艦内では、艦内部に取り残される乗組員と、うまく脱出できる乗組員と、明暗が分かれました。
先に引用した、艦橋トップの主砲射撃指揮所(方位盤射撃室)にいた小林さんは、次のように回想しておられます。
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「 第六波、第七波が、相ついで来襲し、たてつづけに数多くの爆弾、魚雷が命中したときをさかいに、「大和」の左への傾斜は目に見えて、大きくなっていった。
「艦橋! だいぶ傾いているが、大丈夫か!」
発令所の分隊士の声が、私の目の前の伝声管を通してとび上がってきた。私は、このとき、なんと答えたらよいのか、まよってしまった。
「大丈夫、大丈夫と答えよ!」
私のすぐ後方に腰かけて、望遠鏡をにらんでいた村田大尉がさけんでいる。私は、すかさず、
「大丈夫ですー」
と大声をはり上げる。しかし、このとき、「大和」の傾斜は35度にもたっしていたのであった。」 |
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小林健前掲著「戦艦大和主砲指揮所に地獄を見た」『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション』P49
小林氏の配置部署は、艦橋トップの射撃指揮所です。ここには、12人の人員が配置されていました。
すでに「戦艦大和神話」その3「46センチ主砲とアウトレンジ」で説明しましたが、主砲の射撃は、測距儀によって測距(この担当部署に上述の八杉さんがいる)されたデータを射撃指揮所にある方位盤に取り込んで、ここで方位盤射手(村田大尉)が双眼鏡を覗いてねらいを付け、引き金を引くことによって行われます。
いまならレーダーの情報をコンピュータが処理してミサイル発射ということになるのですが、当時はコンピュータはありません。測距されたデータや方位盤の情報は、すべてアナログによって処理されました。つまり、データの変化を示す目盛りに担当係が一つ一つ大砲側の操作をあわせるように処理していくという、人力操作と歯車によって処理されていたのです。
そのデータを処理するのが、艦橋の真下にある、射撃盤を備えた発令所(主砲発令所)です。
精密な機械で主砲射撃処理の心臓部ですから、敵の攻撃によって損害を受けないように、艦の中心部に設置されていました。そして、ここには、なんと200人もの人員が射撃盤を操作していたのです。
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図12 主砲射撃指揮所(方位盤)と発令所(射撃盤)
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ところで、戦艦内も軍隊ですから、命令が上から下に行き届くように、縦割りの組織になっています。艦内の人員は、いくつかの分隊に別れていました。そのひとつに第9分隊というのがあって、主砲射撃が任務でした。
つまり、第9分隊は、艦橋トップにいる方位盤射手を始めとする方位盤担当の12人と、艦橋下の艦の中心部にいる射撃盤を担当する200人によって構成されていました。
さて、艦の中心部の200人には、艦の外の様子はまったく分かりません。
そこで、自分たちと同じ分隊の射撃指揮所に、「艦が傾いているがどうなっているのか」と非公式に尋ねてきたわけです。 |
話は、さらに続きます。
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「 このとき突然、あたりの静寂をやぶって、意外な号令が流れとんだ。
「総員、退避! 上甲板ー」
生きている者、動ける者はすべて上甲板へ集まれ! そして退避せよとの命令だったのである。
この命令が出るまでは、どんなことがあっても自分の配置を離れることは許されなかったのだが、ついに、来るべきものがきてしまったのだ。「大和」をすてて、逃げる用意をせよというのだ。
撃ちつづけた機銃や高角砲の音にかわって、戦闘を中止した人たちが、気でも狂ったように、そして、それを唱えることによって、自分が救われると思うらしく、なにやら大声でロぐちに叫びながら、みずからの配置から離れていくのであった。
この最後の号令を発すべく判断、決意をされた長官や艦長の胸中は、いかばかりであったろう。
そしていま、この号令が発せられて、はたして艦内のどこまで、徹底することができるであろう。
私が指揮所をはなれて外へ出ようとしたとき、発令所からのブザーが鳴り、伝声管から悲痛な叫び声がとんできた。
「上の方はどうだ。大丈夫か。傾斜が大きいぞ!」
艦内にいる人たちには、外のもようはまったくわからないのだ。わかるのは艦のかたむきと、自艦に起こる振動だけであった。
私はこのとき、艦内にいる、しかも同じ第九分隊の人たちになんと答えたらよいのか、またまた答えにまよってしまった。
「大丈夫、大丈夫!」と答えて、安心させながら、自分たちだけが待避することになるのか。かりに私だけが上甲板へ退避したところで、おなじ艦上にいて、助かる保証は何もないのだが…。
それとも、「総員退避、上甲板!」を伝えればよいのか。かりにそう伝えたとしても、いまとなってほ艦内にいる人たちは、もはや上甲板へ出るすべはないのである。なぜなら、それぞれ厚い鉄板でとざされ、しかも、艦が左へ傾いたため、その入口の鉄扉は右開きとなっていて、とうてい、一人や二人で開けられるものではないからである。
各主砲配置についてもまったくおなじことがいえた。艦が右へ傾いていると、入口の扉は開きやすく、外部へ出ることは可能であったろうが、右開きでは、五人や十人の力でかんたんに開く扉ではなかったのである。ここに宿命的な運命の分岐点があったといえよう。
私は寸時の躊躇のあと、こう叫んでいた。
「総員、退避!上甲板!」
どうか、なんとかして一人でも多く、上甲板まではいあがってきてほしいと強く、つよく願いながら・・・・。そして、そのまま外へとび出していった。まだ何か、もっと子細を聞きたかったであろうに、助かるすべはないかを指示してはしかったであろうに、しかしこれ以上、トップにいることは私自身にもゆるされなかった。
これが第九分隊発令所員との最後の訣別となってしまった。なんとも残酷なことであるが、艦内にいる何百人の人たちは、「大和」とともに沈むよりほかに、なにひとつ方法はなかったのである。
もう少し、この命令がはやく出ていたら−しかし、あとの祭りであった。」 |
戦艦が沈む場合、どの場合でも、大和のように、生還率は10%を切って8%にも低くなってしまうのかというと、必ずしもそうではありません。
1944年10月24日、大和の姉妹艦武蔵が、レイテ沖海戦の本番前に、フィリピンのシブヤン海で沈みました。大和と同じ、アメリカ空母機動部隊艦載機による航空攻撃によってです。
しかし、大和の場合と違って、乗組員2959命中、約1650人ほど乗組員が数時間の漂流の後救助されました。大和と違って、武蔵の生還率は55%程になります。
この理由としては、次のものが考えられます。
最初の攻撃を受けたのが10:26、最後の攻撃(この日の第5波)の終了が15:45ごろと、比較的間合いのある攻撃でした。 最終の攻撃の終了(15:45頃)から沈没(19:35)まで、4時間ほどの時間があり、負傷者の搬出等、艦内の秩序を維持するための時間が十分あったと考えられます。 艦長の「総員退去用意」の命令を受けて副長が「総員後甲板」(前部の浸水がひどく艦首は前甲板は波に洗われていました)の発令が19:15過ぎで、沈没が19:35と少し間合いがありました。
大和と違って、集まった乗組員に副長の挨拶があり、ちゃんと「軍艦旗おろし」の号令がかかり(艦尾にある軍艦旗を降ろす作業です)、君が代のラッパの音が鳴り渡ったと証言されています。救助者の中には、機械室や缶室など、船体下部の配置のものも含まれており、脱出に時間的余裕があったことが分かります。もちろん、大和と違って、主砲発令所の人員も、分隊長以下多数の人人員が脱出に成功しています。 漂流者は、大和と同じく、沈没後3時間から4時間後も漂流したのち、救助されました。時間的には、真夜中近くにです。それでも、武蔵の場合は10月のフィリピンの海、大和の場合は、4月の九州沖合です。海水の温度の違いも、生還率に影響したと思われます。
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豊田穣著『豊田穣文学戦記全集 第4巻』(光人社 1992年)P401−P488
塚田義明著『戦艦武蔵の最後』(光人社 1994年)P219−230
ただし、武蔵の乗組員総数、生還者総数には、各種資料によって大きな違いがあります。たとえば、大岡昇平著『レイテ戦記』には、乗組員総数約2400のうち、戦死1039名となっています。(中公文庫版 1974年 P189)
この数字でも、生還率は、56%程になります。武蔵の生還率は、一つの目安として提示程度にとどめます。 |
ちなみに、イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズの場合は、もっと多くの生還率を記録しています。
日本海軍航空隊によって、開戦から僅か3日目の1941年12月10日に撃沈されたこの戦艦の場合、乗組員総数1612名のうち、戦死者327名、生存者1285名で、生還率は79.7%にもなります。
この艦の場合、12:45に攻撃を受け始め、最後の爆弾命中が14:13、沈没が14:50と、大和以上に短時間の攻撃での沈没でした。
しかし、沈没間際まで、護衛の駆逐艦が横付けして直接移乗によって乗員の救助に当たったこともあって、たくさんの人員を救うことができました。
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豊田穣著『マレー沖海戦』(講談社 1982年)P347−P368
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