鎌倉〜戦国時代4
<解説編>
307 この丸いぶつぶつは何?                                 問題へ        

  上の写真の丸いぶつぶつは、鎌倉の大仏の頭部です。
 仏像の頭部の丸いぶつぶつは、
螺髪(らほつ)または、螺髻(らけい)といいます。
 また、鎌倉の大仏は、正確には「高徳院銅造阿弥陀如来座像」といいます。
 ここでは、
鎌倉大仏、または高徳院大仏と呼びましょう。  

 

上述の答えは、実は、「正解」ではありません。
 「正解」でないことは、左右の写真を比べてみれば一目瞭然です。
 左の螺髪の色は黒ですが、右は、緑青を吹いて青っぽくなっています。
 えっ、左は「夜の写真」って、いえいえ違います。違います。確かにピントは甘く手ぶれしていますが、夜に撮影したものではありません。
   


 鎌倉大仏の顔。

 鎌倉大仏の背中。奈良東大寺の大仏と違って、背中に窓がある。


 正解は、鎌倉大仏の頭部を、内側から撮影した写真です。
 奈良東大寺の大仏と違って、鎌倉大仏は、大仏の内部に入ることができます。
 これが、歴史の教師にはとても魅力です。 


大仏の内部。中央下の明るい部分は、右上の写真の背中の窓です。

同じく内部。肩口から頭部を写した写真。


 右の写真は、左側面からの写真です。
 鎌倉の大仏は、奈良の大仏と違って、外から見ても、表面がすべすべした感じではなく、写真の左肩の部分のように、何か、つぎはぎして作ったようなイメージです。

 これを見ていると、鎌倉大仏は、「これどうやって作ったのだろう。肩のあの感じから考えると、少しずつ銅を溶かして、継ぎ足していきながら作ったのかもしれない。」と想像力をかき立たせます。

 すべすべの奈良東大寺の大仏を見ていても、そういう発想は出てこないのではないでしょうか。
 この想像をもっと豊かにさせるのが、「内部」の様子です。
 下の写真をご覧ください。
 


左の写真は、内部の右腰の部分です。


左の写真は、右肩の部分です。


 さて、奈良東大寺の大仏に比べると、人気も取り扱つかわれ方も今ひとつの鎌倉大仏ですが、上の内部写真は、魅力的です。
 大仏の鋳造過程を、容易に想像させてくれる写真だからです。

 下の図は、奈良の大仏の鋳造の様子を模式図にしたものです。
  ※香取忠彦著・穂積和夫イラスト『奈良の大仏 世界最大の鋳造物』(草始社 1981年)P28等を参考に作成。

 
 大仏のような大きな鋳造仏は、次のように作られます。

  1. 地面を掘り下げて、礎石を並べて土台を作る。

  2. 木材や竹で骨組みを作る。

  3. 骨組みに粘土で大仏を造形する。この時の粘土の部分は、後の鋳造の際の中鋳型となる。

  4. 中鋳型が乾燥したら、それに合わせて外鋳型を作る。

  5. 外鋳型が完成したら、外鋳型をうまく切断・分解して、はずす。

  6. 最下段の中鋳型の粘土を削る。(この削った部分が、大仏の銅像の厚みとなる。)

  7. 表面をいくらか削った中鋳型に最下段の外鋳型を合わせ、隙間に溶かした銅を流し込む。(鋳込む。)

  8. 盛り土の土台をつくって、次の段の作業場を作る。

  9. 2段目で6・7の工程を繰り返す。

  10. 頭部まで鋳込みがすんだら、土台の盛り土を除去する。

  11. 足場を組んで、表面のでこぼこ、隙間等を修正する。

  12. 頭に螺髪を埋めこむ。

下の模式図は、すでに4段の鋳込みが終わって、5段目を鋳込んでいるところを表現しています。



 もっとも、鎌倉大仏は、当初木造仏として作られており、その木造仏とその後に作られた金銅仏との関係がどういうものかについて、昔から議論がありました。
 
 その結果、一つの意見として、中鋳型は粘土製(塑像)ではなく、木製であったのではないかともいわれています。

「次に、現代仏の造像技法の中で、最も問題になるのは原型についてである。すなわち、西川新次氏の主張する原型を塑で造った塑像説と、私が提示する原型を木で造った木像説である。鋳造技術自体についてここで説明する余裕がないので前述した別塙で記したが、鎌倉大仏の像の中の内壁をみると、そこに縦横幾筋もの鋳張のあることが分かる。これが何を意味しているかというと、中型が削り中子ではなく、多数の型を合わせていることを示している。すなわち、原型から外型をとり、さらに別に中型を造り、原型とは別の場所に外型と中型を置いて、鋳造したことが分かる。したがってこの時の原型の材は、塑像でも木像でも鋳造技術としては可能ではあるが、問題は工程である。その工程とは、原型が塑像ならば、中型を別に取り、別の場所で鋳込むという難しくしかも余分な作業を経ずに、原型自体を削って中型にする削り中子という、その場でしかも狂う事のない鋳造ができるはずである。したがって、私の結論としては、出来ないわけではないが、塑像であるはずがなく木像であるとしたのである。
 それに対して西川新次氏は、このことを承知した上で、「塑土特有の大らかなうねりをもつ肉取りであり、殊に膝前や背面に於ける捻成的な、ゆるやかな曲面である」として原型を塑像とした。しかし、大仏が巨像であるだけに、部分的に型取りした時の感じは、いわゆる木型鋳造の硬い表現とは異なるであろうし、鋳造過程の煩雑さや、難しさを考慮すると、この可能性はいたって低いと考えざるを得ない。」

※清水眞澄「鎌倉大仏研究の現状と問題点」清水眞澄編『美術史論叢 造形と文化』(雄山閣2000年)P16


 同じ鋳造のつぎはぎを観察しても、専門家の意見は異なるようです。


 さて、最後に奈良東大寺の大仏と鎌倉大仏の取り扱いの違いについてです。
 高等学校の教科書には、奈良東大寺や大仏のことは、あちこちで登場します。ところが、鎌倉大仏は、通常の教科書には登場しません。

 東大寺大仏は、平重衡の南都焼き討ちによって燃え落ち、鎌倉時代に再建されます。
 もちろん鎌倉大仏は鎌倉時代の作品です。
 大きさは少々奈良大仏が大きいですが、まあ、それほど大きく異なるわけではありません。
 そうであるのなら、鎌倉時代の文化の説明に両方同じように登場してもよさそうなものですが、実はそうではなく、高徳院阿弥陀如来座像の方は、教科書には登場しません。

 この大きな違いの理由はというと、鎌倉大仏に関する文献資料の少なさと、それ故に、次の様に不明な点が多いことでしょう。

  1. 完成時期は、概ね1260年代前半と推定されるが、はっきりは分からない。

  2. 鎌倉幕府や北条氏の関与は推定できるが、誰がいつ造営を命じたかなど、詳しいことは分からない。

  3. 鋳物師など実際の造仏に従事した勢力が詳しくは分からない。

 これだけ肝心な部分が不明だと、ストーリーにはならず、教科書にも載せようがありません。大学受験の対象の知識にするのも無理です。

 これらについては、今までいろいろな説が出ましたが、いまいち、教科書の記述になるようなインパクトはありませんでした。

 そんな中で、まだ証明されたわけではない大胆な仮説の域を出ていませんが、中世考古学者の馬淵一雄氏がいろいろな事象をつなげて、興味深い説を主張しています。
 赤い字は、普通の教科書に登場する事項・人物です。

  1. 大仏製造を命じたのは、執権北条時頼

  2. 西の朝廷に対して、鎌倉の北条氏の得宗専制政治の確立を象徴するオブジェクトとして造立された。

  3. それを支えた宗教勢力は、この時代の旧仏教の立役者で北条時頼と結んでいた、西大寺律宗の叡尊とその弟子忍性(良観)。

  4. 鋳造を支えた技術者が、京都・奈良の旧勢力から、鎌倉の新しい政権の統制下に入りつつあった新興の鋳物師

 何もつながりのない、教科書上のバラバラな事項が、次々に繋がりはじめます。
 興味のある方は、次の本をお薦めします。
  馬淵一雄著『鎌倉大仏の中世史』(新人物往来社 1998年)