近いトンネルはどこにあるのでしょうか。それが、品川駅のすぐ南にある
八ツ山トンネルです。


 写真25-01 これが八ツ山トンネルです        (撮影日 13/05/28)

 トンネルとは思えないコンクリート製の入り口です。単なるガードのように思えます.。しかも出口はすぐそこに見える短いトンネルです。長さは220mほどです。
 しかし、紛れもないちゃんとしたトンネルです。それが証拠に、入り口にトンネル名「
八ツ山」がでっかい表札のように掛かっています。この写真の撮影場所は、東海道新幹線品川駅の22番線ホームの南端です。


 写真25-02 こちらは21番線側からの撮影です。         (撮影日 13/05/28)

 品川駅に入る上り列車が、前半分トンネルの中に入り、トンネルの出口に近づいています。


 このトンネルは、東京駅の起点からどれぐらいの距離にあるのでしょうか。


 写真25-03 八ツ山の入り口のキロポスト        (撮影日 13/05/28)

 22番線ホームからの撮影です。ホームの柵から身を乗り出して撮影しようとするとすぐに、「あぶないですから・・・」とホームのアナウンスで注意されてしまいます。善良なおじさんとしては、それ以上駅員さんに迷惑をかけるわけにはいきません。


 トンネルへ入る東京発の列車の最後尾車両のそばに、「」のキロポストがあります。つまりそこが、東京駅の起点から7kmです。7キロポストからトンネルの入り口までの距離は、車両の長さで推測します。
 最後尾の16号車も含めて、4両と半分がトンネルに入っていませんから、7kmにトンネル外の車両の長さ(最後尾車両16号車(27m10cm)、15・14・13号車(24m50cm×3=73m50cm)、12号車半分(12m25cm)の分の合計≒110m)を加えて、およそ、
7km110mの場所にトンネルはあると考えられます。


 写真25-04・05 東京行き列車が入線する品川駅21番線と22番線(撮影日 13/05/28)


 八ツ山トンネルの周囲

 八ツ山トンネルは、どんなところに掘られているのでしょうか?周囲の状況はどのようになっているのでしょうか?
 東京駅から南へは、東海道新幹線と東海道線などの在来線がずっと並行して進んでいます。品川駅もそうなっているはずです。だから、ホームの番線が21と22になっているわけです。
 在来線ホームから
新幹線八ツ山トンネルを見ると・・・・。 


 写真25-06 品川駅14番ホームから撮影した八ツ山橋方面。  (撮影日 13/05/28)

 品川駅在来線の14番線(横須賀線のホーム)から南の八ツ山橋方面を撮影したものです。
 品川駅は西側(写真右側)が1番線となっており、駅の南には西側から
山手線京浜東北線東海道線横須賀線の順で複線が4本、合計8線路が並んでいます。
 写真の一番右で右にカーブしている2本の線路は、ここから大崎方面へ回り込む
山手線です。その隣の遠くに映っている水色の電車は、京浜東北線のです。
 在来線の一番東(左側)は、横須賀線電車が発着する15番線です。(新幹線には21番線から番号が振られていますので、16番から19番は「欠番」です。)
 横須賀線線路はまっすぐ南下して緑色の橋の向こうで右にカーブしたあと、京浜東北線と東海道線をまたいで行きます。
 在来線の8本の線路の上には、緑色の鉄橋が掛かっていて、その上を赤色の京浜東北線の電車が通過しています。 


 新幹線八ツ山トンネルはどこかというと、写真一番左の白いコンクリート壁の上にトンネルの上部が見えています。(写真一番左の◆の標識の右側)
 つまり、品川駅の南の部分では、JRの在来線にはトンネルはなく、一番東(海側)を走る新幹線にのみ、トンネルがあるというわけです。



 これは普通に考えれば変なトンネルといえます。陸の山側ではなく、海側にトンネルがあるからです。
 もう少し詳しく検証してみましょう。
 地図で見ると次のようになっています。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、八ツ山橋・八ツ山トンネルの周辺の地図です。品川駅は、画面の上方(北)です。
 京浜急行線八ツ山橋のすぐ南は江戸時代からの旧東海道の本道です。橋を渡って鉄道の東側に出たあと、東南方向に向かって品川宿の中心部へと続きます。


 また歴史の勉強です 八ツ山橋・八ツ山トンネル建設の理由

 さてここでもまた歴史の勉強です。どうして新幹線八ツ山トンネルが存在しているかを、歴史的に考えてみましょう。
 このサイトではただの鉄道トンネルマニアでは終わりません。

 幕末から明治初年、この地域は二つの建設・土木事業のおかげで景観がずいぶん変わりました。もちろん一つは明治時代になってからの鉄道敷設です。 


 下の写真は、江戸時代末から明治初期に、上の地図のどこかの地点から撮影されたと思われる貴重な写真です。
 この写真の撮影場所が分かりますでしょうか?

 写真25-07 幕末・明治初期の高輪沿海部の写真

上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。


 実は上の写真は、現在の八ツ山橋付近から、方角でいうと北の方にあたる高輪・田町方面を撮影したものです。写真右が東側、写真奥が北側です。もちろん、鉄道の開業前の状況です。

 そして、手前の両端を垣根で区切られた道こそが、
東海道です。右側の白く見える部分はというと、これは海なのです。つまり、この地域は、東海道が最も海寄りを通っており、それは現在では、JR品川駅西の第一京浜国道(国道15号)の道筋です。ということは、現在のJR品川駅のある場所も含めて、駅の西出口の旧東海道筋から東は、明治初めまでは、海と干潟や洲でした。
 
八ツ山という地名は、江戸時代にはこの地域の海岸線に八つの洲ができていたことから名付けられたということです。
  ※参考文献1 アイランズ編著『東京の戦前 昔恋しい散歩地図②』(草思社 2004年)P46
  ※参考文献2 人文社編『切絵図・現代図で歩く もち歩き 江戸東京散歩』(人文社 2003年)P104
 
 最初の鉄道の敷設については、いろいろな苦労がありました。
 明治初期において鉄道の開業は、新政府の国家的事業として進められたにもかかわらず、政府役人の思い入れとは反対に、地域住民は、鉄道(蒸気機関車)という得体の知れないものに対しては、ごく普通に強い拒否反応を示しました。
 そのため、最初の鉄道は新橋-横浜間の僅か29kmのレール敷設でしたが、用地買収、ルート設定など、ずいぶん苦労をしました。
 この品川駅の部分では、海岸線の低地が狭隘だったこともあって土地の買収が進まず、田町から北品川に至る路線は、海の中に
築堤して線路を通すことになりました。
 さらに、
品川駅に関しては宿場の住民の反対で、品川宿内では建設できず、その北の、地名でいうと高輪の一番南部に建設せざるを得ませんでした。上の写真では、中央の樹木の向こう側あたりと推定されています。そして、「高輪南町」の一番南の丘陵の地名が八ツ山(古地図上では、谷ツ山とも表記)でした。
 まとめると、品川駅は、品川宿の北の宿外の海を埋め立てて作られたということになります。
 
 また、海岸沿いの宿場をさけるため、
品川駅より南では、宿場の西側の内陸部を通って、大森方面へ向かう路線が選択されました。そのために、駅の南では海岸線を離れ、旧東海道をくぐって通過し、品川宿の西側に出るルートが建設されました。この時、南西にあたる御殿山丘陵から続く微高地を切り割りし、その上には、旧東海道を通す橋を架けたのです。これが初代八ツ山橋です。現在の国道15号(第一京浜国道)は、八ツ山橋の120m南にある新八ツ山橋でJR線路を越えています。新幹線線路は、この新八ツ山橋の部分でもトンネルとなっています。
 つまり、
新幹線八ツ山トンネルは、八ツ山橋新八ツ山橋の間を通っていることになります。

 さて、なぜ新幹線だけトンネルかという問題については、おおむね想像できると思われます。
 当初からあった在来線に加えて、新たに新幹線を通すにあたり、京浜急行鉄橋・八ツ山橋・新八ツ山橋がかかっていた橋の根元の部分をどうするかということになりました。そこで工法として、切り開くのではなく、トンネルを掘るという方法がとられたというわけです。 


 写真25-08  昭和49年、1974年の八ツ山橋 

上の写真は、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムのカラー空中写真閲覧から引用しました。こちらです。→国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

 中央を南北に通るのがJR線です。上(北)側が八ツ山橋、南側が新八ツ山橋です。現在の第一京浜国道は新八ツ山橋を通って旧品川宿の西側を通っています。八ツ山橋から右下(南東)へ伸びる道路は、八ツ山通りです。江戸時代の旧目黒川の川筋が道路になっています。(ちなみに、旧東海道は、八ツ山橋を越えたあと、二つの幅の広い道路(八ツ山通りと国道15号)の中間を通って南東に下ります。)
 新幹線の
八ツ山トンネルは、二つの橋の東側の根元の間の地下を通っています。
 
新八ツ山橋の西側にあるのは三菱開東閣(岩崎彌之助の高輪本邸)です。その南(下)の道路を挟んだ緑の多い部分が、品川御殿山です。現在では、ここにはホテルなどの高層ビルが並んでいます。
 右下の八ツ山通りの東にある三角形の形のグランド、五角形の敷地は、品川区立台場小学校です。 


 写真25-09・10 八ツ山橋八ツ山鉄橋 (撮影日 13/05/28)

 左、旧東海道の品川宿入り口から撮影した京浜急行線八ツ山鉄橋八ツ山橋(道路橋)
 右、
新八ツ山橋から北の京浜急行線八ツ山鉄橋をのぞむ。歩道横の左手の草地の下が新幹線八ツ山トンネル 

 写真25-11 八ツ山トンネルの南口 トンネルに入り込む東京行き新幹線 (撮影日 13/05/28)

 手前の橋は国道15号の新八ツ山橋、奥の緑色のトラスは、京浜急行電鉄八ツ山橋
 ちなみに、1954年の東宝映画『ゴジラ』(初代)では、品川に上陸したゴジラが最初に破壊するものが、鷲掴みにされた八ツ山橋(道路橋)です。 


 写真25-12 八ツ山トンネルを出て名古屋方面へ向かう下り新幹線           (撮影日 13/05/28)

 写真中央はJRの在来線群です。左手は、品川御殿山の高層ビル群です。


 ついでにもう一つ歴史の勉強です

 歴史の勉強ついでに、さらにもう一つ見聞を広げます。
 八ツ山トンネルの南西には、
品川御殿山があります。「山」という限りは、小高い丘陵です。徳川家康以下の初期の将軍が、江戸郊外に鷹狩りに出かけた時のために、この地に休憩用の御殿を造ったところから、御殿山と呼ばれました。御殿は第5代将軍綱吉の1702(元禄15)年(赤穂浪士の討ち入りの年)に火事で焼失しました。
 しかし、第8代将軍吉宗が奈良吉野の桜を植えたことから桜の木が増え、千本桜と呼ばれる桜の名所となり、幕末には江戸の花見スポットの一つとなっていました。
  ※参考文献3 平成御徒組著『幕末・維新の江戸・東京を歩く』(角川SSC新書 2010年)P40-42

 幕末の歴史では、攘夷派であった長州藩の高杉晋作らが、1862年、ここに建築中であったイギリス公使館を襲撃した事件で有名です。いわゆる、
イギリス公使館焼き打ち事件です。

 さてここでクイズです。
 その公使館襲撃事件の9年前、この
御殿山丘陵は大幅に削られて小さくなってしまいました。その理由は何でしょうか。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 写真25-13・14 新八ツ山橋の西側 (撮影日 13/05/28)
 左:南方の
御殿山 御殿山ガーデンホテル
 右:北方の三菱開東閣 


 ペリー来航によって急遽建設が開始された江戸城前面防備の台場(砲台)は、品川沖から建設が進められました。現存している第3台場、第6台場(レインボーブリッジの南側)は、品川駅の5kmほど東にあたります。

 ペリーが来航したのが1853年6月、その直後に台場建設が決定され、同年9月から、建設がはじまりました。各台場の建設資材の割り当てが行われ、第一台場の埋め立て用の土は、
品川御殿山から運ばれることになったのです。
  ※参考文献4 淺川道夫著『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社 2009年)P60-66

 現在のお台場及び台場小学校については、次の日本史クイズで取り上げています。
  ※クイズ日本史:「608 ?マークをクリックしてください。四角い小さな島が登場します。この島は何でしょう?


 写真25-15 レインボーブリッジと台場 六本木ヒルズから           (撮影日 03/05/30)


 写真25-16 レインボーブリッジと台場 お台場から           (撮影日 03/07/27)


 品川台場を建設している1853(嘉永6)年から54年にかけての品川御殿山を舞台にした、結構面白い時代小説があります。諸田玲子著『紅の袖』(新潮社 2004年)です。
 ミステリー小説で、ヒマな日曜日の午後3時間ぐらいが、あっという間に埋まりますよ。(^.^)


 以上で、東京駅から一番近いトンネル東海道新幹線編を終わります。


 【東京駅にから一番近いトンネル5 参考文献一覧】
  このページ5の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

アイランズ編著『東京の戦前 昔恋しい散歩地図②』(草思社 2004年)

人文社編『切絵図・現代図で歩く もち歩き 江戸東京散歩』(人文社 2003年)

  平成御徒組著『幕末・維新の江戸・東京を歩く』(角川SSC新書 2010年) 

淺川道夫著『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社 2009年)

  諸田玲子著『紅の袖』(新潮社 2004年)


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