私の家族とニュージーランドのレスリー家との交流記です。
ニュージーランドとの草の根交流0


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@ ニュージーランドとの姉妹提携・交流

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A ケレン・レスリーの来日1995年12月

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B 私のニュージーランド研修1996年2月

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C 子どもたちの交流 長男K NZへ 1996年7月

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D 次男Y NZへ 1998年7月

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E 三男D NZへ 2002年12月

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ニュージーランドの友人、ケレン・レスリーとレスリー家の牧場の牛。(1996/02私が訪問時に撮影)


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 私がニュージーランドと関わるきっかけは、1994年の春の、○○女子高等学校への転勤でした。

 この学校は、普通科の女子高校で、昭和末年から平成初年の第2次ベビーブーム世代の子どもたちが入学した生徒の急増期には、学校の運営上いささか苦労をする状況が続きました。
 その停滞を打破するひとつとして、普通科の中に国際文化コースを設け、海外交流を学校の特色とすることが考えられました。その結果、海外の高校と姉妹校提携を結び、国際文化コースの在籍生徒は全員が海外研修を行うという、当時としては画期的な試みがスタートします。平成2年(1990年)のことです。
 その姉妹校となったのが、
ニュージーランドの北島にあるパーマストンノース市のパーマストンノース女子高校でした。

 海外研修(簡単に言えば、長期の海外修学旅行)は、平成3年度より実施されました。
 以来こちらからは毎年国際文化コースの生徒全員が出かけ(平成6年度からは2学級に増加)、3年に一度の割合で、パーマストンノース女子高校の日本語授業選択者が来日するという交流が続きました。先進的な試みであっただけに、当時の学校長や中心となって進められたA先生や他の先生方のご苦労は相当なものだったでしょう。
 
 私は幸運にも草創期のあと、いわば発展期が始まる時期に転勤しました。
 当時のY校長は交流の拡大を意図され、私と同年に転勤してきたO先生を国際交流の中心に据え、さらに、新しい交流事業を始められました。通常の訪問以外に、それぞれの夏休みに当たる時期に、希望生徒数名を1ヶ月ほど滞在させるというものです。
 
 私は、転勤と同時に二つある国際文化コースクラスの片方の1年生担任となり、2年次の2月に実施される海外研修へ向けて、O先生の指揮のもといろいろな指導を進めていきました。 

この女子高校は、別の工業高校と統合し、1997年には新しく総合学科高校となりました。(岐阜県最初の総合学科の学校のひとつ)。ニュージーランドのパーマストンノース女子高校との交流は、新しい学校に引き継がれ、現在も続いています。


 A ケレン・レスリーの来日1995年12月  |目次へ戻る |

 1995(平成7)年、担任の生徒が2年生になり、いよいよ海外研修が具体化します。

 国際文化コースの生徒は、第2学年の末に全員がニュージーランドへ渡航するわけですが、その前に、相手方のパーマストンノース女子高校の希望する生徒だけの1ヶ月間日本研修の交流が行われ、1995年12月から1月にかけて、ニュージーランドから3名の女生徒がやってきました。
 その時に、引率教諭として来日したのが、
パーマストンノース女子高校の数学の教師ケレン・レスリーです。

 1ヶ月近い滞在ですから、ホテル住まいというわけには行きません。国際交流担当の関係者宅何軒かにホームステイすることになりました。彼女は、12月24日から31日まで我が家に滞在しました。これが我が家とレスリー家との交流の始まりです。


 わが家も子ども達と。彼女は日本のホームごたつがとても気に入り、ニュージーランドに戻ってから買い求めた。

 妻の叔父の和菓子工房で、和菓子作りに挑戦。西洋人にありがちなことだが彼女も、あんこはあまり好まなかった。

 餅つきに挑戦。 

 麗しの和服姿。 


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