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戦艦大和について考える14
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認 その11漂流者銃撃と「人種差別」1
06/03/12掲載 06/03/16修正 13/12/16修正
 はじめに                                              | このページの先頭へ |

 戦艦大和神話「片道燃料」の話は、前ページで一応終了です。
 
 ここからは、第3シリーズとして、「漂流者銃撃と人種差別」という新しいタイトルで新しいページを書きます。 
 もちろん、元の題材は戦艦大和や第2水雷戦隊のネタから取るのですが、「沈没した艦船から脱出して海に漂流している者への銃撃」ということをネタに、太平洋戦争における「人種差別」という大きなテーマに、迫っていこうという項目です。

 ちょっとテーマが大きすぎるかな?


 第1遊撃部隊の戦死者                                | このページの先頭へ |

 今まで同じく、いろいろ回り道しながら説明を続けます。

 第1遊撃部隊、つまり、
大和と軽巡洋艦矢矧、8隻の駆逐艦はどのような末路をたどったのでしょうか?
 以下は、第1遊撃部隊沖縄特攻作戦の「被害」です。


表9 第1遊撃部隊被害状況

艦種 艦名 状況 戦死者 漂流救助 生還率
戦艦 大和 14:23沈没 3063 269 8.0%
軽巡洋艦 矢矧 14:05沈没 446 503 53.0%
駆逐艦 初霜 損害なし、翌日10:00佐世保帰投。 0  
駆逐艦 冬月 小破、翌日08:45佐世保帰投。 12  
駆逐艦 雪風 小破、翌日10:00佐世保帰投。 3  
駆逐艦 涼月 中破、艦前部に浸水のたため、後進で翌日15:00佐世保帰投。 57  
駆逐艦 磯風 22:40航行不能のため、乗員移乗の後、味方艦により処分。 20  
駆逐艦 16:57航行不能のため、乗員移乗の後、味方艦により処分。 17  
駆逐艦 浜風 12:48艦体切断、沈没。 100 256 71.9%
駆逐艦 朝霜 機関故障のため艦隊より遅れ、分離行動中に撃沈される。 326 0 0.0%
 

平間洋一編『戦艦大和』(講談社 2003年)P232、池田清著『最後の巡洋艦・矢矧』(新人物往来社 1998年)などより作製。

 10隻の艦隊のうち、大和と矢矧を含めて6隻が沈没し、4隻は佐世保に帰還しました。

 4隻が帰還できたのは、沖縄への艦隊の出撃に対して、連合艦隊司令部と第2艦隊司令部との間である了解があったためです。出発前に、草鹿連合艦隊参謀長が第2艦隊司令部に、この作戦の説明に訪れた時、伊藤第2艦隊司令長官は「重大な戦況の変化の場合は作戦の変更」もあり得る、すなわち、作戦の中止もあり得るとの了解を得ていました。
 
 このため、
大和沈没直前に、残存している駆逐艦に対して、「極力生存者を救助の上、中央の命令あるまで待機」という指示が出されたといわれています。そのあと、正式に連合艦隊司令部から、「特攻作戦中止、速やかに佐世保に帰投せよ」の命令が発令され、4艦は、佐世保に帰投しました。

 自らも大きな損傷を受け、後進(スクリューを逆回しして、後ろ向きに進むこと)によってやっとの思いで帰還した
涼月を除く、雪風冬月初霜の3隻は、大和矢矧浜風が沈没した海面で、日没過ぎまで漂流者の救助に当たりました。 


 戦死者その1 機銃や高角砲員の被害                     | このページの先頭へ |

 第1遊撃部隊の戦死者は、どのような状況で生じたのでしょうか。
 
大和を例に具体的に、時間の流れにしたがって、考えてましょう。

 
第1は、爆弾・魚雷命中や戦闘機の銃撃によるものです。
 大和への爆弾の直撃弾の第一弾は、後檣楼へのそれでした。
 12時35分過ぎからの第1波の空襲がはじまって5分と立たないうちにほぼ同時に2発が当たりました。この爆弾で、後部射撃指揮所、後部電探室の人員は全滅しました。

 また、遮蔽物のない甲板上では、攻撃開始から沈没までの1時間48分の間に、25ミリ3連装機銃の機銃員など、映画「男たちの大和YAMATO」に描かれたように、おびただしい犠牲者が出たに違いありません。
 およそ2時間の間に、多くの人命が艦上で失われました。

「 米機の攻撃は、ほぼ三〜五機が一群となり、四周から間断なく襲う。そして、どの機も機銃掃射をやめなかった。
 戦闘機は垂直に降下して艦橋、砲塔、機銃座に掃射を加え艦橋すれすれに反転した。急降下爆撃機は雲を出たとたんに爆弾を投下し、その爆弾を追うように落下して銃撃をつづけ、着弾寸前に身をひるがえす。
 雷撃機はほぼ10度の進入角をとり、被弾回避の左右蛇行航法で接近して魚雷を発射すると、バラバラと機銃を射ちはなして翼をひるがえす。 」
 

児島襄著『戦艦大和 下』(文藝春秋 1973年)P261
この本は主砲方位盤射手村田大尉を主役に大和を活躍を描いたものです。村田大尉については、「戦艦大和神話」その3「46センチ主砲とアウトレンジ」で説明で説明しています。


「 第一波が去ったあとに、上から甲板を見たらまさに地獄でした。応急員がホースで甲板の血を流していました。負傷者や死体を、衛生兵が走り回って運んでいましたがなんと、ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げて捨てているのです。遺体はバスルームに運び、医務室を五つに分けて、そこを「戦時救護所」という臨時の医務室にして、負傷者を運んでいました。

 私の艦橋からは、全体がまともに見えました。やられた後部方向はまだ、薄煙が立ち昇っていました。しかし、戦闘中は絶対に持ち場を離れられず、どうしようもできません。戻って見た状況を石田班長に興奮気味に報告しましたが、「戦争とはそんなもんだ」と、彼は冷静でした。第一波が去り、十分くらいで第二波がくるのです。午後一時半ごろです。およそ百五十機でしょうか。雷撃機が多く、大和は左舷に三本の魚雷を受けてしまいました。遮蔽板ひとつない無防備な機銃員は敵機の機銃などで次々と鮮血を逆らせて倒れ、おびただしい死傷者が出ました。そして大和の巨体が次第に傾いてゆくのです。」
 

八杉康夫著『戦艦大和最後の乗員の遺言』(WAC 2005年)P71−72
 八杉さんは、沖縄特攻当時、上等水兵。大和の15m測距儀で敵との距離を測る測距士でした。配属場所は、前檣楼(艦橋)の最上階(方位盤射撃室)のすぐ下、測距室でした。


「 私たちのすぐ下方に見える甲板の機銃群も、徹底的な攻撃をうけたようである。迎撃のために撃ちつづけている銃身は、過熱し、いつしか赤茶色に焼けただれ、あの黒光りしていたおもかげは、まったくなくなっていた。なかには猛烈な熱気のために、溶けて飴のように折れまがって、連続射撃による苦闘、激闘のあとを如実に物語っているのもある。兵員の死骸がそこかしこに横たわり、肉片が散乱して、眼も当てられない惨状である。甲板は一面に鮮血が散って、赤黒い模様をえがいていた。
「どんな事態になっても、気をたしかに持つんだぞ」
「撃てるうちは撃とうぜ」
「弾丸はとなりからもらえ!」
 私たち五番高角砲塔内は、全員、なお健在である。おたがいに配置をまもりあって、臆することなく、射撃を続行している。ありがたい。
「アメ公に負けてたまるか!」
 左舷の被害は、かなりひどいものになってきているらしく、高角砲や機銃員の戦死傷者が続出しているという情報が入ってきた。左舷の配置で奮闘しているであろう同郷の戦友、坂本定春一水や大矢伸七一水、谷口亀三上水の安否を気づかうが、激闘のさなかであり、どうすることもできないのがうらめしい。」
 

坪井平次著『戦艦大和の最後』(光人社 1999年)P211−212
 坪井さんは、沖縄特攻当時、2等兵曹。大和の右舷にあった5番高角砲の信管手でした。信管手というのは、発砲間際の高角砲弾の砲弾頭にある信管に、炸裂するまでの時間をセットする係です。高角砲射撃指揮所から送られてくるデータに応じて、タイムをセットしました。
 一つの高角砲には、12名が勤務していました。

 
坪井さんは、三重県師範学校(現三重大学教育学部)の出身で、卒業後1年間教師を務めたあと、徴兵によって海軍に入りました。
  師範学校(当時としては高学歴)を卒業し教師になっていた人たちは、同じく徴兵されても、「師徴兵」(師範徴兵の略語)と特別に呼ばれました。普通の兵隊とは扱いが違い、3か月の短い訓練期間で勤務に就き、階級も早くあがりました。
 
坪井さんは戦後、三重県に戻って教職に復帰され、教頭・校長も歴任されました。


 アメリカ空母機動部隊艦載機は、大和を攻撃するに当たって、特に魚雷攻撃を大和の左舷に集中しました。
 大和のダメージコントロール(命中弾を受けた際の復旧手順)は、もし左舷に魚雷を受けて浸水したら、右舷側にわざと注水して、傾きを水平に保つ注排水システムをメインとしていました。

 同じ魚雷を2本命中させたとして、右舷と左舷に1本ずつでは、仮に1本で100トンの浸水を引き起こしたとしても、右左、それぞれ100トン、合計200トンの浸水でしかありません。

 ところが、もし左舷ばかりに2本魚雷を受け合計200トンの浸水があったとすると、水平を保つためには、右舷側に200トンの注水が必要となります。つまり、合計400トンの水を飲ませることになるのです。左舷なら左舷ばかりをねらうのは、同じ命中魚雷で大きな効果をねらったものでした。

 雷撃機が左舷側をねらえば、魚雷・機銃掃射によって、左舷側の高角砲、機銃群の被害が大きくなります。
 上記の引用文は、その状況を説明していることになります。


 ちょっと閑話休題です。

 映画「男たちの大和YAMATO」のヒットによって、いろいろな商品が売られました。
 下の商品は、普通のコンビニで売っているフィギュアです。左の箱は、「
亡国のイージス」。そして右が、「男たちの大和YAMATO」です。
 
 面白いのは中味です。いずれも簡単な組み立てキットですが、 「亡国のイージス」は、すぐそれと分かるイージス艦です。
 「男たちの大和YAMATO」のキットはなんだか分かりますか? 


 組み立てたものの写真が、下の写真です。

 なんと、甲板上の
25mm3連装機銃です。
 左側は甲板上のむき出しの銃座、右側は、シールドがある銃座です。
 戦艦大和本体や護衛艦ならともかく、こんな軍艦のひとつのパーツまでフィギュアになるのは、さすが映画のヒットがあってこそです。


 下の写真は、尾道の大和セットの機銃群及び高角砲群です。セットの説明はこちらです。


 これらの機銃群が大和沈没直前にどうなっていたかは、次のように描写されています。

「 大和の甲板上に設置された無数の機銃は、先ほどまでのあのけたたましく威力をしめしたのも忘れたかのように、その大半が赤く茶色に焼きついて、しかも、ぐんにゃり曲がってしまっていた。
 撃ちつづけたために、熱で曲がってしまったのか、爆弾で曲がってしまったのか。いずれにしても、そこには射手はおらず、まだ硝煙が立ちのぼっているさまは、あまりにもわびしくあわれであった。」

小林健著「戦艦大和主砲指揮所に地獄を見た」『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション』(光人社 1989年)P55
 
小林さんは、岐阜県出身で沖縄特攻当時、艦橋の主砲射撃指揮所(方位盤射撃室)の弾着修正係でした。射撃指揮所は、艦橋の最上階にあり、このページの上で引用した、八杉康夫氏の測距室はその下に当たります。(下の写真参照) 

【追加記述】2006年3月16日
 上記の引用をさせて頂いた、小林健さんについてお話しさせて頂きます。
 
小林さんは、岐阜師範学校(現岐阜大学教育学部)を卒業後、教師として満州に渡って教壇に立っていたところ1944年5月に招集され、21歳で大和に乗艦されました。

 上で引用した、三重県出身の
坪井平次さんと同じ、「師徴兵」ということになります。ただし、出身地が違いますから、乗艦当時お互いには面識はなかったと思われます。

 
小林さんは、戦後岐阜県に帰って中学校の教員となり、多治見市立陶都中学校の校長を経て、土岐市教育委員会の教育長を務められました。
 教員になってからも長く、自分が大和の乗組員であったことを伏せておられましたが、陶都中学校長の時の1977年、はじめて、手記「戦艦大和の最後」を自費出版で発表されました。(現在も岐阜県図書館に所蔵されています。)
 同年11月30日の『岐阜日日新聞』・『中日新聞』などに、「多治見の中学校長、貴重な生き証人」と紹介の記事が載っています。上記の「戦艦大和主砲指揮所に地獄を見た」は、その手記を一部修正して、『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション』に所収したものです。

 土岐市教育委員会教育長を退任された1992年からは、「語り部」としてそれまで以上に積極的に、「大和の最後」を各地で講演されました。
 「今、伝えなければ体験者がいなくなってしまう。使命だから」と言っておられたとのことです。

 2005年12月12日には、「男たちの大和YAMATO」の試写会が慶應義塾大学三田キャンパスで行われ、小林さんは、出演者の松山ケンイチさん、蒼井優さん、崎本大海さんともに招かれました。
 上演後、小林さんや出演者と来場者が質疑応答する場が設けられました。
 その中で、
小林さんは一つ一つの質問に熱心に耳を傾け、当時米軍によって撮影された大和の写真などを用いて質問に答えられたそうです。
 ※慶應義塾生新聞のサイトから。こちらです。http://www.jukushin.com/article.cgi?h-20060103

 奇しくも、私がこのページを掲載した翌日、
2006年3月13日に、小林さんはご逝去されました。82歳とのことです。謹んでご冥福をお祈りします。
(小林さんのご逝去は、『中日新聞』2006年3月16日朝刊で確認しました。) 

<大和艦橋トップの配置> A・・主砲射撃指揮所(方位盤射撃室) B・・測距室

この写真は、広島県呉市の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)にある戦艦大和の10分の1復元模型の艦橋部分です。


 戦死者その2 艦とともに                           | このページの先頭へ |

 第2は、沈没時に、艦内に閉じこめられて艦とともに沈んだ、配置が艦内奥深くの乗組員です。
 

 大和に乗艦していた乗組員の生還率は、僅かに8.0%です。(このページの先頭の表9を参照)
 同じく沈没した
駆逐艦浜風生還率は、71.9%です。大きな違いとなっています。

 この差はどうして生じたのでしょう?

 これは、戦艦と駆逐艦の艦体の大きさの違いと思われます。
 駆逐艦浜風は、アメリカ軍機の攻撃開始後、僅か15分で魚雷を受けて沈没してしまいましたから、助けられた乗員は救助される夕方まで6時間から7時間近く漂流していたわけです。
 それでも、駆逐艦初霜が浜風乗組員救助のため大和沈没海面から北上して浜風沈没海面まで戻り、多くの漂流者を助け上げることに成功しました。
 これは、356人の乗組員の多くが、とりあえず艦から脱出し、海面に漂うことができたことが大きな理由と推定できます。

 軽巡洋艦矢矧の場合、
生還率は53.0%です。
 大和沈没の20分ほど前まで、大和と同じくアメリカ軍機と激闘を演じ、多くの人員が艦上で倒れたにもかかわらず、比較的高い生還率です。

 となると、戦艦大和の場合は、その巨体故、沈没時に多くの人員がそのまま艦内に残されてしまったということがいえるでしょう。
 
 軍隊では、戦闘中、命令がなければ各自の持ち場を離れることができないことは、いうまでもありません。
 海軍では、いよいよ艦が沈むという時には、事前にそれが察知できる場合は、「
総員最上甲板」という号令がかかります。
 軍艦ですが、「退艦または退去」とはいわずに、「総員上甲板」です。つまり、船の内部にいる乗組員に、各自の持ち場を離れて、一番上の甲板にあがってこいという命令です。もちろん、もうすぐ沈むから早く逃げろというのと同じ意味です。

 しかし、そもそも沈没に至るような被害を受けた状態の戦艦で、どのくらい、艦の隅々まで、「
総員最上甲板」の命令が伝わるか疑問です。
 また、仮に伝わったとしても、艦体の破壊や浸水によって、脱出ができなかった乗員も多かったことでしょう。

 以下に示すように、大和の場合、「
総員最上甲板」から沈没まで僅か5分でした。 


表10 
攻撃開始から沈没までの大和の状況
12:32 アメリカ海軍第58・1機動部隊艦載機襲来。
12:41 後部艦橋に爆弾2発命中。後部射撃指揮所全滅等の最初の被害発生。
12:45 左舷に魚雷1本命中。(最初の被雷)
13:37 左舷中部に魚雷3本命中。
13:38 左舷への傾斜15度に。しばらくして右舷への緊急注水によって回復。
13:44 左舷中部に魚雷2本命中。再び左に傾斜。
14:02 左舷中部に爆弾3発命中。高角砲群潰滅。傾斜15度、速力18ノット。
14:07 右舷中部に魚雷1本命中。
14:12 左舷中部・後部に魚雷2本命中。
14:17 左舷中部に魚雷1本命中。すぐ左舷への傾斜、20度以上に。
このあと、「総員上甲板」の命令発せられる。
14:23 大和転覆、大爆発の後、沈没。

 艦内では、艦内部に取り残される乗組員と、うまく脱出できる乗組員と、明暗が分かれました。
 先に引用した、艦橋トップの主砲射撃指揮所(方位盤射撃室)にいた
小林さんは、次のように回想しておられます。

「 第六波、第七波が、相ついで来襲し、たてつづけに数多くの爆弾、魚雷が命中したときをさかいに、「大和」の左への傾斜は目に見えて、大きくなっていった。
「艦橋! だいぶ傾いているが、大丈夫か!」
 
発令所の分隊士の声が、私の目の前の伝声管を通してとび上がってきた。私は、このとき、なんと答えたらよいのか、まよってしまった。
 「大丈夫、大丈夫と答えよ!」
 私のすぐ後方に腰かけて、望遠鏡をにらんでいた
村田大尉がさけんでいる。私は、すかさず、
 「大丈夫ですー」
 と大声をはり上げる。しかし、このとき、「大和」の傾斜は35度にもたっしていたのであった。」

小林健前掲著「戦艦大和主砲指揮所に地獄を見た」『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション』P49
 小林氏の配置部署は、艦橋トップの射撃指揮所です。ここには、12人の人員が配置されていました。

 すでに「戦艦大和神話」その3「46センチ主砲とアウトレンジ」で説明しましたが、主砲の射撃は、測距儀によって測距(この担当部署に上述の八杉さんがいる)されたデータを
射撃指揮所にある方位盤に取り込んで、ここで方位盤射手(村田大尉)が双眼鏡を覗いてねらいを付け、引き金を引くことによって行われます。

 いまならレーダーの情報をコンピュータが処理してミサイル発射ということになるのですが、当時はコンピュータはありません。測距されたデータや方位盤の情報は、すべてアナログによって処理されました。つまり、データの変化を示す目盛りに担当係が一つ一つ大砲側の操作をあわせるように処理していくという、人力操作と歯車によって処理されていたのです。

 そのデータを処理するのが、艦橋の真下にある、
射撃盤を備えた発令所(主砲発令所)です。

 精密な機械で主砲射撃処理の心臓部ですから、敵の攻撃によって損害を受けないように、艦の中心部に設置されていました。そして、ここには、なんと200人もの人員が
射撃盤を操作していたのです。


図12 
主砲射撃指揮所(方位盤)と発令所(射撃盤)



 ところで、戦艦内も軍隊ですから、命令が上から下に行き届くように、縦割りの組織になっています。艦内の人員は、いくつかの分隊に別れていました。そのひとつに第9分隊というのがあって、主砲射撃が任務でした。
 つまり、第9分隊は、艦橋トップにいる方位盤射手を始めとする方位盤担当の12人と、艦橋下の艦の中心部にいる射撃盤を担当する200人によって構成されていました。

 さて、艦の中心部の200人には、艦の外の様子はまったく分かりません。
 そこで、自分たちと同じ分隊の射撃指揮所に、「艦が傾いているがどうなっているのか」と非公式に尋ねてきたわけです。

 
 話は、さらに続きます。

「 このとき突然、あたりの静寂をやぶって、意外な号令が流れとんだ。
総員、退避! 上甲板ー
 生きている者、動ける者はすべて上甲板へ集まれ! そして退避せよとの命令だったのである。
この命令が出るまでは、どんなことがあっても自分の配置を離れることは許されなかったのだが、ついに、来るべきものがきてしまったのだ。「大和」をすてて、逃げる用意をせよというのだ。

 撃ちつづけた機銃や高角砲の音にかわって、戦闘を中止した人たちが、気でも狂ったように、そして、それを唱えることによって、自分が救われると思うらしく、なにやら大声でロぐちに叫びながら、みずからの配置から離れていくのであった。
 この最後の号令を発すべく判断、決意をされた長官や艦長の胸中は、いかばかりであったろう。
そしていま、この号令が発せられて、はたして艦内のどこまで、徹底することができるであろう。

 私が指揮所をはなれて外へ出ようとしたとき、発令所からのブザーが鳴り、伝声管から悲痛な叫び声がとんできた。
「上の方はどうだ。大丈夫か。傾斜が大きいぞ!」
 艦内にいる人たちには、外のもようはまったくわからないのだ。わかるのは艦のかたむきと、自艦に起こる振動だけであった。
 
 私はこのとき、艦内にいる、しかも同じ第九分隊の人たちになんと答えたらよいのか、またまた答えにまよってしまった。
「大丈夫、大丈夫!」と答えて、安心させながら、自分たちだけが待避することになるのか。かりに私だけが上甲板へ退避したところで、おなじ艦上にいて、助かる保証は何もないのだが…。

 それとも、「総員退避、上甲板!」を伝えればよいのか。かりにそう伝えたとしても、いまとなってほ艦内にいる人たちは、もはや上甲板へ出るすべはないのである。なぜなら、それぞれ厚い鉄板でとざされ、しかも、艦が左へ傾いたため、その入口の鉄扉は右開きとなっていて、とうてい、一人や二人で開けられるものではないからである。

 各主砲配置についてもまったくおなじことがいえた。艦が右へ傾いていると、入口の扉は開きやすく、外部へ出ることは可能であったろうが、右開きでは、五人や十人の力でかんたんに開く扉ではなかったのである。ここに宿命的な運命の分岐点があったといえよう。
 私は寸時の躊躇のあと、こう叫んでいた。
「総員、退避!上甲板!」
 
 どうか、なんとかして一人でも多く、上甲板まではいあがってきてほしいと強く、つよく願いながら・・・・。そして、そのまま外へとび出していった。まだ何か、もっと子細を聞きたかったであろうに、助かるすべはないかを指示してはしかったであろうに、しかしこれ以上、トップにいることは私自身にもゆるされなかった。
 これが第九分隊発令所員との最後の訣別となってしまった。なんとも残酷なことであるが、艦内にいる何百人の人たちは、「大和」とともに沈むよりほかに、なにひとつ方法はなかったのである。
 もう少し、この命令がはやく出ていたら−しかし、あとの祭りであった。」

小林健前掲著 P51-53


 戦艦が沈む場合、どの場合でも、大和のように、生還率は10%を切って8%にも低くなってしまうのかというと、必ずしもそうではありません。

 1944年10月24日、大和の姉妹艦
武蔵が、レイテ沖海戦の本番前に、フィリピンのシブヤン海で沈みました。大和と同じ、アメリカ空母機動部隊艦載機による航空攻撃によってです。

 しかし、大和の場合と違って、乗組員2959命中、約1650人ほど乗組員が数時間の漂流の後救助されました。大和と違って、
武蔵生還率は55%程になります。
 この理由としては、次のものが考えられます。

  1. 最初の攻撃を受けたのが10:26、最後の攻撃(この日の第5波)の終了が15:45ごろと、比較的間合いのある攻撃でした。

  2. 最終の攻撃の終了(15:45頃)から沈没(19:35)まで、4時間ほどの時間があり、負傷者の搬出等、艦内の秩序を維持するための時間が十分あったと考えられます。

  3. 艦長の「総員退去用意」の命令を受けて副長が「総員後甲板」(前部の浸水がひどく艦首は前甲板は波に洗われていました)の発令が19:15過ぎで、沈没が19:35と少し間合いがありました。 大和と違って、集まった乗組員に副長の挨拶があり、ちゃんと「軍艦旗おろし」の号令がかかり(艦尾にある軍艦旗を降ろす作業です)、君が代のラッパの音が鳴り渡ったと証言されています。救助者の中には、機械室や缶室など、船体下部の配置のものも含まれており、脱出に時間的余裕があったことが分かります。もちろん、大和と違って、主砲発令所の人員も、分隊長以下多数の人人員が脱出に成功しています。

  4. 漂流者は、大和と同じく、沈没後3時間から4時間後も漂流したのち、救助されました。時間的には、真夜中近くにです。それでも、武蔵の場合は10月のフィリピンの海、大和の場合は、4月の九州沖合です。海水の温度の違いも、生還率に影響したと思われます。 

豊田穣著『豊田穣文学戦記全集 第4巻』(光人社 1992年)P401−P488
塚田義明著『戦艦武蔵の最後』(光人社 1994年)P219−230

ただし、
武蔵の乗組員総数、生還者総数には、各種資料によって大きな違いがあります。たとえば、大岡昇平著『レイテ戦記』には、乗組員総数約2400のうち、戦死1039名となっています。(中公文庫版 1974年 P189)
この数字でも、
生還率は、56%程になります。武蔵の生還率は、一つの目安として提示程度にとどめます。


 ちなみに、イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズの場合は、もっと多くの生還率を記録しています。
 日本海軍航空隊によって、開戦から僅か3日目の1941年12月10日に撃沈されたこの戦艦の場合、乗組員総数1612名のうち、戦死者327名、生存者1285名で、
生還率は79.7%にもなります。
 
 この艦の場合、12:45に攻撃を受け始め、最後の爆弾命中が14:13、沈没が14:50と、大和以上に短時間の攻撃での沈没でした。
 しかし、沈没間際まで、護衛の駆逐艦が横付けして直接移乗によって乗員の救助に当たったこともあって、たくさんの人員を救うことができました。

豊田穣著『マレー沖海戦』(講談社 1982年)P347−P368


 さて、このページもずいぶん長くなってしまいましたので、ここらで終わりにします。

 まだこのあと、大和が沈む時の乗員の脱出や爆発の話をして、そして、
漂流者への銃撃になります。タイトルの「人種差別はいつだ」といわれますと、「もうちょっと先です」としかいえません。(^_-)

 いつものペースです。気長におつきあいください。


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