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『漢委奴国王』金印への新たな疑問3
 
 新しい疑問の提唱(真印説への反論と再反論Ⅱ) 12/04/23作成 

 三浦氏は、鈴木氏の「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印との間には技術的な距離があるという説を根幹に据え、ほかの理由と組み合わせて、「金印は偽造された」という説を提唱しています。つまり、金印真印説への反論です。
 その考えと、それに対する再反論を検討します。
 

 金印の現物教材は、→現物教材日本史:「漢委奴国王」金印レプリカ で紹介しています。12/04/23に印の使い方と綬(紐)についての説明を追加しました。
 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
 

 
金印への疑いが消えた理由
新たな疑問を提示した研究者
鈴木氏の主張:彫り方における「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」との距離
三浦氏の主張:これまでの真印説への反論
再反論と今後の課題
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 三浦氏の主張:これまでの真印説への反論 

  三浦氏は、「漢委奴国王」金印が真印と考えられもはや疑いがもたれなくなった理由について、一つ一つ疑問を呈しています。まずもう一度、真印と考えられるようになった理由について、確認します。

【「漢委奴国王」金印が疑いなく光武帝下賜印とされる主な4つの理由=真印説の根拠】
※それぞれの( )内は、引用者の補足説明です。

 印面が正確に後漢時代の一寸(2.35センチ)にあたっている。(江戸時代の人間が偽作するとしても、この寸法を知り得ることは非常に難しい。)

 同一規格で陰刻篆体の薬研彫り字体をもつ「廣陵王璽」の金印(江蘇省揚州市邘江件甘泉二号墓出土)が、1年違いの永平元年(58)8月に下賜されている。(「漢委奴国王」金印と同じ時期に作られた同じ工房の作製と思われる金印が存在している。)

 同じ蛇鈕で同規格の「滇王之印」の金印(前109年、武帝が下賜)が、雲南省晋寧県石塞山六号墓から見つかった。(近代以前の常識では漢の印制においては、日本の小国の王に金印を下賜するような場合には、その鈕は「亀鈕」もしくは「駱駝鈕」となると考えられていたが、蛇鈕の「 滇王之印」の発見によって、蛇鈕も漢の国制として、湿潤地帯の首長に下賜するという仕組みが存在したと推定される。)

 純度95.1パーセントで、滇王之印や中国大陸の砂金の純度や他の金属組成とも一致する。(金属組成からいっても、金印は偽作とは思われない。)

 ※参考文献1 寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)P217-218 

 以下は、この理由に対する、三浦氏の疑義です。後の■以下は私の意見です。

 金印の寸法が後漢時代の1寸と符合していること   | 4つの理由の一覧へ |

 金印が発見された当時の福岡藩の儒者亀井南冥が書き残しているように、当時の知識者の中には、下賜印のサイズが漢の古尺で一寸四方であることを知っていた。このため、古い時代からの印文を集めた『集古印譜』などから実例を測定すれば、2.3cm余のサイズの模倣印の作製は絶対にできないということはない。
 また、漢代の印にも、1辺の長さは、2.3cm前後と幅がある。現代の科学的な測定によって、金印の四辺の平均が2.347cmと判明し、それが漢代の古尺の1寸に符合したからといって、それが真印の絶対的な理由とはならない。
「それにしても、どうして学者というのはこうも単純で、騙されやすいのだろうか。本章のはじめで紹介した、現代の篆刻家・水野恵の、「すぐにバレるような造りはしいしまへんやろ。そんなヘマをするのは贋物造りやおへん」という発言を、寺沢薫や直木孝次郎は肝に銘じるべきではないか。」
 ※参考文献2 三浦佑之著『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』P143

 ■贋作が作られたとする江戸時代は、現代のメートル法のように他の絶対的な基準がない時代のことであり、精密な模倣は不可能と思えます。しかし、江戸時代に伝わっていた古印うあ印譜のまねすれば、「だいたい同じ大きさ」の印をつくることは可能であり、それがたまたま、漢時代の古尺の1寸にきわめて近い数字となることも、絶対あり得ないことではありません。
 


 「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」が同一規格の印であること  | 4つの理由の一覧へ |
 

 この同一規格という点については、鈴木氏の実証的研究が明らかにしているところであり、よく確認もせずに、「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印が技術的に近いものであるという偏見で議論を進めてきたことは明白である。
 実際にはその逆で、両印の技術的な距離が離れているのであれば、真印論争はまた元に戻す必要がある。
「しかし、ほんとうに疑惑は消えたのかといえば、ここ数年のあいだに発表された鈴木勉の一連の論文によって、真印説を証明する証拠のうちの、半分は消滅してしまったというべきではなかろうか。この論文の出現によって、議論はまた振り出しにもどったとわたしは思っている。」
  ※参考文献2 三浦前掲書P133
 鈴木氏の実証的分析については、前ページ参照。→『漢委奴国王』金印への新たな疑問2
  ※参考文献3 木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』

 ■今回の「金印偽造」の疑いに関しては、この点が一番重要なポイントです。あとで紹介しますが、この技術的な問題に、真印説側からどのような再反論が出るかがポイントです。
 


 同じ蛇鈕の「 滇王之印」が発見され、「漢委奴国王」も漢の印制に則ったものと判明 | 4つの理由の一覧へ |
 

 金印の鈕については、漢が周辺民族の首長に渡す印の鈕としては「亀鈕」「駱駝鈕」しか実例がなく、旧来からあった金印偽造説の大きな要因となっているが、1956年に蛇鈕をもつ「 滇王之印」が発見され、一気にその疑惑は消え去った。
 しかし、よく両印の鈕を比較してみると、後者の発見が前者の疑惑を文句なく消し去ることができるかと言えばそうではない。二つの鈕は、全く別の意匠といっていいほど、似ていないからである。
「「 滇王之印」の蛇は、ひと目見て蛇とわかる姿をしている。それは、基本的な形成が、「縄」状の胴体を、らせん形に巻いているからである。もちろん、「蛇」ではなく、「虺」(マムシ)と呼んでもかまわない。ところが、一方の「漢委奴国王」の蛇鈕は、「縄」状ではなく、その基本的な形成は「ダンゴ」状である。
 両印の象形の違いを、写実的な「 滇王之印」と。シンボリックな「漢委奴国王」と説明することができようが、志賀島から掘り出された金印は「蛇」にも「虺」にも見えない。ある意味ではきわめて稚拙な形状をしているといったほうが適切である。」
 ※参考文献2 三浦前掲書P126
 
 ■これは素朴に同感です。両者の「 滇王之印」の鈕は、明らかに蛇鈕ですが、「漢委奴国王」の鈕は、蛇といわれればそうも見えますが、予備知識のない生徒に見せれば、他の動物とする意見のほうが多く出てきます。 
 



 金印と純度等が「滇王之印」や中国大陸の砂金の純度や金属組成と一   | 4つの理由の一覧へ |

 「漢委奴国王」金印の科学的な分析については、1966年の岡崎氏らの分析と1989年の本田氏らの分析がある。しかし、中国の「 滇王之印」や「廣陵王璽」の組成等を科学的に分析したデータは、現在に至るまで報告されておらず、両者を比較したなんらかの結論はあり得ない。
 また、中国大陸の砂金の純度と「漢委奴国王」金印と純度が同一であるということが指摘されているが、日本のどこにも金印と同じ純度の砂金がないという証明はなされてはいない。
 ※参考文献2 三浦佑之著『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』P138-139

 ■この理由についても、科学的に一から証明するというよりも、はじめに「漢委奴国王」金印と類似品の「 滇王之印」「廣陵王璽」があり、だからそれと一部似ているので両者は同じという結論のもっていき方になってしまっていると思われます。
 全体的に金印=真印の証明の中では、中国で発見された両印と比較する場合においては、両印の正確なデータが少ないにもかかわらず、それに一見似ているから「漢委奴国王」金印も間違いはないという筋立てになっている部分が多くあると思われます。

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 ちょっと脱線して、金印の発見地志賀島の紹介です。

 ※上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、博多湾・志賀島周辺の地図です。

 金印の出土地、志賀島は博多湾に浮かぶ島です。といっても、現在では、砂州で陸地とつながっています。それが海の中道です。海の中道には東半分の西戸崎までは、JR鹿児島本線から分岐するJR香椎線海の中道線)が通っています。香椎線とは分岐駅の香椎駅から取られたものです。あの松本清張の不朽の名作『点と線』で有名な香椎駅です。
 終点西戸崎駅からはバスで志賀島へ向かいます。
 わたしは、2007年7月27日に、佐賀インターハイの開会式に出席した帰りに、立ち寄りました。

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 写真03-01西戸崎駅 (撮影日 07/07/27)

 写真03-02 海の中道 (撮影日 07/07/27)

 JR香椎線は、ディーゼル車2両で運行されるローカル線ですが、1時間に2往復と、まずますの利便性です。(朝夕は1時間3往復)
 ただし、
志賀島金印公園に最寄りのバス停、志賀島小学校前へ行く西鉄バスは、西戸崎駅からは1時間に1本しかありません。私は志賀島からの帰りは、西戸崎駅まで、海の中道を歩きました。その途中で島を振り返って撮影したのが、右の写真です。写真左側が博多湾内、右側が玄界灘です。
 
海の中道の付け根の左部分が志賀島港です。鉄道好きの私は、ここへも鉄道を使って行きましたが、鉄道を使わず、福岡市内から船で渡るという方法もあります。
 福岡市の博多埠頭から、
福岡市営渡船の「きんいん」号に乗ると志賀島港へ行くことができます。2012年4月現在1時間1往復程度で、33分で志賀島港と博多港を結んでいます。
  ※福岡市営渡船のHPです。 http://port-of-hakata.city.fukuoka.lg.jp/guide/ferry_city/index.html

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 写真03-03 金印公園                                  (撮影日 07/07/27)

 志賀島の海岸線を巡回する県道542号線沿いの島の南部に、志賀島金印公園があります。右手の石碑は高さ4m以上もあろうかと思われる大きなものです。碑には、「漢委奴國王金印發光之處」と記されています。
 一番右手の黄色い荷物箱は、近くで海産物の干物を干している地元の方々のものです。 

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 写真03-04・05 金印公園金印の碑、右はそのアップ     (撮影日 07/07/27)

 金印公園は、志賀島の南部に、南の博多湾の方を向いて建設されています。
 金印公園といっても、何か建物や施設があるわけではありません。ただ説明板が設置されているだけです。お土産屋さんも何もない無人の公園です。
 左の写真の中央の島は、博多湾内に浮かぶ
能古島(のこのしま)です。島の向こう側に同じぐらいの距離を隔てて、福岡市の西部市街地が広がっています。

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 本題に戻ります。
 
三浦氏は、上記のように、これまで金印と真印としてきた考え方の核心部分にそれぞれ反論を展開し、さらに、いろいろな状況証拠を示して、金印偽造説を展開しています。
 疑義を挟めそうな状況証拠の一つは、金印発見地が不確かなことです。
 上の写真の金印公園には、どこにも、「ここが金印発見の場所」という地点表示はありません。金印は、田んぼの溝から発見されたということですが、この公園は、水田などがあるような場所ではありません。背景に丘があってかなりの傾斜地です。以前は、海岸道路と海岸とのあいだにほんの僅か水田があったということですが、そこから発見されたという確証はありません。そして、現在までのところ、金印公園のあたりから金印が出土したという証拠は見つかっていません。
 そもそも、金印発見に大きく関わった福岡藩の儒学者
亀井南冥の報告にも、出土地や出土状況の詳細の記述はありません。三浦氏は、このことは南冥自身が出土地や出土状況を伏せておきたかったからだと考えています。 

 
三浦氏は、その他のいろいろな状況証拠も含めて、「金印捏造」には亀井南冥が大きく関わっているとしています。

 

 写真03-06 志賀島金印公園にある金印の説明です。            (撮影日 07/07/27)

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 写真03-07・08 地元の方が県道沿いに魚やいかを干しておられました。のどかです。(撮影日 07/07/27)

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 再反論と今後の課題       | このページの先頭へ |

  三浦氏が『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』を2006年に発表したあと、金印そのものは、2008年3月24日に福岡市博物館常設展示室内で、複数の学者が参加してマイクロスコープを使った表面観察による詳細な調査がなされました。参加者は、今津節生(九州国立博物館)・鈴木勉(工藝文化研究所)・菅野清(九州産業大学)・比佐陽一郎(福岡市埋蔵文化財センター)・田上陽一郎(福岡市埋蔵文化財センター)・佐藤一郎(福岡市博物館)・大塚紀宜(福岡市博物館)の各氏です。
 ※参考文献4 大塚紀宜著「マイクロスコープによる金印の表面観察とその検討」(2009年)

 
大塚氏によれば、印面の彫り方については、次のような結論が得られました。
「 観察の結果、溝の整形工程の最後に鏨(引用者注:たがね)加工と磨き加工を施していることを確認した。
 字の彫りについて、鏨のみで彫刻したものか、鋳型に文字が彫られていて仕上げだけ鏨で行ったかは表面観察からは判断する材料がない。
 字の彫り方印面部分の輪郭は整っており、字の配置や形状を企画した「デザイナー」を重視して、当初の企画線通りに篆刻したものと考えられる。字の彫りについては非常に細かい技術が見られるが、溝の内面の一部が削り残って細かい凹凸が残り、その部分に朱が付着していることが確認できた。この部分が鋳肌とすると、あらかじめ文字が原型に彫られていて、鋳造後に整形・調整して仕上げたことになる。
 溝の形状についてさらに詳しく見ていくと、字のシルエットは非常に整っており、溝の側面は30°程度刃を切り立てて彫っている。また、印面にも鈕と同様に鬆が多く入っているが、字を彫る際に鬆が入っている部分を調整しておらず、当初のデザイン通りに彫っている。これは、印面のデザインの担当者が鋳造の工人よりも優越した立場にあり(
鈴木2004)、鋳造の悪さを文字の配置でカバーすることが行われていないことの反映とする見方が出された。」
  ※参考文献4 大塚前掲論文

 文字の彫り方については、これ以前に
鈴木氏が述べていたデザイナー重視の状況が確認されています。時系列的には、前ページで紹介したように鈴木氏は、この調査の結果を踏まえて、『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(雄山閣 2010年) を執筆しています。

 一方、
三浦氏の「金印捏造」の主張、金印真印説への反論に対しては、いくつかの再反論が出されています。これまでの研究者がどんな反応をしているかを二つの例から検証します。(この2例は、上記大塚氏の論文にその存在が紹介されているものです。逆に言えば、私自身が、再反論の論文を片端から調べたということではありません。)

 ひとつは、
板橋氏(熊本大学大学院社会文化研究科講師・読売新聞西部本社編集委員)の論文です。
  ※参考文献5 板橋旺爾著「真印「漢委奴国王」金印の考証」(2007)『西日本文化』(427号)
 
板橋氏の基本的な態度は、金印そのものは現在でも未解決の問題を多くもっているが、「学問的には真印と決着がついていることもあって、その後の研究はあまり進んでいない。そこで解明できていない点を詮索、想像して一編の「物語」とする人も跡を絶たない」として、本文中では三浦氏の名前を挙げずに、参照文献のリストに三浦氏と名前と著書名を記載しています。
 
板橋氏は、金印の発見から福岡藩への報告まで何ら不可思議な部分はないこと、もし贋作するなら当時の常識から見て疑義を挟まれそうな蛇鈕ではなく亀鈕とするのが妥当であるのに金印は蛇鈕であること、亀井南冥が出土状況に関心がなかったのは贋作だとしたら信憑性を高めるのに是非必要なこのことについて配慮する必要がなかったことなどを指摘して、贋作説を否定しています。
 とりわけ、
三浦氏が引用した現代の篆刻家水野恵氏の言葉、「すぐにバレるような造りはしいしまへんやろ。そんなヘマをするのは贋物造りやおへん」を再度引用し、「この言葉は逆に贋作説の否定に通じる。なぜなら、「漢委奴國王」金印はそんなにうまくできていないからだ。うまく作るなら亀鈕で、卑弥呼の「親魏倭王」にならい、しかも本物らしく「漢倭奴王」とでもしたはずだ。後漢書では「倭奴」だから。」と指摘しています。
 この部分に関しては、論理の展開からは、再反論に利があると感じます。
 しかし、再反論の内容の多くは、
三浦氏の①から④までの反論に対して、それを正面から受けたものではなく、以前からの真印説の理由を繰り返していると思われます。

 二つ目は、
高倉氏(西南学院大学国際文化学部国際文化学科教授)の論文です。
  ※参考文献6 
高倉洋彰著「漢の印制から見た「漢委奴國王」蛇鈕金印」(2007年)
   本題から離れますが、高倉論文には
印の利用方法と綬(紐)の詳しい説明があります。
     →現物教材:日本史「漢委奴国王」金印レプリカ
  
高倉氏は、論文の前段で蛇鈕の研究によって明らかとなった蛇鈕の発展段階と「漢委奴国王」金印の蛇鈕が符合すること、「漢委奴」の解釈がこれまでの研究によって間違いのないものとなったことにふれたあと、「岡崎敬による眞印の證明(岡崎1968)以来、偽印説はあまり問題にされていないが、最近もまた偽印説が出され一部で話題となっている。そこで、これまで述べたところの整理を兼ね、偽作が不可能なことを指摘しておこう。」として次の点を挙げています。 (ただし、高倉氏の論文には、三浦氏や鈴木氏の名前も論文・著書も紹介されていません。誰を相手に再反論しているかは断定はできませんが・・・・。)

 金印のサイズが正確に漢の古尺の方一寸であり、近代でも再現が難しかったこの一寸の実際の長さを江戸時代に知ることは不可能である。過去に残されている印譜を計測しても数字はまちまちであり、実際の長さに一致する確率は低い。ただし、高倉氏は、「ただ一枚の官印の拓影や銅銭などを測って得た数値が、偶然、金印に似た数値である可能性は無いわけではない。」とはしている。

 

 もし江戸時代の水準の漢代に関する正確な知識を元に贋作を作れば、鈕は「蛇鈕」ではなく「亀鈕」か「駱駝」鈕になるはずである。

 同じく江戸時代の常識によるなら、「委」は「倭」と表記されなければならない。

 

 「廣陵王璽」金印についは、
「「漢委奴国王」金印と時期が接近している上に、鈕を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の刻印があり、また「廣陵王璽」の文字が薬研彫りされている點が共通する。これらは
二つの金印を製作した工房の一致をうかがわせ(岡崎1982)、志賀島出土金印が『後漢書』印であることを雄辨に物語っている。」

 高倉氏の再反論も、板橋氏の再反論と同じ面があります。
 鈕のこと印のサイズのことの二つについては、説得力のある再反論が展開されていますが、
三浦氏や鈴木氏の意見の中心をなす、②の文字の彫り方については、上記4にあるように、岡崎氏の意見をそのまま踏襲しています。
 また、
板橋氏・高倉氏とも、金印の成分については、何ら触れてはおられません。 


 「漢委奴国王」金印について、新しい説(=真印説への反論)を紹介しながら、現在の状況を確認してきました。
 反論の核心部分は、
鈴木氏の技術的な検証に基づく「「漢委奴国王」「廣陵王璽」両印の距離」です。これについては、その彫り方を薬研彫りと表現すべきかどうかも含めて今後なお検討の余地があると考えます。
 今のところ、再反論は反論の核心部分について正面から再反論をしてはいません。今後さらなる展開が期待されるところです。
 
 3ページにわたる長い検討を進めてきました。これで終わります。 

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 【「漢委奴国王」金印への新たな疑問3 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)

 

三浦佑之著『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』(幻冬舎 幻冬舎新書 2006年)

鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(雄山閣 2010年)

 

大塚紀宜著「マイクロスコープによる金印の表面観察とその検討」『福岡市博物館研究紀要第19号』(2009年)

板橋旺爾著「真印「漢委奴国王」金印の考証」(2007年)『西日本文化』(427号)

高倉洋彰著「漢の印制から見た「漢委奴國王」蛇鈕金印」(2007年) 『国華』(第1341號)


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