名鉄揖斐線・廃線物語22
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 □廃線後その8 廃線後丸3年 街は変わりました
    

 2008年4月1日、名鉄揖斐線が廃線となって、丸3年が経過しました。
 すでに、「廃線後21」で紹介したように、市街地の軌道はすっかり撤去されました。
 それにともなって、市街地では、
鉄道跡地の利用が積極的になされたところも出てきました。
 「えっ、ここに鉄道が通っていたの?」と思うぐらい、まったく変わってしまったところもあります。

 郊外では、廃線となったおかげでおかげ電車に遠慮することなく
踏み切り跡の整備をすることができ、道路が幅が拡張されて、随分便利になったところもあります。
 また、伊自良川・薮川(根尾川)の橋梁部分においては、名鉄電車が河川敷を占有する理由がなくなりましたので、
鉄橋は撤去されつつあります。
 一方で、廃線直後のたたずまいを残しつつただひたすら寂れていく「
」もあります。
 では、廃線後3年を経た、名鉄揖斐線跡(含む市内線)の様子です。



 再開発                                     | このページの先頭へ |

写真22-01
 最初の写真は、この3年で最も様変わりした部分です。

 手前に線路が残っています。ここは昔踏切だったところです。
(撮影日 08/03/29)


写真22-02
 写真21-01とほぼ同じ位置からの撮影です。
 左手の茶色のビルが写真22-02写真21-02に共に写っています。

 写真22-01は、忠節駅跡地に開業した
スーパーFranteです。

 忠節駅は、すっかり生まれ変わりました。
 
(撮影日 03/02/01)


写真22-03           (撮影日 08/03/29) 写真22-04          (撮影日 04/11/05)

 写真21-03は現在のスーパーFranteの東側の駐車場から撮影しました。右の写真21-04の電車が停留していた場所は、左の写真21-03でいうと、2階の駐車場に登るスロープの奥にあたります。

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 駅前                                       | このページの先頭へ |
写真22-05

 これは名鉄岐阜駅前の現在の写真です。
 手前に橋がありますが、これは、岐阜駅前通に整備された歩行者用デッキの東北端です。

 この写真は、JR岐阜駅の東海道線上り線ホームからズームでの撮影です。

(撮影日 08/03/29)


写真22-06

 上と同じ場所から撮影したかつての揖斐線電車。
 
(撮影日 05/03/01)


写真22-07

 写真22-05から少しズームを退いた写真です。

 道路の右(東)側にあった名鉄新岐阜百貨店は、すっかり解体されてありません。

(撮影日 08/03/29)

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 高層建築                                    | このページの先頭へ |
写真22-08     


 真砂町通りの本郷町電停付近は、軌道・架線の撤去に合わせて、電線や電柱の埋設化も実施され、街の装いはすっきりしました。
 そして、それまで何もなかった空間に、43階の岐阜シティ・タワー43がそびえ立ちます。


(撮影日 08/03/29 )


写真22-09
 

 本郷町交差点を走る駅伝ランナーのために停車する揖斐線モ770形電車。

(撮影日 05/02/06)

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 鉄橋の撤去                                  | このページの先頭へ |
写真22-10

 さてこの写真は、どこの廃線跡でしょうか?
 中央に架線柱が立っていてその左に踏み切り跡らしきものが見られますが、ますが、右半分には線路はまったくありません。
 どうなったのでしょうか?

 
(撮影日 08/03/29)


写真22-11                                    (撮影日 04/11/24)

 上の写真22-10は、実は伊自良川にかかっていた尻毛橋梁西詰めの踏切付近の様子です。
 写真22-11と比べてみてください。
 伊自良川の護岸工事と、橋梁の撤去工事が同時に進んで、以前とはまったく異なる景観となりました。上の写真22-09の護岸工事は、揖斐線橋梁と青い色の道路橋(国道303号線)との間になされています。


写真22-12

 そして鉄橋はと言うと、左の写真のとおり、西側半分が撤去されてしまいました。
 正確には、左の写真の右手側(東側)から、橋梁には1番・2番・3番・・・・と10番までの番号が付いていましたが、そのうち、西側の8番・9番・10番が撤去されてしまいました。

 (撮影日 08/03/29)


写真22-13

 撤去されてしまった部分のアップです。7番の鉄橋までは残っていますが、8番からはありません。
(撮影日 08/03/29)


写真22-14

 これは、2008年1月の工事の時の様子です。
 橋梁の撤去は、橋桁の下部構造物(橋脚の土台)の撤去からやらなければなりません。
 左の写真では、クレーンが運ぶ大きな土嚢で川をせき止めて
流れを変え、8番と9番の橋梁が架かっていた土台を撤去している所です。
 この時の様子では、年度内に全部撤去かと思いましたが、予算の関係からでしょうか、残り7/10は4月以降です。
(撮影日 08/01/19 )


写真22-15

 これもまた途中で途切れてしまった橋脚です。

 こちらは根尾川の薮川橋梁です。
 この橋梁は、東側(写真の右手)から1番・2番・・・・13番の13の橋桁からなっていましたが、今は、1番〜4番しか残っていません。

(撮影日 08/03/29)


写真22-16           (撮影日 08/03/29) 写真22-17          (撮影日 08/03/29)

 4番の橋桁、その先はありません。


写真22-18

 晩秋の日差しを浴びて、在りし日の5番・6番橋桁上を走るモ780形の3両連結。
(撮影日 04/11/02)


写真22-19

 西岸の堤防道路から4番橋桁の切断部分を写しました。
(撮影日 08/03/29)

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 踏切撤去と整備 残された駅                       | このページの先頭へ |

写真22-20

 揖斐線の踏切が撤去された跡、そこを通っていた道路が整備された所が2カ所あります。
 その一つが左の写真です。
 踏切部分の道路幅が2倍以上に拡大され、周辺の家屋も撤去されました。
 これどこか分かりますか?
(撮影日 08/03/29)


写真22-21

 これが元の写真です。
 そうです。上の写真は尻毛駅の横の踏切の現在の姿です。

 たった50mだけですが県道173号線の踏切はすっかり整備され、2車線になりました。
(撮影日 05/03/16)

※県道173号線については、「岐阜の原風景・現風景」でも取り上げています。こちらです。→


写真22-22

 これはその県道173号線尻毛踏切の東側を撮影したものです。
 揖斐線があった当時はこの正面には家が建っていて、こんなアングルでの撮影は不可能でした。
 線路途中の勾配標は、あの有名な「33/1000」の尻毛橋手前のそれです。(こちらです。→
 今もしこの線路を電車が走るとしたら、このポイントは絶好の撮影名所になるに違いありません。
(撮影日 08/03/29)


写真22-23

 尻毛踏切から撮影した旧尻毛駅構内。
 まだ線路もホームも残っています。
(撮影日 08/03/29)


写真22-24

 この写真は現在の美濃北方駅。
 同駅西の踏切からの撮影です。
 この駅もいろいろなドラマがありました。(こちらです。→
(撮影日 08/03/29)


写真22-25

 真桑駅と政田駅の間の犀川鉄橋から、まだ線路の残る東側部分を撮影。
 真っ直ぐ向こうに金華山の山頂の岐阜城が臨まれます。
(撮影日 08/03/29)


写真22-26

 現在の政田駅跡。
 この踏切からの撮影ポイントもいろいろな「名作」を生みました。(こちらです。→
(撮影日 08/03/29)


 このページの最後は、やはり、終点の黒野駅の3年目の姿で終わります。
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写真22-17                                            (撮影日 08/03/29)

 黒野駅手前の畑の横からの撮影です。
 電車の整備庫は解体されてしまいましたが、線路も、ホームも、駅舎もほぼそのまま残っています。
 錆びたレール、古びた駅舎、「廃駅」の風情と言っては変でしょうか・・・。


 しばらくは、レポートする機会はないと思われますが、また何年かたって大きな変化が起こったら、続編を書きます。

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