鎌倉〜戦国時代3
<解説編>

306 鎌倉時代に出された通貨に関する命令は?                問題へ     

 この解説編では、次の項目で構成します。
 このクイズは、教養的なおもしろみはありません。
 面白い話題と言うことなら、現物教材編「現物日本史 中世の貨幣」をご覧ください。こちらです。

 1教科書の記述
 2正解
 
3撰銭と貫高制・石高制

1教科書の記述

 高校の日本史の教科書においては、貨幣など経済に関する記述は、政治的な事件などの記述に比べると、あまり多くはありません。
 記述量が少ないことと、教科書はどの部分でもそうですが、日本史学界の新しい説がなかなか反映されないということから、生徒たちが正しいイメージを描きづらい状態となっています。
 ここでは、少しでも、風通しをよくするために、いくつかのポイントについて説明します。

 まずは教科書の記述です。
 古代から中世にかけて、貨幣に関する記述は次の箇所に見られます。(太文字、色文字は私がやりました。)

 

※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)より

@古代の貨幣発行 P39

 708(和銅元)年、、武蔵国から銅が献上されると、政府は年号を和銅と改め、7世紀の天武天皇のころに鋳造した富本銭に続けて、唐にならい和同開珎を鋳造した。銭貨は都の造営にやとわれた人びとへの支給銭などの宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通をめざして蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などの物品による交易が広く行われていた。

A宋との交流 P63

 中国では五代の諸王朝ののち、宋(北宋)によって再統一が果たされた。日本は宋と正式な国交を開こうとはしなかったが、九州の博多に来航した宋の商人を通じて、書籍や陶磁器などの工芸品・薬品などが輸入され、また朝廷の許可を得て宋にわたる僧もおり、大陸との交流は活発に行われた。

B平氏政権 P85−86

 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真人の建てた金に圧迫されて南宋となってからは、さかんに通商がおこなわれた。これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(現、神戸市)を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にもつとめて貿易を推進した。
 清盛の積極的な対外政策の結果、
宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえ、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済基盤ともなった。
脚注

日宋貿易では、日本からは金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇などを輸出し、大陸からは宋銭をはじめ陶磁器・香料・薬品・書籍などを輸入したが、そのうちの香料・薬品類は、もともと東南アジア産のものであった。

C鎌倉時代の経済 P102

 売買の手段としては、米などの現物にかわって貨幣が多く用いられるようになっていたが、それにはもっぱら中国から輸入される宋銭が利用された。

D室町時代の経済 P127

 商品経済がさかんになると、貨幣の流通が著しくふえ、農民も年貢・公事・夫役を貨幣で納入することが多くなった。また遠隔地取引の拡大とともに為替(割符)の利用もさかんにおこなわれた。貨幣は、従来の宋銭とともに、新たに流入した永楽通宝などの明銭が使用されたが、需要の増大とともに粗悪な私鋳銭も流通するようになり、取引にあたっては悪銭をきらい、良質の貨幣を選ぶ撰銭が行われて、円滑な流通が阻害された。そのため、幕府・戦国大名などは悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止するかわりに、それ以外の貨幣の流通を強制する撰銭令をしばしば発布した。

E明銭の輸入 P130

 日明貿易は、4代将軍足利義持が朝貢形式に反対して一時中断し、6代将軍足利義教の時に再開された。朝貢形式の貿易は、滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きく、とくに大量にもたらされた銅銭は、日本の貨幣流通に大きな影響をあたえた。

脚注

輸入品は銅銭のほか生糸・高級織物・陶磁器・書籍・書画などで、これらは唐物とよばれて珍重された。

F倭寇 P131

 16世紀半ばに大内氏の滅亡とともに勘合貿易も断絶した。これととともにふたたび倭寇の活動が活発となり、豊臣秀吉による禁止まで続いた。

脚注

14世紀に活動した前期倭寇に対して、この時期の倭寇を後期倭寇という。後期倭寇には、中国人などの密貿易者が多かった。彼らは、日本の銀と生糸との交易をおこなうとともに、海賊として広い地域にわたって活動した。

G戦国大名の支配 P142

 戦国大名は、新しく服属させた国人たちとともに、各地で成長の著しかった地侍を家臣に組み入れていった。そして、これらの国人や地侍らの収入額を、銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し、その地位・収入を保障するかわりに、彼らに貫高にみあった一定の軍役を負担させた。これを貫高制といい、これによって戦国大名の軍事制度の基礎が確立した。


2正解
 さて、正解です。
 選択肢は次の3つでした。

 皇朝十二銭以来の独自の通貨を発行する。

 宋からの輸入銭(宋銭)の使用を認める。

 宋からの輸入銭の使用を停止する。

 教科書の記述を検証すれば、選択肢1は明らかに間違いであることはわかります。
 では、選択肢2と3のうち、正解はどちらでしょうか。
 へ鎌倉幕府の前の平氏政権では、貿易が政権の経済基盤となっていました。その後を受けての鎌倉幕府の時代です。
 果たして、その政策は?

 正解は、2の「宋からの輸入銭の使用を禁止する」です。

 ご存じのように、古代国家による貨幣の鋳造は、10世紀の乾元大宝をもって途絶していました。もちろん、この時代に交換経済がまったく発達していなかったわけではありません。貨幣鋳造停止以後の11・12世紀における交換経済は、米や絹の現物を媒介とするものでした。
 そこにおいても、もちろん、政府の官有物と民間の物資を交換する際の「価格」(換算値)については、王朝国家が発令した沽価法とよばれる法令に定められていました。古代政権によって、それなりに、物価と交換の秩序が維持されていたのです。

 宋との貿易が始まり、特に平氏政権が、積極的に貿易を進めると、その中で、宋銭の輸入・流通も拡大していきます。

 この段階で、輸入された宋銭を公認するかどうかについて、朝廷で議論され始めます。その最初は、1179(治承3)年です。

 実は、宋銭の流通の拡大は、京都の有力貴族にとっては、二つの理由で好ましからざるものでした。
 第一の理由は、宋銭や唐物の輸入の拡大によって、それまでの荘園経済における諸物資の交換レートが変動し、混乱が生じたからです。
 第二の理由は、古代貴族政権の先例は、律令体制です。律令体制のもとでは、朝廷が鋳造した貨幣こそが真の貨幣であり、外国から輸入した貨幣などは、国家の独占鋳造権を無視して作られた不正な貨幣というのが筋論です。
 勝手に貨幣を鋳造すること(私鋳)は、律令の定める8つの大罪(授業で学習する八虐)の一つにあげられていたのです。

 本来なら、
古代政権としては、宋銭の使用を認めないところですが、政権を握る平氏が貿易と宋銭輸入を進めていましたから、平氏政権の時期においては、使用停止命令は発令されなかったのです。

 
ところが、平氏が滅び頼朝が政権を握ると、京都の公家政権は、律令法の権限を根拠に、1193年に宋銭使用停止令を発令したのです。
 
 しかし、1210年代には宋銭の輸入が拡大。
 これを受けて、1226年鎌倉の
北条泰時政権は布に代わって銅銭を用いる政策を打ち出し、朝廷も遅れて1230年には、新しい沽価法で銭1貫文=米1石という交換比率を定め、中国銭の使用を公認しました。
 こうして、鎌倉時代後半以後、宋銭の輸入と国内流通は、鎌倉時代の農業生産力の発達=手工業・商業の発達という国内経済の変化と相まって、急速に拡大していきます。
 ※池亨「総論前近代日本の貨幣と国家」池亨編『銭貨−前近代日本の貨幣と国家』(青木書店2001年)P13-26
 
 ところで、上述の1210年代の宋銭の輸入の拡大は、単に日本の出来事だけではなく、
東アジア史全体で把握する必要があります。

 世界史の教科書には、元の時代の経済の説明として、次のように書かれています。
「貨幣としては、銅銭・金・銀がもちいられていたが、やがて交鈔(こうしょう)が政府から発行された。この紙幣は多額の取引や輸送に便利であったため、元の主要な通貨となった。
不要となった銅銭は日本などに流出して貨幣経済の発達をうながした。
 ※佐藤次高・木村靖二・岸本美緒著『詳説世界史』(山川出版 2004年)P99

 日本における中国貨幣流通の拡大の画期として、1210年代、1270年代、1390年代がありますが、この時代には、いずれも中国に於いて、元や明が紙幣の流通を意図して銅銭の使用を禁止する政策をとった時期と一致しています。
 つまり、世界史の教科書が指摘するように、中国で「余った」貨幣が、日本へ輸出されていったという側面があるのです。重要な視点です。


 1967年に大韓民国の全羅南道新安郡沖の海底で沈没船が発見されました。これは、14世紀の中国船で、1323年6月に中国の寧波を出航し、博多をめざして向かう途中、ここで沈没したものでした。
 注目を集めたのはその積み荷です。
 船底には、おびただしい量の宋銭が積まれていました。その重量なんと、28トン。
 1文3.75グラムですから、枚数に換算すると、746万6000枚です。

3撰銭と貫高制・石高制 
 次に、撰銭についてです。これも、教科書的な一般的な理解と、ちょっと深く踏み込んだ事実とはかなり異なっています。

 教科書の引用D「室町時代の経済」にあるように、室町時代の後半には、流通している貨幣に対して、「
撰銭」という行為が行われます。
 教科書には、いつ頃から行われたか明記されていませんが、実は15世紀半ば以降のことです。
 最初の
撰銭令は、周防の大名大内氏によって、1485年に発令されました。その命令の内容は、これまた、教科書的常識とは異なるものです。
 命令は、取引の際に
永楽通宝など明銭を一定量混入することを求めていました。このことは、中国銭と言っても宋銭とは異なる新しい明銭には、民衆が安心して使用しない状況=信用不安が起こっていることを示しています。

 撰銭の原因は、教科書的には「需要の増大とともに
粗悪な私鋳銭も流通」とされていますが、実はこれも、現在では、上述の宋銭輸入と同じく、中国との関係でとらえる考えが主流となってきています。
 その原因は、
明国内において銅銭流通への信用不安が発生し、日本国内にも影響をあたえたというのが、大きな要因でした。
 ※本田博之「戦国・豊臣期の貨幣通用と公権力−撰銭の発生から石高制まで−」

  池亨編『銭貨−前近代日本の貨幣と国家』(青木書店2001年)P116
 
 

 では、教科書の記述から受ける「永楽通宝が重要視されている」というイメージは嘘かというと、もちろん、嘘ではありません。
 教科書の引用Gにあるように、戦国大名とりわけ関東の
北条氏は、永楽通宝を基準通貨と定め、貫高による家臣や領地の支配を確立しました。
 室町時代後半、東日本では永楽通宝への信頼は絶対的でした。

 もうひとつ、
貫高制石高制についてです。
 ずっと長い間、自分自身不思議に思っており、生徒の質問にもうまく答えられないことがありました。
 その疑問とは・・
 室町時代後半に北条氏をはじめとして多くの大名が貫高制による領国支配をめざしました。これは言い換えれば、銭を基準とする土地と人の支配です。
 ところが、その後全国支配権を握った豊臣秀吉は、石高制を確立して、封建的支配を完成します。この石高制は、米を基準とする土地と人の支配です。

 つまり、せっかく、
銭による支配が広がっていながら、秀吉は、まるで時代を逆行させるように、米による支配=石高制を復活させたということになります。
 これは一体どういうわけでしょう?

 その疑問を解く鍵の一つは、次の事実です。
 「しかし、永禄・元亀年間、畿内や西国で支払い手段が銭から米へと急激な転換を見せ始めた頃、東国でも銭納から米穀納への転換が始まる。貫高制が最も整備されていたとみなされる後北条氏領国においても、銭納による年貢納入が困難となり、米や金を代替物とすることが容認されるようになった。それは、
基準銭に設定した永楽銭の絶対量の不足と、やはり銭貨そのものの信用低下の結果であり、さらには銭貨に替わる安全な交換媒体としての米に対する期待感のあらわれであったと理解される。
 こうして、後北条氏領国でも精銭の一元的な収取から米や金を加えた収取の仕組みが採用され、その結果、米や金の通貨的流通と銭貨の補助貨幣化が進むことになる。それは、権力編制としての貫高制の限界でもあった。」
 ※本田博之前掲「戦国・豊臣期の貨幣通用と公権力−撰銭の発生から石高制まで−」

  池亨編『銭貨−前近代日本の貨幣と国家』(青木書店2001年)P125

 そしてまた、
この時の基準銭に設定した永楽銭の絶対量不足は、当然ながら中国での情勢の変化を原因とするものでした。

 教科書の引用Fにあるように、大内氏が滅亡してからは、再び倭寇(後期倭寇)が東シナ海を横行します。この倭寇は、日本人によるものは少なく、明の海禁政策(貿易統制)の監視の目を盗んだ中国人の密貿易船でした。
 
この密貿易船の活躍ルートの一つに、中国南部の福建省の私鋳銭鋳造拠点から日本へというのがあり、膨大な私鋳銭が日本へ運ばれました。
 
 ところが、1560年代になると状況が変わります。
 明朝の対倭寇掃討戦は1560年代には最終局面を迎え、1566年にはほぼ福建省の制圧に成功するのです。この結果、この地域は、明国公認の東南アジアへの貿易拠点となり、日本への貨幣の密輸出は停止されるのです。
 
 このことが、先の明銭の絶対量の不足になったというわけです。
  ※黒田明伸著『貨幣システムの世界史(世界歴史選書)』(岩波書店 2003年)P135

 東アジア全体の中で、貨幣はどのように結びついているのか、真実に迫るには広い視点が必要です。