各務原・川崎航空機・戦闘機04
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 □飛燕開発前夜 −日本の戦闘機に求められたもの−
     
 格闘性能かスピードか                                            

 陸軍は、川崎製の九五式戦闘機の制式化をあと、同じ年の1935年末にはすでに次の戦闘機の試作を中島、川崎、三菱に命じます。
 この時期、戦闘機を設計する場合、二つの異なる発想をどう処理するか、どうバランスをとるかが重大な問題となりつつありました。

 もともと、戦闘機同士の戦いの場合、空中戦で相手の戦闘機を落とす方法としてどのような形が理想的と考えられていたのでしょうか。
 初期の空中戦は、相手を撃墜するといっても、それこそ、操縦士同士がピストルで撃ち合ったりなどという、非能率的なものでした。
 しかし、戦闘機が進歩し、胴体に前向きに機関銃を装備し、しかも、プロペラの回転にあわせ、プロペラの羽をさけて機関銃弾を発射する同調装置が開発されると、空中戦は、空中旋回などによって相手機の後ろに回り、機関銃をあびせて撃墜するというのが「常識」となりました。

 下のアニメーションは、格闘性能よい日本の戦闘機ゼロ戦に、アメリカ軍機が後方から襲いかかった様子を示しています。
 最初の一撃をかわして、旋回に入れば、小回りのよさで上回るゼロ戦が、反対にアメリカ軍機の後方に回ることができ、撃墜できるというわけです。 

こんなアニメを作ってしまって、またぞろ、マニアックになってしまいました。
今回初めて、「Macromedia Flash MX2004」というソフトを使ってみました。まだまだ初心者ですが、諸先輩のご指導をいただきたいと思っています。

 ただし、この方法で勝つには、一つ条件が必要です。
 旋回性能で劣っているアメリカ軍機が、同じように旋回して格闘戦に応じてくれるという条件です。この「条件」の重要性については、あとで説明します。

 この方法に優れた戦闘機となるためには、格闘機能、つまり、くるくるとうまく小回りする性能に優ることが必要です。
 そのためには、飛行機は軽くなければならず、また、翼の面積は重量に比べて広くなければなりませんでした。

翼の面積と飛行機の重量については、翼面荷重という専門用語があります。飛行機の総重量を翼の面積で割り算したものです。○○kg/uと示します。

 ところが、格闘機能の向上、その為の軽量化・翼面積の広大化は、逆に戦闘機に別の限界も与えます。
 スピードが速くならないこと、飛行機の強度が弱くなることです。

 強度に関しては、たとえば、自分のエンジンの力と、重力を利用して急降下(ダイブ)したあと、機体の引き起こし(操縦桿を引いて、急降下から上昇に切り替える)をする場合、機体にはとんでもなく大きな力がかかることは想像に難くありませんが、その際、強度が弱いと、機体は空中分解を引き起こしてしまいます。

 川崎九五式戦は、いうまでもなく、この格闘性能を重視した戦闘機でした。当時すでに各国では単葉(1枚翼)の戦闘機の開発も行われていましたが、日本陸軍では、格闘性能と操縦しやすさ重視して、複葉(2枚翼)機を採用したのです。 


川崎九五式戦闘機
 かかみがはら航空宇宙博物館の展示パネルの写真です。同博物館の「土井設計士」のコーナーでは、川崎航空機などで土井さんが設計にかかわった飛行機を年代別に紹介しています。
ところで、九五式という表現は、制式となった年が、皇紀24
95年(昭和10年、1935年)という意味です。
 皇紀は戦前によく使われた年紀法で、伝説上の初代天皇、神武天皇の即位年を西暦紀元前660年として、その年を皇紀元年とするものです。1940(昭和15)年が
皇紀2600年となります。零式艦上戦闘機=ゼロ戦は、この年に制式化されました。


 ところが、戦闘機の先進地域ヨーロッパでは、これとはまったく異なる発想の優秀な戦闘機が誕生していました。
 可能な限り高出力のエンジンを搭載し、翼の面積を小さくしてエンジンの馬力の割には高速度を出し、機体も比較的頑丈で、ちょっとした急降下などでは分解しない戦闘機です。
 もちろんこの戦闘機の得意技は、くるくるまわる格闘戦ではありません。相手戦闘機にたいして有利な位置から素早く接近して打撃を与え、そのまま降下して離れていくという、「
一撃離脱」戦法を得意技とするものです。

 九五式が制式となった1935年、ドイツでは、その後のドイツ空軍の代名詞ともなる名戦闘機、メッサーシュミットBf109が初飛行に成功しました。
 液冷式ダイムラー・ベンツエンジンを積んだ同機の当初のスピードは、460km/hでした。

 また、イギリスでは、同じ年に、ホーカーハリケーンという戦闘機が520km/hを記録し、さらに、同じイギリスのスーパーマリン・スピットファイアーは、翌1936年に、580km/hを記録しました。
 時代は、時速500km代の高速戦闘機の時代に入ったのです。


メッサーシュミットBf109
(ドイツ)模型写真


1935年初飛行。第二次世界大戦中も改良が加えられ、大戦終了時まで約3万機が生産された。


スーパーマーリン・スピットファイアー(イギリス)写真
 ロンドンの戦争博物館の展示機。2001年8月撮影。
 ドイツのメッサーシュミットBf109と違って、翼の面積は多少広く、格闘性能にも劣っていなかった。
 
 ただし、日本の戦闘機に比べて、飛行距離(航続距離)は短かかった。


 ところが、日本の戦闘機はというと、川崎の九五式戦闘機のあとに、陸軍が中島飛行機に作らせた、九七式戦闘機(最高速度460km/h)も、これまでの伝統に従い、陸軍が要求した格闘性能を重視する戦闘機となりました。

 次の陸軍の制式戦闘機、
一式戦隼(はやぶさ、第二次世界大戦期の陸海軍機は、公式にまたは事実上、愛称を持ったものが多い)も、速力は490km/hと若干早くなったものの、設計時の陸軍の要求は、「九七式と同じ程度の格闘性能」というものであり、やはり、同じ発想の戦闘機でした。
 
 かの有名な、海軍の
零式艦上戦闘機は、格闘性能と航続距離を重視し、防御力・機体の強靱性等を軽視したものの、ある程度の速力(初期の型は、530km/h)を実現したことから、奇跡の名機と呼ばれることになりますが、この奇跡は、やはり、「格闘性能重視」という発想が足かせとなって生じたものでした。


  重戦と軽戦とエンジン                       | このページの先頭へ |   

 陸海軍とも、主力戦闘機は、格闘性能重視の路線を換えませんでしたが、しかし、それ以外の発想をもっていなかったわけではありません。
 陸軍は、一式戦の開発命令のすぐあと、1938(昭和15)年に、中島飛行機に試作機キ44の開発を命じました。
 これは、大きなエンジンを搭載して、その馬力にものを言わせて、高速力と上昇能力を優先し、格闘性能は犠牲にするという発想の戦闘機でした。
 対戦闘機相手の戦いでは、格闘戦の発想から抜けられなかった日本軍でしたが、相手がアメリカ・イギリスの爆撃機となると、戦い方が違うことは、分かっていました。

 日本のそれより優れた性能をもっていると考えられていたアメリカやイギリスの爆撃機(高々度を飛び、武装も強力)を相手に戦う場合、飛来した爆撃機にすぐに追いつき(上昇力大)、高速度をもって一撃離脱の戦法をとる以外に、撃墜の方法はありませんでした。
 この試作機キ44はのちに制式戦闘機、
二式戦鍾馗(しょうき)となりました。

 このように、1930年代後半には、欧米では、戦闘機の設計思想は、馬力の大きなエンジンを搭載して、一撃離脱をねらう型へと転換されましたが、日本では、戦闘機の設計思想には、発想の異なる二つの大きな流れが存在したのです。この二つのタイプの戦闘機を日本では、重戦
軽戦と呼んでいました。
 本来、欧米の戦闘機には、このような分類はありません。日本の分類でいう重戦しかないのですから、分類する必要がないのです。
<重戦と軽戦の比較>

重戦

○印は重視する項目

軽戦

速度

×

上昇力

×

×

航続(飛行)距離

×

格闘性(旋回性能)

重くてもかまわない

重量

軽くする

大きい

翼面荷重

小さい

できるだけ大馬力

エンジン

そこそこでよい

 ところで、ここで、今まであまり触れていなかった重要な問題が一つあることに言及しなければなりません。
 当たり前のことですが、飛行機にはエンジンが必要です。いくらよい機体であったとしても、エンジンが規格どおりの性能(馬力)を示さなければ、当初予定していた性能は発揮できないのです。

 このことについて、日本には大きな問題がありました。
 日本は、機体の開発でヨーロッパに遅れていたことはすでに記述しましたが、エンジンでは、さらに遅れをとっていました。
 比較的小さな馬力のエンジンは、三菱や中島によって精度の高いものが生産されつつありましたが、それでも、欧米の水準にはまだいたりませんでした。

 大きな馬力のエンジンはというと、これは、欧米とは大きな差が付いていました。
 
 それが証拠に、1940年に制式となった零式艦上戦闘機のエンジンは、
中島製940馬力でしたが、1940年試験飛行のアメリカ海軍のチャンスボート F4Uコルセアプラットアンドホイットニー社(P&W)製2000馬力を搭載していましたし、1941年試験飛行のリパブリックP47Dサンダーボルトは、なんと、P&W製2800馬力のエンジンを積んでいました。

 日本が軽戦を指向する理由としては、伝統的な格闘性能へのすてがたい愛着だけではなく、日本には「信頼が置ける重戦用の大馬力のエンジンがない」という工業技術上の理由もあったのです。
 ※安藤亜音人著『帝国陸海軍軍用機ガイド 1910-1945』(新紀元社 1994年)など参照

 
 また、軽戦重視の発想は、基本的に、日本の文化の持つ特徴とも言えないことはありません。「細かなことは工夫せず、ひたすら強靱で重武装、それを大馬力のエンジンカバーしてで有無を言わせず力任せに優位に立つ」、というのは、日本の繊細な縮(ちぢみ)の文化とは相容れない発想なのかもしれません。

 次のような指摘もあります。
日本人の軽戦好みを、国民性にまでさかのぼって理由づけようとするのは、いささか考え過ぎと思われるかも知れないが、考えようによっては、これこそもっとも当を得た理由であるかも知れない。日本人の繊細な神経は、日本文化のいたるところに表われている。一杯の茶を喫し、一輪の花を愛でるにも、細かく神経を働かせて、欧米人には考えられない微妙な世界を考え出す。あるいは数百年の歳月を、一鉢の小さな大木に圧縮する盆栽を作り出すなど、大陸育ちの欧米人には思いもおよばぬ微妙な世界を醸成する。しかも、それは特別な人たちだけの占有物ではない。多くの日本人がなんの疑問もなく、これを楽しんでいる。
 こうした日本人独特の発想が原点であるとすれば、戦闘機開発にも反映しないはずはなく、それが重量増加につながりがちな全金属製片持式単葉型に移行しながら、九七戦のような徹底した軽戦の開発になんの抵抗も感じずに挑戦したのだと思う。さらに、その成功があとを引いて、隼や零戦のような軽戦と重戦の合いの子のような戦闘機を生みだしたものといえる。
 しかし、理由はなんであれ、日本の選んだこの道は、戦闘機発達の過程からみると一つの回り道であったと言わぎるを得ない。機械技術の発達は、戦争のためには日本人の国民性などにおかまいなく、戦闘機の行くべき方向を決定づけていった。そして、わが国もやがては軽戦の限界に気づき、重戦に移行したのであったが、時すでに遅きに失していた。」
 ※青木邦弘著『中島戦闘機設計者の回想 戦闘機から「剣」へ−航空技術の戦い』
  (光人社 1999年)P103 −104


 川崎と液冷エンジン                              | このページの先頭へ |     

 川崎は、すでに、これまでに紹介してきた各航空機の説明に記述してきたように、自社製飛行機には、主に自社製の液冷エンジンを搭載してきました。
  八八式偵察機もしかり、九五式偵察機もしかり。
 これは、第一次世界大戦直後のヨーロッパのエンジンの主流が液冷式エンジンであったことから、その伝統を受け継いで、自社で開発を進めた結果です。
 ところが、その後1920年代から、アメリカのプラットアンドホイットニー社やライト社が、優秀で高馬力の空冷式エンジンを開発し始めます。
 液例・空冷、甲乙付けがたい状況となりました。
 これ以後第二次世界大戦にかけて、液冷エンジンと空冷エンジンがそれぞれの特性を発揮して発展していきます。

<液冷エンジンと空冷エンジンの主な特色>

※渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」』(朝日ソノラマ1998年)P11−13などから作製 

空冷エンジン

比較項目

液冷エンジン

エンジンを空気で直接冷却する。つまり、飛行中の高速の外気とプロペラの後流(プロペラによって生じた風)でエンジンを直接冷却する。

構造

エンジンを水(正確には凍結防止のため水とエチレングリコールとの混合液)で冷却し、そのために加熱された水と潤滑油(オイル)を、エンジン下部、胴体下面、主翼下面などの空気取り入れ口から取り入れた空気を利用して冷却器で冷却する。

軽い

重量

重い(冷却器の分も含める)

簡単、組み立て工程も少ない

細工

複雑(エンジンそのものやエンジンと冷却器結ぶパイプなども含めて全体は複雑な構造となる)

シリンダーを星形に配列するため、エンジンに覆いのカバー(カウリング)をつけると、太い円筒型となる。

形状

シリンダーを縦に並べるため、エンジンそのものは細長の直方体となる。

機体前面が太くなる。機体断面は丸型となり空気抵抗がきわめて大きい。エンジンが大きければ大きいほど、いわゆるでぶっちょの機体となる。

機体

形状

機体前面は細くなる。機体断面の形状は楕円形型となり空気抵抗は小さい。全体にほっそりしたスマートな機体となる。

試作機キ108搭載の中島製星形エンジン

 写真

メッサーシュミットBf109搭載のダイムラー・ベンツエンジン。

アメリカのプラットアンドホイットニー社製星形9気筒600馬力エンジンの模型。下は、シリンダー部の拡大。

模型

アリソン社の液冷V型12気筒1425馬力エンジン。左は正面。下は横から見たところ。

ゼロ戦、一式戦隼など日本の主力機のほとんど
グラマンF6Fなど、アメリカ軍のほとんど

主な
搭載機

日本陸軍三式戦飛燕、日本海軍彗星艦上攻撃機 
メッサーシュミットBf109
スーパーマリン・スピットファイアー

 エンジンの写真と模型は、いずれも、かかみがはら航空宇宙博物館の展示パネルと展示品です。同館では、当時の写真や模型によって、飛行機の発達を解説しています。これらはそのほんの一部です。 

 ところが、川崎製の液冷エンジンにたいする信頼が今ひとつの状況となり、1937年から開発しつつあったキ45(のちに1942年制式化、二式戦屠龍)や、キ48(1940年制式化、九九式双発軽爆撃機)は、他社の空冷式エンジンを積むことになってしまいました。


九九式双発軽爆撃機 二式戦屠龍

 いずれも、かかみがはら航空宇宙博物館の模型の写真です。


 ドイツ製エンジン                                | このページの先頭へ | 

 第二次世界大戦の始まる前、ドイツのヒトラーはスペインの内乱に介入しました。
 この時の、メッサーシュミットBf109(液冷式ダイムラー・ベンツエンジン搭載)の大活躍の報告を聞いた陸軍は、空冷エンジンが主流になりつつある日本で、液冷エンジンの開発も続けさせる選択を決定しました。

 このため、ダイムラー・ベンツ社からライセンスを購入し、液冷エンジンの経験が豊かな川崎にその国産化を命じたのです。
 かくて、川崎は、液冷エンジンの開発とそれを搭載した戦闘機の設計の道に進むことになるのです。


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