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街道を歩く14
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 神奈川宿と横浜4 横浜港と横浜駅2 07/10/21作成 
 横浜駅1 −古写真から−                     | このページの先頭へ |

  さて、この「街道を歩く」の11・12・13・14、「神奈川宿と横浜」シリーズの最後は、横浜駅です。
 初代横浜駅は、現在の場所とは違って、横浜の関内に隣接する場所に鉄道を引いてくるため、野毛浦を新たに埋め立てて建設されました。当時の横浜駅は、現在の根岸線桜木町駅となっています。
 まずは、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から、開業当時の横浜駅の古写真を紹介します。

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 明治中期の横浜駅です。アメリカ人建築家ブリジェンス設計により、新橋駅とともに明治4年(1871)に建設されました。横浜駅は長らく横浜の陸の玄関口でしたが、関東大震災で倒壊しました。 新橋駅(下の写真)とは設計者が異なりますが、外観はよく似ています。 

 新橋−横浜間の鉄道は、工事が早く進んだ、品川−横浜間については、1872(明治5)年の5月には部分開通していました。
 そして、72年9月12日(太陽暦10月14日)に、全線開通記念式が行われました。
 これにより、歩いたら1日、馬車でも半日かかっていた
新橋−横浜が、僅か53分で結ばれることになりました。
 もっとも、料金は今より高価でした。
 車両によって、上・中・下の3段階の料金に別れていましたが、一番安い下等でも、新橋−横浜間は、
37銭5厘でした。
 この価格では、
当時白米10kgあまりが購入できました。(白米換算では、現在なら2500円程度です。)

 現在の
桜木町駅−新橋駅間のJR料金は450円、所要時間は、38分です。開通時の料金は、現在の5倍以上でした。これはかなり高価です。

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 関内の南西の端、大江橋の西から見た横浜駅です。
 上の写真より少し西側からの撮影です。

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 上2枚の写真とはまったく方向が反対の、北西側の伊勢山麓から撮影。
 「
The Far East」1871年10月2日号に掲載されたもので、開通(72年9月)のほぼ1年前の横浜停車場。すでに駅舎は71年9月に完成していますが、埋め立ても完全に終わっていない様子で、ホームや線路等はまだ完成していない段階です。
 新橋−横浜間鉄道は、72(明治5)年9月12日に全線開通し、盛大な開業式が行われました。


 横浜駅2 −その場所の変遷−                     | このページの先頭へ |

  最後に、横浜駅の場所の変遷と何故現在の場所に移されたのかを説明して、このシリーズを終わります。
 まずは、誕生した当時の
初代横浜駅と現在の横浜駅の位置を地図の上で比較・確認します。 

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 開業当時の新橋−横浜線は、現在ではその大部分がJR東海道線となっています。
 しかし、青木橋から袖ヶ浦を埋め立て地で曲線を作り、関内の北西側まで線路を引っ張っていった先に作られた初代横浜駅に至る部分は、現代のJR東海道線とはまったく異なっています。

 初代横浜駅がどのような理由で現代の横浜駅の位置に移動したのか、ちょっと考えてみましょう。
 


 左の「位置変遷1」は、現在のJR東海道線が横浜から西へ延伸されて、1887年に国府津−横浜間が開通した時の横浜駅と線路位置を示しています。

 すでに、1881年には、新橋−横浜間の複線化が完成していました。1880年代後半の我が国の鉄道施策は、東京−神戸間の東西横断鉄道の完成を目指して着々と路線網が整備されている時代でした。

 このあと、
1889年には東京−神戸間が全通します。
 また、1895年からは「
東海道線」という名称が正式に使われるようになります。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

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 政府は、日清戦争が避けれれない状況となった時点で、東京−神戸間鉄道輸送力増強のネックになっている横浜駅の問題を解決する必要に迫られました。

 なぜなら、横浜駅の構造上、東西を結ぶ列車は、
横浜でスイッチバックする必要があり、機関車の付け替え等、多大なる輸送上のロスが生じていたからです。

 このため、開戦前から「
軍用短絡線」の敷設が準備され、開戦直後の1894(明治17)年9月に左の「位置変遷2」にある、神奈川駅と保土ヶ谷駅を直接結ぶ線路が敷設されたのです。 


 戦争が終わった後、この「軍用短絡線」はどうなったでしょうか?

 もちろん、撤去されることはありませんでした。
 1898(明治31)年には、神奈川−保土ヶ谷間の
短絡線を使った旅客営業が開始され、急行列車や直行列車がこの路線を通るようになりました。それらの列車は、横浜駅に停車しません。そこで、保土ヶ谷駅が急行停車駅となりました。
 しかしこれでは、横浜市内の利用者には不便です。
 そこで新しい駅が設置されることになりました。それが上図の
平沼駅です。1901(明治34)年のことです。この駅に、東海道線の急行列車が停車させ、横浜住民に便を図りました。
 それとは別に、横浜−新橋間の旅客の増加に伴って、横浜駅の手前に
高島駅が設置され、新橋−高島間が電化されて、電車運転が開始されました。1914(大正3)年のことです。
 横浜の人口は、1909年に40万を越え、東京・大阪・京都・名古屋・神戸と並ぶ「6大都市」に成長していました。単なる貿易港ではなく、工業都市としても急成長していました。
  
 さて、そこで、
横浜駅の移設です。
 人口も増え、東海道線で西に向かうには何かと不便な平沼駅に代わって、
新しく2代目横浜駅が建設されます。それはどの場所だったでしょうか?

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

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 1915(大正4)年、2代目横浜駅が開業しました。その場所は、左の図にあるように、現在の高島町1丁目、市営地下鉄高島町駅の付近でした。
 
元袖ヶ浦の埋め立て地の曲線線路を設置し直し、駅の西側で保土ヶ谷駅方面に向かうため、これまた新しい線路を敷設しました。
 この結果、旧軍用短絡線と平沼駅、高島駅とそこから保土ヶ谷駅に向かう線路も廃止されました。 
 また、この前年の
1914年には、東京駅が完成しており、横浜駅の開業によって東京−横浜間に電車輸送が実現しました。また、初代横浜駅は桜木町駅と改称されました。



 1914(大正4)年開業の東京駅。
 ただしこれは戦後の写真です。(東京名所の写真はがきより)

 

 2代目横浜駅の開業によって、横浜の鉄道問題は根本的に解消されたと思いきや、新駅には次の問題がありました。

 駅を市街地に無理やり近づけたため、駅の位置が東西を結ぶ線路の曲線部分となってしまった。

 駅前広場が狭かった。

 旅客線から分離されて新しく埋め立て地沿いに敷設された貨物線が、高架で本線に合流したため、駅の正面を貨物線が高架で横切るという、美観上残念な配置となった。

 課題のあった2代目横浜駅でしたが、開業から僅か8年後、1923(大正12)年に崩壊します。
 その原因は、9月1日に起こった
関東大震災です。

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 1923年9月1日、相模湾を震源とする関東大震災により、横浜は大きな被害を蒙りました。
 もともと砂州を中心に埋め立て地に建設された都市でしたので、地震には弱い構造でした。
 写真は、震災で崩壊し火災にあった
2代目横浜駅です。手前の線路は路盤がうねり、枕木も燃えて炭になっています。
(この写真は、震災直後の発行の絵はがきのものです。Yahooオークションで手に入れました。)

 この結果、地震後には都市横浜の復興計画が策定されましたが、その中では、横浜駅の場所について、更に別の要素が加わってきました。

 震災後の京浜地区では、都市化が一層加速され、郊外へと人口が流出していきました。その結果、東京も横浜も都心と郊外を結ぶ私営の電気鉄道線が多く建設され、東海道線の中心駅は、
私鉄各線とを結ぶターミナル駅としての機能を果たす必要が生じてきました。
 
 そこで、「復興横浜駅」は、東海道線のターミナル駅として、私鉄各線との連絡ができ、用地が広く取れる場所に作ることが考えられました。その結果選ばれたのが、旧袖ヶ浦の埋め立て地の中央部分です。これが
3代目、現横浜駅です。
 旧短絡線を復活させ、最初のカーブの外縁に駅を作りました。桜木町方面へは、当初の線路より急角度で曲げて向かう形が採用されました。
 
 3代目駅の開業は、震災から5年後の、1928(昭和3)年10月15日のことでした。何しろ埋め立て地の中央の駅でしたから、地盤沈下防止のために、アメリカ産の松の丸太を2300本も打ち込んだ上での建設となりました。また、

 この駅には、
東京横浜電鉄(1928年、現東急東横線)京浜電気鉄道(1930年、現京浜急行線)神中鉄道(1933年、現相模鉄道)が次々に乗り入れ、また、市南部から延びてきた湘南電気鉄道日の出町駅と横浜駅との連絡線が完成、1933年には京浜電気鉄道との直通運転(品川−浦賀直通)も実現し、現在の京浜急行線の母体ができました。

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 現在の横浜駅です。
 1928年の横浜駅開業に伴って、至近距離にあった
東海道線神奈川駅は廃止されました。
 現在のJR東海道線には、「
東神奈川駅」はあっても、「神奈川駅」はありません。

 現在のJR貨物線は、横浜港の埠頭へ荷物を運ぶという役割はとっくに終え、根岸線経由で、横浜南部の工業地帯から石油製品を運ぶなどの役割に代わっています。貨物線は根岸線に合流する手前で地下に潜っています。

 

 さてさて、横浜駅の変遷の説明も大詰めです。
 
 下の写真は、横浜ランドマークタワーから、北北西側の横浜駅周辺を眺望したものです。(デジカメ2枚の合成写真です。写真の奥が北、右が東、左が西です。)

 次の@からDは写真のどこにあたるでしょうか。
 
@現在の横浜駅、A2代目横浜駅(現高島町1丁目)、BJR貨物線、C青木橋、DJR東神奈川駅

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正解は、写真をクリックすると番号で表示されます。


 
青木橋をくぐって、湘南新宿ラインの快速電車(線路は横須賀線を利用しています)は、まもなく横浜駅に到着です。

 高速道路の高架橋の向こうに、
横浜駅のホームが見えています。
 左は、京浜急行線の快速電車です。
(撮影日 07/06/13) 


 右の写真、つまり、1871年新橋−横浜線開業前年の「青木橋」の写真から始まった、このシリーズはこれで終わります。
 1枚の写真から、
生麦事件・薩英戦争・神奈川宿・横浜港、そして横浜駅と、随分お値打ちな「旅」をしてしまいました。
 いかがだったでしょうか?
 何分、岐阜県人が著述した神奈川・横浜ですから、そこにお住まいの方にしてみればとんちんかんなことも書いたかもしれません。
 いろいろご指摘をいただければ幸いです。

 

 このページの「横浜駅の場所の変遷」は、以下の文献を参考資料としました。

図説・横浜の歴史編集委員会編『市政100周年 開港130周年 図説横浜の歴史』
 (横浜市市民局市民情報室広報センター 1989年)P242、294、314など

『別冊歴史読本80 懐かしの東海道線』(新人物往来社 2001年)P36、81など

相賀徹夫編著『日本鉄道名所4 東海道線』(小学館 1986年)P124


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