2012-15
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144  2012年12月09日(日) 伊豆半島まで小旅行に行ってきました。目的は黒船と天城峠です。その1    

 myPCの故障の中、ちょっと苦労しましたがなんとかアップロードした、旅日記です。長くなりますから、次の構成で説明します。
 このページでは、1~8のうち、1~5を紹介します。6~7は次の週に、8はさらに次々週に掲載します。

 旅行の概要
 伊豆下田到着まで 熱海・スーパービュー踊り子号
 伊豆下田
 ペリーの上陸記念碑と了仙寺 下田開国資料館
 ハリスと玉泉寺 米国領事館
   湾内周遊サスケハナ号 
   下田の脇役 吉田松陰・坂本龍馬・唐人お吉 
   「伊豆天城峠探検」 
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 1 旅行の概要

 11月25日(日)と26日(月)に伊豆半島に小旅行に行ってきました。
 行くきっかけは、妻の一言です。
 前に「旅行記:九州両端旅行記」のところでも紹介しましたが、妻はNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」の大ファンです。そこで、将軍家定と謁見をする相手として、
下田駐在米国領事ハリスの話が出ています。それを見ていて、一言発しました。

「下田ってどこ。」

 私

「伊豆半島の先端のちょっと東側。昔から江戸幕府の奉行所があった、海上交通の要地だ。」 

 妻

「何でそんなところにアメリカ人ハリスがいるの?ペリーとは違うの?」 

 私

ペリーは江戸幕府と和親条約を結んだアメリカ軍人。その後、通商条約を結ぶために日本にやってきた外交官がハリス。役職は領事。」 

 妻

ペリーは浦賀に来たんでしょう。今年の5月に浦賀に行ってきたじゃない。そのペリーが下田にも来たの?こんがらがってわかんない。」 

 私

「では、下田に行って、いろいろ見学してみよう。そうすると直ぐにわかる。何より伊豆半島は君が大好きな温泉が至るところにある。露天風呂も入れるし、またあの『伊豆の踊子』で有名な天城峠も散策できる。」 

 というわけで、伊豆半島への小旅行が決定しました。
 前回の「九州両端旅行」のように、大きなテーマを設定する旅行ではありませんから、旅行記にではなく、今年の春の「東京ベイブリッジ横浜工場夜景」のように、この日記のページを使って珍道中記を書きます。
 まずは、旅行先の地図です。




 次に、旅程全体の説明です。
 岐阜県から伊豆下田に行くごく普通のルートをたどりました。




 日記ですからいろいろ難しい解説はせずに、写真の説明を続けます。
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 2 伊豆下田到着まで 熱海・スーパービュー踊り子号  ページの先頭へ


 写真-01・02 JR熱海駅前です。 (撮影日 12/11/25)

 左:ここで新幹線を降りて、特急踊り子号に乗り換えました。30分の待ち時間がありましたので、駅の中でぼーっとしていてはおもしろくありませんから、途中下車して、駅前界隈を見て回りました。
 20年ほど前、バブルの時に来たときは、昼食の場所を探すのに随分歩きまわらねばならないぐらい観光客で大混雑でした。しかし、この日は日曜日の午前中というのに、観光客は少なめでした。日本の観光地は、中国人も激減してどこも苦しいようです。
 右:駅前に展示されているこの蒸気機関車は、1907(明治40)年から1923(大正12)年まで小田原-熱海間を走った、熱海軽便鉄道の機関車です。この鉄道は、関東大震災で大きな被害を出したそうです。
 


 写真-03・04 本日最初の温泉は、熱海駅前の足湯 (撮影日 12/11/25)

 左:大きな駅の駅前で裸足になる体験は、なかなか味わえるものではありません。
 右:この足湯は「家康の湯」。1604(慶長9)年に家康が熱海に7日間逗留したことを記念して、その400周年の2004年に設置されました。
 この家康に始まって徳川家の将軍の皆さんは熱海のお湯をこよなく愛されたので、ここで熱い湯を樽に詰め、東海道を早便で江戸城に運ばれました。江戸城まで15時間でいけたそうです。正月の箱根駅伝を見ていれば、東京大手町-箱根間を、選手は片道5時間で走りますから、熱海から温泉入りの樽を15時間で運ぶことは、できないことではないですね。
 熱い湯を樽に詰めて運び、ちょうど江戸城に着いた頃、「いい湯加減」であったと看板には書いてありました。
 


 写真-05・06 熱海-伊豆急下田間は特急踊り子号です。 (撮影日 12/11/25)

 左:熱海駅の東のトンネルから出てきた踊り子1号。 右:伊豆急下田駅に到着した踊り子1号。
 この特急は、東京や神奈川県の方にはおなじみの列車だと思います。岐阜県民が乗る機会は、あまりありません。全車指定席の特急で、熱海駅で乗車する際は、一部の扉しか開閉せず、そこには駅員・乗務員が立っていて、乗車口でチェックするという珍しい特急です。
 JR線としては、熱海-伊東間の
伊東線で、伊東から伊豆急下田までは、伊豆急行線に、JR特急が乗り入れる形です。 

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 写真-07・08 特急スーパービュ-踊り子1号車内 (撮影日 12/11/25)

 左:なぜ、「スーパービュー」なのか。まずは、床面が高い。入り口で階段を2段上ります。
 右:そして、天井部分まである広い窓。荷物入れ場は普通と違って、天井からぶら下がっています。飛行機の荷物入れのようです。
 


 写真-09・10 第1日目は天気もよく、眺めは最高です。まさしくスーパービューです。 (撮影日 12/11/25)

 左:熱川市街と東方の伊豆大島   右:河津の鬼ケ崎の灯台と新島と式根島。その間、はるか遠方に三宅島。
 ちゃんと、アテンダントのお嬢さんが車内放送で解説してくれました。
 


 さて、熱海(9時56分発)から伊豆急下田(11時05分着)まで、1時間ばかりの快適な特急列車の旅の後、私たちは、目的地の下田に到着しました。第1日目は、この下田市内観光をして、市内のホテルに宿泊です。

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 3 伊豆下田                        ページの先頭へ

 写真の説明の前に、ちょっと歴史教師の薀蓄です。
 下田市は、伊豆半島の南端近くにある人口2万5000人余りの小都市です。小さな町なのですが、日本史の教科書にしっかり出てきます。
 そうです、あの1854年に締結された
日米和親条約によって開港された港です。条約によって開港されて港は、下田箱館(函館)です。
 下田は、その位置と地形から、昔から江戸と大阪の船便の風待ち港・避難港として賑わっていました。江戸にも近く、アメリカ船の寄港地に選ばれたわけです。 

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 ※上の地図は、Yahoo から正式にAPIキーを取得して挿入した、伊豆下田周辺の地図です。


 写真-11 伊豆急行下田駅の改札口 (撮影日 12/11/25)

「あれれ、改札口が黒船デザインになっている。ほら、ちゃんとマストまである。」

 私

「大変わかりやすくていい。下田は、黒船や幕末の外交を観光の目玉にしているということだ。」

 妻

ペリーは、いつ下田に来たの?」 

 私

「では順を追って説明しよう。」 

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 まずこの港町にやって来た外国人は、その日米和親条約を結んだ当のアメリカ東インド艦隊司令長官のペリー自身です。
 ペリーといえば、まず、
1853年に浦賀沖に現れ、久里浜に上陸して、アメリカ大統領フィルモアの開国要求国書を受け取らせます。
 そのあと一旦琉球に退去し、翌
1854年に再び来航し、神奈川沖に停泊します。現在の横浜で条約締結交渉がなされ、無事に日米和親条約が締結されます。ここまでは高校の日本史の教科書に書いてあります。
 しかし、その後、ペリー艦隊は、開港地となった
下田箱館に寄港して、そのあとで日本を去ります。この下田箱館への寄港は、教科書には書かれていない出来事です。
 今回の旅はそこを探ろうというわけです。
 
 下田の街は、それを意識して観光地としていますから、予備知識を持って訪問すると、よくわかりますが、妻のように、白紙状態で訪れると、なかなか理解が進みません。


 写真-12・13 伊豆急行下田駅前の説明 (撮影日 12/11/25)

 左:駅前のモニュメント、ペリーの日本遠征艦隊の旗艦、サスケハナ号。ただし、この軍艦そのものは、和親条約の交渉成立後、アメリカ海軍の都合で日本海域を離れており、下田へは来航しませんでした。
 右:駅横の説明図、「ペリー艦隊停泊図」。1854年4月18日、ペリーの座乗する
ポーハタン号ミシシッピ号とともに下田に入港しました。あとからもう1隻入港し、合計7隻の艦隊が下田湾に勢ぞろいしました。 

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 4 ペリーの上陸記念碑と了仙寺 下田開国資料館               ページの先頭へ

 下田の街はそれほど広くはありません。
 しかし、全部を徒歩で回るというのは、ちょっとしんどすぎると思います。移動に疲れると、訪問先の寺や資料館での見学が、投げやりになってしまいます。そこで、駅前の通り1本南にある自転車屋野口さんで、レンタサイクルを借りました。半日借りて2,000円のところをおまけしてもらって1,500円でしたので、とても価値のある選択でした。


 写真-14・15 駅中の観光案内所でもらった「下田ガイドマップ」と昼食 (撮影日 12/11/25)

 左:観光案内所でもらった「下田ガイドマップ」には、協賛店・施設が記載されており、このパンフを入館や支払いの時に見せると、100」円引きとかおまけが付くとか、いろいろな特典があります。これももらった観光案内所の女性スタッフは何も説明してくれませんでしたが、レンタサイクルの自転車屋さんのおじさんが、丁寧に説明してくれました。
 右:昼食は込む前の11時半過ぎに、駅前の「魚河岸」で食べました。海鮮丼とマグロ丼です。新鮮な魚がたっぷりです。この店のガイドマップ「特典」は、デザートのお菓子でした。
 


 写真-15・16 なまこ壁の沢村邸と路傍の大砲 (撮影日 12/11/25)

 左:下田の景観といえば、なまこ壁。白と黒のコントラストが美しいです。
 右:路傍に何気なく「展示」されている、1829年製の大砲。どういう由来のものかは不明。
 


 写真-17・18 ペリー上陸の碑 (撮影日 12/11/25)

 1854年4月18日の朝、金沢八景沖を出港したポーハタン号(ペリー提督座乗)とミシシッピ号は、相模湾を横切って伊豆大島と伊豆半島の間を通り、午後には下田湾へ入り投錨しました。4月22日には、6隻のアメリカ艦隊(このあと遅れてマセドニアン号が来航し合計7隻になります)の将兵全員に上陸許可が出ました。彼らの上陸地点であった、下田港南西の現在の下田公園下の鼻黒の地に、ペリー上陸の碑がたてられています。
 ペリーの胸像が立てられアメリカ海軍から送られた艦船の碇が展示されています。
 

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 下田市内巡りは、まず南西端にあるペリー上陸の記念碑了仙寺開国資料館で2時間程を費やすのがいいでしょう。


 写真-19・20 右:了仙寺本堂  右:了仙寺宝物館  (撮影日 12/11/25)

 了仙寺はその境内でペリー艦隊の将兵が訓練を行ったり、軍楽隊が演奏をした寺です。右の本堂の上には、当時の様子を表した絵画がかけられています。
 また、日米和親条約を補足する13箇条の細則がこの地で締結されました。これを下田条約と呼びます。
 この了仙寺の北西すぐのところに、下田開国資料館があり、また別の観点で下田の歴史を学習することができます。 

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 5 ハリスと玉泉寺 米国領事館       ページの先頭へ

 ペリーが下田の「主役」のひとりであることは間違いありません。しかし、主役はペリーだけではありません。
 日米和親条約締結後に来日したアメリカの外交官、
ハリス領事も主役の一人です。

 
ハリスは、ペリーが下田を去ってから2年後の1856年8月21日に、アメリカ軍艦サン・ジャシント号で下田にやって来ました。
 日本には6年滞在し、その間に、
第13代将軍徳川家定に謁見し、日米修好通商条約の締結に成功しています。
 彼が滞在するアメリカ領事館は、下田市街地から国道135号線を東方に走ったところにあり、下田駅からは2kmほどの距離で、歩くにはちょっと大変です。レンタサイクルの私達には、なんでもありませんでした。


 写真-21 下田市柿崎31‐6にある玉泉寺、初代アメリカ領事館です。(撮影日 12/11/25)


 写真-22・23 玉泉寺本堂 (撮影日 12/11/25)

 右の内部の写真の中央奥にハリスの事務室がありました。 



 写真-24・25・26 アメリカ国旗掲揚之跡
                         (撮影日 12/11/25)

 ハリスは領事館のこの場所に、1856年9月4日、日本で初めてアメリカ国旗を掲揚しました。
 左下は、説明板にあるハリスの日記からの引用文です。歴史の開拓者としての興奮が伝わってきます。
 右上は、1979年6月27日に玉泉寺を訪れた、当時のアメリカ大統領ジミー・カーター氏の記念碑です。

 


 写真-27・28 左:ハリス記念館   右:アメリカ将兵墓所  (撮影日 12/11/25)

 本堂の脇にハリス資料館があり、いろいろな資料が展示してあります。また、寺の西北側にはアメリカ将兵の墓所が、また東北側には1854年の安政大地震の津波で沈没したロシア艦ディアナ号の将兵の墓所もあります。

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 ちょっと説明があっさりしています。お気づきでしょうか。そこが旅行記と日記の違いです。
 実は、ペリーの来航については、他の取材分と合っわせて、目から鱗:「
ペリー来航と条約締結」(仮題)でという新シリーズを組みたいと思っています。中味の濃いところの部分はそれのために取っておきたいと思います。

 長くなってきたので、2回に分けて説明します。
 後半は、
湾内周遊サスケハナ号下田の脇役、そして翌日の天城峠「探検」です。


 【伊豆半島小旅行記 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

あるっく編集部編『歩く地図Nippon⑥ 伊豆箱根・富士』(山と渓谷社 2004年)

川澄哲夫著『黒船異聞 日本を開国したのは捕鯨船だ』(有隣堂 2004年)

サミュエル・エリオット・モリソン著座本勝之訳『伝記 ペリー提督の日本開国』(双葉社 2000年)

オフィス宮崎編訳『ペリー艦隊日本遠征記 上・下』(万来舎 2009年)


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