それでは、何故日本橋川にかかる日本橋が五街道の起点となったのでしょうか?
そもそも徳川家康が関東への領地替えを命じられた際に、この江戸を本拠地に選んだのは、次の理由とされています。(赤文字や行間調整は引用者が施しました。)
|
「 1590年(天正18)、徳川家康は関八州の領主として江戸に入った。後北条氏の拠点であった小田原ではなく、この江戸の地を選んだのは、太田道潅の江戸城以来の城下町としての基礎もあったであろうが、関東平野の中心の交通の要所であり、かなりのにぎわいを見せていた江戸湊による水運、墨田川河口に位置することによる河川交通など、関東一円を支配するための絶好の立地条件を備えていたことが大きいだろう。」
|
※ |
玉井哲雄著「都市の計画と建設」『岩波講座 日本通史第11巻近世1』 (岩波書店 1993年)P93 |
では、最初の江戸の町はどんな規模だったのでしょうか?
|
「 家康入府以前の戦国期段階の江戸の都市形態は、その地形および近世に継承された地割などから、後の江戸城本丸の位置にあたる高台の江戸湾を望む突端に中世江戸城があり、2キロメートルほど離れた江戸湊との間は、後の本町通りにあたる奥州街道が結び、さらに近辺では最大の都市集落であった浅草寺門前につながっていたと考えられる。1590年の入府早々に家康は、江戸前島と呼ばれた半島の根元を横断する道三掘という船入り掘を開削しているが、これは江戸湊という流通拠点ないし市場を江戸城下に組み込む重要な工事であった。
この天正期江戸の都市形態で注目されるのは、江戸城、奥州街道沿いの本町、港湾であり市場である江戸湊、さらに5キロメートルほど先の浅草寺と並ぶ線状の配置である。これは秀吉による豊臣前期大坂、天正期京都に極めてよく似た形態といえる。
また江戸の町の様相を伝える最も古い「寛永江戸図」(「武州豊嶋郡江戸庄園」)によって窺うことのできる、江戸城大手から浅草橋にいたる初期の江戸本町通りの形態は、本町通り、本石町通りという平行して走る二本の通りに面した両側町の構成をとっており、しかも、その外側を寺町に挟まれている点は、豊臣前期大坂で成立した平野町と寺町との関係ともよく似ている。」 |
江戸時代の半ば以降は、江戸の町はどんどん拡大していきます。しかし、家康が引っ越してきた頃の江戸は、武蔵野台地の東端にあった江戸城のとその東の江戸湊・浅草寺門前町を結ぶ極めて限定された町でした。
その後、家康はその江戸の町を積極的に造成・拡大していきます。
|
「 このようないわば線状都市を大きく転換させたのが、1603三年に始まる建設工事である。1600年(慶長5)に関ケ原で西軍を破り全国の覇者となった家康は、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開き、全国の大名を動員した大規模な江戸建設工事の一環として日比谷入江埋立て工事を敢行する。神田・日本橋・京橋という江戸下町一帯を出現させたこの工事の規模は大きかったが、低湿地ないし沖積平野の埋立て・造成という工事は、既に秀吉の大坂で試みていたことであり、大坂の踏襲であった。ただ大坂と決定的に異なっていたのはその町割で、この段階で江戸で行われた町割の特徴は、本町通り・日本橋通りなど江戸から諸国に通じる街道およびそれと交わる通りによって構成される碁盤目状の街路によって区切られた、京間で60間四方の正方形街区である。街路沿いに奥行20間で、間口が5間程度の屋敷地を割り出すので、街区中央部には20問四方の会所地と呼ばれる空地がとられることになった |
下の地図で、江戸湊、浅草寺、道三堀、江戸前島、日比谷入江を確認してください。
青い点線が、埋め立て前の、江戸城東側の海岸線です。
墨田川河口には、低湿地帯が広がっていました。江戸湊の南に舌状に突き出た江戸前島もまだ人家はなく、家康は、道三堀等の運河を開削する一方、江戸前島、さらには日比谷入江も埋め立てして、江戸城の東側に大きな市街地をつくり、武家地や寺社地、そして、商人地をつくっていきました。
|