私の家族とニュージーランドのレスリー家との交流記です。
ニュージーランドとの草の根交流2


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 C こどもたちの交流 1996年長男K、 NZへ  |目次へ戻る |

 ニュージーランドのレスリー家と始まった交流は、自分とレスリー家の母ケレン・レスリー、夫グラハム・レスリーの相互訪問だけでなく、子どもたちの交流へと発展していきました。

 この交流の仕掛け人は、私自身ではなく、同じ職場にいた先輩のO先生(英語担当)です。

 1995年、当時私が勤務校していた岐阜第一女子高校に、姉妹校であった
NZのパーマストンノース女子高校からケレン・レスリーが生徒を引率してやってきました。その時、彼女をホームステイさせる家庭のひとつとして我が家の推薦してくれたのが、O先生です。
 
 私やO先生が、1996年の2月に生徒を引率してNZへ行き、レスリー家を訪問して交流を深めたあと、その夏、O先生はもっと大胆な提案をしました。

 「子どもたちだけを、相互に交流させよう。」


 レスリー家には4人の子どもがいました。これは、長女ハンナを除く、下の3人、長男Barry、次男Alex、次女Bethです。この3人が次々と私の家にやってきました。(長女ハンナはすでに家を離れ寄宿して高校に通っていました。)

 レスリー家のリビングから私が撮影した眼下に広がる牧場。
 この光景をわが家の3人の息子も見ることになります。


 O先生には、すでに、自分の長女が12歳の時に、単独でアメリカのシカゴに行かせた経験があります。レスリー家にO先生の息子(当時12歳)と私の長男K(当時11歳、小学6年生)を送り、また、レスリー家の長男Barry(当時12歳)をそれぞれの家庭に迎え入れるという交流案を提案しました。
 「子どもを一人で外国へ送る」という大胆な計画に、私や妻は最初は当然ながら躊躇しました。

 「大丈夫、大丈夫。可愛い子には旅させろ。子どもは順応性があるから。」O先生の言葉に私達も決断をしました。
 
 かくて、1996年の夏、二人の子どもたちはNZへ渡り、2週間あまり過ごしました。ちゃんと向こうの学校、
Fielding intermediate school にも通いました。
 当然ながら、レスリー家の長男
Barryも、その直後日本へやってきました。

 レスリー家には2男2女がいますが、下3人の長男Barry、次男Alex、次女Bethは、我が家の3人の息子とほぼ同じ年代です。そこで、次からは、我が家とレスリー家とで残る二人を交流させることも決まりました。


 地元の新聞に載せてもらった子ども達。長男K、Barry、O先生のご子息。
 見出しは、日本からやってきた二人の少年と交代で、今度は、「local boy(地方の少年、つまりBarry)」が本州へ向かう(head off)という意味です。

 長男K。NZに行くなら普通は、ニュージーランド航空が一番いいでしょうが、運賃を比較したらシンガポール航空がかなり安いことがわかり、これを利用しました。
 途中、NZ航空の国内線に乗り換えをしなければならず、ちょっと不安でしたが、2人は何とかやりました。帰りは飛行機の故障で、空港の近くのホテルで延泊というおまけまで経験しました。 


レスリー家の庭にあるトランポリンで遊ぶ長男K。犬も一緒です。庭にトランポリンが置ける家に住んでみたい。

 全員完全装備で、魚釣り。
 7月のニュージーランドは冬です。ただし、すごく寒いわけではありません。


 二人はちゃんと学校へも行きました。黒板の向かって左端に歓迎の文字が。 

 仲良くなった現地Fielding intermediate schoolの子ども達と。


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