名鉄揖斐線・廃線物語23
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 □廃線後その9 廃線後丸6年余 大規模土木工事も行われました 11/06/27記述
    

 前ページでは、廃線丸3年後の変化をレポートしました。
 今日まで、さらに3年余の時が過ぎ、廃線から丸6年余が過ぎました。多くの線路は撤去され、駅もプラットフォームなどは荒れるに任せられています。
 昨年は、名鉄揖斐線と同じ時に廃線となった美濃町線で活躍していた590形が、高知の土佐電気軌道で活躍していることをレポートしました。(→こちらです。目から鱗:「各地の鉄道あれこれ12 各地の路面電車2 高知(土佐電気軌道)」
 
 今回は、廃止後の路線撤去にともなって、かなり大規模に実施された土木工事について紹介します。
 また、福井県の福井鉄道で活躍している車両については、別のページで紹介します。
 (→目から鱗:「各地の鉄道あれこれ20 福井鉄道 活躍する元名鉄岐阜市内線の電車」



 橋梁撤去1 犀川橋梁                            | このページの先頭へ |

 鉄道の橋梁は、川の場合、河川敷の橋台も含めて、河川を特別な理由で占拠しているものです。したがって、路線廃止後は速やかに撤去されるべきなのは当然です。


写真23-01 犀川鉄橋(撮影日 08/03/29) 写真23-02 犀川鉄橋跡(撮影日 11/06/27)

 真桑駅と政田駅の中間にある小河川、犀川に架かる鉄橋も撤去されました。


 橋梁撤去2 藪川橋梁                            | このページの先頭へ |
 根尾川にかかる、名鉄揖斐線最大の橋梁、藪川橋梁も完全に撤去されました。

写真23-03 ありし日の根尾川の藪川橋梁です (撮影日 04/11/24)

写真23-04  半分まで撤去された藪川橋梁 (撮影日 008/03/29)

写真23-05  すっかり鉄橋がなくなった現在の根尾川 (撮影日 11/063/27)

 左側右岸の深い緑色の茂みの奥側から、右側左岸の白い護岸用のコンクリート部分へ鉄橋が架かっていました。
 昔の写真集はこちらです。(→叙情的写真集2 藪川鉄橋

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 尻毛橋梁                                  | このページの先頭へ |
 伊自良川にかかる尻毛橋梁は、鉄橋撤去工事の長さは、根尾川の藪川橋梁には及びませんが、それ以外の大工事が行われました。

写真23-06 伊自良川右岸(撮影日 11/06/27) 写真23-07 伊自良川左岸(撮影日 11/06/27)

 この2枚は、現在の伊自良川の写真です。旧名鉄揖斐線尻毛橋梁の南にあった、国道157・303号線の尻毛橋からの撮影です。これを見て、大工事が行われたことがおわかりでしょうか?


写真23-08 1987(昭和62)年の尻毛橋附近の航空写真です。  (撮影年 1987年)

 写真上が上流、下が下流です。
 このあたりの伊自良川は、平時は実際に水が流れている川筋はほんの少しで、あとは、河川敷にグランドが造成されています。写真の黄色い部分がそのグランドです。3つの部分に分かれていますが、下流部分と中央部分を区切るのは、国道の土手です。
 そして、中央部分と上流部分を区切るのは・・・・、名鉄揖斐線の土手です。
 この部分では、国道も旧名鉄揖斐線も、通常の可動の部分には橋が架かっていましたが、河川敷部分は土盛りした土手の上を通っていました。
 名鉄揖斐線は、開業当時は堤防から堤防まですべて鉄橋でしたが、戦時中の金属供出のために、鉄橋の半分が土手に変えられたとのことです。

 ※この写真は、いつも利用している、国土交通省ウェブマッピングシステム・カラー空中写真から複写しています。
   こちらのページです。
→http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/

写真23-09 在りし日の冬の尻毛橋です。写真左奥は鉄橋、右手前は土手です。     (撮影日 05/02/03)

写真23-10 少年サッカーと電車 (撮影日 05/02/06) 写真23-11 土手をゆくモ780形  (撮影日 04/12/29)

 この土手がどうなったか、次の写真で見てください。


写真23-12 昔電車が通った土手はありません。                 (撮影日 11/06/27)

 左手に見える白い部分は、現在は駐車場になっていますが、この部分が土手でした。


写真23-13 左岸堤防から東   (撮影日 11/06/27) 写真23-14 左岸堤防から右岸堤防 (撮影日 11/06/27)

 堤防には往時は踏切がありました。そのあとから、東を見ると、線路をはがされた架線柱もなくなった廃線跡が続きます。背景の山は金華山です。
 同じ位置から対岸を見たのが右の写真です。なんの加減か、ひとつだけ残された架線柱が、何かのモニュメントのように思えます。


写真23-15 架線柱    (撮影日 11/06/27) 写真23-16 高架橋も撤去  (撮影日 11/06/27)

 この架線柱が残っているところは、戦前は、「尻毛橋駅」があったところです。戦後は廃駅となりました。
 そのすぐ西、尻毛駅との間の、33.3‰の勾配の途中にある高架橋も、すでに撤去されてありません。


写真23-17 金華山を背景に (撮影日 04/11/21) 写真23-18 左と同じ位置から (撮影日 11/06/27)

 土手がなくなった分、樹木もすっきりしてしまいました。

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 高架橋の撤去 道路も改修                        | このページの先頭へ |
 線路がなくなったおかげで、道路まで大規模に改修されたところもあります。次はどこかわかりますでしょうか?

写真23-19 広い県道の横断歩道から撮影しました。             (撮影日 11/06/27)

 この道路は、いわゆる「本巣縦貫道」(県道23号線)の上真桑八つ又の交差点です。
 写真の緑色の金網の部分に、揖斐線の高架橋がありました。次の写真です。


写真23-20 上真桑の高架橋へ向かうモ780形です。            (撮影日 04/11/24)

 旧名鉄揖斐線のこの部分は、大昔の糸貫川の大河川敷を横切るための高架の部分であり、鉄道が先、道路があとで建設されました。そのため、ここまで上下4車線の道幅だった県道23号線は、この高架橋の部分だけ、掘り下げられなければならなかった上に狭くなっていました。


写真23-21 狭い県道  (撮影日 04/12/16) 写真23-22 掘り下げ式です  (撮影日 04/12/05)

写真23-23 西側        (撮影日 11/06/27) 写真23-24 東側       (撮影日 11/06/27)

 東側も西側も土手が大きく削られて、道路が拡張されました。左側写真の西側部分は、途中で廃駅となった旧八つ又駅があった場所です。


写真23-25 樽見鉄道との交差 (撮影日 05/03/05) 写真23-26 往年の交差   (撮影日 11/06/27)

 ただし、樽見鉄道との交差部分は、しっかりとコンクリートの橋が残っていました。今となっては残存している数少ない橋の一つです。理由は定かではありません。


 最後はいつもの終点黒野駅                      | このページの先頭へ |
 このページも最後は、やはり、終点の黒野駅で終わります。

写真23-27 現在の旧黒野駅  (撮影日 11/06/27) 写真23-17 3年前       (撮影日 08/03/29)

 ここは基本的には変化はありません。
 ただし、3年前に比べると真ん中のホーム手前の旧司令室の前後などに、大きな木が茂っています。植物はこんなにも早く成長するものなんですね。

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  福井県の福井鉄道で活躍している車両についても取材しました。別のページで紹介します。
 (→目から鱗:「各地の鉄道あれこれ20 福井鉄道 活躍する元名鉄岐阜市内線の電車」

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