西濃鉄道石灰石専用列車と
大垣赤坂金生山07
 通称「矢橋ホキ」って知っていますか?貨物列車の1編成から産業と故郷を考えます。
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 西濃鉄道1 旧昼飯線と市橋線旧市橋駅−猿岩駅間  

 金生山の工場群とJR美濃赤坂駅を結んでいるのが、西濃鉄道です。 


 写真07−01    西濃鉄道                 (赤坂元町踏切@空 撮影日 08/07/26)

 赤坂市街地の元町踏切を通過する1番列車の空荷矢橋ホキを牽引する西濃鉄道のDD403号機。

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 いつごろの創設?どんな路線?

 官営鉄道の東海道線ができてからも、赤坂金生山からの石灰石等の輸送は、大垣駅垂井駅までは荷馬車で運んで鉄道を利用するか、もしくは杭瀬川の水運によって南下し揖斐川を経て伊勢湾経由で名古屋に運ぶという方法に頼っていました。(位置関係は、下の地図07をご覧ください。
 重い石灰石を荷馬車で運ぶのですから、天気のいい時はまだしも、雨天ともなると当時のこととて舗装道路はなく、輸送は難渋なものでした。
 このため赤坂の石灰石関係の事業主達は連帯して東海道線の支線の建設を要望しました。1917年には赤坂町の町議会が鉄道省に対して「支援敷設促進」の陳情をしています。事業主たちは、当時の金額で5,000円の寄付金に加えて駅用地の買収費8,000円の寄付も行いました。この甲斐あって、まもなく支線の建設が始まります。
 そして、
1919(大正8)年8月1日に、美濃赤坂線が営業をはじめたのです。
 実はこの時に事業主達は、昼飯地区の工場群のそばまで引き込み線を敷設することを要求していましたが、鉄道省はそこまでは面倒を見てくれませんでした。

【参考文献】
清水武著『RM LIBRARY99 西濃鉄道』(ネコ・パブリシング 2007年) この本は現在も入手できます。

上の地図は、NASAのWorld Wind( NASA World Wind http://worldwind.arc.nasa.gov/index.html)の写真から作製しました。

 そこで地元事業主達は、当時の衆議院議員で竹鼻鉄道の専務(のち社長)の青木知四郎を発起人総代として、1926年9月に民間鉄道建設の免許申請を岐阜県知事に行いました。
 開通していた美濃赤坂線の利用者が好調だったこともあって、申請はすぐ許可され、
1926年12月には西濃鉄道会社の創立総会が開かれました。
 申請当初は、「電気鉄道・貨客両方の扱い」という会社内容でしたが、まもなく、「蒸気鉄道・貨物のみ扱い」に変更され、
1928(昭和3)年12月17日に開通しました。次の2路線です。
市橋線(東線 美濃赤坂−市橋、2.6km)
昼飯線(西線 美濃赤坂−昼飯、1.9km) 

 市橋線は金生山東側に沿って北上し、猿岩駅を経て、南市橋の市橋駅まで向かっていました。
 一方、
昼飯線は美濃赤坂駅の入口から西側に分離して、お勝山の北嶺から金生山南端・花岡山南麗の昼飯地区に向かい、 美濃大久保駅でスイッチバックして花岡山を1/3周して中山道に沿って工場群をめぐり、昼飯駅まで向かっていました。

 


 写真07−02   美濃赤坂駅の出発前の矢橋ホキ    (美濃赤坂駅A積 撮影日 09/01/11)

 西濃鉄道の市橋線は、写真右手のEF65に牽引された矢橋ホキ(午後の便の出発直前の撮影)の奥からつながっています。 また、昼飯線は、左手の機関車車庫の脇から、左手のお勝山の北嶺に沿って、昼飯地区に向かっていました。 

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 西濃鉄道の移り変わり

 西濃鉄道の営業は1928年末であったが、輸送実績は1930年におこった昭和恐慌によって打撃を受け、しばらく低迷した。
 しかし、満州事変以後の戦時需要の高まりと経済復興によって順調に業績を伸ばし、太平洋戦争中の1943年には、年間輸送量464,751トンを記録した。
 このあと、敗戦によって輸送量は半減しますが、戦後の復興期に入ると着実に業績を伸ばします。清水武前掲書の表紙の写真に写っている蒸気機関車「2109」号は、1970(昭和45)年まで使用されました。
 市橋線・昼飯線とも本線は単線でしたが、総延長では本線に匹敵する側線が敷設されており、沿線の会社から石灰岩と製品の石灰類(生石灰・消石灰)を輸送していました。

 しかし、昭和40年代から50年代へと、製品の石灰類のトラック輸送への移行が進み、西濃鉄道は業務内容の変更を迫られます。そこで始まったのが、
新日本製鐵名古屋製鉄所への石灰石専用列車の運転開始です。1969年9月のことです。
 最初は河合石灰工業の積み荷もありましたが、2003(平成15)年からは、
矢橋工業の積み荷のみとなっています。
 平成にはいると石灰類の輸送は完全にトラックに切り替えられ、石灰石以外で唯一残っていたタンク車による二村化学への二硫化炭素の輸送も2008年4月をもって中止となり、現在は、西濃鉄道は、この
矢橋ホキの輸送みに特化した会社となっています。
清水前掲書P8、P22〜27、P47 


 写真07−03   赤坂市街地の西濃鉄道本町踏切         (撮影日 09/01/11)

 これは赤坂市街地の真ん中にある西濃鉄道市橋線本町踏切です。道は旧中山道です。
 踏切の横に「
赤坂本町駅跡」という石碑が建っています。これは、上の本文では説明しませんでしたが、戦前の一時期、西濃鉄道を旅客を乗せた車両が走っていた痕跡を示すものです。線路の右側に赤坂本町駅ホームがあり、現在も一部残っています。1930年から1945年まで、ガソリン・カー(無電化区間ですから電車ではありません。かといって、ディーゼル・カーでもガソリンエンジンで動く車両です)により、最初は大垣駅−市橋駅間、途中から大垣駅−美濃赤坂駅間に運行されていました。


 写真07−04   赤坂市街地を走る矢橋ホキ       (西濃鉄道旧本町駅A積 撮影日 09/01/11)

 市橋線本町踏切に近づく矢橋ホキ。牽引するのはDD403号機です。左手が赤坂本町駅のホーム跡です。

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 昼飯線、市橋線猿岩−市橋間廃止

 石灰類(生石灰・消石灰)の発送がトラック化されたため、昼飯線は1983年途中から出荷がなくなり休線となりました。また市橋線も市橋からの出荷がなくなり、1990年代に入った頃から休止となっていました。
 昼飯線と市橋線市橋−猿岩間は、
2006年3月末に正式に廃線となりました。
 以下は、廃線部分の現在の様子です。

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 旧昼飯線跡

 写真07−05   昼飯線の分岐点                       (撮影日 08/05/25)

 正面は美濃赤坂線の電車です。まもなく大垣行きが発車します。
 旧昼飯線は、真ん中のポイントで左に分岐して、写真の左手へ進んでいきます。


 写真07−06     (撮影日 08/07/05)
   左上:車庫の横の分岐線です。

 写真07−07      (撮影日 08/07/05)
   右上:最初のカーブです。 

 写真07−08      (撮影日 08/07/05)
   左上:最初の踏切から赤坂中学校方面を臨んでいます。

 写真07−09       (撮影日 08/07/05)

 写真07−10      (撮影日 08/07/05)

 左:赤坂中学校南東角の跨線橋から美濃赤坂駅方面を撮影。
 右:赤坂中学校の南の切り通しです。草が生い茂って線路は見えません。


 写真07−11       (撮影日 08/07/05)

 写真07−12       (撮影日 08/07/05)

 左:中山道と交差する踏切です。 右:踏切の遮断機を下ろす踏切番がいた小屋です。産業遺物ですね。


 写真07−13       (撮影日 08/07/05)

 写真07−14       (撮影日 08/07/05)

 左:旧美濃大久保駅跡を南から北に向かって撮影。真っ直ぐ入って、左手の方へスイッチバックしていきます。
 右:旧美濃大久保駅跡を駅中央部から南を向いて撮影。左手から来て、中央右へスイッチバックしていきます。  


 写真07−15       (撮影日 08/07/05)

 写真07−16       (撮影日 08/07/05)

 旧美濃大久保駅と旧昼飯駅の間にも、側線とそれぞれの会社の積み出しホームがありました。


 写真07−17      (撮影日 08/07/05)

 写真07−18        (撮影日 08/07/05)

 左:旧昼飯駅の跡です。 
 右:本題とは関係ありませんが、この地区最大の前方後円墳、昼飯大塚山古墳と工場群です。

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 旧市橋線市橋−猿岩間跡

 市橋線は美濃赤坂駅から赤坂の町の中心部、本町・元町を通過して、金生山の東側の工場群を結んで、一番北の採石場所である市橋まで通っていました。
 このうち北端の、市橋−猿岩間が廃線となりました。

 写真07−19         (撮影日 09/01/12)

 現在の市橋駅。枯れ草の下に線路があり、ポイント切り替え機のみが空しく残っていました。 

 写真07−20         (撮影日 09/01/12)

 旧市橋駅。写真07−16の少し南側からの撮影。

 写真07−21         (撮影日 09/01/12)

 旧市橋駅のあった部分を金生山東側、杭瀬川の東の水田からの撮影です。


 写真07−22   市橋線市橋−猿岩間                    (撮影日 09/01/12)

 市橋線の市橋−猿岩間の上田石灰工業の工場です。背景の金生山は、北部東側に当たり、中央部が大きく採掘されています。この部分はもともと、北側の最高峰、更紗山と南の愛宕山の間の鞍部だったところですが、戦後の採掘ですっかりえぐれてしまいました。

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 写真07−23   乙女坂駅に到着した矢橋ホキ         (乙女坂@空 撮影日 08/08/02)

 乙女坂駅の工場群の最北端に矢橋ホキを牽引してきたDD402号機です。これは北から南を向いて撮影した写真です。反対にこの写真の機関車の位置の横の道路から北を向かって撮影したのが次の写真です。


 写真07−24   猿岩駅                          (撮影日 08/07/12)

 上の写真07−20とは反対側を向いて写した写真です。写っているポイントは同じです。この場所は乙女坂駅と猿岩駅の境目で、この写真07−21は猿岩駅の部分となります。


 ここで少しややこしい状況を説明します。
 市橋線は、市橋−猿岩間が廃止されて、現在は、美濃赤坂−猿岩間となっています。しかし、猿岩駅は、上の写真の車両留めより北側は、実際には「廃線」となっています。
 つまり、猿岩駅は、実際には南端のほんの一部が行かされているのみで、実際には駅としては機能していないというのが実情です。  


 写真07−25   猿岩駅                          (撮影日 09/01/12)

 車両留めの向こう、青い看板の河合石灰工業の倉庫は、今は鉄道用には機能していません。

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 写真07−26   猿岩駅                          (撮影日 09/01/12)

 線路の向こうの青いシートは清水工業株式会社の倉庫前のものですが、そこはすでに線路がはがされてアスファルト舗装になっており、以前には貨車用に使われたプラットフォームは、現在はトラック用に使われています。ここから先、終点市橋駅までのうちの線路の半分は剥がされています。


 写真07−27 旧猿岩駅  (撮影日 09/01/12)

 写真07−28  旧市橋駅 (撮影日 09/01/12)

 上の写真07−26と反対側から撮影したのが写真07−27です。
 また、写真07−28写真07−27を撮影したのと同じ位置から反対向いて旧市橋駅方面を撮影したものです。撮影地点が猿岩駅と市橋駅との境界です。市橋駅側の清水工業の旧積み出し倉庫前は、すっかり舗装されて、トラックの積み出し場所となっています。


 写真07−29    猿岩駅                          (撮影日 09/01/17)

 ほとんど利用されていないのが現状の猿岩駅なら、いっそのこと廃止してしまえばという意見も聞こえそうですが、そうもいきません。上の写真07−24は、乙女坂駅と猿岩駅の区域の境目です。一番手前の黒色黄色の踏切標識の根元に、白い小さな木の標識があります。
 拡大したのが、左の写真07−25ですが、これが。「ここから
猿岩停車場区域」という意味の標識です。
 写真07−20を見れば一目瞭然ですが、乙女坂駅に到着した矢橋ホキの牽引をしてきたDD機関車(もしくはDE機関車)は、機関車の付け替え作業のために側線から本線に戻ります。その時利用するポイントは、写真07−20、21、23、24に写っているポイントです。つまり、猿岩停車場のエリアにあるポイントというわけです。
 
 細かい話で恐縮ですが、右の写真07−26の標識は、機関車が最初に停車する位置を示しています。写真07−21の撮影時には、赤い「DE」の文字は見られませんので、最近書かれたものです。

 写真07−30  写真07−31 
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 今はすっかり、矢橋ホキによる石灰岩輸送に特化した西濃鉄道です。
 次のページは、
乙女坂駅における矢橋ホキの石灰岩積み込みの様子です。どんなふうにして、どれぐらいの量の石灰石を運んでいるのでしょうか。 


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