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戦艦大和について考える17
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認 その14漂流者銃撃と「人種差別」4
 06/04/17記述 10/06/20追加記述
 アメリカ民主主義の限界                                   | このページの先頭へ |

 大和の沈没から、話はずいぶん遠いところまで来てしまいました。
 このページで、一応の結論に到達するはずですから、おつきあいを願います。

 日本人がイギリス人、アメリカ人を「鬼畜米英」と呼んで、敵愾心を高めたのに対して、イギリス人、アメリカ人は太平洋戦争中に日本人をどう見ていたか、とりわけ、戦後、占領によって日本に「民主主義をもたらしたアメリカ人」は、日本人をどう見ていたか。
 正直言って、普通に戦後の「民主主義」教育の中で、どちらかといえば、新自由主義史観から「自虐史観」と批判されている内容の要素が強い授業で学習してきた私は、普通に、次のように思っていました。
 「日本人は軍国主義や国家主義を信奉して戦争を起こした悪い国、アメリカは、その日本を倒し、再生させたいい国」。
 
 私たちの小学校時代まで(つまり、1960年代の半ばまで)は、アメリカは絶対の存在であり、疑いのない「世界の正義」でした。
 しかし、よく考えてみれば、
「栄光あるアメリカ」の真実は、ベトナム戦争における残虐行為や公民権運動で明らかとなったアメリカ本国における黒人差別において示されたように、人種的偏見や差別に満ちたものでした。
 
 東南アジアの諸民族や黒人を差別する国が、本当は日本人をどう思っていたのか?日本人にはぞっとする問題です。
 


 「アーロン収容所」 イギリス人の日本人観                | このページの先頭へ |

 その問題の答えになるものが、高校時代に読んだ本の一節に示されていました。太平洋戦争中のイギリス人が、日本人をどのように見ていたかという記述です。
 
会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書 1962年)のP39の有名な一節です。 (以下の引用では、改行や、太字での強調は引用者が施しました。)

 この本は、私たちの年齢以上の世代には、かなり有名な本ですが、若い人には古典となってしまっていて、知らない方も多いでしょうから、ちょっと解説します。
 
会田雄次さんは、1916年生まれで、1937年京都帝国大学文学部史学科を卒業後、大学の講師をしていて、1943(昭和18)年、27歳の時に招集を受けました。翌1944年3月、第53師団第128連隊の一兵卒としてビルマ戦線に着陣します。
 ビルマでは、この直後、無謀な作戦として有名なインパール攻略作戦が失敗に終わり、日本軍の撤退に乗じてイギリス軍の総反撃がはじまります。日本軍はこれを防ぎきれず、戦線は全ビルマにおいて崩壊し、総退却となります。
 会田氏の所属した第53師団は旧式装備の旧編成師団で、勢いに乗るイギリス軍機甲部隊を防ぎ切れるわけもなく、メークテーラ付近での初戦から敗北し、南に向かって退却します。
 1945年8月には
シッタン川河口付近で対陣中に終戦となり、降伏し捕虜となりました。1947年5月の帰国まで、1年9か月間の捕虜生活を送り復員しますが、その間の捕虜生活の回顧録がこの本です。
 会田氏は戦後は京都大学教授などとして活躍され、1997年になくなっています。西洋史(ルネッサンス史)が専門でした。 

 収容所の兵士たちは、ただ収容されているのではなく、一般的には労働を課せられます。
 
ビルマのラングーン(現在はミャンマーのヤンゴン、ここでは旧名称を使用)にあったアーロン収容所でもいろいろな労働がありました。

 そのうち、捕虜の将兵がいちばん屈辱感を感じるのが、英軍兵舎の掃除でした。しかも、現在の想像からは意外なことに、女性兵士の兵舎の掃除に最大の屈辱感を感じる場面があったのです。
 お待たせしました。次の引用部分です。

 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。 

 これだけ読むと、イギリス人女性は何と大胆なんだろうと思ってしまいますが、現実には彼女たちは、「大胆」とは異なる感情を持っていました。


NASAのWorld Windの画像から作製。 

 続きです。

 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。 

会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書 1962年)P39

 つまり、イギリス人女性は大胆でもなんでもなく、会田さんたち日本人を人間としてみていないから、「平気」だったというのです。

 つまり、極端なたとえ話をすれば、現代の日本人の女性なら、裸でいるところへ男性が入ってくれば、どこの国の男性だろうと、「キャー」となるでしょう。
 しかし、もし侵入者が、いつも見慣れている隣の家の飼い猫タマ(オス)なら、ちょっと驚きはしますが、「キャー」とはならないでしょう。これと同じです。
 イギリス人女性にとって、日本人とはそう言う存在だったのです。

 会田さんは、続く部分で、次のように説明しておられます。

 ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯をしていたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ。
「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっばだかか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてよったがまる見えや。けど、そんなことどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほりこみやがって、しかもズロ−スや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしつまんで水につけて、そのま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」
 のみとかんな以外持ったことはないのを自慢のNさんは、洗濯さえもがこの上ない屈辱である。
無念やるかたない表情であった。みんな笑ったり、怒ったりしながら、しかし、しきりに彼をうらやましがった。私も大変なまめかしい場面を想像したのだが、実際に自分が出会ってみればなまめかしいどころではない。N兵長と同じように「そんなことどうでもよい。向うの気が癪なのや」と叫びたくなったのである。下着を洗わせるということではない。その態度なのだ。ニコリとぐらいしてみてもよさそうだ。
 もちろん、相手がビルマ人やインド人であってもおなじことだろう。
そのくせイギリス兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛橋がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人ほあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない。
 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコを与えるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。

会田雄次前掲著 P40−42


 アメリカの日本軍・日本人研究とその結論                  | このページの先頭へ |

 アメリカ人の日本人観は、太平洋戦争期をつうじて、細かく見ればいろいろ変化します。しかし、ひとつだけ一貫していた点がありました。それは、「自分たちと同じ人間である」という視点が欠けているという点でした。

このページの以下の記述は、基本的には、ジョン・W・ダウアー著、猿谷要監修、斉藤元一訳『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』(平凡社ライブラリー版 2001年 英語オリジナル版の発刊は1987年、日本語初版は1988年)を参考にしています。

 戦争の各段階におけるアメリカ人の日本人観は、概ね次のように分類できると思います。

1 太平洋戦争開戦時

 アメリカ人全般に日本人を始めとする東アジア人への知識は非常に乏しく、まったくの偏見と差別感に満ちたものであった。
 たとえば、目が細くしかも眼鏡を欠けている日本人が多いところから、「
日本人は全体に視力が弱く、飛行機の操縦はできない」と信じられていました。
 このため、真珠湾が襲われた時も、アメリカ軍将兵の多くはその空襲がどこの軍隊によって行われているか半信半疑の状態で、「
ドイツ軍機が日の丸を付けて来襲した」とかの噂も流れました。また、最終的に、アメリカ軍司令部は「これは演習ではない」という通達を発しているほどです。
 こういう差別感に基づく無知は、日本人側ももっていました。
 たとえば、日本海軍は、「
アメリカ人は個人主義で欲望を抑えきれず非常に軟弱であるため、アメリカ海軍潜水艦隊は長期の任務に堪えられない」と信じ、アメリカ海軍潜水艦隊のポテンシャルを極度に軽く評価してしまっていました。

2 太平洋戦争開戦後日本軍の快進撃が続く期間

 開戦当初、東南アジアの植民地に展開していた、イギリス・アメリカ・オランダ軍は、日本軍によって短期間のうちに敗北に追い込まれました。
 その理由は、中国戦線を戦ってきた日本軍と比べ実戦経験に乏しく、各戦線に置いて、戦闘意欲も旺盛ではありませんでした。また、海軍の各種兵器や艦船、戦闘機など一部の兵器については日本軍の方が優位にあったことも事実でした。
 このため、アメリカ軍兵士の中には、
日本兵に対する恐怖心とともに、日本人は人間の感情を持たない非人間であるとの見方が広がります。これは、決して尊敬の念を込めた言い方ではなく、まるで猿のようにジャングルの中を移動し、食べるものも食べないで戦いを続行できるという、人間以外の存在という意味での、非人間でした。

3 アメリカ軍(連合軍)が優勢となった時期

ガダルカナル戦あたりまでは、日本軍に対する恐怖や怯えが存在していました。しかし、開戦から1〜2年の間に、アメリカ本国政府では、「日本軍とは何か、日本人とは何か」についての研究が十分になされ、反攻開始と同時に、それに基づくプロパガンダ(宣伝)がはじまります。
 この研究には、政治家、歴史学者、社会学者、民俗学者、心理学者なども多数動員されました。このあたりが、英語を適性英語として、軍の学校を始め中等・高等教育において英語学習を禁じてしまった日本政府の狭量さとは、ずいぶん違います。
 この研究者の中には、戦後1946年に、西洋における日本研究の名著と評価される
『菊と刀 日本文化の型』を著したルース・ベネディクトも含まれていました。
 これらの専門的研究の中からは、たとえば、戦後の天皇の処分について、「日本統治を進めるためには天皇制を継続させるべきである」などの、社会科学的にきわめて優れた分析・結論も生まれました。
 しかし、結果的には、研究の多くは、
日本人の生得的残虐性、原始性、異常性、幼児性など、民族として劣っていること、換言すれば、絶滅すべき存在であるとの方向へ結論を導くことに作用しました。

 太平洋戦争期のアメリカ人の日本人観について、ジョン・W・ダウアーは次のようにまとめています。

「アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の 「ヒトより下等」な側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画製作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しょうとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。戦いのごく初期に、劣等であったはずの日本人が旋風のようにアジア植民地を進撃し、数十万に及ぶ連合軍兵士を捕虜にすると、また別のステレオタイプが生まれた。すなわち異常な規律と戦闘技術をもつ日本人超人のイメージである。ヒトより下等、非人間、劣等人間、超人間−−これらにはすべて敵の日本人も自分たちと同じ人間であるという観念が欠落している。残虐行為から特攻戦術にいたる事実が、日本人はとりわけ卑しむべき恐ろしい敵であり、容赦なく一掃すべきであるという主張を裏づける証拠として使われた。」

ジョン・W・ダウアー前掲著『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』P42−43


 「kill Japs,kill more Japs」ウィリアム・ハルゼー提督       | このページの先頭へ |

 上述のプロパガンダに加え、日本への反抗を進めるアメリカ軍の指揮官たちの「士気を鼓舞する」言動も、日本人への差別感を具体的に表したものでした。
 その代表例が、ウィリアム・ハルゼー提督の次の行為です。
 提督は、ガダルカナル島の攻防戦に勝利したあと、ソロモン群島において反攻線を開始する際、同群島のツラギ島(ガダルカナル島の対岸、アメリカ軍海軍基地がある島)に次の看板を掲げさせました。
【追加記述】 以下の引用は、2010年6月20日に追加記述しました。 

上の文言は、次の書物から引用(復原)しました。当初この文言がどういう形で流布していったのか分かりませんでしたが、同書に詳しく説明してあります。
エヴァン・トーマス著 平賀秀明訳 『レイテ沖海戦 1944 日米四人の指揮官と艦隊決戦』(白水社 2008年)

 ヨーロッパ戦線においては、アメリカの主たる敵はドイツ軍でしたが、ドイツ民族に対しては、アメリカは日本人に示すようなむき出しの敵意と差別感は示しませんでした。
ジョン・W・ダウアーは次のように指摘しています。

「第一の、暴虐のかぎりをつくしたドイツ人以上に日本人が憎悪の対象となったのはなぜかという問いに対する答えが、人種的要因に負うところが多いのは確かであるが、それは見た目よりはもっと複雑な背景をもっている。ドイツ人の残虐行為は古くから知られ非難されていたが、そうした中でも、良いドイツ人と悪いドイツ人は明確に区別されており、連合国側は残虐行為を「ナチス」犯罪と称し、ドイツ文化や国民性に根ざす行為とは見なさなかった。それ自体は合理的姿勢であったといえるだろうが、首尾一貫していたわけではなかった。というのは、アジアの戦場における敵の残虐行為は常に、単に「日本人」 の行為として伝えられたのである。」

ジョン・W・ダウアー前掲著『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』P83

 また、同じヨーロッパ戦線でも、陸上よりも相手に対する敵愾心をあおられることが少ない海軍の戦いでは、陸上戦闘以上にフェアな戦いが行われていました。

 かの有名なドイツ戦艦ビスマルクは、1941年5月27日、イギリス艦隊の包囲網の中で絶望的な戦闘の果てに、単艦撃沈されました。もちろん、生存者を助けるドイツ艦船は存在しません。
 しかし、2200名のビスマルク乗員のうち、5%にあたる110名が、イギリス艦隊の数隻に艦船に助けられ、捕虜としての厚遇を受けています。

ブルカルト・フォン・ミュレンハイム著佐和誠訳『巨大戦艦ビスマルク』(早川書房 1994年)P322


 終わりに                                      | このページの先頭へ |

 戦艦大和の沈没海面の場面から、話はずいぶんと遠いところへ来てしまいました。♪「思えば遠くに来たもんだ」♪という歌がありますが、ほんとに遠くです。
 このサイトは、基本的に次のことをモットーに書き続けています。

  1. 全体に目から鱗の話をすること
  2. 日本人も外国人も頑張っている人、埋もれている業績を明らかにすること
  3. これまで鵜呑みにしてきた権威に対して、「ちょっと待てよ」と考え直すこと
  4. 歴史や事象を複眼的視点から見直すこと

 この目的を実現するためには、思いっきり遠くに来ることも、まあお許しください。
 
 2001年9月11日、世界貿易センタービルがイスラム教徒のテロに襲われた時、アメリカのメディアは、航空機でビルにつっこむ自殺的攻撃を、太平洋戦争中の日本の特別攻撃隊「神風」と同じものと表現しました。
 しかし、形は同じでも、中味は異なっています。
 アメリカが、アジア人に対して、そのようなステレオタイプの見方を繰り返す時、私たちは、思わざるを得ません。あなたがたは、1945年時点と現在と、見方を考え直す機会をもったのかと。
 会田雄次教授は、『アーロン収容所』の冒頭で、同じ気持ちを述べておられます。最後にそれを引用して、この重いテーマを終わります。

「だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか。

会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書 1962年)P3


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