長谷さんは、大和沈没の1年半前に退艦されていましたので、戦後もご活躍されました。しかし、大和沈没時にこの部署に配属されていた方は、喫水線近くのこの部署から生還することはできませんでした。復元された射撃盤のCG画像とその説明は、貴重な説明と考えられます。(同書P23)
大和の沖縄特攻時の被弾の状況と乗組員の苦闘は、「戦艦大和について考える14 漂流者銃撃1」、「戦艦大和について考える15 漂流者銃撃2」で生存者の方々の著書等を引用して記述しました。
それぞれの方々が生き残ることができた事情は、おおむねそこに表現しましたが、本書には、またそれとは違う、幸運に恵まれた方の話が掲載されていました。
そのうちに一人は、高角砲発令所に配置されていた、京都府出身の竹田明さんです。
高角砲発令所というのは、上記の主砲発令所と同じく、対空砲火を担当する高角砲の射撃の管制を行う部署です。高角砲は、建造時から増強され最終出撃時には左右舷に12門ありましたが、3問ずつ4カ所の高角砲発令所が管轄していました。その発令所にある高角砲射撃盤も船底に近い下甲板またはさらにその下の最下甲板にありました。
もし、大和沈没時までその部署にとどまれば、たとえ、「総員退艦」の命令が出ても、海面上への脱出は不可能という配置場所でした。
しかし、運命とは不思議なものです。
右舷後方の3門の高角砲を管制する竹田さんの配置場所は下甲板でしたが、そのアメリカ軍機によって直上に爆弾が命中し、その被害で電気回路が破壊され、射撃盤は作動しなくなってしまったのです。こうなると、高角砲の射撃は、各砲ごとの判断での射撃となり、射撃盤の部署にいる要員は不要となります。そこで持ち場を離れて上に上がり高角砲で作業を手伝うように命令が出ました。これが、竹田さんに生存の可能性を与えることになりました。(同書P162)
和歌山県出身の西田耕吾さんは、右舷前方の3門の高角砲を管制する発令所に配置されており、竹田さんよりさらに下の最下甲板で任務に就いていました。ここでも爆弾命中によって射撃盤のガラスが割れて針が曲がり、電気系統も麻痺したため、、竹田さんの部署と同じく上部の高角砲を手伝うように命令が出ました。これにより、西田さんは上甲板に上がることができ、それが生存につながりました。同じ高角砲発令所でも、左舷の発令所の要員は、その後まで任務に就いており、運命を分けることになりました。
さらに、本書の特色は、多くの乗組員の回想録とは違って、各生存者が戦後をどのような気持ちで生き抜いたかについての多くの証言を掲載している点です。
彼らがどのように自分の運命を感じていたかを的確に示す証言の一例を紹介します。
現在は京都で暮らす中道豊さんは、艦橋測敵所測敵手でした。戦後は、京都市役所職員を経て故郷の和歌山県で寺の住職を務めました。ある檀家の法事の際、その家の父親が家族の前で何気なく、中道さんが戦艦大和の生き残り乗組員であることを明かしました。以下は、その時の様子です。
(中道豊さん:艦橋測的所測的手の証言)
|
「子どもだから、何でも思ったこと言いよる。『和尚さん、大和に乗っておった人は皆死んだんと違うんですか?』 て。子どもも、どこで聞いたか知らんけどもね、大和の乗組員は全員艦と運命をともにしたと聞いておったんかもわからん。269名は助かっとんのやけどさ。大和と皆運命をともにしたっていうね。もう、穴があったらもぐりたかった。何か自分が責めを受けとる感じするな。だから、大きな声や大きな顔はできなかった。皆常に、そういう思いがあるのと違う? 大和の生き残りっていうのはね、みんな負い目を持っとる。だから終戦後、そういう話はね、積極的にしたくなかったの」(同書P218) |
沖縄特攻から帰還し、生存した乗組員の戦後も、また過酷でした。
|