名鉄揖斐線・廃線物語21
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 □廃線後その7 レール撤去
    

 2006年7月31日、岐阜県は、次のように正式に発表しました。
「岐阜市内線など旧名鉄3線(総延長約37km)のレールについて、岐阜市中心部の約7km区間の撤去工事を今月下旬から開始する。工事完了は2009年3月までに完了させる。」

 「廃線後その6」に書きましたが、廃線後の名鉄路線については、サン・ストラッセによって、「軌道事業特許申請書」が中部運輸局に提出され、現在審査中です。
 しかし、線路を撤去されてしまっては、最早一巻の終わりです。

 県としては、「レールの放置はスリップ事故等、交通事故を引き起こす」とのことから、廃線後1年4ヶ月以上経た段階では、撤去の決定をせざるを得なかったのでしょう。

 工事は、予定より少し遅れて、2006年9月8日の深夜からはじまりました。
 舗装をはがし、線路と枕木を撤去して、また再舗装するという手順の工事です。一晩で10m程の区間を撤去するだけですが、工事は着々と進んでいます。

 2007年1月の現時点では、名鉄岐阜−徹明町−千手堂−忠節駅の市内線の部分の半分以上の線路が撤去されました。 


 真砂町通り。
 この西野町−千手堂間は、今撤去が進んでいる区間です。
 2007年1月27日(土)は、昼間にこの撮影地点の少し南(写真の中では二つ目の信号から向こう)で残っている軌道の撤去が行われました。

 背景の高層ビルは、2007年秋に完成予定の、岐阜市の新しいランドマーク、シティ・タワー43です。
(撮影日 07/01/27)


 千手堂交差点から、金町−徹明町方面を写しました。
 この区間では、千手堂−金町間には一部線路が残っていますが、金町−徹明町(写真の白い車の屋根の向こうから遠方の人が横断している部分まで)区間は、すっかり線路はありません。


(撮影日 07/01/27)


 忠節橋の両端の交差点には軌道は残っていません。しかし、橋の上にはまだ軌道が残っています。

(撮影日 07/01/27)


 線路がなくなっているのは、道路上の軌道だけではありません。
 これは、旧市ノ坪工場(車庫)の現状です。周りを囲っていた柵はなくなりました。
 検査場や工場の建物も洗車設備も、何もありません。
 田神線の県道への出口から撮影しています。

 ここからも、はるか向こうに、シティ・タワー43が見えます。
(撮影日 07/01/27)


 市ノ坪の構内も架線柱が昔のように立っている以外は、線路も少なくなって、ただただだだっ広いだけの空間となりました。
 おかげで名鉄各務原線の電車がよく見えます。



(撮影日 07/01/27)
 


 忠節駅は、昨年の秋には、」所々線路がはがされている状態でした。
 これは西側からの撮影です。

(撮影日 06/12/16)
 


 ところが、2007年1月に入って、一挙に駅の解体が進みました。
 写真を見てください。これも上と同じ、西側からの撮影です。
 2007年1月末段階では、線路は全部はがされ、なんと、駅舎も立体駐車場も消えてしまいました。
 以前はこの位置からは見えなかった「くすり」屋さんの看板や建物が丸見えです。
 駅のホームはかろうじて残っています。
(撮影日 06/12/16)
 


 撤去作業詳細                                  | このページの先頭へ |

 軌道撤去の報道を新聞で見てから、いつか必ず、その様子を写真に撮りたいと思っていました。
 しかし、最初のころは、撤去作業は深夜に行われていました。
 わざわざ出かけていくのも億劫でしたし、夜では写真撮影の限界もあると思い、これまで控えてきました。
 
 ところが、2007年1月27日に突然チャンスが訪れました。
 朝、真砂町通りを通と、まさに、軌道撤去作業がはじまろうとしていました。
 2時間も居座って、いろいろ撮影してきました。こんなこと誰もリポートしないと思いますが、「未来航路」ならではの、「
軌道撤去作業詳細」です。
(熱中するあまり、道路に出たりして、交通整理のガードマンに何度も注意されました。)


 この作業のポイントは、何でしょうか?

「Y(次男)、君は大学の帰りに夜遅く市内を走って帰ってくるけど、軌道の撤去作業を見たことはあるか?」

「あるよ。線路をあっという間に埋めていた。」

「埋めるだと、埋めるんじゃない、はがすんだ。枕木をはぎ取るのを見たか?」

「枕木?なにそれ、市電の線路にも枕木が使われているの?」

「当たり前だ。電車の線路は、原則枕木の上に敷くものだ。」


 どうもこの辺が、ポイントです。軌道撤去作業というのは次の手順になるのです。

  1. 線路部分の道路舗装をはがす。舗装部分は線路の高さ分あります。

  2. 犬釘(いぬくぎ)を使って枕木に固定されている線路と枕木を分離する。

  3. 線路をはずす

  4. 枕木を掘り返して回収する。

  5. 枕木を掘り返してでこぼこになっている部分を整地する。

  6. 最初にはぎ取った舗装部分をとりあえず簡易舗装して、道路として復旧する。

 では、説明します。


 2007年1月27日(土)の軌道撤去区間は、真砂町通りの本郷町交差点北側(下図の)と、千手堂交差点北側(下図の、やまが整形外科ビルの前)です。
 この写真は、本郷町交差点南から、千手堂北の工事区間を撮影したものです。
 写っている一番手前の信号は、西柳ヶ瀬の交差点です。
 それとは別に、後の
シティ・タワー43がとても絵になります。
 ここを名鉄市内線が走っていたら、絶好の撮影スポットとなったことでしょう。

(撮影日 07/01/27)


 千手堂北工事現場で、軌道撤去の主役となるパワーショベル車が線路の端まで動いていき(左)、
まさに、最初の「掘り」をするためにショベルの先を付けたところです。(右)


 ショベルによって地面に穴が開けられました。


(撮影日 07/01/27)
 


 ここで、この「軌道撤去」部隊の全貌を示します。
 上の写真は、
線路を撤去する部隊です。

 中央の黄色いパワーショベル車が軌道を撤去する主役です。舗装をはがし、枕木を回収します。手前のダンプカーは、はがされたアスファルトを搬出するための車です。
 舗装がはがれると、後方の白い小さいパワー・ショベル車がレールをはがします。そして、たくさんの作業員がそれを補助します。

 最後は、下の写真の
道路舗装部隊の登場です。舗装をはがした部分をとりあえず簡易舗装して作業は終わりです。


 パワーショベルによる舗装はがしです。
 上左では、爪に引っかけて舗装をはがしています。
 上右では、はがした舗装をショベルの背側で小さく砕いています。
 
 下左では、それをすくって隣にいるダンプカーにまで持ち上げるところです。


 大きなパワーショベル車が舗装をはがしたあとには、小さなパワーショベル車が登場します。
 左舗装をはがした部分にやって来て、右自分の重みで枕木ごと軌道全体を抑え、線路部分を引っ張って、線路を枕木から無理矢理少しはがします。
 すると、線路を枕木に打ちつけている犬釘が、少し浮きます。


 小さなパワーショベル車が線路を無理矢理持ち上げて、犬釘を抜きやすくすると、次は作業員の尽力作業です。
 基本的には、バールを使って、てこの原理で犬釘を抜き取ります。
 左の写真の手元が青い色の電動工具は、犬釘を抜く工具です。


 犬釘が完全に抜かれたレールは、小さなパワーショベル車によって、1カ所に集められます。

 この軌道撤去工事に於いて、作業が比較的簡単に進んでいたのは、写真のように、この部分で使われていたレールが、長さ4m程と非常に短かくなったレールだったことによります。
 なぜこんな短いレールなんでしょうか?
 市内線だからこの長さのレールなのでしょうか?

 いえ違います。
 もともと軌道には、普通の25mの長さのレールが使われていました。
 実は、この工事の前に、まだ掘り起こす前の段階で、わざわざ工事しやすいようにレールを4m程の長さに切っておいてあったのです。ちゃんと計画的です。
 なぜそれがわかるのかというと、次に軌道撤去工事が行われる予定の西野町から忠節橋南詰めの間の斜面の線路は、自動車で走ると、切断してある切れ目がちゃんと確認できます。

 さて、右の写真のように工事区間には、次第に「平地」ができあがっていきます。しかし、これですぐ埋め戻しではありません。実は、まだこの土の下には、枕木が横たわっています。


 次は枕木の回収作業です。
 この作業は、とても簡単です。
 大きなパワーショベル車がアームを一杯に伸ばして、埋まっている枕木をガラガラと強引に手前に引き寄せ、あとはガッポリすくってダンプカーに直行です。
 あっさり簡単な作業でした。

 この写真は、この日の本郷町交差点北工事区間(地図のB)で撮影しました。


 枕木を撤去したあとのでこぼこを、大きなパワーショベル車が上手に平にならしていきます。
 このあとは、アスファルト舗装をする簡易舗装車が登場してアスファルトを敷き、ロードローラーで固めて一件落着です。


 一番下右の写真、翌日行くと、もうすっかり普通の道路です。この日の工事の終了の時点で、千手堂から忠節駅までの区間では、軌道が残っているのは、忠節橋の上と同橋南詰めの交差点から西野町交差点北までの斜面の2カ所のみとなりました。


 再建中止、完全消滅へ                           | このページの先頭へ |

 前回の「廃線後 その6 記念式典 再生へ」の中で紹介した、関市の商業施設運営会社「サン・ストラッセ」は、国土交通省中部運輸局に新しい鉄道会社の設置を申請していました。
 しかし、県や岐阜市がレールの撤去に着手したこともあり、
2006年10月にその申請を取り下げました。

 同じく、再生を目指して市民からの基金を募っていた「
エンジェル基金」も、これまでの基金の位置づけが、「サン・ストラッセ」の支援だったことから、基金のあり方を見直すこととし、希望者への返還を決めました。
 ※エンジェル基金はこちらです。http://angel.ap.teacup.com/trust/425.html

 線路がなくなれば、事実上、復活はあり得ないでしょう。
 名鉄揖斐線の「完全消滅」の日も、そう遠くはありません。 


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