2012-17
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146 2012年12月24日(月) 伊豆半島まで小旅行に行ってきました。目的は黒船と天城峠です。その3    
  伊豆小旅行の旅日記、3ページ目です。今日は、次の目次の最後の部分、8をレポートします。細切れ掲載で恐縮です。
 旅行の概要
 伊豆下田到着まで 熱海・スーパービュー踊り子号
 伊豆下田
 ペリーの上陸記念碑と了仙寺 下田開国資料館
 ハリスと玉泉寺 米国領事館
   湾内周遊サスケハナ号 
   下田の脇役 吉田松陰・坂本龍馬・唐人お吉 
   「伊豆天城峠探検」 

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 8 「天城峠探検」                     ページの先頭へ

 さて、今回の旅行の最終訪問地は、天城峠です。
 タイトルに注目してください。あえて、「
天城峠探検」となっています。天城峠は人跡未踏の秘境ではありませんから、普通に訪れれば、「探検」とはなりません。
 では、なぜ、「探検」になってしまったのか?その原因は、その日、11月26日(月)の伊豆地方の天候にありました。

 11月25日(日)の夜、キンメダイのしゃぶしゃぶを食べながら、TVで翌日の天気予報を見ていました。

 TV

「明日は日本海を低気圧が通過するため、各地で大荒れの天気となります。・・・・伊豆地方は午前中から雨が激しくなり、風速10m以上の南寄りの風が吹き、波も高いでしょう。気温は上がらず寒い一日となるでしょう。・・・・」

 妻

「あれあれ、明日は期待を裏切って、悲惨な天気になるわ。」 

 私

「それじゃ、戸田とか河津七滝とかを回る計画は中止して、バスかタクシーで天城峠のトンネルにだけ立ち寄ろう。
 川端康成や松本清張の小説に描かれた天城峠はぜひ行ってみたい。雨だけどトンネルの中は大丈夫だろう。
 トンネルの中を歩いて通過して、向こう側から、またバスで、
伊豆修善寺に行き、電車で三島へ出よう。午後も雨が降り続くようなら、早めに切り上げて新幹線で帰ろう。」 

 26日(月)の朝は、早朝の露天風呂入浴の時はまだ雨は降っていませんでしたが、ホテルを出る頃は天気予報どおり、本格的な雨となりました。
 下田駅から河津駅まで電車で行き、東海バスの時刻を確認しましたが、いいバスはありません。雨もよりひどくなって来ましたので、タクシーで
旧天城トンネルの南の入口まで、直接送ってもらうことにしました。
 うまい具合に、駅前にタクシーが1台止まっていました。大雨のしかも月曜日ですから、私達以外に観光客はいません。

 私

旧天城トンネルの南口まで行って欲しいんですけど。」

運転手

「はい、わかりました。生憎の天候となってしまいましたね。今日の雨は相当ひどいですよ。今日は、どういうプランですか。」 

 私

「トンネルの南口のすぐそばまで行けますよね。とりあえずそこまで行って、トンネルを北口へ抜けて、その下の国道まで下りて、そこからはバスで修善寺へ行こうと思っています。」 

 運転手

「南口のすぐそばまで行けます。すぐにトンネルに入れば、雨には濡れません。トンネルの長さは450m程ですから(正確には446m)」、ゆっくり歩いても、北側に出るまで、そう時間はかかりません。 

  私

「北口から、国道のバス停に降りるのには、15分ぐらいでいけるでしょうか?」 

 運転手

「天候が良ければ15分もかからないでしょ。ただし、今日の雨ですから、すべるし、ひょっとしたら、山道を雨が流れている可能性もありますから、注意してください。バスの時刻はわかっていますか。」 

 

「え~と、天城峠停留所を10時38分。」 

 運転手

「このままいけば、トンネル南口には9時45分ぐらいには着きますから、大丈夫でしょう。あまり長居されないほうがいいですよ。こんなひどい雨が続くと、雨量規制で、国道が通行止めということもありますから。」

 

「ええー、取り残されたら遭難しちゃう。
でも、反対に時間があまったら、どうするの。こんな雨の中、周辺散策という訳にはいかないよ。」
 

 

「多分時間があまると思うので、そうなったら、トンネルの中で雨宿りしよう。トンネルの中は、夏涼しくて冬暖かいというのが相場だ。」 

 実は、この会話の中の予想・期待のうちの何かが現実と違っていて、天城峠ですごした50分間は、実に悲惨なものとなってしまいました。どの点かわかりますか?


 上の地図は、Yahoo から正式にAPIキーを取得して挿入した、伊豆半島天城峠の地図です。
 伊豆半島の中央部に天城連山がつらなり、半島を北と南に分ける分水嶺となっています。天城連山の最高峰は、半島中央東寄りにある、標高1,405mの万三郎岳です。
 天城峠は、半島ほぼ中央部にあります。江戸時代の街道は、標高830mほどの別の峠を通る峠越えの道でしたが、1904年に
天城トンネル(旧天城山隧道)が開通し、標高700mほどのところをトンネルで通過することとなりました。これにより、そのトンネルを通過する街道の部分が、天城峠と呼ばれることになりました。実際に地形上の天城峠と呼ばれる地点はトンネルの直上にあるそうですが、そこに旧街道が通っているわけではありません。
 つまり、文学作品にも表現される
天城峠は、イコール天城トンネル旧天城山隧道)と同義ということになります。
 さらに、1970(昭和45)年に国道414号線に
新天城トンネルが開通し、旧トンネルより80mほど下を通過することになりました。  


 私

「下田へやってきたハリスも、将軍に謁見するため江戸へ向かう時、はじめてこの道を通って行った。今は伊豆急行電車とJR線で海岸沿いに熱海に出ることができるが、昔は、下田街道と言って、下田から河津・天城・湯ヶ島・修善寺・大仁・三島と進んで東海道に出るのがメインルートだった。」 

「ハリスの頃は、まだトンネルはないのね。」 

「トンネルは明治の終わり頃、20世紀に入ってできた。川端康成の『伊豆の踊子』は、大正時代の設定の小説だから、トンネルはちゃんとあって、踊り子や主人公の一高の学生は、私達とは反対に、修善寺側からやってきて、下田へ向かった。」 


 写真-18・19 天城峠旧トンネル南入口。 明治37(1904)年完成です。 (撮影日 12/11/26)

 日露戦争の年に完成したトンネルです。108年前の歴史的建造物です。 


 タクシーは旧天城トンネル南口の手前、50m程のところまで、私達を運んでくれました。

 私

「この説明板の写真を撮っているから、先にトンネルの入口まで行って、待ってくれ。」 

「分かった。雨宿りしとる。」 

 写真を撮っていると妻の驚きの「遠吠え」が聞こえてきました。

「ひえーい。こりゃあかん。」 

「どーしたー。」 

 トンネルに近づくと、待っているはずの妻の姿がありません。
 よくみると、赤い傘をさしてトンネルの中をどんどん先に進んでいるようです。


 写真-20 天城峠旧トンネル 南口(撮影日 12/11/26)


 悲鳴をあげる妻、約束を破ってとっととトンネルを進む妻、いったい何が起こったのでしょうか?


 写真-21・22 トンネル内部 (撮影日 12/11/26)


 自分もトンネルの入り口に来て、その理由がわかりました。
 
トンネルの外から中へ向けて凄まじい風が吹いているのです。しかもその風の寒いこと寒いこと。
 この日の伊豆地方の午前中は、基本的に寒い南風が吹き荒れていました。つまり、トンネルの南から山肌に向かって吹いてきた風が、凄まじい勢いでトンネルを通り、北口へ吹き抜けていたのです。
 妻がさっさとトンネルの中を北へ向かった理由は、ひとつはとにかく寒いこと、もうひとつは、広げている傘が風に押されて、まるで風を受けて快走するヨットのように北口に向かってどんどん進んでいってしまうのです。
 立ち止まって写真を撮るのも大変でした。 


 写真-23 トンネルの北入口にある石碑 1904年完成の天城山隧道は重要文化財です (撮影日 12/11/26)


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 写真-24 トンネルの長さは446m、標高は708.74mです。(撮影日 12/11/26)

 トンネルはコンクリート製ではありません。切り石巻工法という、四角に切った石を積み上げていく工法で作られています。


 写真-25・26 トンネル北口 石積みが歴史を感じさせます。 (撮影日 12/11/26)

 川端康成の『伊豆の踊子』では、主人公の学生が踊り子を含めた旅の一座に出会うのは、トンネル北口からちょっと下ったところにある茶屋でした。
 また、
松本清張の短編、「天城越え」では、主人公の少年が、トンネル北口近くの谷にある氷室の近くで、土工を殺害する設定になっています。 


 私

「そういえば、『伊豆の踊子』で学生が踊り子に出会う茶屋の場面も、ひどい雨が降っていて、学生が寒さでブルブル震えている描写が出てくる。季節も同じ晩秋だ。」 

「寒い、寒い、ほんとうに寒い。雨も冷たい。小説と違って茶屋はない。」 

 トンネルの中は突風が吹き抜けて寒くてとても滞在はできません。外は、大粒の雨です。標高700m以上のこの地に留まる理由はないように思われました。
 実は、右の写真に写っているように、トンネル北口の外には、雨が避けられる東屋がありました。しかし、とにかく寒くて、ここに留まるという発想は持つことができませんでした。
 大雨のこの日は、私達以外にこのトンネル周辺に全く観光客はいません。「贅沢にも観光地を独占」できているといえば、そういう見方もありますが、逆に寂しさと不安も高まります。


 写真-27・28・29 旧隧道北口から新トンネル北口への近道 (撮影日 12/11/26)
 旧道路は、トンネルの南口・北口とも、つづら折れの道で新道とつながっています。というか、そういう峠道だったところを、新しくトンネルを掘って、直線的に結んだわけです。
 そのため、新トンネルと旧トンネルとの間には、70m程の標高差があります。北口には、新旧道路を近道で結ぶ山道があります。上の写真です。谷川の堰堤の脇を通って、天気の良い日の下りなら10分かからず新国道へ降りることができます。
 


 この日の近道は、タクシーの運転手の心配の通り、大雨のお陰で、落ち葉が水を吸って、ズルズルの状態でした。ホイホイと気軽に下りれる状態ではありませんでした。転ばないように、慎重に下山しました。特に、膝に持病を持つ私は、妻よりももっとゆっくりになります。

 私

「そう早く行くな。転んでも助けないぞ。転んで落ちたら谷底だぞ。」 

「ゆっくりしていると、バスが行ってしまうかも。こんな山の中だから、バスも時刻通りに来るとは限らない。早く通過してしまったらどうなるの。寒くて、遭難よ。」 


 写真-30・31 国道にある東海バス「天城峠」バス停 (撮影日 12/11/26)

 左は、修善寺方面のバス停。
 右は、河津方面のバス停。旧道から下りてくる山道は、バス停のすぐ後ろにあります。右手、白いワゴン車の向かう先が新天城トンネルです。土砂降りの雨が路面に跳ね返って、全体が白く見えます。ひどい降りでした。
 


 ゆっくり進んでも、国道のバス停までは15分弱で行き着くことができました。
 しかし、そこからが、この「
天城峠探検」の、ハイライトの時間となりました。
 ご覧のように、バス停の近くには、お店も休憩所も何もありません。この場所で、土砂降りの雨の中、25分ほど、
東海バスの修善寺行を待つ羽目になったのです。

「寒い冷たい、寒い冷たい、寒い冷たい、寒い冷たい、寒い冷たい、寒い冷たい。」 

  「もし、バスが来なかったら。どうなる。」 
  「遭難する。」 
  「もし、バスが来ても、運転手がボケていて、バス停を素通りしたらどうなる。」 
  「遭難する。北京の万里の長城の遭難者みたいに凍死する。」 
 
 とても心配しましたが、東海バスは、時間通りにやってきて、ちゃんと停留所に止まって私達を拾ってくれ、おかげで無事生還できました。
 以上が、「
天城峠探検」です。どこが探検じゃと批難しないでください。私たちは本当に心配でした。

 3週にわたって掲載しました、「伊豆小旅行記」はこれで終わりです。最後まで読んでいただいてありがとうございました。


 【伊豆半島小旅行記 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

あるっく編集部編『歩く地図Nippon⑥ 伊豆箱根・富士』(山と渓谷社 2004年)

オフィス宮崎編訳『ペリー艦隊日本遠征記 上・下』(万来舎 2009年)

 

桜井祥行著『伊豆と世界史 豆州国際化事始め』(批評社 2002年) 

 

松本清張著「天城越え」阿刀田高編集『松本清張小説コレクション34 短編集』(中央公論 1995年)P90-124 

 

川端康成著「伊豆の踊子」『川端康成全集 第一巻』(新潮社 1948年)P72-108 


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