岐阜県の東海道線あれこれ11
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 垂井線の謎5 旧新垂井駅

 前ページの南荒尾信号所に続いて、このページでは、廃駅となった旧新垂井駅を紹介します。
 またまたたくさんの写真と説明図をお楽しみください。


 旧新垂井駅とは

  まずは場所を確認ください。


 旧
新垂井駅は、南荒尾信号所で分岐した東海道線下り線(迂回線、勾配緩和線)が垂井町岩手の田園地帯を横切るところに、同路線の開通と同時に1944年に新設されました。
 それまでの東海道線(上り線と現垂井線)の垂井駅とは4km程離れています。
 
 東海道線の下り迂回線(緩勾配線)が開通し
新垂井駅が開設された後、それまでの東海道線下り線の線路は撤去されてしまいました。
 その後、1946年に再敷設されるましたが、
この間は、垂井町民は、大垣方面へ向かう時は、垂井駅から上り電車に乗り、大垣から垂井へ帰る時は、下り電車の通る新垂井駅で降りなければならないという不便を強いられました。

 しかし、1946年に現在の
垂井線が再敷設され、下り電車が停車する駅が二つ生まれました。ただし、新垂井駅は、下り電車しか停車しない駅であることはかわりありませんでした。

 そういう意味でローカル中のローカルの駅でしたが、比較的長く続きました。しかし、利用者の減少によって、ついに
1986(昭和61)年10月に廃止されました。この結果、このページでは、旧新垂井駅と表現します。
  ※詳しい説明は、「東海道線あれこれ9 垂井線の謎5へどうぞ


 旧新垂井駅の様子

 まずは、旧新垂井駅の様子です。
 いつもの国土交通省の航空写真で旧新垂井駅の様子を確認します。ただし、ちょっと古く1982年の写真です。集落や道路は現在と違いますが、鉄道や丘陵の基本的な位置関係は変わっていません。


写真11−01
 1982(昭和57)年の新垂井駅周辺航空写真。中央を左右に横切っているのが東海道線下り線(緩勾配路線)です。新垂井駅は写真のちょうど真ん中にあります。 

写真11−01〜03は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。


 少し拡大します。
 写真の中央が旧
新垂井駅です。ただし、上の写真よりさらに古く、1975(昭和50)年のものです。

 写真11−02
この写真の頃、私は大学生で、岐阜と大学のある京都の間を行き来していました。利用した電車は、もっぱら名古屋と大阪を結んでいた
急行比叡(ひえい)でした。
 
急行比叡東海道線下り線(緩勾配線)を通っていました。新垂井駅には停車しませんでしたが、この辺が大変のどかな田園地帯だったことを覚えています。

 ちょっと脱線ですが、写真11−01
と比較すると水田の形状が異なっていることが分かります。02の写真の後、耕地整理(圃場整備)が行われて、水田の形状が長方形に変わったわけです。


 写真11−03
 11−02の写真の駅の部分をもっと拡大してみました。写真に写っている新垂井駅下り線だけの単線ですが、通過線(北側)と停車線(南側)の2本の線路があり、南側にホームが設置されていました。

 写真の左端の踏切が駅ホームの西端です。架線柱の5本間隔分以上もある長大なホームです。私鉄のローカルな駅とは違って、田舎駅とはいえさすが国鉄の駅です。



 ホーム西端の踏切は
大石踏切です。ごく普通の田舎の踏切です。東京からの距離は421km458mです。

 写真11−04                                     (撮影日 07/07/16)

 大石踏切から西側の線路を撮影したものです。夏の垂井の山々を背景に、下り勾配緩和線の線路が西に延びています。山に突き当たったところで南に曲がり、トンネルを3つくぐって関ヶ原駅手前で上り線・垂井線と合流します。
 大石駅の西側にも旧
新垂井駅の引き込み線が残されています。かつては保線車両でも置かれていたのでしょうか。


 写真11−05                                                           (撮影日 07/12/05) 

 初冬の大石踏切からの撮影です。旧新垂井駅を通過した特急しらさぎ号が関ヶ原へ向かいます。


 旧新垂井駅が有名になった時

 この新垂井駅が有名になった時があります。

 かの有名なミステリー作家、
西村京太郎氏によって、この駅を舞台とした小説『ミステリー列車が消えた』が発表された時です。1982(昭和57)年のことでした。

この小説は、当初週刊新潮の1981年7月16日号から82年3月18日号に連載され、82年7月に新潮社から長編小説として刊行されました。
以下の引用は、1985年初版発行の新潮文庫版の41刷によっています。


 この小説は、東京を出発した臨時の
ミステリー列車(寝台列車)の乗客が途中で消えてしまい、犯人が多額の身代金を奪うというあらすじです。

 ミステリー列車のというのは、今でも時々計画される、参加者募集の段階では行き先が不明となっているの企画列車です。
 
東京駅10番線を23時59分に出発したミステリー寝台列車は、本当は東海道線を京都まで進み、そこで乗客が一旦下車して梅小路機関区を見学した後、電気機関車をデーゼル機関車に変えて、非電化区間の山陰本線に入って鳥取に向かうという計画でした。
 
 ところが、この列車は乗客を人質にして身代金を奪おうとする犯人グループのターゲットにされ、400人もの乗客が消えてしまったのです。
 到着するはずの鳥取駅では、翌日の到着時刻15時5分になってもミステリー列車はやって来ませんでした。
 


「 午後4時を過ぎると、事態は、一層悪化した。
 16時29分(午後4時29分) に、「まつかぜ3号」が、到着したからである。
 まつかぜ3号は、大阪発鳥取行で、福知山から山陰本線に入る。
 ミステリー列車より、後から来る筈の「まつかぜ3号」が、先に到着してしまった。
 事態は、もはや、明白である。四百人の乗客を乗せたミステリー列車が、どこかへ消えてしまったのだ。
 待ちくたびれたミス・砂丘は、気分が悪くなったといって、駅の事務室で寝てしまい、駅長は、至急、事情を調査するように、阿部助役に指示した。
 阿部は、国鉄で働くようになって、すでに二十五年になる。先月の十七日で、満五十歳を迎えが、彼の長い国鉄での生活の中でも、今度のような事件は、初めてだった。
 機関車に、十二両の客車が連結されているのである。一台の車両の長さは、約二十メートル。十二両なら二百四十メートルである。それに、機関車が電源車と接続されているのだから、二百五十メートルを越える。しかも、誰も乗っていない、空の列車ではない。四百人の乗客と、乗務員が乗っているのだ。
 それが、消えてしまうなんてことは、どう考えても、合点がいかなかった。
 幸い、通常の列車は、正常に動いている。
 ミステリー列車が、どこかで、脱線事故でも起こして、山陰本線が、マヒしてしまったのなら、苦情が殺到し、全職員をあげて、復旧に努力しなければならないし、お客からの問い合せに、きりきり舞いさせられるのだが、それはない。
 静かである。何ごともなく、列車は、動いている。苦情の電話も鳴らない。山陰本線のホームからは、今、上りの「まつかぜ4号」が発車するところだった。
 阿部は、自分の懐中時計に眼をやった。一七時〇一分。まったく、定刻通りの発車である。
 何の変ったところもない。一本の臨時列車が、消えてしまったこと以外には。」

  ※前掲書P28


  実はこの列車は、東海道線下り線(緩勾配線)を通り、予定では停車するはずのない新垂井駅で停車し、犯人一味によって、乗客はそこで降ろされ、別の場所に監禁されてしまっていたのでした
 列車の運転手も一味に加わっていたというのがミソです。

 十津川警部らは、ミステリー列車から400人もの乗客を降ろすことができる駅の条件を推理します。


一、

夜が明けてから、(午前六時頃)十二両編成のブルートレイン (ミステリー列車)が停車し、四百人の乗客が降りても不審に思われないこと。

二、

鉄道ファンが興味を持つような駅であること。

三、

ホームの長い駅であること。

四、

駅の周辺に人家がないこと。

五、

反対側の上りの線路に、電車が入って来ないこと。

六、

ホームに乗客がいないこと。

「「これだけの条件を備えた都合のいい駅が、東海道本線に実在すると思いますか?」
 北野が、また、溜息をついた。
「相矛盾するような条件を含んでいますからねえ」と、島崎がいった。
「ホームの長い駅というのは、大きな駅ということになりますよ。ところが、駅のまわりに人家がないこととか、乗客がいないこととなると、田舎の小さな駅になってしまう。それに、東海道本線は、全線、複線なんです。反対の上り線路の列車から見られないことというのは、午前六時頃という時間では、無理なんじゃありませんか?」
「しかし、この六つの条件を満たす駅があったからこそ、犯人は、ミステリー列車から、四百人の乗客を、誰にも知られずに、降ろして、どこかに隠すことに成功したんですよ」」

  ※前掲書P206


 ここまでこの「垂井線の謎」1〜4を読んでこられた皆様には、新垂井駅が上記の条件を満たすことを容易に理解いただけると思います。長さ250mを越える列車が世間的には目立たずに停車できる駅、それがこの新垂井駅だったのです。
 いやむしろ、作者、西村氏の心理を推定すれば、先にこの駅の存在を知って、この駅を舞台としたミステリー小説を構成されたというべきでしょうか。
 見事な設定でした。 


 写真11−06                              (撮影日 07/07/16) 

 大石踏切から東、つまりホーム側を撮影したものです。ホーム側の線路は撤去され、通過線のみとなっていますが、国鉄時代の長大なホームは樹木と草の中に今も健在です。


 写真11−07(撮影日 07/07/16)

 写真11−08(撮影日 07/07/16)

 写真11−07は現在のホームを西から撮影したもの。
 写真11−08は同じく東から撮影したもの。ホームの長さもすごいですが、ホームの幅もすごいです。舗装してあるところは幅3メートルほどですが、草の中にあるホーム端の杭の部分までは10mはあります。


 写真11−09(撮影日 07/07/16)

 写真11−10(撮影日 07/07/16)

 写真11−09は現在の旧駅前広場。 写真11−10は駅舎の跡。


 西村京太郎氏は、現役時代の新垂井駅を小説の中で次のように描写しています。


「「ひどいねえ。まるで廃駅じゃないか」
 十津川は、呟やきながら、改札口を抜けて、ホームに出た。
「しかし、ちゃんと時刻表にのっているんですよ」
 と、北野が、十津川のあとに続きながら、いった。
 屋根もなければ、ベンチ一つない。ただホームが、長く伸びている。十津川は、その長さを測るように、端から端まで歩いてみた。途中で段が出来ているところをみると、継ぎ足したのだろう。無人駅にしては、長いホームだった。百五十メートルは楽にありそうだった。
 ホームは一つだけで、下りの線路が、まっすぐに伸びている。
 ホームの近くに、もう一本、追抜き用の側線が敷かれていたが、最近は、全く使われてないらしく、赤く錆びていた。
  線路の向うは、稲が青々と風にゆれる畠が広がり、更に眼をその先にやると、低い山脈が迫っていた。
 人家は殆ど見えず、頭上には、のんびりと、トンボが、飛びかっていた。
 じっと立っていると、眠くなりそうな静けさである。」

  ※前掲書P211


 上の航空写真を見ていただければ分かりますが、近くに集落はあります。ちょっと誇張した表現ですね。
 ただし、この時は現役でしたが、廃駅となったのは、この小説が出版されて僅か4年後でした。 


 写真11−12                               (撮影日 07/12/05) 

 初冬の旧新垂井駅跡を通過する特急しらさぎ号。


 さて、最後はこのページの一番のお宝写真の紹介です。
 西村京太郎の『ミステリー列車が消えた』では、23時59分に東京駅10番ホームを出た寝台列車が、早朝6時頃に新垂井駅に停車し、犯人達の計画にはめられて下車させられることになっています。

 現在、この駅を通過する寝台列車を撮影することはできるでしょうか?

 これもまず時刻表を探しました。
 東海道線下り線を通る寝台列車は、次のとおりです。

 
東海道線下り線旧新垂井駅を通過する寝台列車

寝台列車名

東京駅
発時間

名古屋駅
発時間

岐阜駅
発時間

旧新垂井駅
推定通過時刻

特急富士(大分)・はやぶさ(熊本)

18:03

22:47

23:07

23:28前後

特急サンライズ瀬戸(高松)・出雲(出雲)

21:48

03:30前後

特急サンライズゆめ(広島)

22:10

03:50前後

急行銀河

23:00

05:01

05:22前後


 

この記事を書いた後、次々にブルートレインは廃止となり、2009年12月現在では、この路線を通過するブルートレインは、サンライズ瀬戸(サンライズ出雲を併結)のみとなりました。

 ブルートレインも東海道線を通るものは少なくなりました。
 一目見ておわかりですね。撮影可能なものは、
急行銀河のみです。
 朝5時22分頃通過ですから、夏限定版です。
 
 お待たせしました。朝4時起きで出かけて撮影したのが次の写真です。


 写真11−13                                    (撮影日 07/07/16) 

 夏の早朝、新垂井駅に停車するミステリー列車(+_+)、いや、ごく普通に旧新垂井駅を通過する、寝台急行銀河です。午前5時20分過ぎの撮影です。


 現在も迂回線は必要か?

 「垂井線の謎」シリーズの最後に、東海道線下り線(緩勾配線)の必要性、垂井線との併存について付言します。
 
 そもそも東海道線下り線(迂回線・緩勾配線)は、蒸気機関車時代に考えられたものです。
 登坂力が弱い蒸気機関車では、それまでの下り線(現垂井線)の25/1000の勾配は大変きつく、補助機関車が必要でした。
 しかし、現在は電車が主流です。東海道線下り線(緩勾配線)の必要は本当にあるのでしょうか?

 JRの詳しいルールは知りませんが、次のことは事実のようです。

 東海道線下り線(迂回線・緩勾配線)は現在も東海道線の正式な路線で、勾配が緩いため、特急しらさぎ等は俊足を飛ばして快調に関ヶ原に向かいます。 

 

 垂井線(もともとの下り線、急勾配線)は、現在は本線ではないため、線路の基盤が異なるとかの理由で最高速度は85kmに制限されています。


 写真11−14(撮影日 08/01/19)

 写真11−15(撮影日 08/01/19)

 写真11−14は垂井線(急勾配線)を垂井から関ヶ原に向かう電車の速度計。大垣駅11:04発、219F電車が関ヶ原(発時間11:18)駅に着く直前の時点の速度計です。85kmです。
 
 写真11−15
は東海道線上り線を関ヶ原駅から大垣へ向かう電車の速度計。 こちらは110kmを越えています。


 写真11−16                                              (撮影日 08/01/19) 

 関ヶ原駅を出て垂井駅に向かう途中の上り線電車の先頭からの撮影です。
 はるか下の方に大垣の街が見えます。中央下に横たわる緑の部分は、大垣市街地と赤坂との間にあるお勝山です。この勾配は相当なものです。


 これで、「垂井線の謎」1〜5シリーズを終わります。
 次は、「
穂積駅建設と高架」です。長良川鉄橋−揖斐川鉄橋間の高架についてお話しします。


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