三浦氏が『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』を2006年に発表したあと、金印そのものは、2008年3月24日に福岡市博物館常設展示室内で、複数の学者が参加してマイクロスコープを使った表面観察による詳細な調査がなされました。参加者は、今津節生(九州国立博物館)・鈴木勉(工藝文化研究所)・菅野清(九州産業大学)・比佐陽一郎(福岡市埋蔵文化財センター)・田上陽一郎(福岡市埋蔵文化財センター)・佐藤一郎(福岡市博物館)・大塚紀宜(福岡市博物館)の各氏です。
※参考文献4 大塚紀宜著「マイクロスコープによる金印の表面観察とその検討」(2009年)
大塚氏によれば、印面の彫り方については、次のような結論が得られました。
「 観察の結果、溝の整形工程の最後に鏨(引用者注:たがね)加工と磨き加工を施していることを確認した。
字の彫りについて、鏨のみで彫刻したものか、鋳型に文字が彫られていて仕上げだけ鏨で行ったかは表面観察からは判断する材料がない。
字の彫り方印面部分の輪郭は整っており、字の配置や形状を企画した「デザイナー」を重視して、当初の企画線通りに篆刻したものと考えられる。字の彫りについては非常に細かい技術が見られるが、溝の内面の一部が削り残って細かい凹凸が残り、その部分に朱が付着していることが確認できた。この部分が鋳肌とすると、あらかじめ文字が原型に彫られていて、鋳造後に整形・調整して仕上げたことになる。
溝の形状についてさらに詳しく見ていくと、字のシルエットは非常に整っており、溝の側面は30°程度刃を切り立てて彫っている。また、印面にも鈕と同様に鬆が多く入っているが、字を彫る際に鬆が入っている部分を調整しておらず、当初のデザイン通りに彫っている。これは、印面のデザインの担当者が鋳造の工人よりも優越した立場にあり(鈴木2004)、鋳造の悪さを文字の配置でカバーすることが行われていないことの反映とする見方が出された。」
※参考文献4 大塚前掲論文
文字の彫り方については、これ以前に鈴木氏が述べていたデザイナー重視の状況が確認されています。時系列的には、前ページで紹介したように、鈴木氏は、この調査の結果を踏まえて、『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(雄山閣 2010年) を執筆しています。
一方、三浦氏の「金印捏造」の主張、金印真印説への反論に対しては、いくつかの再反論が出されています。これまでの研究者がどんな反応をしているかを二つの例から検証します。(この2例は、上記大塚氏の論文にその存在が紹介されているものです。逆に言えば、私自身が、再反論の論文を片端から調べたということではありません。)
ひとつは、板橋氏(熊本大学大学院社会文化研究科講師・読売新聞西部本社編集委員)の論文です。
※参考文献5 板橋旺爾著「真印「漢委奴国王」金印の考証」(2007)『西日本文化』(427号)
板橋氏の基本的な態度は、金印そのものは現在でも未解決の問題を多くもっているが、「学問的には真印と決着がついていることもあって、その後の研究はあまり進んでいない。そこで解明できていない点を詮索、想像して一編の「物語」とする人も跡を絶たない」として、本文中では三浦氏の名前を挙げずに、参照文献のリストに三浦氏と名前と著書名を記載しています。
板橋氏は、金印の発見から福岡藩への報告まで何ら不可思議な部分はないこと、もし贋作するなら当時の常識から見て疑義を挟まれそうな蛇鈕ではなく亀鈕とするのが妥当であるのに金印は蛇鈕であること、亀井南冥が出土状況に関心がなかったのは贋作だとしたら信憑性を高めるのに是非必要なこのことについて配慮する必要がなかったことなどを指摘して、贋作説を否定しています。
とりわけ、三浦氏が引用した現代の篆刻家水野恵氏の言葉、「すぐにバレるような造りはしいしまへんやろ。そんなヘマをするのは贋物造りやおへん」を再度引用し、「この言葉は逆に贋作説の否定に通じる。なぜなら、「漢委奴國王」金印はそんなにうまくできていないからだ。うまく作るなら亀鈕で、卑弥呼の「親魏倭王」にならい、しかも本物らしく「漢倭奴王」とでもしたはずだ。後漢書では「倭奴」だから。」と指摘しています。
この部分に関しては、論理の展開からは、再反論に利があると感じます。
しかし、再反論の内容の多くは、三浦氏の①から④までの反論に対して、それを正面から受けたものではなく、以前からの真印説の理由を繰り返していると思われます。
二つ目は、高倉氏(西南学院大学国際文化学部国際文化学科教授)の論文です。
※参考文献6 高倉洋彰著「漢の印制から見た「漢委奴國王」蛇鈕金印」(2007年)
本題から離れますが、高倉論文には印の利用方法と綬(紐)の詳しい説明があります。
→現物教材:日本史「漢委奴国王」金印レプリカ
高倉氏は、論文の前段で蛇鈕の研究によって明らかとなった蛇鈕の発展段階と「漢委奴国王」金印の蛇鈕が符合すること、「漢委奴」の解釈がこれまでの研究によって間違いのないものとなったことにふれたあと、「岡崎敬による眞印の證明(岡崎1968)以来、偽印説はあまり問題にされていないが、最近もまた偽印説が出され一部で話題となっている。そこで、これまで述べたところの整理を兼ね、偽作が不可能なことを指摘しておこう。」として次の点を挙げています。 (ただし、高倉氏の論文には、三浦氏や鈴木氏の名前も論文・著書も紹介されていません。誰を相手に再反論しているかは断定はできませんが・・・・。)
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金印のサイズが正確に漢の古尺の方一寸であり、近代でも再現が難しかったこの一寸の実際の長さを江戸時代に知ることは不可能である。過去に残されている印譜を計測しても数字はまちまちであり、実際の長さに一致する確率は低い。ただし、高倉氏は、「ただ一枚の官印の拓影や銅銭などを測って得た数値が、偶然、金印に似た数値である可能性は無いわけではない。」とはしている。
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もし江戸時代の水準の漢代に関する正確な知識を元に贋作を作れば、鈕は「蛇鈕」ではなく「亀鈕」か「駱駝」鈕になるはずである。
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同じく江戸時代の常識によるなら、「委」は「倭」と表記されなければならない。
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4 |
「廣陵王璽」金印についは、
「「漢委奴国王」金印と時期が接近している上に、鈕を飾る亀の甲羅の縁に魚子文の刻印があり、また「廣陵王璽」の文字が薬研彫りされている點が共通する。これらは二つの金印を製作した工房の一致をうかがわせ(岡崎1982)、志賀島出土金印が『後漢書』印であることを雄辨に物語っている。」
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高倉氏の再反論も、板橋氏の再反論と同じ面があります。
鈕のこと印のサイズのことの二つについては、説得力のある再反論が展開されていますが、三浦氏や鈴木氏の意見の中心をなす、②の文字の彫り方については、上記4にあるように、岡崎氏の意見をそのまま踏襲しています。
また、板橋氏・高倉氏とも、金印の成分については、何ら触れてはおられません。 |