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 春の恒例の旅行はどこに・・・       | 全行程目次・地図へ | | 先頭へ |

「春の恒例の旅行はどこへ行こうか?

「春の恒例のって、そんな恒例の行事はわが家にはないぞ。去年も行っていないし。」

「でも、D(3男)ちゃんも大学に合格したし、どこかへ行きたい。」

「そういわれてもな・・・・。急に・・・。いいプランはないぞ。

「それじゃ、奈良東大寺のお水取り。いつもテレビでやっている松明の火がすごいやつ。」

「修二会だね。それって、3月の12日かなんかだったじゃない。平日に奈良まで行くのは、無理無理。」

「へへぇー、それが違うの。いつもテレビで報道されるのは、松明のうち、特別なやつなの。それでなくても、3月の1日から14日まで、毎日やっているの。」

「えっ、毎日。そうなの?」

「そうなの。だから、今度の土日に行こ。ね。」

「よ〜し。それならいけそうだ。そのかわり、あまり時間がないから日帰りだぞ。」

 というわけで、奈良東大寺の恒例行事、2月堂の修二会(お水取り)の一部である、二月堂の堂上の回廊を松明が巡る儀式を拝観に行くことになりました。


 奈良までのルート | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |
 <訪問地とルート>   <訪問地と時間>  
3月
7日
(土)

09:50

岐阜出発

12:30

近鉄奈良駅前
到着:昼食
(自動車はお水取り終了まで民間駐車場に預ける。1500円

13:10

近鉄西大寺駅

13:15

平城宮跡資料館

13:45

平城宮跡見学

15:15

東大寺到着見学

16:00

二月堂到着

16:30

二月堂下芝生広場で場所取り待機
修二会について勉強

19:00

松明上堂

19:20

松明上堂終了

19:50

近鉄駅前で夕食

20:40

駐車場出発

23:00

岐阜着


 この旅行の計画のポイントは、自動車を使って速戦速攻、安い費用であっとう間にお水取りを見て来るというところにあります。電車を使ってということも考えられましたが、大好きな鉄道の旅も、今回は時間と費用の点で、却下となりました。以下は費用です。


項 目 説 明 一人分 二人分合計金額
名神高速・
京滋バイパス
大垣インタ−巨椋インタ(往路) 3,250 3,250
巨椋インタ−関ヶ原インタ(復路) 1,450 1,450
京奈和道路 城陽−木津(往復) 1,400 1,400
近鉄運賃 近鉄奈良−西大寺   250 500
奈良市内定期バス 朱雀大路前−近鉄奈良駅 180 360
拝観料 東大寺 500 1,000
平城宮資料館と東大寺二月堂 0 0
駐車場 1日留め放題 1,500 1,500
自動車ガソリン代D A総走行距離 330km B燃費17.1/km 
Cガソリン111円/1リットル  A÷B×C=D
2,142 2,142
総費用 (交通費・宿泊費の総額)    11,602

 岐阜から奈良市内までの往復の時間は、行きがゆっくり行って2時間40分、帰りは普通よりちょっぴり急いで2時間20分でした。途中、京滋バイパスの巨椋インターチェンジと京奈和道路の城陽インターチェンジの間は、高速道路・自動車専用道路がなく、国道24号線を6km(時間にして15分)ほど走らなければなりませんが、あとは快適な運転です。岐阜から奈良まで2時間半前後でいけるとは思いませんでした。
 奈良市内の奈良公園(その中に東大寺や興福寺・手向山八幡宮があります)の西側の市中心部には、公営の駐車場(1日1000円)や民間の駐車場(最高額1日1500円)がいっぱいあって、捜す努力をすれば駐車場には悩まなくていいでしょう。
 私たちの場合は、一度駐車した車を動かすのが面倒だったので、駐車場に車を置いて、近鉄電車に乗って平城宮跡まで行くという「贅沢」をしましたので、その分費用はほんの少し余分にかかっています。 


 奈良市内の散策ルート | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 奈良市街図へ |

 奈良について近鉄奈良駅前で遅い昼食をとった後、かねてから行ってみたかった平城宮跡へ行きました。
 西暦710年に都となった平城京は、奈良盆地北部一帯にあった広大な巨大都市ですが、その北端の平城宮は奈良市の中心部の北西に位置しています。

上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用した写真を元に作製しました。ただし使用した写真は1985年に撮影されたもので、3枚を合成しています。
 国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。

 発掘対象となっている部分だけでも、上の写真のようにかなりの広さです。近鉄奈良駅(地下)から大和西大寺駅までは4.4kmですから、同線線路が横切っている部分だけでも、ゆうに1km以上あるのが分かります。
 自動車で行くと駐車した同じところに戻らなければなりませんから、近鉄で大和西大寺駅まで行き、平城宮跡の一番北西の端にある平城宮資料館を見て、それから宮の跡内を斜めに歩いて散歩し、復元されている朱雀門まで来て、さらに復元された朱雀通りを南へ歩き、バス通りにでて、あとはバスで東大寺方面へ戻るというルートをとりました。


 平城宮跡 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 奈良市街図へ |

 では、とても広い平城宮跡を紹介します。
 資料館の所蔵物については、日本史クイズ「飛鳥〜平安時代 平城宮跡の出土物」で紹介します。(こちらです→


 写真01−01 兵部省の跡地にそばにある平城宮跡の建物配置の説明図です。   (撮影日 09/03/07)  


 写真01−02 兵部省の遺構に基づいて基礎と柱の部分を復元したものです。1辺74mの正方形の建物の敷地の中に8棟の建物がありました。北端を近鉄電車が横切ります。    (撮影日 09/03/07)  


 写真01−03 第一次朝堂院・大極殿跡を遠望しました。現在復元中です。  (撮影日 09/03/07)  


 写真01−04 平城宮跡のほぼ中央から真東を向いて撮影しました。中央の大きな屋根は東大寺大仏殿、そしてその背後の小さな屋根が今日の主役、東大寺二月堂です。もちろん背景は、若草山です。     (撮影日 09/03/07)  


 平城京そのものは南北4.8km、東西4.2kmの巨大な都市です。その北部にある平城宮跡だけでも、東西1.3km、南北1kmもあります。面積は120haで、これは甲子園球場の約30倍だそうです。
  ※参考文献:奈良文化財研究所編『平城宮跡資料館図録』(2006年)資料館内で1000円で購入


 写真01−05 復元された朱雀門(平城宮の一番南にある正面ゲート、平城京全体の一番南にある門は、かの有名な羅城門です。北側からの撮影です。)と近鉄電車。          (撮影日 09/03/07)  


 写真01−06 復元された朱雀門です。堂々たるものです。        (撮影日 09/03/07)  


 写真01−07 朱雀門の下から朝堂院、大極殿方面を臨みました。はるか向こうに、写真01−03の復元中の大極殿が見られます。近鉄電車が横切っています。          (撮影日 09/03/07)  


 写真01−08 朱雀門を300m程南から撮影しました。この通りが平城京のメインストリート、朱雀大路です。この幅の広さは別に駐車場として使われているからではありません。創建当時から72mの幅がありました。このメインストリートの一番南にある平城京全体の正門がかの有名な羅城門です。門の名前は平安京でも同じく羅城門となりました。後には羅生門という言い方にもなり、芥川龍之介の小説の題名にもなりました。          (撮影日 09/03/07)  


 東大寺 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 奈良市街図へ || 奈良公園地図へ || 東大寺地図へ |

 上の写真01−08の撮影地点のすぐ南には、県道が通っていて、真っ直ぐ東に行けば近鉄奈良駅です。バスに乗って、東大寺に向かいました。

上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用した写真を元に作製しました。ただし使用した写真は1985年に撮影されたものです。
 国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。


 写真01−09  大仏殿です (撮影日 09/03/07) 

 写真01−10 定番の大仏様です(撮影日 09/03/07) 


 写真01−11 大仏の背後にあった創建当時の東大寺の模型です。南大門・中門・大仏殿、そして左右に七重塔です。                                                           (撮影日 09/03/07)  


 二月堂へ | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 奈良市街図へ || 奈良公園地図へ || 東大寺地図へ |

 大仏殿は早々に拝観して、すぐに二月堂に向かいました。帰り道を考えて、大仏殿の東を北上し、裏参道から向かいました。(下の地図の「第二拝観所」の前の道です。)

上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用した写真を元に作製しました。ただし使用した写真は1985年に撮影されたものです。
 国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。


 二月堂には16時頃到着しました。松明が灯される3時間前です。ご本尊の十一面観音様にお賽銭の価値の何倍ものお願いをしたあと、南側にある茶店でぜんざいとおにぎりをいただきました。おにぎりは修行僧が食べるものと同じ、十六雑穀でできたもので、同じく修行僧のおかずとなる味噌が具となっていました。


 写真01−12 東大寺二月堂、下の広場からの撮影。時間は16:25、松明がともされる2時間35分前です。このあと、写真左の芝生の広場で「場所取り」をしました。
 手前の階段を上がると茶店があります。左手の屋根の付いている階段(二月堂の北側の階段で
登楼のぼりろう」といいます。)を松明をもった修行僧が駆け上がります。        (撮影日 09/03/07) 
 堂下の広場にある杉の木は、東大寺の開山の僧、
良弁(ろうべん)僧正の名前をとった2代目、良弁杉です。その隣のお社は、興成社(こうじょうしゃ)という名前で、二月堂を守護する3社のうちの一つです。他の2社は、飯道社(いいみちしゃ、二月堂の南東の崖の上、遠敷社(おにゅうしゃ、二月堂の北東の崖の上)です。          


 写真01−13 二月堂の回廊から見た東大寺大仏殿。その向こうには奈良盆地が広がり、ちょっとよく見えませんが、平城宮跡もあるはずです。上の写真01−04と逆方向からの撮影です。一番手前の屋根は二月堂参籠宿所です。(下の地図05と参照してください)          (撮影日 09/03/07)  


上の地図は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用した写真を元に作製しました。ただし使用した写真は1985年に撮影されたものです。
 国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。


 待ち時間 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 奈良市街図へ || 奈良公園地図へ || 東大寺地図へ |

 お水取りの松明の火の粉を浴びるのは、なんといっても二月堂下の芝生の階段状広場に陣取らなければなりません。ねらいはどの方も同じです。
 最初に到着した4時頃にはほんの30人ほどの人しかいませんでしたが、みるみるうちに人が増えていきます。


 写真01−14  16時30分 (撮影日 09/03/07) 

 写真01−15 16時45分(撮影日 09/03/07) 


 警備員さんの大声がひびきます。「本日はたくさんの拝観者が来られると予想されます。今は座っていていただいてかまいませんが、もう少ししたら、お立ちいただいて、北の階段の方へお詰めください。」
 17時30分には立って詰めることになりました。


 写真01−16  17時30分 (撮影日 09/03/07) 

 写真01−17 18時15分 (撮影日 09/03/07) 


 18時を過ぎて暗くなってくると、お堂に灯りがともり、だんだん雰囲気が出てきました。


 そもそも修二会とは?| 全行程目次・地図へ || 奈良市街図へ || 奈良公園地図へ || 東大寺地図へ |

 待ち時間は退屈ですから、修二会の勉強をしました。
 参考にした本は、次のものです。

  ※佐藤道子著『東大寺お水取り 春を待つ祈りと懺悔の法会』(朝日選書 朝日新聞社 2008年)
  ※堀池春峰他編著『東大寺お水取り 二月堂 修二会の記録と研究』(小学館 1996年) 


「はぁ〜い、退屈だから勉強の時間です。素朴な疑問を言ってください。」

「今日これから見るのは難しくいうと、修二会(しゅにえ)でしょ。それから二月堂でしょ。三月なのになんで二月?」

「非常に素朴な質問でよろしい。
 この儀式はもともとは旧暦の2月にやるものだった。2月にお勤めする法会(ほうえ)だから修二会、その儀式の場所だから二月堂と名付けられた。正月に行う儀式は修正会、2月に行う儀式は、修二会となる。
 初めに君から教えてもらったけど、この儀式は、二七日にわたると表現される。二七、つまり2×7イコール、十四日間の儀式という意味だ。3月1日からはじまって、3月14日まで続く。そして中でも、大きな松明(たいまつ)、いわゆる籠松明(かごたいまつ)が登場する3月12日の『お松明』が、TV等でもいろいろ報道されて世間では一番有名になっている。これが原因で、
お水取りといえば3月12日の行事という勘違いも起きている。」

「そもそも何をする儀式なの?」

「 我が国の宗教である神道では、年の初めの儀式というと、この1年の稲の豊作を祈願する祈年祭としごいのまつり)が有名だが、6世紀に新しく伝来した仏教も、前から行われていた神道の儀式を取り入れて、仏教版の祈年祭を行うようになった。つまり、その年の安穏豊楽や除災招福を願う儀式ということだ。
 ただし、仏教の信仰が反映されているから、ただ神道の五穀豊穣の儀式のものまねとは違う。
 人々がそれぞれの悪いところを
懺悔し仏に許しを得、清らかな心になって仏の力でいろいろな願いを叶えてもらおうという主旨の儀式として生まれた。この儀式は、別に東大寺に限らずあちこちの寺で行われている。仏教の世界では、過ちを悔いることを懺悔さんげ、ざんげとにごらない)といい、 その儀式をまとめて悔過会(けかえ)というが、修二会は各地の悔過会の中でも、決定版中の決定版というわけだ。
 二月堂の修二会では、
連行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる現在は11名の僧侶が、身心を清め本尊の十一面観世音菩薩に対して悔過の礼拝行を精魂込めて行う。1日6回ずつ14日間続ける。大乗仏教の発想だから、この苦行は自分のためだけにやるのではなく、あらゆる人々の罪を赦してもらい、あらゆる人々が救われ願いがかなうという意味で行われている。
 大乗仏教って分かる?」

「 わかんない。」

「 もともとお釈迦様がはじめた仏教は、人間が自分で悟りを開くという発想の宗教だったが、後に仏によって人々皆が救われるという発想が生まれた。この古いタイプの発想を小乗仏教、新しいのを大乗仏教という。日本に入ってきたのは大乗仏教だから、修二会の考え方も、連行衆が人々皆の利益、幸福のために苦行しているという考えに立っている。」

「 へぇー、お坊さんはすごいんだ。
 それじゃ、次の疑問。これから見るのは松明の火でしょ。でも、普通はお水取りというでしょ。この
儀式は火なの水なの?どっち?

「 これは鋭い質問だ。
 そもそも二月堂の修二会というのは、古く奈良時代の中頃の752(天平勝宝4)年に始まったとされている。今から1257年前のことだ。この年号は、東大寺の大仏の完成記念式典、大仏開眼供養が行われた年に当たる。はじめた人は実忠和尚(じっちゅう)といい、それからずっと続けられてきた。1年も休むことなく。
 間に、源平の争乱の時の平重衡による焼き討ちや、戦国時代の大仏殿炎上という災難があったが、その時もこの儀式だけは断絶されずに続けられてきた。

「 えらいもんだね。」

「 えらいもんだ。
 それだけの伝統があるので、逆に、時代ごとにその中味も少しずつ変化している。
 二月堂の回廊を大きな松明が巡るという儀式は、遅くとも17世紀の後半(江戸時代前期)にははじめられていたと考えられている。
 もともと、お松明とは別に、一般の人は見られない堂内の儀式の中にも、
達陀(だったん)と呼ばれる火の行がある。イランのゾロアスター教を初め、古代の宗教においては、火が宗教儀式の中で大きな意味がある場合が多い。悪いものを焼き尽くし、新しい命を再生する象徴が火というわけだ。
 本来、回廊上の松明は、連行衆などを案内する単なる灯りの意味だったと思われる。それがいつの間にか回廊上で大きな松明が火の粉を振りまきながら巡るという形になったということだ。火は悪を焼き払い新しい生命の誕生を象徴するという意味で、その荘厳さは見ている人に大きな感動を与える。そうして、この松明が、外部の一般の民衆が期待する二月堂の修二会の象徴となった。」

「 へぇー、もともと回廊の松明は儀式の主役ではないんだ。
 じゃ、お水取りのお水の方は?」

「 これは、修二会の開闢の頃からずっと続いている。
 実忠和尚が修二会をはじめた頃、行法の場に来られた神々の名前を記して「神名帳」を定めた。ところが、若狭の国の遠敷(おにゅう)川を支配していた遠敷明神が遅刻してしまった。反省した遠敷明神は、遅れたお詫びに二月堂の下に香水を出して献上するとおっしゃった。それによって、現在の阿伽井屋のところから清らかな水が湧き出、それを本尊に供える香水を汲む井戸とした。
 お水取りというのは、その井戸から香水を汲んで本尊に供える儀式で、12日の籠松明の後、正確には13日に日付が変わった真夜中の午前2時から3時にかけて行われている。」

「 へぇー、真夜中なんだ。簡単には見学できないね。
 それじゃ、本来の修二会、お水取りというのは、これから見る松明巡りとは関係ないのがメインイベントで、これから見るのは大衆向けのパフォーマンスというわけね。」

「 まあ、簡単に言えばそういうことだ。
 しかし、全体として修二会が、『火と水の儀式』であることは、本質的に間違いはない。さて、そろそろ始まるぞ。」


 写真01−18 裏参道から二月堂へ入る手前、参籠宿所前には、使用済み松明とこれから使われる松明の両方が立てかけてありました。                                      (撮影日 09/03/07)  


 写真01−19 これは、これから使われる松明です。                     (撮影日 09/03/07)  


 写真01−20 竹は根付き (撮影日 09/03/07) 

 写真01−21 直径10cm以上 (撮影日 09/03/07) 

 松明には奉納された方の住所・名前でしょうか、ひとつひとつにいろいろ文字が書かれています。右の写真の竹が切られているのは、奉納された方でしょうか、「もって帰るから切ってください」というリクエストに、係の方が切断したからです。


 待ちに待った松明| 全行程目次・地図へ || 奈良市街図へ || 奈良公園地図へ || 東大寺地図へ |

 午後7時。
 待ちに待った松明上堂です。
 うまく写真を撮影すべく、ちゃんと三脚も持っていったのですが、この堂下の芝生広場は、警察や警備の方が、「混雑しますので、カメラの三脚や一脚の利用はおやめください」という放送を何度もされて、監視の目が光っていましたので、残念ながら三脚は使えませんでした。
 素人カメラマンが三脚を使うとしたら、ちょっと離れた、A三月堂前広場の一番後ろか、もっとずっと離れた、B第2拝観場からとなります。ただし、Aは相当混雑します。Bはかなり大きな望遠レンズがないと、うまく撮影できません。(場所は、上↑の「地図05東大寺二月堂」をご覧ください。)
 
 こう言う時にこそ、「困った時の連れ合い」です。

「きみの頭の上にカメラを置いて撮影するから、動くな。」

「いや〜ん」

「協力してくれ、人間二脚だ。

 というわけで、苦労して撮影したのが以下の写真です。前置きが長かった割には、いい写真ではありません。


 写真01−22 これは普通の松明(撮影日 09/03/07) 

 写真01−23 いよいよです(撮影日 09/03/07) 


  松明堂上の前に、北の登楼(のぼりろう)を連行衆の堂上を案内する普通の松明が何度も行き来します。
 そして、時間になるとひときわ大きな火勢をもつ大松明が登楼を駆け上がります。


 写真01−24  登楼の上部を上がる松明                           (撮影日 09/03/07)  


 写真01−25  回廊の北側を進む松明                         (撮影日 09/03/07)  


 写真01−26  回廊北西端 (撮影日 09/03/07) 

 写真01−27 回廊北西端 (撮影日 09/03/07) 


 回廊の北西端に来た松明は、少し間をおいて上げ下げされます。そのたびに松明の中に空気が入って、火勢が上がります。火の粉が猛烈に飛んで、拝観者からは大歓声です。私たちがいたところまでは、火の粉はとんできませんでした。蛮勇をふるってもう少し前に行けばよかったです。(その場合は、写真は無理でしょう。)


 写真01−28  回廊北西端 (撮影日 09/03/07) 

 写真01−29 回廊北西端 (撮影日 09/03/07) 


 写真01−30  回廊の西側を進む松明                         (撮影日 09/03/07)  


 写真01−31  回廊の西側を進む松明                         (撮影日 09/03/07)  

 回廊の西側を進む松明です。
 本当は長い間露光して火の流れを作りたいのですが、この場所では不可能でした。
 理由は二つあります。
 一つはいうまでもなく、人間二脚が動くからです。

「動くな。じっとしとれ。」

「無理無理。」

 もう一つは、長い間露光すると、全体が明るくなってしまい、火の流れがぼやけてしまいます。よく報道写真で見る、「回廊を流れる火」というのは、もう少し離れたところから望遠で狙わないとうまく撮影できないことが分かりました。


 写真01−32  回廊の西側を進む松明                         (撮影日 09/03/07)  


 写真01−33  回廊の西側を進む松明                         (撮影日 09/03/07)  


 この日は、10本の松明が上堂しました。もちろん上の写真群は、そのすべてをくり返し狙った何十枚もの写真のうちの、比較的うまく取れたものです。
 臨場感は少しは伝わったでしょうか。

 見に来ていた小さな子どもさんが、「おとうさん、花火」と叫んで、広場の観客を和ませました。
 修二会、お水取りの儀式の内容を理解していないと、ただの花火見物になってしまいかねません。
 1250年以上続くの悔過会(けかえ)儀式の意味を味わいながら、連行衆の苦行に思いを馳せ、みなさんの幸福を願いたいものです。

 高速道路料金も安くなりました。ETCで、是非東大寺二月堂お水取りへ。 


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