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『漢委奴国王』金印への新たな疑問2
 
 新しい疑問の提唱(真印説への反論Ⅰ) 12/04/16作成 

 前ページでは、一旦消滅したと思われた「漢委奴国王」金印に対して、鈴木勉(NPO工芸文化研究所の理事長)氏と三浦佑之(千葉大学教授で古代文学・伝承文学の専門研究者)氏の二人から新たな疑問が提出されたとをお話ししました。

 このページでは、その疑問がどのようなものか説明します。
 

金印の現物教材は、→現物教材日本史:「漢委奴国王」金印レプリカ で紹介しています。
全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
 

 
金印への疑いが消えた理由
新たな疑問を提示した研究者
鈴木氏の主張:彫り方における「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」との距離
三浦氏の主張:これまでの真印説への反論
再反論と今後の課題
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 鈴木氏の主張:彫り方における「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」との距離

  前ページで示したように、鈴木三浦両氏の金印への疑問の根本的な部分は、「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印との「技術的な距離」です。つまり、これまでの「研究」では、二つの印は技術的にきわめて近い関係にあり、同一の工房、同一の人物による可能性も指摘されてきました。これが、「漢委奴国王」金印が真印であることを決定的にし、疑いを挟む余地をなくしてきました。
 しかし、これについて、鈴木氏が疑問を呈し、三浦氏もそれを妥当として、「漢委奴国王」金印への疑問を提示するに至ったのです。
 では、どんな経過で技術的に近い関係とされたかを、鈴木氏の指摘から復習します。

【「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印が製作技術的に近いとされた論考】

 1981年に「廣陵王璽」が発見された翌年の論考で、岡崎敬氏は、「廣陵王璽」金印は亀鈕であり、「漢委奴国王」金印は蛇鈕という違いはあるが、鈕にある魚々子紋様や文字の彫り方が薬研彫りである点において共通するところがあり、首都洛陽の同一工房で作られた可能性があると指摘しました。

 1984年には西谷正氏(九州大学)も、1辺が2.3cmの規格、篆書体の字体、薬研彫りの彫り方、魚々子紋様の装飾などが類似していることから、同じく、首都洛陽の同一工房で作製された可能性があると指摘しました。

 1989年にに行われた「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印とが全国各地で並んで展示されるという機会があり、その際に発行された図録を考察した梶山勝氏は、印面の文字が鏨(たがね)を用いて彫られており、その断面は形と形の箱彫りに近い形に彫られており、文字の彫り方や字体もよく似ている。また、鈕の魚々子紋様はいずれも同一の規格の鏨によって打ち出されてものであるとして、工具まで踏み込んでその類似性を指摘しました。

 1994年には大谷光男氏が、製作人物も同一であると指摘しました。

 ※参考文献1 鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』P32-34





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  つまり、文字の彫り方と魚々子紋様等が両印に共通しており、その結果、同じ工房で作られた可能性もあるとの指摘が行われてきたのでした。


 これに対して、鈴木氏は、これまで研究の実績があまりなかった金印の作り方、とりわけ彫り方に注目し、実は「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印は技術的に距離があると結論したのです。
 そのポイントは以下諸点です。
 文字の部分作成方法、つまり溝の彫り方が異なる    | このページの先頭へ |

 最初は、文字の部分の作成方法、つまり溝の彫り方が決定的に異なることです。
 「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印は、文字の溝の形の断面が逆台形になっていることなど、一見すると同じような文字の形に見え、イメージ的に同じ彫り方の印と思われます。
 しかし、文字の彫り方を詳細に調査していくと、その彫り方は、大きく異なります。溝の底部・左右側面にある加工痕は、「漢委奴国王」金印では、両者が必ずしも一致しない部分が多くあるのに対して、「廣陵王璽」金印では、両者の加工痕は一致します。
 普通に一つの道具で一気に彫っていくと、止めたり動かしたり、加工痕は、側面と底部とでは一致するのが常識です。ということは、「廣陵王璽」金印は、そのような彫り方、「
線彫り」(せんぼり)で彫られた印であると言えます。
 しかし、「漢委奴国王」金印は、両側面と底部の加工痕が一致しないということは、それぞれ別々に彫られたということです。まず左右どちらかを彫り、次に反対側を彫り、そして最後に残った底部を浚(さら)えたということになります。この順序から、この彫り方を「
浚い彫り」(さらいぼり)と言います。
 まとめると以下の図にようになります。(鈴木氏の前掲書を参考に、オリジナルで作製しました。)



 ややこしくなりますから注意書きです。
 説明図02では、彫られた溝の断面から、
箱彫り鉢彫り薬研彫りの3種類に分けていますが、説明図04の線彫り浚い彫りは、実際に鏨(たがね)をどう彫り進めるかという点からの彫りの種類で、両者は同列ではありません。
 「漢委奴国王」金印は、
鉢彫りで浚い彫りということになります。
 金印の文字の彫り方については、その技術的な調査が充分にはなされなかったこともあって、歴史学者が書いた文章でも、私たち素人から見て曖昧もしくは誤解や錯覚を与えると思われる表現が見られます。
 たとえば、2000(平成12)年に刊行された、寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』では、次のように記載されています。
 「同一規格で陰刻篆体の薬研彫り字体をもつ「廣陵王璽」の金印、(江蘇省揚州市邘江件甘泉二号墓出土)が、一年違いの永平元年(五八)八月に下賜されたものであること」
  ※参考文献2 寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』P217-218

 また、岡崎氏も、「文字は両面よりやげんぼりにほられ、底部がさらわれている。」と表現しています。
  ※参考文献3 岡崎敬著春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』P179

 両面から薬研彫りに彫り底部を浚うというのは、上図の説明図04と全く同じです。

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 この二つの彫り方は、単なる彫り方の違いのみならず、もっと大きな違いを意味しています。
 
線彫りは、ある程度の文字の形の線は描かれているでしょうが、そこに鏨をあてて、金槌等で打撃して一気に彫り進みます。
 一方、
浚い彫りは、あらかじめ印面に描かれた文字のデザインにしたがって、鏨を当てて彫り進めていきます。
 この二つの彫り方の違いは、彫り師の立場という点から、どういう違いを意味するのでしょうか?
 黒板を使ってクイズ風に考えてみます。

 
 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 このことについて鈴木氏自身は次のように説明しています。
「浚い彫りというのは、文字線の輪郭の内側に沿って線を彫り、下書きの文字線の形を忠実に再現しようとする技法です。ですから、浚い彫り技法で作られた漢委奴国王印は布置(文字の配置)の段階で文字線の輪郭も含めてしっかりとデザインされていたことが判ります。この印を彫った人はデザインに倣ってたがねを進めたのです。
 一方、3カ所(引用者注:左右と底部)の加工痕が一致する廣陵王璽と平河侯印では、溝底部と両側面が1本の溝たがねで同時に彫られていますので、「線彫り」が使われたのです。線彫りでは線の肥痩や印面のデザインを忠実に倣うことは不可能ですので、「タガネなり」で文字線が形成されてしまうということになります。印面のデザインよりもたがねの加工の「都合」が優先されるのですから、充分な下書きが行われたとは考えにくいところです。布置・デザインの最終責任が彫刻技術者に委ねられていたわけです。(中略)
 一番大事なことは、製作過程において布置する人と彫刻技術者との関係が全く逆であることです。製作思想や生産システムが全く異なっていたと考えることができます。」
 ※参考文献1 鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』P40-41

 同じく金印を作るという作業ですが、この二つの印を比較すると、実は、直接に金印を彫った彫り師の立場が大きく異なっていることが推定できるわけです。両印の技術的な距離は寧ろ近くないといわざるを得ないでしょう。

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 魚々子紋様の違い    | このページの先頭へ |

 次の相違点は、魚々子紋様です。(魚々子紋様の基本的説明は、上の説明図03へ↑
 先頭で説明したように、
岡崎氏・西谷氏・梶山氏ともに、魚々子紋様の類似性を取り上げて、「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印との技術的な距離の近さの要因としていますが、鈴木氏は全く反対の立場を取ります。
金印の魚々子紋様の測定値
金印 外 径mm  内 径mm  
漢委奴国王  1.47  0.76 
 廣陵王璽 1.23  0.73 
※鈴木前掲書P43より

 その理由は、次の簡単な測定結果によります。
 右の表をご覧ください。
 両印では、魚々子紋様を打つ時に使ったたがねのサイズが違います。このたがね自体は特に難しい道具ではありませんから、何時でも作ることができます。別々に作ればサイズは異なるわけです。
 サイズが異なる以上、この紋様が使われているからといって、両印が技術的に近い距離にあるというのは、安易すぎるという鈴木氏の指摘は、きわめて妥当と思われます。 

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 線幅率の違い   | このページの先頭へ |

 3つめの相違点は、両印の線幅率です。
 線幅率というのは、文字線の幅(彫られている部分)と2本の文字線に挟まれた印面の部分(地の部分)の幅との比率です。文字の幅/文字間の幅×100という計算式で算出します。線幅率200%ということは、文字幅が隣接する文字間の幅の2倍あるということです。線が多く並んでいる部分から算出します。
 
鈴木氏の分析によれば、これも、「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印とでは、下表のように、大きな違いがあります。
金印の線幅率
金印 最大  最小   平均  
漢委奴国王  500%  279% 377% 
 廣陵王璽 228%  182% 191% 
※鈴木前掲書P42より
 
※金印(レプリカ)

 「漢委奴国王」金印は、大変文字幅が広い印ということになります。
 これも、両印が技術的には近い距離ではないことを示す要因になります。

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 これらの要因の結果、鈴木氏は、「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印とは技術的な距離があり、それを現実に当てはめれば、次のような推論が成り立つとしています。

【「漢委奴国王」金印と「廣陵王璽」金印が製作技術的に距離があることをどう考えるか】

 同じ洛陽の工房に、異なる技術をもった工房が複数存在し、両金印は全く別の工房で作られた。

 洛陽以外にも他の都市に異なる技術の工房が存在し、両金印は別の場所で作られた。

 両金印を同一の系統の工房による作製と考えた場合は、「そこには1世代以上の時間的な開きがある」と考えられる。

 ※参考文献1 鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』P44

 もちろん常識的に考えれば、皇帝が下賜する金印を製作する工房ですから、該当する工房は一つしかなくて、技術的に変遷があったと考えるのが自然です。
 ということであれば、
鈴木氏は、1世代以上の時間的開きがあったと結論しており、岡崎氏らが主張するような、「両金印は洛陽の同じ工房で作製され1年違いで下賜されたものであり、技術的に近い距離ある」という推論は破綻してしまいます。
 これが、
鈴木氏の技術的調査による金印誕生時空論の結論です。

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 こうした技術論的な見解を踏まえて、三浦氏はさらに総合的に「漢委奴国王」金印への疑問を提示し、「金印偽造」を主張しています。
 それについては、次ページで紹介します。

  

 【「漢委奴国王」金印への新たな疑問2 参考文献一覧】
  このページ記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

鈴木勉著『「漢委奴国王」金印・誕生時空論-金石文学入門Ⅰ金属印章編-』(雄山閣 2010年)

寺澤薫著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 2000年)

岡崎敬著春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』(第一書房 2003年)

 

三浦佑之著『金印偽造事件「漢委奴国王」のまぼろし』(幻冬舎 幻冬舎新書 2006年)

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