| 未来航路Topへ | | メニューへ | | 前へ | | 次へ |

戦艦大和について考える15
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認 その12漂流者銃撃と「人種差別」2
 戦死者その3 大和横転、沈没。そして爆発。                | このページの先頭へ |

 大和の3063名に及ぶ犠牲者がどのように生じたか、説明を続けます。

 大和は、14:17に受けた左舷中部の魚雷が致命傷となって、14:23には横転し、同時に大爆発を起こして沈没します。
 この間に、「総員最上甲板」が発せられましたが、艦内から脱出できなかった人が多くいたことは、前ページで説明しました。
 しかし、それでも、横転爆発する直前には、すでに艦上に多くの乗組員が避難してきており、すでに海に飛びこんで漂流している乗組員もいました。艦上の乗組員は、艦が左舷に大きく傾斜しつつあるのですから、当然ながら右舷側に集まっていました。
 
 どれぐらいの乗組員が右舷艦上にいたでしょうか。

 これまで引用してきた手記・自伝の中では、
小林さんの「戦艦大和の最後」には、「数百人」、坪井さんの『戦艦大和の最後』には、「千人余」と表現されています。八杉さんの『戦艦大和最後の乗組員の遺言』には、「蟻の群れのようにたくさんの」となっています。
 また、辺見じゅん著『男たちの大和 下』(角川出版ハルキ文庫 2004年)P75には、主砲射撃指揮所の配置の
竹重忠治さんの証言として、「およそ1000人以上」と表現されています。

 もちろん、自分の目で見た光景の記憶ですから、正確な人数ではありません。それでも、100人や200人ではない、何百人もの相当な数の乗組員が、傾いて横倒しになりつつある大和の右舷艦上にいたことは、確かなようです。
 では、これらの乗組員はどうなったでしょうか?

「 大和が傾いていくときの鋼鉄のきしむ音だけは、なんともいえませんでした。想像されるようなギユー、とかギイーツというような感じでもないのです。ウォーン、ウォーンというのに近いですか。まるで遠くでエコーが響くような、一種ファンタジツクとも言えるような不思議な音なのですが、それはもう、通常の言葉では表現の仕様がない不気味な音でした。

 あちこちで次々に兵隊たちが海に脱出しようとしていましたが、私の下のほうでは、必死にクロールで泳いでいた兵隊三人が、ざばあーつと、百平方メートルもある巨大な煙突に呑み込まれてゆきました。その煙突の反対側からは、大量の高圧蒸気がシャアーと不気味に噴出していました。助かるはずもありません。

 艦の右側、すなわち高くなっている側のハンドレールには、蟻の群れのようにたくさんの兵隊がぶら下がって乗り越えようとしていました。しかし結果的に、彼らは殆ど助かりませんでした。
 海軍では「艦が沈没するときには、傾いた方向から早く海へ逃げ、渦に巻き込まれないように早く泳いで艦から離れろ」と教えられていました。高くせりあがった右舷のハンドレールにぶら下がっている兵たちを見たある上官は、「あの馬鹿者どもがあー、渦に巻き込まれるぞお−」と必死に叫んでいました。

 とはいってもあの巨艦です。あの傾きで簡単に右から左に行けるわけではありません。ほどなく艦はほとんど九十度まで傾き、私は必死で海へ飛び込みました。なんと海面上38メートルの高さだった艦橋の頂上が、海水面から1メートルくらいになっていたのです。私は甲板から海に飛び込んだのではありません。艦橋のてっペんから飛び込んだのです。」

八杉康夫著『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(WAC 2005年)P79−80(改行は引用者が施しました。)


 八杉さんの配置場所は、艦橋トップ下の測距室です。
 同じく、艦橋トップの主砲射撃指揮室(方位盤室)の小林さんは、次のように書いています。

「上甲板にはい上がって、いま手すりにしがみついているからといって、これで自分の命は安泰ということはないのである。
 これから生ずる、沈没の瞬間に何が起きるのか。そのとき、木の葉のような人間の体が、いったいどうなるのか、まったくだれにもわからないのである。
 右舷の手すりにしがみついている多くの人たちのなかで、力つきたのか、あやまって手を放したのか、40メートルの上甲板をズルズルとすべって反対側の海中へ落ちて行く人が、つぎつぎと出はじめていた。

 この人たちは、もう、二度とはい上がってくることはないのである。
 いつか小雨はやんでいた。しかし、今にも雨つぶが落ちてきそうな灰色の低い空であった。青黒くぷきみな海面に、波が大きく左舷に、うち寄せている。

 私の班で、吉川忠一二曹、川原勉上水、瀬戸川義雄一水の三人だけは私たちからはなれ、人びとがもっとも多く集まっている右舷の上甲板のほうへ艦橋をかけていった。

 ふつうなら降りて行くわけだが、艦が70度ちかく傾いていては、降りるというより、横だおしとなって平坦になってしまった艦橋を、かけていったのである。一人でも多くいるところが、安全と思えたのであろらノか。

 結果的には、この三人は生存することはできなかった。」

小林健著「戦艦大和主砲指揮所に地獄を見た」『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション』(光人社 1989年)P54(改行は引用者が施しました。)


 
 このようなイメージ写真を作ると、上記の引用の状況がよく理解できると思います。
 
 
八杉さんも小林さんも、そして、前ページに登場した方位盤射手の村田さんも、艦橋の最上部にいました。これが、彼らの生存につながった大きな要因となったといえます。
 艦橋トップは、もともと海面から40m程の高さでしたから、横倒しになって海面に近づいていく艦橋トップから海に飛びこめば、おのずと艦体が沈んでいく時の渦の中心からは遠くなるわけです。
 さらに、大和の場合は、横転してすぐに艦の中央部で大爆発が起こっていますから、その爆発の中心からも遠かったわけです。

 上記の
小林さんの引用にもあるように、艦橋トップの主砲射撃指揮室(方位盤室)に配置されていた人員は12名でしたが、上の引用中にある3名の方(右舷上甲板へ向かった方)以外、残る9名は漂流の末生還されました。
 一つの部署で生還率9/12というのは、他には類を見ない高い数字です。

 ただし、この部署は、主砲の射撃を担当する、いわば戦艦の中枢の部署ですから、敵機の攻撃においては、当然ながら第1の攻撃目標になります。もし大和が沈まなくとも、ここさえ破壊してしまえば、もはや、46センチ主砲9門の正確な射撃はできないからです。
 そういう点では、この部署に、戦闘の最中に、命中弾が一つもなかった幸運が、この高い生還率につながったということになります。
 


 八杉さんも、小林さんも、艦橋トップから海に入りましたが、それでも、渦に巻き込まれ、海中深く沈みました。
 ところが、大和の横転したあとの大爆発によって、海中から水面上へ押し上げられることになりました。
 
八杉さんは、「深い群青色の海にオレンジ色の強い閃光」が走り、意識を失ってしまいましたが、反対に爆発の水圧によって、水面に「ぽかりと浮いた」と証言されています。

 一方、
坪井さんの場合は、もっと奇跡的な生還であったと思われます。
 
坪井さんの配置場所は、右舷の煙突のそばの、第5番高角砲でした。幸いに、右舷側は戦闘中の被害は少なく、総員最上甲板の時点で、部署の全員が健在でした。
 そして、高角砲座を離れ、右舷の艦腹に向かったのです。

 そのまま沈没時には、右舷艦腹側から海に入りました。艦橋から見ていた乗組員からすると、最も生存が厳しい方法で、入水したわけです。そして、ひどく深く渦に巻き込まれました。
 しかし、彼もまた気を失ったあと、気が付くと水面上に浮いていたのです。

 生死を分けた違いは、今となって確かめようもありません。しかし、渦と大爆発が、多くの乗組員の命を奪い、また、少数の乗組員を海面上へ押し上げて、生存を許したのです。

 ただし、爆発は、生存しようとする漂流者にとって、まだまだ、危害を与え続けました。
 爆発で空へ舞いあがった大和の破片が、不気味にも牙を剥いて漂流者の頭上に降ってきたのです。

「私たちは見たこともないものをそこに見ました。空一面にアルミ箔をちぎつたようなものが、きらきらと輝いているではありませんか。「レーダーをかわすために米軍機が空中にアルミ箔を撒くことがある」と開いていました。でも、レーダーは日本にはないも同然ですから、不思議でした。

 ところがまもなく、その光る物体が降ってきました。アルミ箔なんかではありませんでした。実は大爆発で真っ赤に焼けた大和の鋼鉄の破片だったのです。泳いでいた多くの兵が私の目の前でその鉄片に当たり、声もなく沈んでいきました。
 5メートルほど前にいた兵隊の顔が突然、大きくなったかと思うと、海中に消えてしまいました。なんと、鉄片で頭を割かれ、一瞬で顔が真っ二つになつたのです。両足を切断した人や手首を落とされ、おぼれていく人もいました。
 実はこの時、大和の破片で両足を切断したのに生還して、戦後もオートバイに乗って元気だった表専之助さんという広島県の方がいたんですよ。海中での出血を考えると生きられるはずがありません。

 戦後、ある外科医に尋ねると、「水中で両足切断したら、あっという間に失血し、三分から五分で死に至る。息があるのはどんなに長くても十五分。ありえない話ですよ」と言われました。表さんはなぜ助かったのか。

 実は真っ赤に焼けた鉄片がレーザーメスのようになって切り口の血管をジユツと焼いてふさいでくれたんです。外科医さんも「それならありえるが奇跡です」と言ってましたね。なんとも凄まじい話です。表さんは佐世保の病院で大量の輸血を受けて助かりました。後に広島県上下町の教育長にもなりました。

 鉄片は私の右足にも当たりました。大きな破片ではなかったんですが、立ち泳ぎで泳いでいたのに、どうしても体が斜めになります。一瞬「足がなくなったのか」と思い、当たったあたったあたりをさわりましたが、感覚がありませんでした。」
 

八杉康夫前掲書 P84−85(改行は引用者が施しました。)


 戦死者その4 漂流、アメリカ軍機による銃撃               | このページの先頭へ |

 大和や矢矧の乗組員のうち、沈没と爆発を切り抜けて、一体何人が漂流者となったのかは、公式の資料はもちろん、戦記、手記、自伝等のどこにも書いてありません。
 漂流した乗組員に、同じ境遇の人間が何人いたかなんて、正確な数字など分かるはずはありません。

 一ついえることは、、沈没時から、駆逐艦に救助されるまで、まだ幾多の人命が失われていったということです。
 敵がまったく見えなくなり、しかも正式に沖縄特攻作戦が中止され、駆逐艦による救助が本格化するのは夕方になってからでしたから、最後に沈んだ大和の漂流者にしても、3・4・5・6時間の漂流となりました。

 東シナ海とはいえ、4月の海は、そう暖かくはないはずです。
 生還者の手記には、負傷が悪化した人、疲れによる睡魔に負けた人(重油が一面に漂う海では、重油から揮発する成分を吸い込んで、意識がもうろうとなる場合が多いそうです)、せっかく駆逐艦の舷梯まで近づいてロープをつかみながら、安心して沈んでしまった人、助けに来たはずの駆逐艦のスクリューに巻き込まれてしまった人、などなど、漂流から生還できなかった人の最後の姿が何人も描かれています。

 
小林さんは、救助された時間が19時30分であったこと、日没後も、懐中電灯の明かりを頼りに救助活動が続けられたと回顧しています。


 そして、漂流者を襲ったもう一つの恐ろしい災厄が、アメリカ軍機による銃撃です。
 さて、さて、これこそがこのテーマの本題の、「
航空機による漂流者銃撃」です。
 
 そもそも、読者の皆さんは、アメリカ軍航空機が、沈没した日本軍艦船から脱出した漂流乗組員を銃撃するという事実をご存じでしょうか。

 映画「男たちの大和YAMATO」には描かれませんでしたが、生還者の手記・記録・自伝には、その様子が描かれています。大和ではなく、軽巡洋艦矢矧の生存者の証言です。(改行と文字の強調は引用者が施しました。)

「 矢矧沈没後の生存者は、曇天で肌寒い海中をあてもなく漂った。航海科の土屋初人兵曹もその一人であった。彼の手記「沖縄特攻艦隊の回想−軍艦矢矧の最期」 の第8章「死の海」は、この不安な漂流の顛末を克明に活写している。そこで彼の 「手記」 に依存しながら、その他の漂流者たちの回想を加えて、救助されるまでの状況を辿ることにしよう。
 
 「方向も潮流も皆目見当がつかない。雲の流れと海面を吹き抜ける風に煽られ、沖へ沖へと吹き流されているようで恐かった。」・・・・・土屋は集団の群れから、かなり引き離れた海面に漂流していた。その方向に向かって近づこうと思ったその矢先、集団の上空を横切るように爆撃機が飛来し、轟音とともに二本の水柱が立ち昇った。「この爆弾の波浪に、重傷者のほとんどが波に飲まれていった」ように、土屋には思われた。

 やがて爆弾の波浪も静まり、しばらくの間、不気味な静かさが続いた。暫くしていくらか落ち着きを感じ始めたとき、土屋の右前方から五機の戦闘機が、横隊列を組んだまま低空で、漂流者たちの細長い浮列に向かって機銃掃射を始めた。
「私の眼球に、将兵ののけぞる姿が飛び込む。私はぞっとして、血の気が失せた。私はとっさに筏を手放して海中に潜った。・・・・・・水中を貫く機銃弾の弾道音が身近に聞こえた。」

 島田智治中尉の回想するところでは、
この機銑掃射は三時間ぐらい、何度も繰り返されたという。
「銃弾が身の周りに突き刺さって行き、撃たれた者は声を揚げ、顔をひきつらせ沈んでいった。その度にもぐるが何度ももぐる内に、顔をつけるだけになってしまった。敵機が去っていった時には、生き残った者は不安の中にもほっとした安堵の気持ちを抱いた。しかし、海面は何処かへ流れていく海流があり、それに乗ったものは、次第に皆から離れ、一列に流れていった。」(島軍記)

池田清著『最後の巡洋艦・矢矧』(新人物往来者 1998年)P258−259

 
 漂流者に対する銃撃が、何機の飛行機でどれぐらいの規模で行われたのかは正確には分かりません。上記の島田中尉の回想では3時間となっていますが、そんなに長く執拗に繰り返されたという証言は、これの他には見あたりません。
 
 
漂流者への銃撃は、大和・矢矧沈没の時のことだけだったのでしょうか?
 
それとも、漂流者のへの銃撃は、この時代の日米双方の「常識」だったのでしょうか。
 
 まずは、たびたび引用する、大和第5番高角砲員の坪井さんの記録です。(改行と文字の強調は引用者が施しました。)

「 上空では、なおも敵機が舞い、ときどき思い出したように、漂流しているわれわれに銃撃をくわえてくる。泳ぎながら敵機を見ていると、チカッ、チカッと光る。機銃発射だなと思い、いそいで身をかわすと、音を立て、水しぶきをはねあげながら、一列縦隊に弾丸が跡を残していくのである。

この野郎! 漂流者に何するか!
 無性に怒りがこみあげてくるのであった。
 
レイテ沖海戦のとき、「大和」の主砲が火を吐き、初弾一発で敵艦を沈めた。私たちは、少し時間をおいてそのちかくを通りながら、沈む艦体に寄りついている多くの米兵を眼にした。だれかが、機銃を発射しかけたが、すぐに、「撃ってはいけない」と制止されたことを思いうかべた。すでに戦意をなくして無抵抗な者に銃口を向けてはいけないという艦長、副長の心根であった。しかるに、いま米機は、漂流しているわれわれを狙って撃ってくるのだった。
                                       
 だいたい海軍の場合は、艦をねらい、飛行機をねらって射撃し、沈めたり墜としたりすることがあっても、人間をねらって撃つことは、まずないはずである。
 無抵抗な漂流者を救助しようともせず、銃口を向けて威嚇し、殺傷しようとする敵の操縦者にたいして、腹が立ったのは私だけではなかろう。
「この野郎、なにしやがるか」
                                   
 去って行く敵機を思わずにらみつける。「貴様らのヒョロヒョロ弾丸に殺られてたまるか」と思ったりもした。

坪井平次著『戦艦大和の最後』(光人社 1999年)P229


 坪井さんの憤りは、とてもよく理解できます。
 つまり、1944年6月のマリアナ沖海戦の前から大和に乗り組んでいる坪井さんの経験からして、日本海軍は、敵の漂流者に対して攻撃することはなかったということです。
 上の引用にあるレイテ沖海戦のシーンを他の記録で確認してみましょう。

「「大和」は敵空母「ガンビア・ペイ」 の沈没場所を横ぎった。
 艦尾には「ガンビア・ペイ」 の乗組員がむらがり、海に投げだされた米兵たちは泳いだ浮遊する木材につかまったりしていた。
突然、「大和」 の機銃が鳴った。

 艦長の「撃ち方はじめ」がないのに、機銃は鳴っていた。
 これには森下艦長もびっくりし、
 「撃ち方やめ! やめえッ!」
 と叫んだ。
 銃声は消えた。
 このとき、機銃を撃ったのは内田たち9番機銃だった。
 その前に射手の一人が敵機にやられていた。内田は頭にカッと血がのばっていた。
 日本兵は海に投げだされても黙っているが、米兵たちは、手をあげ、
  「ハロー」
 という。これも癪にさわってならなかった。
  内田は、機銃射撃指揮装置による管制射撃から銃側照準による個別射撃に切りかえて撃った。
  のちに、森下艦長から海に投げ出された者は敵兵であろうと撃ってはならんと怒られた
」 

辺見じゅん著『男たちの大和 上』(角川出版 ハルキ文庫 2004年)P267−268
(改行と文字の強調は引用者が施しました。)


 少なくとも、日本海軍には、漂流者を銃撃する慣例はなかったようです。

 しかし、
アメリカ軍に、とっては、この漂流者銃撃は、ごく当たり前のことでした。

 次は、南シナ海で輸送船団を護衛した駆逐艦天津風の艦長の記録です。(改行と文字の強調は引用者が施しました。)

「 敵機はすっかり当方を舐めて、低空で接近する。「射ち方始め」を令したが弾が出ない。艦橋から機銃まではすぐの距離。「どうしたか」と怒鳴ると、「もう少し引きつけてから射ちます。今射つと逃げられます」との返事があり、500メートルになったと思われたとたん、猛射を浴びせる。

 弾は吸い込まれるように命中し、敵機はすぐに火炎を上げ、右舷1000メートルの海面に墜落、やがて猛火につつまれ、付近をあかあかと染める。しばらくすると、3名の搭乗員が海面に脱出。ライフジャケットを付けてあおむけになって浮いている。ときどき片眼を開けてこちらを見る。死んだふりをしているのである。

 
水雷長が、「艦長、爆雷を入れましょう」とうながす。さんざんわが方を痛めつけた憎き敵である。爆雷を入れて、今までに死んで行った味方の仇を討ってやりたいと思う反面、憎い敵なれど、撃墜されて死んだふりしてまで助かりたいともがいている者を見逃してやるのも武士道と思う心が、爆雷を入れることを躊躇させる。

 思わず、「見逃してやろう」という言葉が出てしまった。しかし、この決断が正しかったのだろうかと、後々まで悩むことにもなった。
 というのは、これから8日後の4月6日の昼、海防艦1号がB−25、20数機と交戦、沈没することになるが、同艦が右舷に傾き沈没に瀕した際、生存乗員約80名は左舷船腹にしがみ着いたり、海に跳び込んで泳いだ。だが、米軍機は爆撃と機銃掃射を繰り返し、全員を射殺したことを戦後知ったからである。」

(中略)

「ニューーギニア戦線を経てルソン島に進出、3月から中国沿岸の港湾攻撃、南支那海の海上交通破壊戦を行なっているものである。
 当日、各中隊から6機ずつ計24機が出撃、情報にもとづく当隊の位置に進出、1130(午前11時30分)、情報に寸分違わぬ位置に2隻の海防艦を発見した。海防艦134号と海防艦1号である。両艦は有力な米軍航空部隊に捕まってしまった。

 501中隊の指揮官マスケット(Musket)大尉が3機を率い、海防艦1号に右舷から襲いかかり、500ポンド爆弾1発が煙突に命中、つづいてモートン(Morton)少尉の投弾が右舷水線部に命中、大破孔を生じて艦は右舷に横転。生存者約80名が船腹につかまったり、船の周りに泳いでいる様を写真に収め、大戦中の有名な写真として米国で賞賛されたとされている。

 しかし、そのあとがいけない。
第498中隊の飛行機が、これら生存者全員を爆弾と機銃掃射によって殺してしまったのである。戦争だから致し方ないともいえるが、武士の情けというものがまったく感じられない。 

森田友幸著『25歳の艦長 海戦記 駆逐艦天津風かく戦えり』(光人社 2000年)P100、P122

 
 日本海軍の指揮官には、漂流するアメリカ軍将兵に対して「
武士道」や「武士の情け」という意識がありました。
 それに対して、これらの記録を見れば、アメリカ軍にはそのような意識は全くなく、日本軍の漂流者に対しても容赦のない攻撃を仕掛けることが常だったことが分かります。

 アメリカ軍、アメリカ人の日本人に対する意識はどのようなものだったのでしょうか。

 この続きは、次の、「漂流者銃撃と「人種差別」3」へ続きます。(以下は、寄り道です。)


 下の写真が、森田さんの引用文にある、1945年4月6日の中国アモイ沖での海防艦1号の最後です。
 このあと、船腹に避難したり、漂流中の乗組員に対して、アメリカ軍機は銃弾を浴びせました。無慈悲な行動なのでしょうか、それとも戦争中の当然の行為というべきでしょうか。

 この写真は、ロバートシャーロッド編中野五郎訳の『記録写真太平洋戦争史 下』(光文社 1952年)P117から転載しました。もともとは、アメリカ軍の提供写真です。


<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その6>
 
アメリカ軍は、漂流している日本軍乗組員を容赦なく銃撃する一方で、自国のパイロットの救助にはとても熱心でした。
 B29爆撃機の本土空主に関しては、東京上空など空襲して被弾し、帰路、マリアナ諸島に戻る途中で海上に不時着する機に対して、潜水艦と救助飛行艇による緻密な救難体制がしかれていたことは有名です。
 実は、大和攻撃の空母艦上機に対しても、ちゃんと救助体制が敷かれていました。

「 暫くして、漂流者の周囲を2機のマーチン飛行艇が旋回しはじめた。
 そのうち1機は土屋の浮かぶ5、6メートル前方に着水し、3名のアメリカ軍飛行士を拾い上げて舞い上がった。原艦長(引用者注 漂流している矢矧艦長)は、眼前にみせられた米軍機の早業にただあっけにとられて言葉もでなかったが、「米海軍が、艦よりも飛行機よりも、たった一人の搭乗員の生命を大切にする伝統的精神を」、羨ましく感じた。
 

池田清前掲著『最後の巡洋艦・矢矧』P259

 
 これを読んで、矢矧艦長と同様の感想を抱くとともに、さらに二つの点に疑問がわきます。

  1. 周囲には、日本の駆逐艦もいたはずです。飛行艇は飛んでいれば、簡単には撃墜できませんが、着水してしまえば、駆逐艦の大砲でねらわれます。どうやって危険を回避したのでしょうか?

  2. 大和や矢矧の乗組員が浮かんでいて、アメリカ軍機の銃撃も行われている海面で、どうやってアメリカ機の墜落パイロットを見つけて引き上げることができたのでしょうか?

 1の答えです。
 実は、2機の飛行艇のうち、1機が日本の駆逐艦の注意を引きつけ、もう1機がその隙をねらって海上に着水し、アメリカ兵を救助したのでした。

 2の答えはもっと巧妙でした。
 この時矢矧の艦長の目の前で救助されたのは、アメリカ側を取材した記録では、空母ベローウッドのアベンジャー雷撃機のパイロット、ウィリアム・デラニー大尉と判明しています。
 彼の雷撃機は戦艦大和攻撃中に被弾し、機体は炎上しました。乗員3名はパラシュートで脱出し、13:00頃に、海面に着水しました。
 以下の文章は、それから以後の経過の説明をしたものです。

「 ウィリアム・デラニー大尉はまだ生きていて、日本艦隊のまっただ中で浮いている。結婚記念日のことを考えるのは、もう止めてしまった。このなりゆきでは、妻はまもなく未亡人になるだろう。彼は黄色い救命浮舟の横につかまり、敵の駆逐艦が高速で通過するたびに、そっとからだを水中に隠した。しかし日本軍は彼を無視した。ほかに心配しなければならないことがたくさんあるのだ。彼は航空機がときどき戦艦を攻撃するのを見ることができた。これだけ距離があっても、爆弾の爆発による衝撃を海中で感じる。南西約5マイルにある大和は、彼には動いていないように思えた。
 
 浮舟(引用者注 パイロット用の小型救命ボート)の周りにオレンジ色の染料が大きくひろがっていく。デラニーはそれがどこから来たのか、さっぱり分からなかった。染料入れは二包みともとってある。多分墜落したとき、他の機がマーカーを投下したのだろう。彼は1400から1415の間に日本の軍艦がすさまじい大爆発を起こしたのを目撃した。
「前檣楼からと思われるが、巨大なオレンジ色の火の玉が上がった。その後その艦影を見ることはなかった」
 彼は駆逐艦の最期を見たと思ったのだが、実際には矢矧の最期だった。10分後に一機のヘルダイバー(引用者注 アメリカの急降下爆撃機)が彼を発見した。」
 

ラッセル・スパー著左近充尚敏訳『戦艦大和の運命 英国人ジャーナリストが見た日本海軍』(新潮社 1987年)P297

 
 これによれば、アメリカ軍パイロットは、自分がパラシュートで着水した場合、特別なオレンジ色の染料の入った容器を2個ずつもっていて、その染料を海面に広げることによって、救助する飛行艇から発見されやすくするということのようです。
 よく考えられた方法です。

 
アメリカ軍の自国の兵員に対する人命重視の発想は、徹底していました。これに関しては、立派なものです。


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |