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 032 愛国心をどのように教えるか −特攻隊と靖国神社− その2

 さてさて、重いテーマの続きです。
 
特攻隊靖国神社について、高校教員として授業の場でどう教えていくべきかという視点から、お話しします。
 これまた、論旨明快に結論に行くというわけには到底いかないかもしれませんが、地歴公民科の教員として、敢えて挑戦しなければならないテーマと考え、思い切って書きます。究極の選択Uです。


B 特攻隊から何を学ぶべきか

 特攻隊員として散華した1944年や45年時点の若者は、一体何を訴えたかったのでしょうか?私たちはそこから何を学ぶべきでしょうか?

 彼らが残した手紙や遺書は、たとえば、戦没学生の遺稿集、『きけわだつみのこえ』第一集、第二集(岩波文庫)や、その他引用された多くの書物で読むことができます。
 特攻隊は、すでに戦後から昭和末年までに、数多くの書物や映画に描かれてきました。そして、意外なことに、終戦から55年以上過ぎて21世紀に入ってからも、なお多くの人によって、描かれ続けています。
  ※映画「君のためにこそ死にに行く」(2007年 監督 新城卓)についての解説はこちらです。
 
 書物では、たとえば、次のものが挙げられます。

工藤雪枝著『特攻へのレクイエム』(中央公論社2001年 中公文庫版2004年)

工藤雪枝著『国を愛するということ 散華した特攻隊員の遺した「託し」』(モラロジー研究所 生涯学習ブックレット 2003年)

保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書 2005年)

平義克己著『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社 2002年)


 特攻隊員は出撃にあたって何を言い残したかったのか。
 彼らの遺稿や上記の書物によれば、彼らの出撃前の思いは次の諸点にまとめることができます。

  1. 父母や恋人、妻など、身近な人への思いとそこから発展した祖国への思い

  2. 限られた生への思いから生きるということへの淡々とした気持ち

  3. 自分たちの死を意味あるものとする願いから発した未来への託し=「後を頼む」

 これらの思いのうち、現代の著述者が重視するのは、「祖国への思い」と「未来への託し」です。しかし、それは、受け止める人によって、大きな相違が出てきます。
 ひとつの受け止め方は、彼らが感じていた「時代の理不尽さ」への共感です。
 保阪氏の著書から引用します。(赤字と行間調整は引用者が施しました。) 

「あえて結論とするが、次の三点を中軸に据えて、特攻隊員の真情を理解すべきと思う。
(1)特攻隊員は、とくに学徒出身の特攻隊員は、こういう理不尽な作戦に当事者として反対であった。反対であったから、彼らは自らの肉体を爆弾としてアメリカ軍の艦艇に体当たりしていった。(もし賛成であったら、彼らは途中で特攻隊員としての訓練を積むことはできなかっただろう。自分ではなく、他人にこの役を押しつけようと謀ったに違いない)
(2)彼ら特攻隊員は戦争指導にあたっている軍事指導者に心底からの怒りをもっていた。(そんなことは誰も書いていないという反論があるだろう。しかし彼らの遺書や手記に戦時指導者についての信頼も不信さえも書いていないこと自体が、信頼しないということのなによりの証なのである。ときに2章で紹介した長谷川信のようにふれていても、私は彼らがどんな生活をしているのか全く知らないとつき離しているではないか)
(3)特攻隊員は臣民から「神」と扱われることで、軍事指導者への怒りとともに臣民に対しても抜きがたい不信をもって体当たり攻撃をしていった。(彼らを特攻という狂気にも似た戦術の歯車に仕立てあげた臣民の責任もまた大きいということになる)
 こうした真情を理解したとき、私たちは特攻作戦に従わざるを得なかった特攻隊員たちと、悲しみを分かちあうべきだと気づく。
 その悲しみ、というのは、人は生きる時代を選べないということもあるが、より深い悲しみとは自分の生きた時代に、自分と考えも倫理も、そして歴史観も共有できる指導者に巡りあえなかった彼らへの同情である。特攻隊員として、まだ二十代前半(なかには十七歳の少年航空兵もいたわけだが) の彼らはこのような時代に生きたいと思っただろうか、このような軍事指導者たちを尊敬できただろうか。むろん彼らはこうした状況を受けいれたくないと思いつつ、指導者が巧妙に「十死零生」の兵器になるように押しつけてきた時代を、
最後は諦観の境地で受けいれたことだろう。そのことを、私は深い悲しみというのである。
 どのような時代にも不条理なことはある。どう考えても妥当性が感じられない時代に身を置いているとの自覚をもつことがある。自らの不満や不安が消え失せない時代はいつもある。しかし
、国家が一方的に戦争を始めておいてその責任を青年に回すということほど理不尽なことはあるまい。特攻隊員はそういう理不尽さや不条理を直接に引き受けた人たちである。私のいう、悲しみとはそのようなことも含んでいる。
 だからこそ、特攻隊員たちとともに悲しみを分かちあうことで、私たちは自分の生きている時代への尺度をもつことができるのではないだろうか。」

保阪正康前掲書『「特攻」と日本人』(講談社現代新書 2005年)P222−224


 私は、この共感こそが授業で特別攻撃隊を教える際の最良の視点であると考えています。 


 
 鹿児島県の基地から沖縄海域へ出撃する直前の陸軍の特別攻撃隊。

 上の写真は、戦中の新聞の写真からの切り抜きです。以下のサイトから複写させていただきました。
終戦前後2年間の新聞切り抜き帳http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/index.htm


 しかし、それとは異なる、もう少し政治的な要素が入った取り上げ方もあります。
 
 安倍晋三首相の意見です。(赤字と行間調整は引用者が施しました。) 

「 六十年前、天皇が特別の意味をもった時代があった。そして多くの若者たちの、哀しい悲劇が生まれることになった。
<如何にして死を飾らむか
 如何にして最も気高く最も美しく死せむか
 我が一日々々は死出の旅路の一里塚
     (中略)
 はかなくも死せりと人の言はば言へ
 我が真心の一筋の道
 今更に我が受けてきし数々の人の情を思ひ思ふかな> (神坂次郎著『今日われ生きてあり』新潮文庫)
 もはや敗戦の色が濃い、太平洋戦争の末期。鹿児島県知覧の飛行場から沖縄の海へ飛び立っていった陸軍特別攻撃隊・第五十五振武隊に所属する、鷲尾克己少尉の、二十三歳のときの日記の一部である。
 国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。彼らの気持ちをつぎのように語る人は多い。
 <かれらは、この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために1それは、父母であり、兄弟姉妹であり、友人であり、恋人であった。そしてその愛しきものたちが住まう、日本であり、郷土であった。かれらは、それらを守るために出撃していったのだ>

 わたしもそう思う。だが他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。彼らは「公」の場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、
日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。
 今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命のうえに成り立っている。だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。


 たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、
ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。
 わたしたちは、いま自由で平和な国に暮らしている。しかしこの自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない。そして、わたしたちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、愛しい家族を守ることでもあるのだ。
 この鷲尾克己少尉の日記の最後の部分は、とりわけわたしの胸に迫ってくる。
 <はかなくも死せりと人の言はば言へ 我が真心の一筋の道> − 自分の死は、後世の人に必ずしもほめたたえられないかもしれない、しかし自分の気持ちはまっすぐである。」

安倍晋三著『美しい国へ』(文春新書 2006年)P105−106


 阿部首相は、特攻隊員の彼らがそうであったように、場合よっては、国家に殉じることこそが、彼らの託した「理想的な状態」としています。安倍氏の言う、「美しい国」の大事な要素であると考えています。

 この意見を表明する方は、最近特に多くなってきています。
 ジャーナリストの工藤雪枝氏も同じ意見です。次のように主張しています。(赤字と行間調整は引用者が施しました。)
 

「たとえばアメリカ合衆国を例にとれば、この国が標傍する自由・平等・民主主義という精神的哲学に関して、米国民はその維持のために必要な義務と国家に対する貢献が重要なことを心から理解し実践しようとしている。その背景には、義務や貢献なしには、米国が標榜する国家的価値観がいかにもろく崩れやすいものかをよく認識しているという点があると思われる。

 国家と国民の弁証法的関係において、米国の理念である自由は国民の義務と貢献によって安定的に維持され、また国民はその自由の中で平和と繁栄を享受しているのである。
 具体的には、アメリカの義務教育では授業が始まる前のホームルームで、毎朝国旗に対して胸に手をあてて、アメリカ国民として国家とその標棟する理念を守るために忠誠を誓い、たとえどんな時でも国民としての義務を果たしていくことを声に出して誓うのだ。

 その上で、軍隊や兵役など何らかの形で国家のために義務を履行したものに対して、多大なる栄誉が与えられている。アメリカ国民は、義務と貢献によって国家が維持され、平和と安全が実現されることを知っているのだ。

 同様なことは米国のみならず、他の多くの国で実践されていることである。だからこそ、戦没者の慰霊を大切に行い′、国旗など国家を象徴するものに対して敬意を表し、国家の維持発展のために尽くす人々に名誉を与える。

 しかし、
わが国日本が残念ながら国民と国家の理想的な関係を築いていないことは明らかであろう。これまで、総理や閣僚のほとんどが戦没者を祀る靖国神社に参拝することを拒否してきた。国のために命をかけた英霊達、あるいは自衛官などといった国家という概念が絡んだものは、ことごとく忌避してきたかのように思える。

 
靖国神社参拝問題や特攻隊や戦死者の英霊とどう対時するのかという問題は、国として過去の戦争に対してどんな姿勢を保持するのかという意味以上に、未来にむかって、健全な民主主義国家の維持、発展に際して大きな意味を持ってくるのである。
 
 我々は二十一世紀を迎えた今こそ、自分達が享受してきた自由や平和がどのように成り立っているのかに注目し、いかにそれらを維持するための意識に欠けているかを実感し反省すべきであろう。今世紀における日本という国家の健全な存続に対して、危機意識を持たなければならない現状が、今、はっきりと存在している。」

工藤雪枝前掲著『特攻へのレクイエム』(中公文庫版2004年)P260−261


 この指摘を読むと、これまで特攻隊員の問題として扱ってきたことが、より大きな問題として、戦没者への慰霊の問題、また靖国神社問題と不可分であることが明白となってきます。

 特攻隊員の思いは、どのように未来へつなげていったらいいのでしょうか。


 
 東京九段、秋の靖国神社。正面鳥居前から撮影。(撮影日 02/11/15)


C 靖国神社 過去と未来

 太平洋戦争を始め、過去の戦争で亡くなった方の霊に対して、素朴に追悼の意を示すべきであることは、誰しも否定しないでしょう。
 上記の保阪氏の意見にあるように、それこそが、「特攻隊員と悲しみを分かち合うこと」の第一歩です。
 しかし、その具体的方法については、幸か不幸か、日本国民の中で意見は大きく分かれています。
 愛国心について、特攻隊について、ここまで書いてきた以上、今度は靖国神社問題について、地歴公民科の教師として、自分の意見=究極の選択を示さなければなりません。
 問題をより政治化・複雑化させてしまうA級戦犯の合祀問題を除いたとしても、靖国神社のあり方を支持するかどうかは、日本の将来をどう考えるかについての大きな指標となります。

 靖国神社とは何か?
 軍歌「同期の桜」の2番にも唱われていますが、特攻隊員の手記の中にも、「死んだら靖国神社で会う」という表現が登場します。
 高橋哲哉氏によれば、靖国神社は、母の視点から考えれば次のような「装置」と定義できます。 

  • 自分の大事な子どもが徴兵制によって戦場に赴き、戦死する。母としては、悲しみ以外の何物でもないのだが、靖国神社に神として祀られるという儀式を通して、その悲しみは、「国家のためにお役に立ったという喜び」に昇華してしまう。そして、その繰り返しを通して、国民が進んで国家のために命を捧げることを促す装置の役割を果たした。

 以下は、高橋氏の著書からの引用です。(赤字と行間調整は引用者が施しました。) 

「 先に、戦死者を出した遺族の感情は、ただの人間としてのかぎりでは悲しみでしかありえないだろう、と述べた。ところが、その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまうのだ。悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。まるで錬金術によるかのように、「遺族感情」 が180度逆のものに変わってしまうのである。

 帝国陸海軍の最高司令官、「大元帥」明治天皇自らが祭主となって臨時大祭を挙げるなら、戦死者は黄泉の国で天皇の恩がいかにありがたいかを感謝するだろう、と記者はいう。
黄泉の国のことはもとより何とも言えないが、この言葉は少なくとも遺族を慰籍し、一般国民に 「お天子様」 のありがたさ、もったいなさを感じさせる効果を持つだろう。

 決定的に重要なのは、遺族が感涙にむせんで家族の戦死を喜ぶようになり、それに共感した一般国民は、戦争となれば天皇と国家のために死ぬことを自ら希望するようになるだろう、という点である。
遺族の不満をなだめ、家族を戦争に動員した国家に間違っても不満の矛先が向かないようにしなければならないし、何よりも、戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することになることが必要なのだ。「多少の費用は惜しむに足らず」。すなわち、莫大な国費を投入しても、全国各地から遺族を東京に招待し、「お国」と「お天子様」とがいかにありがたい存在であるかを知らしめ、最高の「感激」を持って地元に帰るようにしなければならない。
 これこそ、
靖国信仰を成立させる「感情の錬金術」にほかならない。」

高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書 2005年)P43−44


 これは同時に、「靖国神社史観」の成立をも意味します。
 すなわち、日本政府が行った戦争に対する意見や批判の存在はまったく許さず、ただ身命を国に捧げることこそが男子としての本懐であるという考え方です。



 靖国神社内の「遊就館」の入口にある旧海軍零式艦上戦闘機52型。特攻機として多く使用された。

「遊就館」は「靖国神社史観」が具現化されている。(撮影日 03/11/28)


 今の時代には、靖国神社を「感情の錬金術」ととらえる発想は実態としてはあまり存在していません。しかし、戦没者の慰霊を「靖国神社」という形で行うことは、また将来にわたってそれを許すことにつながります。そこに、政府の閣僚としての靖国神社の参拝について反対をする根拠があります。

 では、小泉首相が2001年8月13日の総理大臣談話で提案した、靖国神社とは別の無宗教の「追悼・平和祈念の慰霊施設」の建設についてはどうでしょうか?

 東京には、1959年に建設された無名戦士の追悼施設「
千鳥ヶ淵戦没者墓苑」があります。また、沖縄には、戦後50年を祈念して建設された「平和の礎」(へいわのいしじ)があります。特に後者は、日本人犠牲者のみならず、敵国人のアメリカ人の名前も刻んだ施設で、より平和への願いを強く意識した慰霊施設です。 

 こういう施設の全国版をつくることは、真の意味での追悼と平和の祈念につながるのでしょうか?
 高橋氏は、これについても、次のような危惧を示しています。前掲書からの引用です。(赤字と行間調整は引用者が施しました。)


「 ところが、このような「平和の礎」でさえ、「靖国化」の可能性と無縁ではありえないのだ。石原昌家は、沖縄県政の転換とともに、「慰霊の日」に行なわれる全戦没者追悼式に米軍や自衛隊の高官が軍服姿で招待されるようになったこと、「礎」前で演説したクリントン米国大統領が日米軍事同盟によって平和が守られているという趣旨を述べたこと、靖国参拝を繰り返す小泉首相が「平和の礎」の前で「仰々しく手を合わせるという「参拝」」を行なったこと、「礎」を訪れる日本政府首脳が平和祈念資料館を決して訪問しないことなどを挙げて、「平和の礎」の「変質化」に警告を発している(同上)。1999年夏に起こった新平和祈念資料館展示改竄事件も、この流れに位置づけられる。

 ここに示されているのは、「平和の礎」 のような施設についてさえ、
決定的なことは施設そのものではなく施設を利用する政治であることにほかならない。戦争遂行の主体にはなりえない非国家的集団の追悼施設であっても、国家の政治(ナショナル・ポリテイクス)に取り込まれ、「靖国化」することがつねにありうることを忘れてはならないのである。」

高橋前掲書 P225−226

 戦争の惨禍に倒れた人は追悼しなければなりません。
 そしてそれを行うこと、つまり、過去を追悼することは、比較的難しいことではないかもしれません。しかし、その追悼を未来の平和につなげることは、そう簡単ではありません。
 過去に対する気持ちを大事にするのか、未来の平和への保障を固くするのか、まさしく究極の選択です。
 
 最初に断ったように、どの道を進むべきかは、決して論理的に明快というわけには生きません。一介の教師には、国の制度全体をデザインする才能もありません。
 しかし、どれを大事にすれば、より平和な状態を実現できるのか、つまり、本当に国を愛することにつながるのかということにに対して、一種の「嗅覚」のようなものを持っていたいと思います。

授業では、始めからどれが正しいとかではなく、生徒諸君がいろいろ考えてくれるよう、設定したいものです。
 


  勤務先高校の修学旅行で行った時に撮影した、沖縄摩文仁の「平和の礎」 (撮影日 08/10/13)


 東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑。正面奥の六角堂の中に各地で収集された無名戦士の遺骨が納められています。
(撮影日 02/11/15)


D 終わりに

 見たか日本人、これが戦争だ

 これは、映画『亡国のイージス』の中で、北朝鮮工作員キム・ヨンファが、太平の中で堕落した現在の日本人を皮肉って言い放ったセリフです。(この話は、この項目の先頭、前回分の記述からつながっています。
 
 今現在の状況では、あまり大きな顔で反論はできません。
 自分たちの世代が、そしてもっと若い世代が、本当に戦争の反省を生かして国の将来を案じている、すなわち「愛国心」に満ちているとは、お世辞にも言い難いからです。
 
 しかし、特攻隊をはじめ、先の大戦でなくなった多くの犠牲者のためにも、いつかは、自信をもって言えるようにならなければなりません。戦争をしない国、戦争をするための装置をあからさまに備えていない国の国民として、自信をもって言わなければなりません。
 「
見たか北朝鮮人、これが平和だ」と。

 いえいえ、別に、北朝鮮のみに叫ぶつもりはありません。
 イラクにも、パレスチナ諸国にも、イスラエルにも、アフガニスタンにも言ってみたいものです。
 いや、もっと大きな相手にも自信をもって気持ちよく言ってみたいものですね。

 「
見たかアメリカ人、これが平和だ」と。


 ※このテーマに関連する記述が次のページ内あります。参照ください。
  →旅行記:「九州両端旅行3 戦績を訪ねて 知覧特攻基地」
  →日記:「映画『俺は、きみのためにこそ死にに行く』神風特攻隊」
  →クイズ日本史:「空母バンカーヒルに体当たりした操縦員が誰か判明したきっかけは?」 


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