特攻隊員として散華した1944年や45年時点の若者は、一体何を訴えたかったのでしょうか?私たちはそこから何を学ぶべきでしょうか?
彼らが残した手紙や遺書は、たとえば、戦没学生の遺稿集、『きけわだつみのこえ』第一集、第二集(岩波文庫)や、その他引用された多くの書物で読むことができます。
特攻隊は、すでに戦後から昭和末年までに、数多くの書物や映画に描かれてきました。そして、意外なことに、終戦から55年以上過ぎて21世紀に入ってからも、なお多くの人によって、描かれ続けています。
※映画「君のためにこそ死にに行く」(2007年 監督 新城卓)についての解説はこちらです。
書物では、たとえば、次のものが挙げられます。
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工藤雪枝著『特攻へのレクイエム』(中央公論社2001年 中公文庫版2004年) |
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工藤雪枝著『国を愛するということ 散華した特攻隊員の遺した「託し」』(モラロジー研究所 生涯学習ブックレット 2003年) |
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保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書 2005年) |
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平義克己著『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社 2002年) |
特攻隊員は出撃にあたって何を言い残したかったのか。
彼らの遺稿や上記の書物によれば、彼らの出撃前の思いは次の諸点にまとめることができます。
父母や恋人、妻など、身近な人への思いとそこから発展した祖国への思い
限られた生への思いから生きるということへの淡々とした気持ち
自分たちの死を意味あるものとする願いから発した未来への託し=「後を頼む」
これらの思いのうち、現代の著述者が重視するのは、「祖国への思い」と「未来への託し」です。しかし、それは、受け止める人によって、大きな相違が出てきます。
ひとつの受け止め方は、彼らが感じていた「時代の理不尽さ」への共感です。
保阪氏の著書から引用します。(赤字と行間調整は引用者が施しました。)
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「あえて結論とするが、次の三点を中軸に据えて、特攻隊員の真情を理解すべきと思う。
(1)特攻隊員は、とくに学徒出身の特攻隊員は、こういう理不尽な作戦に当事者として反対であった。反対であったから、彼らは自らの肉体を爆弾としてアメリカ軍の艦艇に体当たりしていった。(もし賛成であったら、彼らは途中で特攻隊員としての訓練を積むことはできなかっただろう。自分ではなく、他人にこの役を押しつけようと謀ったに違いない)
(2)彼ら特攻隊員は戦争指導にあたっている軍事指導者に心底からの怒りをもっていた。(そんなことは誰も書いていないという反論があるだろう。しかし彼らの遺書や手記に戦時指導者についての信頼も不信さえも書いていないこと自体が、信頼しないということのなによりの証なのである。ときに2章で紹介した長谷川信のようにふれていても、私は彼らがどんな生活をしているのか全く知らないとつき離しているではないか)
(3)特攻隊員は臣民から「神」と扱われることで、軍事指導者への怒りとともに臣民に対しても抜きがたい不信をもって体当たり攻撃をしていった。(彼らを特攻という狂気にも似た戦術の歯車に仕立てあげた臣民の責任もまた大きいということになる)
こうした真情を理解したとき、私たちは特攻作戦に従わざるを得なかった特攻隊員たちと、悲しみを分かちあうべきだと気づく。
その悲しみ、というのは、人は生きる時代を選べないということもあるが、より深い悲しみとは自分の生きた時代に、自分と考えも倫理も、そして歴史観も共有できる指導者に巡りあえなかった彼らへの同情である。特攻隊員として、まだ二十代前半(なかには十七歳の少年航空兵もいたわけだが) の彼らはこのような時代に生きたいと思っただろうか、このような軍事指導者たちを尊敬できただろうか。むろん彼らはこうした状況を受けいれたくないと思いつつ、指導者が巧妙に「十死零生」の兵器になるように押しつけてきた時代を、最後は諦観の境地で受けいれたことだろう。そのことを、私は深い悲しみというのである。
どのような時代にも不条理なことはある。どう考えても妥当性が感じられない時代に身を置いているとの自覚をもつことがある。自らの不満や不安が消え失せない時代はいつもある。しかし、国家が一方的に戦争を始めておいてその責任を青年に回すということほど理不尽なことはあるまい。特攻隊員はそういう理不尽さや不条理を直接に引き受けた人たちである。私のいう、悲しみとはそのようなことも含んでいる。
だからこそ、特攻隊員たちとともに悲しみを分かちあうことで、私たちは自分の生きている時代への尺度をもつことができるのではないだろうか。」 |
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保阪正康前掲書『「特攻」と日本人』(講談社現代新書 2005年)P222−224 |
私は、この共感こそが授業で特別攻撃隊を教える際の最良の視点であると考えています。
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