岐阜県の東海道線あれこれ10
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 垂井線の謎4 南荒尾信号所

 大垣−関ヶ原間の東海道線の話をする場合、この二つの場所をはずすわけには生きません。南荒尾信号所と今は廃止となった旧新垂井駅です。

 このページは、南荒尾信号所を紹介します。またまたたくさんの写真と説明図をお楽しみください。

 まずは場所を確認してください。

 南荒尾信号所は、大垣から米原方面へ向かう電車に乗ると、大垣駅を出発して電車区を過ぎて線路が真西へ向かって直進しはじめるとすぐにある、線路の分岐点です。国道21号線の陸橋を越えたすぐ西側にあります。


 南荒尾信号所とは                               | このページの先頭へ |

 地図16は南荒尾信号所付近を示したものです。この信号所は、東京から413km077mの所にあります。
 信号所というのは、線路が分岐するところに設けられる場合と、単線区間で列車の行き違いをする場所に設けられる場合の二つがあります。南荒尾信号所は、前者の線路の分岐点にある信号所です。

 この地の東海道線(垂井−大垣間)は、1884(明治17)年に開通し、1901年には複線化されました。その時はまだ、ここには、分岐する線路はありませんでした。
 最初に分岐した線路は、今話題にしている
東海道線下り線(北回り勾配緩和線)ではありません。それは、この地点から真北に向かう東海道線の支線の線路の方でした。

 この南荒尾の真北には、金生山という小山がありますが、この山は、古くから石灰岩や大理石の産地でした。そこで、石灰や石材を鉄道で輸送するため、1918(大正7)年、南荒尾から分岐する鉄道の工事がはじまり、翌1919年8月1日に開通しました。これが現在の
美濃赤坂線です。現在では、分岐点のすぐ北に荒尾駅、そして終点には美濃赤坂駅があり、さらにそこから貨物輸送専用の鉄道会社、西濃鉄道の貨物線が金生山方面へ伸びています。

 そして、1944年の
東海道線下り線(北回り勾配緩和線)の開通によって、1本の線路が分岐して3本になる複雑な分岐点となりました。
前ページで説明したように、正確には、44年から46年11月までは、現在の垂井線線路がはがされていましたので、上の表現のとおりになるのは、46年11月からです。

上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用した写真から作成しました。下の地図17も同じです。この航空写真は、1977(昭和62)年のものですのでちょっと古いですが、鉄道や道路の基本的な位置関係は今も同じです。
国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


 上の信号所部分を拡大すると、下の地図17となります。
 以下、たくさんの写真で、信号所の様子・魅力(?)を紹介します。

 南荒尾信号所と線路                           | このページの先頭へ |

 南荒尾信号所で、線路はどのように分岐しているのでしょうか?線路をたどりながら説明します。
 まず、大垣駅方面から
南荒尾信号所に近づきます。

 下の写真10−01の青い陸橋は、国道21号線です。(上の地図17で確認ください。右端にあります。)

写真10−01(撮影日 08/01/19)

 東海道線下り線を走る電車の先頭車両からの撮影です。対向してくるのは上り線電車で、今まさに南荒尾信号所のポイントを通過しようとしています。
 国道の陸橋の手前に3つの信号機が見えます。一番左が青、隣が赤、そして右も赤です。これは何でしょうか。
 その部分を拡大したのが下の写真10−02す。


 写真10−02(撮影日 08/01/19)

 左の二つは、「」と「」、右の電車の上は「」の文字が見えます。
 これはもちろん、「
」=「垂井線」、「」=「東海道線下り線」、「」=「美濃赤坂線」の略号です。
 つまり、今現在私が乗車している下り電車は、この地点では通常の下り線路を走っていますが、この線路は先に見えるポイントの所で、「
垂井線」、「東海道線下り線」、「美濃赤坂線」の3線に分岐します。
 そのための信号表示がこれです。

 この電車は、垂井線を通って垂井に向かう電車ですから、信号所の信号は、「
」=「垂井線」がとなっています。


 電車は国道21号線の下を通過してポイントに近づきます。
 写真10−03(撮影日 07/09/01)

 一番手前のポイントで右へ行って東海道線上り線に一旦入り、さらに右へ行けば美濃赤坂線です。カーブを曲がって少し行くと荒尾駅があります。
 真っ直ぐ進んで、左に曲がれば、
垂井線です。
 そして、ずっと真すぐ進めば、東海道線下り線です。垂井線と平行してしばらく進みます。この写真では分かりませんが、やがて、垂井線と別れて、北へ進路を変えます。緩勾配のための迂回にはいるのです。

 この写真10−03は、通常の東海道線下り線の電車(つまり、垂井線経由垂井駅停車の電車です)ですから、ポイントはもちろん、左の
垂井線へ進むように切り替えられています。


 では、分岐ポイント部分のダイナミックなアップ写真10−04をご覧ください。
 写真10−04(撮影日 08/01/19)

 真っ直ぐ進めば東海道線下り線、左へ行けば垂井線、そして、右へ行って東海道線上り線に一旦入り、さらに右へ行けば美濃赤坂線です。

 ポイントはもちろん、左の
垂井線へ進むように切り替えられています。


 応用編です。
 
南荒尾信号所のポイントを西側から見ると、次の写真10−05のようになります。

 写真10−05は、
東海道線上り線を垂井方向から進んできた電車が南荒尾信号所にさしかかる手前で先頭車両から撮影したものです。
 この列車が進む上り線は、もちろん直進するようにポイントが設定されています。
 では、下り線はどうでしょうか、?
 大垣方面から貨物列車が進んできています。
 さて、下り線側のポイントはどうなっているでしょうか。

 写真10−05(撮影日 08/01/19)

 下り線側は、今までの写真10−04までとは違って、垂井線(写真右)へ分岐するのではなく、下り線を真っ直ぐ進むポイント設定となっています。
 貨物列車は、急坂の垂井線ではなく、
東海道線下り迂回線(勾配緩和路線)を進んで関ヶ原へ向かいます。


 南荒尾信号所と電車                          | このページの先頭へ |

 この項目では、信号所を通過する電車に注目して信号所の概要を説明します。
 まず写真10−07は、このポイントでごく普通に見られる垂井線経由の関ヶ原行き電車です。一番左の線路を通って、垂井駅へ向かいます。

 写真10−06(撮影日 07/12/26)
 写真10−06の上部、右の山と左の山が低くなっている鞍部が関ヶ原の峠です。

 次の写真10−07の電車はなかなかレアな電車です。どういう点がレアなのでしょうか?
  写真10−07(撮影日 07/09/09)

 写真10−06の電車が通常の電車のとおり垂井線に向かっているに対して、写真10−07の電車はポイントを通過して、東海道線下り線(迂回線=勾配緩和線)に入っています。
 このまま行くと、どこの駅にも止まらず垂井の北側の山々を迂回して関ヶ原まで行ってしまいます。
 これはどうしてでしょう?

 実は、この写真は、午前5時半過ぎに早朝に撮影したものです。
 これこそが、
関ヶ原駅5時55分発の大垣方面一番電車になるために関ヶ原に向かう回送電車なのです。この電車が、営業車両としてお客を乗せて関ヶ原から大垣へ戻ってくる時、関ヶ原から垂井までは、一見右側通行電車となります。


   写真10−08(撮影日 07/09/09)
 これは同じ下り線(緩勾配線)へ向かうコンテナ貨物列車です。

 下の写真は、上り線を大垣方面へ向かうコンテナ貨物列車です。
 写真10−09(撮影日 07/09/09)

 ポイントが切り替わりました。信号所ですから当たり前ですね。では、次の電車はどこへ行くのでしょうか?

 写真10−10(撮影日 07/09/09)

 写真10−10のポイントの設定は美濃赤坂行き電車のためのものでした。
 写真10−11(撮影日 07/09/09)  写真10−12(撮影日 07/09/09)

 次の写真10−13は富山行き特急しらさぎの最後尾車両です。ガードの下をくぐっていますが、これは南荒尾のどの部分でしょうか?

 写真10−13(撮影日 07/09/09)

 この部分は、東海道線下り線(迂回線=緩勾配線)が、上り線垂井線と別れて北に迂回していく始点の部分です。上は上り線です。下り線はその下をくぐって北へ迂回します。


 写真10−14は垂井線を走る電車内から見たとなりの東海道線下り線です。上り線をくぐるガード部分が見えます。
 写真10−15
垂井線を走る電車。
 写真10−16
上り線を走る電車。
 写真10−17
上り線をくぐる下り線の特急しらさぎ。背景は伊吹山です。
写真10−14(撮影日 07/09/01)
 写真10−15(撮影日 07/11/25)  写真10−16(撮影日 07/11/25)
 写真10−17(撮影日 07/12/01)

 南荒尾信号所の周囲                           | このページの先頭へ |

 信号所については、以上の17枚の写真でほぼ全貌がおわかりと思います。こんなに分かってどうするんだというぐらいの写真でした。ゲップがでそうです。(--;)

 ついでですから、南荒尾の周囲も紹介します。

 写真10−18(撮影日 07/12/26)

 この写真に写っているのは、南荒尾信号所へ向かって走っている上り線の貨物列車で、下をくぐって北へ迂回する下り線をまたいでいるところです。背景は伊吹山です。

 ところで、手前の田んぼには、緑色のショベルカーとダンプが映っています。これは何でしょうか。


 別の日には次のようになっていました。
写真10−19(撮影日 07/11/25)
 写真10−19写真10−20も保護用の青いシートと、緑色のベルトコンベアーが置かれています。
 写真10−20(撮影日 07/11/25)

 正体はこれです。

 
南荒尾信号所のすぐ南の地域一帯は、荒尾南遺跡と呼ばれる大規模な遺跡だったのです。

写真10−21(撮影日 07/11/25)
写真10−22(撮影日 07/12/26)

 
 この遺跡は、2006(平成18)年と2007(平成19)年の2ヶ年にわたって大規模な発掘調査がなされました。以下は、岐阜県埋蔵文化財保護センターの広報からの引用です。

「荒尾南遺跡は、東西約250m、南北650mに及ぶ県内最大規模の遺跡です。
 これまでの発掘調査で、弥生時代から古墳時代にかけての方形周溝墓や杭列などの遺構が見つかり、弥生土器・土師器・木製品など約5万点が出土しています。出土遺物の中でも、82本の櫂を持つ大型船を描いた線刻絵画土器は、東海地方に類例のないもので全国的にも注目を集めました。
 また、平成18年度の発掘調査では、60万点もの土器が出土し、弥生時代中期の方形周溝墓や弥生時代後期から古墳時代初頭に機能していたと考えられる大溝などの遺構を発見しました。
 平成18年度の発掘調査により、直径8.5cmの銅鏡「倭鏡」(日本製の鏡)が完全な形で出土しました。これは、「重圏文鏡」(同心円を複数重ねて文様を描いた鏡)と呼ばれます。」

 ※財団法人岐阜県教育文化財団文化財保護センター編
  「センターだより きずな ぎふの埋蔵文化財 50 2007.11.1」

 この遺跡は、今は埋め戻されてしまい、東海道線の電車の中から眺めることはできません。残念です。


 さて最後の写真です。
 貨物列車が通過している踏切の向こうの社叢は、この地域では有名なある神社のそれです。
 神社の名は、
御首神社(みくびじんじゃ)といいます。

 
御首神社は、日本史の教科書に登場するあの平将門(たいらのまさかど)の首を祀った神社です。
 関東の地で反乱を起こした
平将門の首を祀った神社がどうして岐阜県にあるのでしょうか?。
 詳しくは、御首神社のHPをご覧ください。こちらです。
→http://www.mikubi.or.jp/

 写真10−23(撮影日 07/11/25)

 今回も長くなりました。
 これで、
南荒尾信号所の紹介を終わります。
 電車や国道21号線で大垣から関ヶ原・米原方面へ向かう時、よく注意してご覧になってください。

 次は、垂井線の謎5、垂井線に関しては最後のページとなる、「
旧新垂井駅」です。


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