2012-16
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145 2012年12月17日(月) 伊豆半島まで小旅行に行ってきました。目的は黒船と天城峠です。その2    
  伊豆半島小旅行記(下田・天城峠)の2回目です。今日は、次の目次の後半、6と7をレポートします。  
 旅行の概要
 伊豆下田到着まで 熱海・スーパービュー踊り子号
 伊豆下田
 ペリーの上陸記念碑と了仙寺 下田開国資料館
 ハリスと玉泉寺 米国領事館
   湾内周遊サスケハナ号 
   下田の脇役 吉田松陰・坂本龍馬・唐人お吉 
   「伊豆天城峠探検」 
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 6 湾内周遊サスケハナ号                 ページの先頭へ

 下田のもう一つの主役は、湾内遊覧船のサスケハナ号です。
 
サスケハナ号というのは、前ページでも紹介しましたが、ペリーが1853年7月8日に浦賀に初来航した際のアメリカ艦隊(4隻)の旗艦です。ただし、2回目の来航(1854年2月13日)時の直後、2月18日に、ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号へ変更しました。
 1854年の下田来航の際は、
サスケハナ号は中国海域に去っており、ペリーの旗艦はポーハタン号でした。それでも、この下田では、サスケハナ号が主役です。


 ※上の地図は、Yahoo から正式にAPIキーを取得して挿入した、下田港の地図です。


 写真-01 遊覧船サスケハナ号 (撮影日 12/11/25)

 伊豆クルーズの遊覧船、サスケハナ号127トン。1989年に広島県因島市の石田造船工業で建造されました。(船内の説明板から)
 乗船料は、1,000円です。「下田ガイドマップ」を見せると1割引きです。ただし、2階の見晴らしのいい展望席に上がるには、特別料金400円が必要です。乗船時間は20分ほどです。
  ちなみに、サスケハナSusuquehannaという名前ですが、見るからに英語っぽくありません。何気なく聞くと、「猿飛佐助」なんかを連想してしまいます。
 この名前は、ペンシルバニア州を貫流してメリーランド州で
チェサピーク湾の一番奥に流れ出るサスケハナ川に由来します。そして、その川の名前は、開拓時代にこの川の流域にいたインディアンのサスケハナ族に因んでいます。
 また、この川は、この軍艦以外では、その中州にある
スリーマイル島原子力発電所が、1979年3月に放射能漏れ事故を起こしたことで有名、・・・誰もしらないか?
 
チェサピーク湾サスケハナ川河口から南へ下がっていくと、ボルチモア、アナポリス(アメリカ海軍の士官学校がある場所)があり、また、ワシントンを流れるポトマック川が注ぐポトマック湾もこのチェサピーク湾につながっています。
 さらに、湾の南の入口には、東海岸の軍港都市
ノーフォークがあり、第二次世界大戦中に建造されたアメリカ最後の戦艦アイオワ型の4番艦、ウィスコンシンが引退後係留・公開されています。→「アメリカとの草の根交流15 戦艦アイオワ記念館となる


 写真-02・03 遊覧船サスケハナ号からの撮影 (撮影日 12/11/25)

 左:遊覧船は下田湾外防波堤(水深45mのところに現在建設中)をちょいと出て、防波堤の外側を回って、また湾内へもどります。左は建設中の外防波堤と下田湾内です。
 右:2階特別展望席の船尾側にいるこの親子連れは、港の景色を見ているのではありません。船内で売っている
カモメの餌を、群れ飛ぶカモメに向けて撒いているところです。カモメをアップで撮影することは大変むずかしいですが、随分近くにまでやってきます。この遊覧船にはそういう楽しみもあります。 


 写真-04 下田港寝姿山(撮影日 12/11/25 2枚の写真をつなげてあります)

 遊覧船サスケハナ号から撮影した下田港寝姿山(ねすがたやま)。
 
寝姿山というのは、下田湾の北側につらなる武山の別名です。女性が仰向けに寝転んでいる姿に寝ているということから、寝姿山が別名となりました。ちなみに、左が顔、その右の低いところは首です。次は乳房ということになるでしょうが、日本女性の伝統を守って微乳です。(^^)
 中央の島は湾内の真ん中やや南西よりにある
犬走島です。現在は、島と西側の陸地が防波堤で結ばれています。これが中防波堤です。
 1854年の4月、この島のまわりに
7隻のアメリカ艦隊が停泊しました。
 この写真は、7隻のうち、一番外海側にいた、
マセドニア号バンダリア号からの眺めに近いものと想像されます。 


 写真-05・06 下田湾内犬走島 (撮影日 12/11/25)

 左:湾内中央やや南西寄りにある犬走島。湾中央東から下田市内を臨む。サスケハナ号のこの撮影位置は、ペリーが座乗した旗艦ポーハタン号投錨位置とほぼ同じです。ペリーが最初に見た下田湾と下田の街の概観は、こんな感じだったでしょう。 
 右:同じく湾奥から撮影した
犬走島。7隻のうちサザンプトン号の投錨位置に近いと思われます。


 僅か20分のクルーズですが、色々楽しめます。
 ただし、船内の解説アナウンスは、アメリカ艦隊の投錨場所の説明まではしてくれません。下田駅東側の大きな説明板や
下田開港資料館の解説を勉強しておく必要があります。


 写真-07 これは下田駅駅舎の外側にある7隻のアメリカ艦隊の停泊場所を示す説明図です (撮影日 12/11/26)

 湾の入り口にバンダリアマセドニア、ついでレキシントン、犬走島とミサゴ島の間に、ポーハタンサプライミシシッピ、一番手前がサザンプトン


 写真-08 中央の小島は、ミサゴ島。その奥が遊覧船の発着場です。(撮影日 12/11/25)

 埠頭に接岸しているこちらに舳先を向けている船は、海上保安庁の巡視船です。
 奥の白い建物が今日の宿泊所、その名もずばり、
黒船ホテルです。背後は寝姿山の顔部分です。


 下田にはホテルはたくさんあります。私は、この際だからとことんペリー艦隊にこだわって、黒船ホテルを選択しました。いつものケチケチ旅行なら、一人一泊10,000円以下が常です。今回は、眺望と料理と温泉とにこだわって、ひとり1泊15,000円と、ちょっと奮発しました。キンメダイのしゃぶしゃぶ料理の夕食と朝食付きです。しかも、部屋での食事です。

 ホテルのフロントで、ラッキーな事を告げられました。
「今日は日曜日ですので、素敵な部屋を用意できました。」
 つまり、今日は日曜日で宿泊客が少ないので、いい部屋が用意できたというわけです。妻と二人で、うまく、日月と休みがとれたのがラッキーでした。
 どんな部屋だったのかというと・・・・・。


 写真-09 黒船ホテルの部屋からの眺望(撮影日 12/11/25)

 中央は遊覧船サスケハナ号。左手の木の後ろの小島がミサゴ島。中央右の島が犬走島。犬走島の背後に外防波堤が見えます。対岸は下田湾東側の須崎半島の山々。
 1854年4月にタイムスリップすれば、この場所から
7隻のアメリカ艦隊全部を見ることができたはずです。
 眺望は期待通り良かったのですが、部屋は3階でした。もう少し高い階だと最高でした。


 写真-10・11 お一人様15,000円のホテル (撮影日 左:12/11/25  右:12/11/26)

 左:料理のメインはキンメダイのシャブシャブです。美味でした。
 右:自分の
部屋に露天風呂があるとは豪華です。人生初めての経験です。(^^)

 私

「こんな経験生まれて初めてだから、これを機会に露天風呂混浴しよう。」

 妻

「いや恥ずかしい。外は国道と港よ。」 

 私

「大丈夫だ。夫婦足して年齢110歳を越しているんだから、誰ものぞきには来ない。」 

 かくて、生まれてはじめての露天風呂混浴が実現しました。混浴相手は妻ですう。何も不満はありませ~ん。(^^)
 もっとも、深山幽谷の露天風呂とは違い、国道を通過する自動車の音がうるさくて、風情は今ひとつです。さらに、当たり前ですが、湯船に浸かると湾内や
遊覧船サスケハナ号は見えません。
 
 右は、次の日の朝、露天風呂に一人で入る私です。泉温もほどよく、合計3回入浴して十分堪能しました。   
 

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 7 下田の脇役 吉田松陰・坂本龍馬・唐人お吉      ページの先頭へ        

 下田港の主役を紹介してきましたが、実はこの主役以外にも、下田港には脇役がたくさんいます。吉田松陰坂本龍馬唐人お吉です。
 まず、
吉田松陰です。
 長州藩の
吉田松陰は、ペリーが来航したと聞くと、アメリカへの密航を計画し、弟子の金子重輔とともに下田へやって来ました。
 
吉田松陰金子重輔は、まず4月24日、上陸していたアメリカ人、ミシシッピー号の書記官スポールディングに自分たちの思いをしたためた手紙を渡しました。しかしこれには何の反応もありません。そこで、4月27日の夜に、柿崎海岸の小島、弁天島の海岸から運よく手に入れた小舟を使って、アメリカ艦隊へ直接乗り付けるという勇敢な行動に出ます。最初はミシシッピ号へ漕ぎ着け、応対を拒否されると、次には旗艦ポーハタン号に漕ぎ着け、船中に入ることに成功しました。
 しかし、アメリカ側は「条約違反」となるこの行為によって日米関係が崩れるのを恐れて、松陰らの密航を拒否します。この結果、松陰の企ては失敗に終わりました。二人は小舟で送られて海岸に戻り、困惑の後、自ら地元の庄屋へ自首して、獄舎につながれました。写真はありませんが、二人がつながれた獄の跡の記念碑が立てられています。

 二人の行動を知ったペリーは、次のように書き残しています。
「この事件は、知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を冒すことも辞さなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、実に興味深かった。日本人は間違いなく探究心のある国民であり、道徳的、知的能力を広げる機会を歓迎するだろう。あの不運な二人の行動は、同国人の特質であると思うし、国民の激しい好奇心をこれほどよく表しているものはない。その実行がはばまれているのは、極めて厳重な法律と、法に背かせないとする絶え間ない監視のせいにすぎない。この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか。そして付言すれば、なんと有望であることか!」
  ※参考文献4 下巻P315-316 


 写真-12 下田湾北東奥の柿崎海岸の弁天島 (撮影日 12/11/25)

 吉田松陰と金子重輔はこの島のお堂に隠れ、密航の機会をうかがいました。この島は、今は陸続きとなっていますが、地層がくっきり出ていて、理科的にも興味がある島です。


 写真-13・14 左:吉田松陰密航の地の碑 右:ここにミシシッピ号ポーハタン号が停泊 (撮影日 12/11/25)

 弁天島沖合、一番近いところにミシシッピ号は投錨しており、小舟で漕ぎ寄せるには、それほど難しくはなかったと思われます。さらに、100mほど南西先に、ポーハタン号が停泊していました。 


 写真-15 吉田松陰・金子重輔先生踏海企ての跡(撮影日 12/11/25)

 ライオンズクラブの寄付による説明図。吉田松陰金子重輔が小舟で漕ぎいだすシーンです。


 脇役の二人目は、唐人お吉です。
 ハリスの
侍妾となった下田の女性です。
 通商条約の締結交渉を行っていたハリスの無聊を慰るためや、ハリスの動向を探る目的などで、ハリスに侍妾をつけることになり、その相手として、当時16歳で下田の人気芸妓であった
お吉に白羽の矢が立ちました。彼女はハリスのお気に入りの女性でもありました。この時同時に、お吉の妹のお福が、ハリスの通訳のヒュースケンの侍妾になっています。

 アメリカ人=夷(えびす)のそばに侍るという当時の常識では受け入れがたい「仕事」をさせるために、下田奉行所は、
お吉に年俸120両、仕度金25両を用意しました。
 
お吉は町の人から「唐人お吉」の罵られ、蔑まれながらも、ハリスが江戸に移るところまで付き従いました。
 ただし、そののちのお吉の運命は幸福とはいえず、あちこちを転々とした後下田に戻り、一時は料亭を経営したりして羽振りも良かったのですが、結局は長続きせず、最後は、1891(明治24)年3月25日、市内の稲生沢川に投身自殺しました。

 妻

唐人お吉というから、中国人の女性かと思った。」 

 私

唐人というのは、中国人という意味もあるが、この場合は、異人・外国人という意味だ。というよりもっと厳しく、得体のしれない禽獣の如き外国人と交わった蔑むべきとんでもない女という見方をされたわけだ。いわば、日米開国史の犠牲者といえる。」 

 
 私達が宿泊した黒船ホテルでは、夕食後の8時30分から、「唐人お吉物語」というDVDが上演されました。元東海バス(この地域のバス会社)のガイドさんだったという方の語りと歌によるもので、下田の観光地の映像を背景にお吉の一代記を20分ばかりで勉強できました。2012年8月に投宿した鹿児島県の指宿グランドホテルのボランティアさんの語りもそうでしたが、ホテルでの夕食後の「ショー」は、なかなか勉強になります。


 脇役の3人目は、坂本龍馬です。
 伊豆急行下田駅の改札口を出る時、妻が気が付きました。

 妻

「あれ、こんなところに坂本龍馬が。彼は下田とどういう関係があるの?」 

 私

「えーと。そこまでは予習していない。」(^_^;) 


 写真-16・17 伊豆急行下田駅の坂本龍馬 (撮影日 12/11/25)

 左:特急スーパービューー踊り子号がついたホームの端にある「龍馬くん地蔵」。右手の拳に触ると幸せになるそうです。
 右:改札口を出たところには、大きな龍馬の写真が。「
坂本龍馬飛翔の地 伊豆下田 


 これはあとで調べて分かりました。
 
坂本龍馬は1862(文久2)年に脱藩して勝海舟の門下に入りました。しかし、そのあとで勝が龍馬の身を案じ、1863年には勝自身が、下田の宝福寺で前土佐藩主山内容堂に面会し、龍馬の脱藩に関する罪の赦免を乞うています。このおかげで、龍馬はその罪を許され、その後一度藩に戻っています。しかし、再び脱藩し、亀山社中の結成に動きます。
 こういう経緯があったので、宝福寺は龍馬ゆかりの地となっており、下田駅に上の写真のような、モニュメントがあるということです。それだけの縁で、観光のネタにするところはさすがです。

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 さて、今回の旅行の最終訪問地は、天城峠です。ちょっとずつの掲載になって恐縮ですが、最後の「天城峠探検」は、来週掲載します。


 【伊豆半島小旅行記 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

あるっく編集部編『歩く地図Nippon⑥ 伊豆箱根・富士』(山と渓谷社 2004年)

川澄哲夫著『黒船異聞 日本を開国したのは捕鯨船だ』(有隣堂 2004年)

サミュエル・エリオット・モリソン著座本勝之訳『伝記 ペリー提督の日本開国』(双葉社 2000年)

オフィス宮崎編訳『ペリー艦隊日本遠征記 上・下』(万来舎 2009年)

 

竹岡範男著『唐人お吉物語』(文芸社 2006年) 


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