色丹島との草の根交流記06

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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006 2003年6月28日(土) 私は、チェチェンの出身です

 メールは、電話のあとも、続々とやってきました。
 6月17日(火)のメールには、お願いが書かれていました。

「次のスピーチで、自分が日本語を勉強しはじめたきっかけを話したいと思います。話したいことを日本語でまとめていますが、うまくいきません。同じ意味の英語をあなたに送りますから、どういう日本語にしたらいいか、教えてください。」

 これは勉強の助けと言うことには間違いありませんが、あまり、完璧に助けてしまうとまずいかなーと思いつつ、彼女の英文を見ました。彼女が若い頃どこに住んで、なぜ色丹島へやってきたかが説明されていました。
 手助けというより、その内容にとても興味を持ってしまいました。彼女の了承を得て、関係の部分だけを引用します。

「私は高校生の時から英語が好きで、卒業したら日本語も勉強したいと思っていました。しかし、日本語を勉強するためには、私の故郷のチェチェングロズヌイから、モスクワかウラジオストックへ行かなければなりませんでした。
 私の両親は、それを許してはくれませんでした。
 そのため、私は、グロズヌイからそう離れていない、バスで5時間の都市、ピャチゴルスクにある、外国語大学へ入りました。」

 ナタリヤがカスピ海と黒海の間のコーカサス地方カフカスとも言う)の出身であることは、色丹島ではじめた会った時に、彼女自身から聞きました。

 しかし、その時は、地図をもっていなかったので、聞いても分からないと思い、コーカサスのどの都市の出身かまでは、質問しませんでした。

 地歴公民科教師の私でも、コーカサス地方といえば、知ってる町は、民族紛争で有名なチェチェンアゼルバイジャンのバクー油田ぐらいなものです。

 地図がないと、細かく別れている共和国の位置もはっきり分かりません。

 緑色系で塗った部分は、旧ソビエト連邦の国々。点線は、旧ソ連とイラン・トルコとの国境。


  ところが、彼女はなんと、ロシア共和国政府と武力紛争を続けている、そのチェチェンの出身だったのです。
 チェチェンといえば、最近では、2002年10月23日のチェチェン人武装勢力によるモスクワの文化宮殿劇場占拠事件を思い出します。プーチン大統領の特殊部隊突入命令によって、武装勢力は鎮圧されましたが、突入時に使用された特殊ガスによって人質にも119人もの犠牲者が出てしまったあの事件です。
 
 ナタリヤの若い頃の話を続けます。
「大学を卒業後、グロズヌイに帰って、科学調査研究所で英語と通訳として働きました。私はこの仕事は大好きでした。
 しばらくして、結婚しました。
 私の夫は、私の夢をかなえたいと言ってくれました。彼は、色丹島で二人の就職口として中学校の先生の職を見つけました。その結果、私たちは、色丹島へ移って住むことになったのです。
 それは、1983年のことです。

 本当は、私は、色丹島で通訳の仕事を見つけるつもりでした。しかし、そんな仕事はありませんでした。また、島で日本語を勉強したかったのですが、誰も日本語はわからず、専門家もおらず教科書もありませんでした。その時は、まだビザなし交流さえも始まっていなかったのです。
 しょうがなく私は、簡単な会話の本から日本語の勉強をはじめました。子どもたちのためのクラブを組織し、日本の政治や経済や文化について話をし、絵を描き、手紙を書きました。しかし、現実には交流はできませんでした。

 そして、しばらくして、自分が教えている日本語があまり正しくないことに気が付きました。自分の力だけで勉強することは、不可能なのです。
   ※この辺の事情は、「交流記27」で説明しています。
 数年たって、私の生徒の何人かは、サハリン大学のオリエント学部へ入学し、その後、サハリンの日本の会社で働く子たちも現れました。また、ひとりは、奈良市の大学へ行って勉強しています。今は、彼らが私の日本語の勉強を助けてくれています。

 だから、私は自分の夢をかなえることができると思います。もし日本語を話すことがうまくなったら、色丹島におけるビザなし交流を運営する夫を助けていきます。」

 彼女の日本語への思いが伝わってくる文章でした。

 彼女へは、約束どおり、原文の英語と、日本語のひらがなと、ローマ字を書いて送りました。

 When I was a schoolgirl, I liked English and wanted to study Japanese after school.

 わたしは、こうこうせいだったときから、えいごがすきで、そつぎょうしたら、にほんごをべんきょうしたいとおもっていました。

 Watashi wa koukousei dattatokikara eigoga sukude. sotugyou shitara nihongo o benkyou shitaito omotteimashita.

 といった具合です。

 しかし、それと同時に、少し好奇心も湧いてきました。 

  1. 彼女のチェチェンからの色丹への移住は、紛争とは関係はないのでしょうか?そもそも、日本人には一見しただけでは分かりませんが、彼女は、民族的には、何人なのでしょうか?彼女の両親は、まだチェチェンにいるのでしょうか。

  2. コーカサスに住んでいた彼女が、「夢」と表現するほど日本語に触れたいと思った理由は何だったのでしょうか。

  3. 1983年当時、色丹島へ行って日本語を勉強するという発想は、ちょっと無理があったと思うのですが、情報不足の中で、そう思ってしまったのでしょうか?

 まずは、一つ目の疑問から聞いてみることにしました。

 しかし、外国の習慣はあまり知らない私としては、「あなたは何人ですか」と聞くことが、失礼に当たらないのかどうか心配です。そこで、同僚の英語の先生に慎重に言葉を選んでいただいて、質問することにしました。

「私は、歴史の教師ですから、チェチェンのことには、とても興味があります。
失礼な質問にかるかもしれませんが、あなたは、何人ですか?

 It might be a rude question to you. What is your ethnic group?  Sorry, we, Japanese, cannot usually distingish the difference among European ethnic groups.」


 メールは、6月20日(金)に送りました。一体どんな答えが返ってくるか、返事が来るまで、ちょっと緊張しました。


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