岐阜県の東海道線あれこれ9
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 垂井線の謎3 なぜ垂井線は生まれたか

 東海道線と急勾配 

 「垂井線の謎2」では、どうして垂井線というややこしい線路ができたのかを説明します。

 この間の
関ヶ原−大垣間の東海道線は、東海道線全通の5年前の1884年に、西の方から延伸されてきた線路が完成して営業運転に入りました。 

 上のは完成当初の東海道線の路線です。
 関ヶ原以西は、現在の線路はの位置です。当時の、大きく北側を迂回して、現在の国道365号線とほぼ同じ場所を通っていました。(これについても下で説明します。)

上の地図は、グーグル・アース(Google Earth home http://earth.google.com/)から複写した写真から作製しました。以下の地図13・10・15も同じです。


 ところが、この地域の路線には大きな問題がありました。
 
関ヶ原の峠越えの路線が、非常に急勾配となっていたのです。
 
 一般に未電化の幹線を蒸気機関車が客車や貨車を牽引して急な坂を登る場合、
勾配は最高で10パーミルが理想です。パーミルとはパーセントが百分率であるのに対して、千分率のことです。勾配で言うと、10パーミルとは、水平方向に1000m平行移動して、高さが10m上昇する勾配をいいます。
 日本の幹線鉄道で急勾配で有名なのはなんと言っても、
旧信越線の横川−軽井沢間でしょう。(建設当時は、66.7パーミル

 東京−神戸間の東海道線には、
4カ所の峠越えの急勾配がありました。
 
箱根越え(神奈川県と静岡県の県境)、小夜の中山越え(静岡県の島田−掛川間)、関ヶ原越え(岐阜県と滋賀県の県境)、そして、逢坂山越え(滋賀県と京都府境)の4カ所です。

 このうち、小夜の中山は当初から南側の菊川を迂回する路線として建設されましたが、残りの3カ所は、開設当初は
25パーミルやそれを越す急勾配が存在する路線として開設されました。
 
 政府は、明治後半から輸送力増強のために急勾配の線区の改良に努めました。


 関ヶ原−長浜・米原間の路線改良                     | このページの先頭へ |

 この3カ所のうち、最も早く改良されたのは、関ヶ原峠の西側です。
 この説明のためには、関ヶ原以西の東海道線の路線について、詳しい説明が必要です。
 下の地図をご覧ください。

 滋賀県・岐阜県境の鉄道建設は、長浜が拠点となりました。
 まず、1883年には、
長浜−関ヶ原間が開通します。しかし、その路線は、現在は存在しないの路線(長浜−上坂−春照−関ヶ原)でした。
 1889年4月には東西幹線(のちの東海道線)が全通しますが、当初は、長浜−大津間は、太古汽船の船便を利用しての全通でした。
 同年、7月今度は本当に鉄道による東西全通となりますが、その時は、
米原−長浜−上坂−春照−関ヶ原と遠回りするのではなく、米原−醒ヶ井−近江長岡−深谷−関ヶ原の路線でした。

 しかし、新路線のうち、
深谷−関ヶ原間は、25パーミルが連続する路線であったため、南の旧中山道に沿った柏原−今須−関ヶ原に新しい路線を建設することとなりました。
 1899(明治32)年には、1線が開通し、2年後の1901年にはもう1線が開通して複線となりました。この結果、
関ヶ原−深谷−長浜間、及び深谷−近江長岡間は廃線となります。この廃線路線跡は現在、ほぼ国道365線のルートとなっています。 



東海道線 関ヶ原−長浜間の路線の移り変わりに関する年表 
年・月 開通区間及び廃止区間
1880年 07 京都−大津(18.2km) ※これにより神戸−京都(94.2km)間が開通
1882年 03 金ヶ崎−長浜(38.6km)開通。途中の柳ヶ瀬トンネルは2年後、1884年開通。(42.5km) 
05 大津−長浜間に太湖汽船開業
11 長浜停車場駅舎完成(現存する最古の駅舎)
1883年 05 長浜−関ヶ原(23km)開通。上図のの北回りの路線。
1884年 05 関ヶ原−大垣(13.6km)開通
1887年 01 大垣−加納(岐阜) 04加納−木曽川開通。 ※これにより金ヶ崎−武豊間開通
1889年 04 静岡−浜松(76.3km)開通。 ※新橋−長浜間に直通列車運転開始 琵琶湖の太湖汽船を利用して新橋−神戸間の列車・蒸気船輸送完成
07 湖東線 馬場(現膳所)−米原−深谷(69.6km) 米原−長浜(7.4km)開通
鉄道による新橋−神戸間全通
1891年 10 濃尾大地震発生 木曽川・長良川・揖斐川橋梁損壊
1895年 04 東西幹線の名称を正式に「東海道線」と制定
1899年 10 米原−関ヶ原間に柏原経由の新線開通

 近江長岡−柏原−関ヶ原の新路線のうち、柏原−関ヶ原間には、今須トンネルがあります。
 このトンネルの掘削によって、最高勾配を10パーミルに抑えた路線とすることができました。(この区間の詳しい説明は、このシリーズのP3に掲載しています。→

上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真の引用写真から作成しました。
国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

 関ヶ原−垂井間の勾配                            | このページの先頭へ |

 このあと、東海道線中の急勾配区間については、1921(大正10)年には、二つの超大トンネルによって、滋賀県と京都府の境の逢坂山の路線が改良され、さらに、1933(昭和8)年には、丹那トンネルの開通によって、箱根(神奈川県と静岡県境)の改良もなされました。
 この時点で、東海道線中の残る急勾配区間は、
関ヶ原越えの関ヶ原駅より東側部分だけとなったのです。


 岐阜市の新しいランドマークタワー、岐阜シティ・タワー43の最上階から見た、関ヶ原方面。(撮影日 08/01/15)
 遠方の山並みの中央やや左よりの一番低くなっているところが関ヶ原越えの峠です。峠の右にある雪を被った一番高い山が
伊吹山(標高1377m)です。
 JR東海道線は、岐阜駅を出てやや南にコースを変えて西に向かいます。高架上を大垣行き電車が西へ向かっています。
 この43階からの眺望は、「岐阜・美濃・飛騨の話 岐阜の原風景・現風景4 岐阜シティ・タワー43」に説明しています。 


 大垣から関ヶ原を経由して柏原までの勾配を図にすると、次のようになります。

 大垣方面から西へ向かうと、垂井駅まではごく普通の勾配ですが、垂井を過ぎると急な上り坂となります。連続して20パーミルが続き、 関ヶ原駅の手前には25パーミルの場所も存在します。

 このため、未電化の状態だった昭和前半時代においては、電気機関車に比べてパワーの弱い蒸気機関車に牽引されて垂井から関ヶ原へ向かう客車や貨物は、それまで牽引してきた蒸気機関車に加えて、「
補機」(補助機関車)とよばれる助っ人の蒸気機関車に手伝ってもらって、坂を登らねばなりませんでした。


 関ヶ原駅東の急勾配区間を下る上り電車(大垣方面行き)の最後尾車両。こんがらがりそうですが、路線の上での上り電車が坂を下ります、下り電車が坂を上ります。(関ヶ原駅の1番線ホームの端から350m程東の場所で、線路の北側から撮影 撮影日 07/10/20)

 この線路の向こう側に二つの架線があり、この電車の線路を含めて3本の線路が平行しているのが分かります。
 一番北側が写真の電車の線路で、通常の
東海道線上り線です。一番南側はここで話題にしている垂井線です。そして真ん中は、旧新垂井駅経由で迂回してきた東海道線下り専用線です。 

 この写真は上の写真の勾配標を拡大したものです。
 これは以前に撮影された書物や雑誌(1990年代発行のもの)の写真では、「
25」と勾配25パーミルを示す勾配標でしたが、今は数字の黒い文字が剥げ落ちてしまっています。私の目には、25と痕跡が見えるのですがいかかでしょうか。
 
 これについて、大垣駅で勤務を終えて電車を降りた2人の運転手さんに真偽のほど(上の勾配標が本当に25と書かれていたかについて)を聞いてみました。お二人の答えとも、よく分からないといった感じでした。
 運転手さんは、勾配標を余り意識して運転していないのでしょうか?


【補足】 10/12/29 追加記述
 その後、この勾配標式は、数字が新しく書かれ、以下のように、はっきり「25」がわかるようになりました。ただし、この数値は、大垣方面へ向かう線路の下り勾配のもので、裏側の上り勾配の数字は、「20」です。
 

 2009年9月の連休時に現場を通過した時、電車の先頭車両から、「25」の数字が見えました。
 左上・右上・左下の3枚の写真は、 あらためて、2010年4月に現地に撮影に行った時のものです。


 関ヶ原−垂井間の改良の必要性                    | このページの先頭へ |

 この関ヶ原−垂井間の急勾配は、日中戦争が始まって日本が戦時体制に移行した時点で、東海道線の輸送力増強のネックとなっている路線と認識されていました。
 
 具体的には、上で説明した坂を登るときに「
補機」(助っ人の蒸気機関車)の助けを借りなければならないことが、ネックの原因でした。
 まず、垂井駅で「
補機」を連結しなければなりません。次に、関ヶ原駅で補機を切り離さなければなりません。これが、列車運行上の時間のロスになることは容易に分かります。
 さらに、関ヶ原で必要が無くなった「補機」は、垂井まで戻ってこなければなりません。この「補機」の回送も、その分だけ線路を占有するわけですから、輸送力の増強のネックになるものでした。
補機は急坂登坂に強い、D50とD51が使われ、垂井に5台大垣に6台、合計11台が配置されていました。
1941年には、補助の回送だけで、48回の運転が必要となっていました。
太田三郎著『垂井駅物語』(1984年)P262

 そこで、考えられたのが、その時点の上下線とは別に、急な上り坂を持たない下り線専用の迂回路線の建設です。(くどいですが、下り線が坂を上ります。)



 関ヶ原−垂井間の新線敷設・新垂井駅の開設           | このページの先頭へ |

 下の地図10をご覧ください。
 基本的な考えは、こうです。
 大垣駅と関ヶ原駅の勾配の差113.9mは変えることはできませんが、迂回路線を作れば、路線距離が増加する分、勾配は減少するというわけです。


 こうして戦時輸送力の強化の必要性から、太平洋戦争が劣勢になりつつあった
1943(昭和18)年4月(ガダルカナル島撤退の翌々月)、工事ははじめられました。資材・労働力不足にもかかわらず、工事は最優先して行われ、1944(昭和19)年10月には完成しました。(10月11日開通)工事期間は僅か1年6ヶ月でした。
当初は新線に駅の開設は予定されていませんでした。
しかし、建設に協力した垂井町府中や岩手の住民からの強い要望で、新垂井駅の開設となりました。
太田三郎著『垂井駅物語』(1984年)P264

 

 新しく敷設されたのがの線路です。
 大垣駅の西にある南荒尾で上り線と別れ、中山道赤坂宿の西迄北上した後、美濃国分寺旧跡の北側を山に沿って西に向かいます。垂井町に入ってからは、さらに山際に沿って北上し、盆地北部を横断して、いくつかのトンネルによって垂井と関ヶ原の間の狭隘部の北側を通過して、関ヶ原駅の手前で、上り線と合流します。 

 この結果、この下り迂回線は、
平均勾配が大きく低下しました。
 下の地図をご覧ください。 
                                                

 南荒尾−関ヶ原間を比較してみると、 従来の下り線では、垂井−関ヶ原間は、平均勾配が16.26パーミルとなっていました。迂回下り線は、距離全体は13km640m従来線10km743mに比べて2897m長くなりましたが、勾配は次のように改善されました。

途中の旧新垂井駅までの前半(南荒尾−旧新垂井間)の平均勾配7.81パーミル

後半の旧新垂井−関ヶ原間が同8.69パーミル

 すなわち、幹線に必要とされた10パーミル以下の条件を見事にクリアする路線となりました。
 そして、垂井町岩手の田園の中に新しく
新垂井駅が開設されました。この駅は旧中山道が通る垂井町中心部からは、4km程離れています。
 この駅については、次のページで詳しく説明します。→ 


 旧路線の撤去・再敷設、垂井線の登場              | このページの先頭へ |

 こうして南荒尾信号所で分岐する下り迂回線=勾配緩和線が完成したわけですが、このままなら、東海道線が3線化したにすぎません。つまり、東海道線の大垣関ヶ原間に、1本の上り線と、2本の下り線が存在している状態です。

 前のページから取り上げている、独立した単線の
垂井線というのは、この状況では、まだ生まれてはいません。
 ここで戦時に特有の措置がなされました。
 せっかく
3線化した大垣−垂井間ですが、逆に必要が無くなった本来の下り線=急勾配線は、折からの資材不足を解消するため、線路が撤去されることになってしまったのです。

 この結果、この時点で、東海道線は、関ヶ原から急な下り坂を下りてくる
上り線(垂井駅がある)と、北の山側を迂回する下り線(緩勾配線、新垂井駅がある)の上下線となりました。上下線が2kmから2km半も南北に離れる路線となってしまったのです。

この時線路を撤去されたのは、3線化状態にあった東海道線の南荒尾−関ヶ原間にとどまりませんでした。
すなわち、戦争遂行のため輸送量の増強と資材の効率的な運用が優先され、重要物資の輸送に関係ない閑散線区の営業を一時的に休止し、そのレール・橋桁・枕木などを重要線区に移し替える措置が取られたのです。
その総延長は、1943・44年の2年間に、滋賀県の信楽線(現在は第3セクター)をはじめとして、20線23区間305.1kmにものぼりました。
これらの線区は、廃止線ではなく、あくまで休止線であったため、信楽線を含めて多くの路線が復活しています。

 この結果、垂井町の住民は、岐阜方向へ向かうときは、垂井町の中心部の垂井駅から上り線に乗り、岐阜方面から帰ってくるときは、下り線(緩勾配線)の新垂井駅で降りて町の中心部まで戻るという不便を強いられました。

 このため、太平洋戦争終結の翌年の1946(昭和21)年、2年前に線路をはがされた
東海道線下り線(急勾配線)が再び敷設され(11月1日開通)、垂井町民は、上下線とも垂井駅を利用できるようになりました。
 
 ただし、この復活線は、いつかの時点で、2本目の
東海道下り線ではなく、まったく独立の単線路線、垂井線と位置づけられました。(いつの時点でそうなったかは、現時点では調べ切れていません。調査中です。)
  当初は、この区間は未電化区間でしたから、特急などの長距離列車と長距離普通列車は
下り線(緩勾配線)、新垂井駅を経由し、同じ下り列車でも、岐阜−垂井及び関ヶ原間の区間普通列車は、垂井線を経由するという運行形態が取られました。
 この区間が電化されたのちは、列車のパワーが増加し、勾配を考慮することは必要なくなりました。それでも、現在に至るまで、貨物列車・寝台列車・特急電車は
下り線(緩勾配線)を運行されています。

 ローカル電車は、復活から40年間は、
垂井線経由の電車と新垂井経由の電車の双方が運行されていました。
 しかし、
1986年10月に新垂井駅は廃止され、下り線(緩勾配線)は通過列車のみが運行され、普通電車は垂井線のみの運行となりました。つまり、普通電車に関しては、回送電車を除いては、東海道線上り線垂井線の上下運行となったわけです。

余談ですが、東海道線の電化に関しては、開通とは逆に西は遅れました。
明治中期の鉄道建設の際は、横浜−名古屋間より、名古屋−長浜間の方が早く開通しました。しかし、電化は東から順に進められたため、岐阜県内の電化は遅れ、
名古屋−米原間の電化完成は、1955(昭和30)年でした。


 以上の記述については、以下の書籍を参考文献としました。
吉川文夫著『東海道線130年の歩み』(グランプリ出版 2002年)P145
日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 通史編』(1974年)P171、175、269、338
日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史年表』(1972年)P225、235、269、338

 では、東海道線下り線(迂回線、緩勾配線)の写真です。
 南荒尾信号所で分岐して北へ上り、赤坂で旧中山道をまたいで金生山の西側、青墓地内を走る特急しらさぎ。(撮影日 07/12/26)
 美濃国分寺跡の北側を回って垂井町岩手方面(旧新垂井駅が設置されていた)へ向かう特急しらさぎ。(撮影日 07/12/26)
 関ヶ原駅手前を駅に向かう垂井線を行く普通電車。奥の土手の上は北側を迂回してきた下り線。下り線はこのあと上り線をまたいで、駅に入ります。(撮影日 07/07/16)
 上と同じ場所のアップ写真。土手の上を下り貨物列車が関ヶ原駅方面へ向かいます。(撮影日 07/07/16)

 次のページでは、東海道線下り勾配緩和線のハイライト、南荒尾信号所と、新垂井駅について説明します。

 おまけです。他の急勾配路線の写真です。              | このページの先頭へ |

 本題は、上の終わりですが、ちょっとオマケを書きます。
 ここでは、JR東海道線の急勾配についてこだわってきました。東海道線という幹線だから、
10/1000以下で線路敷くと言うことです。

 しかし、関ヶ原の
25/1000なんて目じゃないという急勾配が、山岳地ではなくてこの濃尾平野にも存在します。
 二つだけ紹介します。

  

 廃線になった名鉄揖斐線の尻毛橋梁の西側の坂です。勾配標は、33.3パーミルを示しています。(撮影日 05/03/23)
 詳しくは、「名鉄揖斐線廃線物語」をご覧ください。こちらです。→

 これも同じく名鉄電車の33.3パーミルです。場所はどこかというと・・・・?(撮影日 07/08/18)

名鉄各務原線羽場駅の東、各務原台地の東縁の部分です。写真の坂の上、踏切を白い車が渡ろうとしている、その向こう側の青い屋根が、羽場駅です。(撮影日 07/08/18)

 横から見るとこんな急坂です。(撮影日 07/08/18)

 ところが、平行して走っているJRはというと・・・、それほどの勾配には見えません。左手のホームは、名鉄各務原線鵜沼宿駅です。ホームの上の部分、はるか向こうに坂を下りてくる赤い名鉄電車が映っています。(撮影日 07/08/18)

 JR高山線の勾配標識は、9.1パーミル
 やはり、
名鉄電車と違って、高山線は旧国鉄時代から今に至るまで非電化路線でしたから、勾配もはじめから緩く設定されて線路がしかれているのが分かります。
 下の写真は、同じ地点の坂の比較です。
 東から西へ向かう電車・ディーゼルは、
JR高山線名鉄線ともに鵜沼宿踏切(名鉄鵜沼宿駅の東にある。JRには駅はない。)を越えて西へ向かいますが、JR高山線は、踏み切るのすぐ西からゆったりとした坂を登ります。名鉄線は、しばらくは平面を進んで、2枚上の写真の地点で、一気に台地上へ駆け上がります。線路を敷設する発想が全然違います。


 鵜沼宿踏切から撮影した各務原台地を登るJR高山線ローカル電車。右手の勾配標識が9.1パーミルです。(撮影日 07/08/18)


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