岐阜県の東海道線あれこれ1
 写真を題材に、岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 どうして岐阜県に「東海道線」が・・
 はじめに

 今年(2007年)に入って、東京や横浜の東海道を歩いて、「街道を歩く」というページを作りました。(まだご覧になっていない方は、こちらです。→)東海道を歩いて、日本橋品川駅生麦事件の現場などを巡ったものです。
 このページの内容は、実は、街道を歩くといっておきながら、その興味の半分は、
新橋−横浜間の鉄道建設に関することになっていました。
 
 「今度は、全面的に鉄道のことを書いてしまおう。」
 それが、このシリーズです。
 東海道線について書き始めるきっかけは、下の本との出逢いです。

 国鉄に奉職以来長く鉄道建設に従事された戸田清さん(現在岐阜県瑞穂市在住)の著書、『東海道線の発祥から郷土の鉄道を検証する 「穂積駅」開業100周年記念』(自家出版 2006年)です。

 戸田さんが、瑞穂市が学校5日制をきっかけに設定した土曜日の文化講座「瑞穂総合クラブ 鉄道研究」で講演されたことをまとめられたものです。
 
 橋梁の建設にかかわる話等、興味深い内容が盛りだくさんです。

  

 小さい頃からの鉄道好きです。
 こんなシリーズを作ったら、きっとはまってしまうに違いありません。
 それでも、このサイトは、「教育の素材」の提供が売りですから、単なる撮り鉄さん、乗り鉄さんとは違う魅力をだそうと思います。
  「名鉄揖斐線廃線物語」の時がそうであったように、
岐阜・美濃の歴史や地理をちりばめて、「目から鱗」の東海道線物語ができるように、頑張ります。
 ご期待ください。


 どうして岐阜県に「東海道線」が

 さて、まず素朴な疑問です。
 現在のJR東海道線は、東京から名古屋までは、江戸時代の街道「
東海道」に沿って線路が敷かれています。当たり前ですが、それだから東海道線という名前が付いたのでしょう。

 しかし、名古屋からは、
旧「東海道」は熱田・桑名間の七里の渡しによって木曽・揖斐・長良の河口を迂回し、伊勢の国(三重県)の桑名へと向かいます。(正確には、現在の名古屋駅の手前に熱田があり、そこから海上路となります。)
 そのあと、
四日市・亀山・鈴鹿を経て鈴鹿峠を越えて滋賀県に入り、水口を経て草津から大津・京都へと向かいます。
 
 一方の現JR東海道線はいうと、
名古屋から北上して岐阜へ向かい、岐阜でほぼ90度西へと向きを変えて、大垣・関ヶ原を経て滋賀県へ入ります。湖東を南下した後、草津で旧東海道と再び出会います。
 岐阜から草津までは、旧東海道とはまったく別のルートであり、実は、それは、旧中山道に沿ったルートとなっています。
 つまり、岐阜県に置いては、現JR東海道線は、「東海道線」というよりは、ほとんど「
中山道線」です。
 
 なぜ、
このように途中で東海道線から中山道線に「変身」しているのでしょうか?別の言い方をすれば、何故中山道しか通っていない岐阜県内に、JR東海道線が走っているのでしょうかということになります。


 明治時代の鉄道建設 −東西を結ぶ幹線鉄道建設について−

 まずは、歴史の勉強です。
 
高等学校の日本史の教科書レベルでは、日本における鉄道建設については、それほど詳しい記述があるわけではありません。
 お馴染みの山川出版の教科書には明治時代の鉄道建設について、次のように書かれています。(赤字は引用者が設定)

「鉄道業では、華族を主体として1881(明治14)年に設立された日本鉄道会社が、政府の保護を受けて成功したことから、商人や地主による会社設立ブームがおこった。その結果、東海道線(東京・神戸間)が全通した1889(明治22)年には、営業キロ数で民営鉄道が官営を上まわった。日本鉄道会社が1891(明治24)年に上野・青森間を全通させたのをはじめ、山陽鉄道・九州鉄道などの民営鉄道はさらに幹線の建設を進め、日清戦争後には青森・下関間が連絡された。」

※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P279

 これでは簡単すぎて、なぜ岐阜県の中を東海道線が通っているか分かりません。
 
もう少し詳しく、明治時代の鉄道建設の過程を調べてみなければなりません。


 基本的な問題を4つのクイズにしてみましょう。
 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。
 クイズ01と02は、比較的よく知られた問題です。
 クイズ03と04はちょっと難しい問題です。特に、04を知っている方は、鉄道史の達人です。
 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 クイズ04は、難問です。説明が必要です。
 
敦賀は日本海側の物資を京都・大阪へ送るための拠点でした。一方、武豊は、幹線鉄道建設のための物資の供給拠点という意味合いが強い駅でした。
 そういわれても、意味がよく分からないという方もおられるでしょうから、1887年時点の日本の中央部の鉄道路線建設の状況を以下に示します。

 これを見ると、神戸−大阪−京都は、別として、南北縦貫線と、中山道路線の東西幹線鉄道が、同時に敷設されつつあることが分かります。

 現代の発想からすると、1872年に新橋−横浜間が開通したのですから、そのあと、横浜から西が着々と建設されていったと思うのが普通です。
 しかし、横浜以西の鉄道建設には長い間許可が下りず、まずは、旧中山道に沿った路線建設が進められていたのです。
 
東海道線建設の着工指令が出されたのは1886年の7月、横浜と愛知県の大府を結ぶ工事が開始されるのは、同年の11月のことです。
 つまり、新橋−横浜の開通以来、実に、14年間も横浜以西への鉄道建設はなされなかったわけです。
 
 ところが、建設を開始するとその工事スピードたるや立派なもので、僅か2年半後の
1889年4月には、横浜−大府間が完成しています。 


 明治時代の鉄道建設の歴史
 上のクイズの答えを説明するために、日本の鉄道建設史の概要のうちの関係分を示していくと、以下のようになります。

年代に関しては、日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史年表』(1972年)、同『日本国有鉄道百年史第一巻』を参考にしました。
図に関しては、吉川文夫著『東海道線130年の歩み』(グランプリ出版部2002年)等を参考にしました。


明治時代の官営鉄道建設に関する年表 
年・月 開通区間及び事件
1872年 09 新橋−横浜(29km)
1874年 05 神戸−大阪(32.7km)
1877年 02 大阪−京都(43.1km)
1880年 07 京都−大津(18.2km) ※これにより神戸−京都(94.2km)間が開通
1882年 03 金ヶ崎−長浜(38.6km)※途中の柳ヶ瀬トンネルは未開通。2年後、1884年開通。(42.5km) 
05 大津−長浜間に太湖汽船開業
11 長浜停車場駅舎完成(現存する最古の駅舎)
1883年 05 長浜−関ヶ原(23km)
07 日本鉄道、上野−熊谷(61.2km) 08熊谷−本庄 12本庄−新町 
10 太政大臣、中山道幹線の建設を指令
1884年 05 関ヶ原−大垣(13.6km)
日本鉄道、新町−高崎 ※これにより上野−高崎間全通
1885年 03 工部省鉄道局長、「東西幹線は加納(岐阜)から名古屋を経て中山道にはいるべきである」として、その資材輸送線として半田線(名古屋−半田、半田は武豊の北の町)の建設を工部卿(大臣)に上申 06太政大臣、半田線建設指令
10 高崎−横川(29km)
1886年 03 武豊−大府−熱田(33.2km) ※現名古屋の3つ南の駅 05熱田−一ノ宮 06一ノ宮−木曽川 
07 幹線鉄道建設を中山道から東海道に変更 伊藤内閣総理大臣が東海道幹線鉄道着工指令
11 横浜−大府間、建設工事開始
12 揖斐川橋梁、長良川橋梁完成(木曽川橋梁は建設中)
1887年 01 大垣−加納(岐阜) 04加納−木曽川 ※これにより金ヶ崎−武豊間開通
07 横浜−国府津(神奈川県 49.8km)
1888年 03 加納停車場の位置を西へ移転 12加納停車場を岐阜停車場と改称
09 大府−浜松(89.4km)
1889年 02 国府津−御殿場−静岡(114.8km)
04 静岡−浜松(76.3km) ※新橋−長浜間に直通列車運転開始 琵琶湖の太湖汽船を利用して新橋−神戸間の列車・蒸気船輸送完成
07 湖東線 馬場(現膳所)−米原−深谷(69.6km) 米原−長浜(7.4km)
鉄道による新橋−神戸間全通
1891年 10 濃尾大地震発生 木曽川・長良川・揖斐川橋梁損壊
1895年 04 東西幹線の名称を正式に「東海道線」と制定
1899年 10 米原−関ヶ原間に柏原経由の新線開通
  

 まとめです。
 岐阜県内の現東海道線は、神奈川県の西半分、静岡県、愛知県などのそれよりも随分速く建設されました。当初は、
東西幹線「中山道線」の一部として位置づけでした。
 ところが、1886年に示された
東西幹線鉄道路線の中山道から東海道への変更によって、横浜−大府が東海道線として建設されて接続された結果、その時点ですでに建設されていた、大府−名古屋−岐阜−米原(米原−深谷間を新設し、長浜経由から路線変更)と、同時に完成した米原−大津とを併せて、東西幹線鉄道が完成し、それがのち、名付けられて、「東海道線」となったわけです。
 つまり、当初は、岐阜県内においては、そのものずばり「中山道線」が建設され、それが、途中で事情が変わって、「東海道線」の一部にされてしまったというわけです。

 これが、
本来は中山道が通っていた岐阜県内を、「東海道線」が走っている理由です。


 付録です その1 武豊線 −愛知県最初の官営鉄道路線−

 「愛知県で最初に建設された官設の駅と鉄道線路はどこでしょうか」という質問は、知識として知っていなければ、正解を答えることはほぼ不可能です。
 名古屋でも岡崎でも豊橋でもなく、
武豊線と武豊駅です。
 開業当初だけ主役を演じ、それ以後ずっと脇役を続けているローカル線を訪ねてみました。

 愛知県で最初に敷設された武豊線は、東海道線大府駅から分岐して知多半島の武豊に向かうローカル線です。
 東海道線建設時には、武豊港に運ばれた資材を陸送する重要な役割を担っていましたが、現在は、名古屋方面へ向かう通勤通学客を運ぶ路線です。
 非電化区間で、通常は2両編成のディーゼルカーがのんびりと走っています。乙川駅での上下線のすれ違いです。(撮影日 07/10/28)

 年代を感じさせる半田駅の跨線橋と煉瓦造りの建物。

 武豊線と並行して、電化されている名鉄半田線が走っているため、こちらは苦戦です。

 終点武豊駅。
 大府駅からは、19.3km、30分あまりの短い路線です。
 

 終点武豊駅に着く寸前の車内から撮影。
 武豊駅は、この路線ができた当時はもっと先の海沿いにあり、船から陸揚げされた物資を貨物で運ぶ重要な駅でした。
 写真の線路の先は、800mほどは空き地になっていて、線路が敷かれていた往時をしのぶことができます。
 空き地の向こうは住宅地になってしまっていますが、海の近くに古い転車台が残っています。帰りの時間が迫っていて、撮影できず残念。


 付録です その2 現北陸線長浜駅 −日本で一番古い駅舎が現存−

 今は北陸線のローカル駅となっている長浜駅は、我が国の鉄道建設の黎明期には、重要な役割を演じた駅でした。
 日本海岸の敦賀と長浜を結んだ官営鉄道の起点として、また、琵琶湖水運の拠点港として、さらに東へ向かう東西幹線の中継駅として、いくつもの役割を担っていました。

 幸いなことに、
1882年に作られた洋風2階建ての旧駅舎が現存しており、JRと長浜市は、一帯を長浜鉄道スクエアーと称して、博物館を設置し、観光の目玉の1つとしています。

 長浜駅の2階から見た駅構内の写真です。南方向、米原側を撮影しました。

 通過している列車は、イベント列車になっているSL牽引列車、
北びわこ号です。
 手前に向かっているのではなく、電気機関車にひかれて米原方面へ回送中です。

 写真右手のミント・グリーンの屋根のある地域が鉄道スクエアです。
(撮影日 07/11/23)


 長浜駅南の踏切からの撮影です。
 左手の白い建物が、1882年築造の旧長浜駅です。
 後のミント・グリーン色の屋根の建物は
鉄道文化館北陸線電化記念館で、資料やSL・電気機関車が展示されています。


 旧駅舎の正面です。
 この駅舎は、1882年に築造されました。

 1958年に第一回の
鉄道記念物が指定された際に、「1号機関車」(1872年の鉄道開業時の蒸気機関車、現在はさいたまのJR鉄道博物館に保存)や「鉄道0哩標識」(旧新橋駅の起点標識)などとおもに、記念物に指定されました。


 鉄道文化館内部にある、開業当時の長浜駅のパノラマです。
 
中央の白い建物が現存する駅舎です。
 方向は上が北です。長浜駅は上の年表(↑)にあるように、1882年に開業しました。日本海側の金ヶ崎(敦賀)と結ぶための駅ですから、線路は駅舎から北へ延びています。
 翌1883年に長浜−関ヶ原間が開通しますが、その線路も当初は駅からは北へ向かって伸びすぐに東に向きを変えて滋賀県・岐阜県境を越えるという路線で敷設されていました。

 1887年の武豊−金ヶ崎が全通した段階では、金ヶ崎−長浜と長浜−武豊は、
長浜駅でY字路線(スイッチバック)となっていました。
 1889年の東海道線全通の時には、長浜−米原間が新たに建設され、上の写真の現在の路線のように、駅舎の東から南の米原方面へと新しく線路が敷かれたのでした。
 
 また、今とは違って駅舎のすぐ西側まで琵琶湖の湖水が入り込んでおり、駅舎のすぐ西に波止場があり、そこには
琵琶湖水運太湖汽船の船が浮かんでいます。1889年7月の湖東線(長浜−米原−馬場(膳所))開通までは、この区間は汽船が交通手段でした。 

 駅舎の内部、右の写真は待合室です。当時の服装をした人形が置かれています。

 太湖汽船の船、湖水丸です。
 明治時代中期に琵琶湖水運の船として活躍しました。
 

 
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