こうして南荒尾信号所で分岐する下り迂回線=勾配緩和線が完成したわけですが、このままなら、東海道線が3線化したにすぎません。つまり、東海道線の大垣関ヶ原間に、1本の上り線と、2本の下り線が存在している状態です。
前のページから取り上げている、独立した単線の垂井線というのは、この状況では、まだ生まれてはいません。
ここで戦時に特有の措置がなされました。
せっかく3線化した大垣−垂井間ですが、逆に必要が無くなった本来の下り線=急勾配線は、折からの資材不足を解消するため、線路が撤去されることになってしまったのです。
この結果、この時点で、東海道線は、関ヶ原から急な下り坂を下りてくる上り線(垂井駅がある)と、北の山側を迂回する下り線(緩勾配線、新垂井駅がある)の上下線となりました。上下線が2kmから2km半も南北に離れる路線となってしまったのです。
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この時線路を撤去されたのは、3線化状態にあった東海道線の南荒尾−関ヶ原間にとどまりませんでした。
すなわち、戦争遂行のため輸送量の増強と資材の効率的な運用が優先され、重要物資の輸送に関係ない閑散線区の営業を一時的に休止し、そのレール・橋桁・枕木などを重要線区に移し替える措置が取られたのです。
その総延長は、1943・44年の2年間に、滋賀県の信楽線(現在は第3セクター)をはじめとして、20線23区間305.1kmにものぼりました。
これらの線区は、廃止線ではなく、あくまで休止線であったため、信楽線を含めて多くの路線が復活しています。 |
この結果、垂井町の住民は、岐阜方向へ向かうときは、垂井町の中心部の垂井駅から上り線に乗り、岐阜方面から帰ってくるときは、下り線(緩勾配線)の新垂井駅で降りて町の中心部まで戻るという不便を強いられました。
このため、太平洋戦争終結の翌年の1946(昭和21)年、2年前に線路をはがされた東海道線下り線(急勾配線)が再び敷設され(11月1日開通)、垂井町民は、上下線とも垂井駅を利用できるようになりました。
ただし、この復活線は、いつかの時点で、2本目の東海道下り線ではなく、まったく独立の単線路線、垂井線と位置づけられました。(いつの時点でそうなったかは、現時点では調べ切れていません。調査中です。)
当初は、この区間は未電化区間でしたから、特急などの長距離列車と長距離普通列車は下り線(緩勾配線)、新垂井駅を経由し、同じ下り列車でも、岐阜−垂井及び関ヶ原間の区間普通列車は、垂井線を経由するという運行形態が取られました。
この区間が電化されたのちは、列車のパワーが増加し、勾配を考慮することは必要なくなりました。それでも、現在に至るまで、貨物列車・寝台列車・特急電車は下り線(緩勾配線)を運行されています。
ローカル電車は、復活から40年間は、垂井線経由の電車と新垂井経由の電車の双方が運行されていました。
しかし、1986年10月に新垂井駅は廃止され、下り線(緩勾配線)は通過列車のみが運行され、普通電車は垂井線のみの運行となりました。つまり、普通電車に関しては、回送電車を除いては、東海道線上り線と垂井線の上下運行となったわけです。
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余談ですが、東海道線の電化に関しては、開通とは逆に西は遅れました。
明治中期の鉄道建設の際は、横浜−名古屋間より、名古屋−長浜間の方が早く開通しました。しかし、電化は東から順に進められたため、岐阜県内の電化は遅れ、名古屋−米原間の電化完成は、1955(昭和30)年でした。 |
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