色丹島との草の根交流記07

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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007 2003年6月29日(日)  I’m Russian.

  ナターシャの返事を書く前に、まずは、チェチェンの勉強です。

 

彼女の署名は、ナタリヤ → ナタリー → ナターシャ と変わっていきました。この時点では、ナターシャです。
この言い方は、日本人にはすごくロシア人っぽい発音で、親しみが持てます。

 緑色系で塗った部分は、旧ソビエト連邦の国々。点線は、旧ソ連とイラン・トルコとの国境。


 地図をご覧下さい。
 もとは、ひとつのソ連だった黒海とカスピ海周辺地域は、ソ連崩壊後、いくつかの共和国に別れてしまいました。
 
 コーカサス地方は、コーカサス山脈によって、グルジア・アゼルバイジャン・アルメニアなどの南コーカサス地方と、チェチェンやピャチゴルスク(ナタリヤの通った大学のある所)のある、北コーカサス地方に別れます。

 南コーカサスの諸国は、カスピ海の東のトルクメニスタン・ウズベキスタン・カザフスタンなどと同じように、旧ソ連邦の国ではありながら、ロシアとは全く別の対等な独立した共和国となりました。
 
 しかし、チェチェンはそうではありません。
 地図の赤い部分チェチェンは、ロシア連邦内のチェチェン共和国なのです。
 面積は、日本の岩手県ほど。そこに、85万人が居住しています。住民の多くは、ロシアの主要民族のスラブ人ではなく、イスラム教徒の諸民族です。

 チェチェンの歴史を簡単に述べます。


チェチェンの歴史

時 代

で き ご と

18世紀後半

ロシア帝国、オスマン・トルコとペルシアとの対立状況を有利に展開するため、コーカサス地方支配を目指して南下政策をとる。抵抗するチェチェン人などと、「コーカサス(カフカス)戦争」が続く。

1864年

ロシア帝国、コーカサス地方を完全に併合。

1917年

ロシア革命起こる。チェチェン人は独立を目指すも、ソ連共産党軍(赤軍)に鎮圧される。ソ連邦にチェチェン・イングーシ共和国として組み込まれる。(チェチェン人とイングーシ人の共和国)

1942年

ドイツ軍、コーカサス地方を一時占領。(北隣のヴォルガ河畔のスターリングラードでは、激戦の上、ソ連軍が勝利)

1944年

ドイツ軍敗北。ソ連の独裁者スターリンは、チェチェン人とイングーシ人がドイツ軍に協力したという理由から、チェチェン人とイングーシ人を、当時のカザフ共和国(今のカザフスタン)へ強制移住させる。50万人以上が移動させられたという。

1957年

スターリンの死後、チェチェン人とイングーシ人の帰還が許される。但し、帰還できたのは、移住者のうちのおよそ3分の1。残りの多くは、移住時や移住先で死亡。
しかも、チェチェンの地は、彼らがいない間に移住してきたロシア人によって占拠されていた。チェチェン人のロシアへの怨念は高まり、一部はモスクワへ流れて、チェチェンマフィアを結成。

1991年

10月 ソ連崩壊の過程で、チェチェン独立を唱えるドゥダエフ大統領が就任。一方的に独立を宣言。(チェチェンとイングーシは分離)

1993年

4月 ロシアからの財政援助がなくなる中、経済の悪化を独裁政治で乗りきろうとするドゥダエフ大統領への不満が高まり、大統領派と議会派とで内戦状態に突入。

1994年

12月 エリツィン・ロシア大統領、チェチェンの独立を阻止すべく、ロシア連邦軍を派遣。
第一次チェチェン紛争開始。

1996年

4月 ロシア連邦軍の攻撃で、チェチェンのドィダエフ大統領が死亡。停戦合意。

1997年

1月 チェチェン共和国に、停戦合意派のマスハドフ大統領就任。
5月 エリツィン・ロシア大統領と平和条約締結。ロシア軍撤退。

1999年

チェチェンのイスラム武装勢力が、各地でテロ事件を起こす。
9月 ロシア連邦首相プーチン、チェチェン人掃討作戦を命令。ロシア軍再侵攻。
第二次チェチェン紛争開始。

2000年

2月 ロシア連邦軍、チェチェンの都グロズヌイ制圧。武装勢力は南部国境山岳地帯へ撤退。
3月 プーチンは、この行動が支持されて、エリツィンに代わってロシア大統領に就任。
6月 プーチン大統領、チェチェンの自治を認めず、ロシアの直接統治下におくことを決定。
チェチェンには、カディロフに率いられた、チェチェン共和国行政府(暫定政権)が誕生。

2002年

4月プーチン大統領、掃討作戦の終了を宣言。
10月 チェチェン人武装勢力によるモスクワ文化劇場占拠事件おこる。人質120人以上死亡。

2003年

3月チェチェン新憲法制定される。(連邦憲法に反しない範囲での自治権が認められる)
7月モスクワ郊外の野外ロックコンサート会場で連続自爆テロ
10月チェチェン大統領選挙でカディロフ氏当選、新大統領に。

2004年

2月モスクワ地下鉄で自爆テロ、39人死亡。
3月ロシア大統領選挙。プーチン大統領再選。
5月チェチェン大統領カディロフ氏、対独戦勝記念式典中に爆弾により暗殺される。
8月モスクワ発の2機の旅客機がハイジャックされ、爆発墜落。チェチェンの武装勢力のテロと推定される。
カディロフ前大統領の暗殺による、チェンチェン共和国繰り上げ大統領選挙実施。ロシア連邦政府の推す、アル・アレハノフ(チェチェン共和国内相)候補が当選。
9月チェチェン共和国の西にある北オセチア共和国(チェチェンと同じロシア連邦内の共和国のうちの一つ)の町ベスラン(首都ウラジカフカスから約30km)で、チェチェン武装勢力によって小学校が占拠され、児童・先生・保護者など数百人が人質となる。4日後、ロシア連邦軍が突入し、100人以上の犠牲者が出る。

年表は、2004年8月に追記しました。
 親プーチン路線のカディロフ大統領(プーチンの傀儡とも言われていた)が暗殺され、プーチン大統領が描いてきたチェチェン人による「チェチェン正常化」路線(軍事力で独立派を一掃し、親ロ派に権力を握らせ安定を保つと言う路線)が暗礁に乗り上げました。
 しかし、8月の選挙では、新ロシア派のアレハノフ候補が当選。再び「傀儡政権」が誕生。


 ロシアがチェチェンを手放さない理由は二つあります。
  1. ロシア連邦そのものが、中にたくさんの共和国や自治共和国をというさまざまな民族国家を含む連合体である。このそれぞれの共和国が勝手に自立していっては、ロシア連邦そのものが崩壊してしまう。
  2. チェチェン領内からは石油が産出し、また、中東地域につぐ埋蔵量があるといわれるカスピ海油田(バクー油田など)と黒海の原油積出港を結ぶパイプラインがチェチェン領内を走っている。

 現在、チェチェン人のイスラム武装勢力は追いつめられていますが、隣国のグルジアへ根拠地を移し、多地域のイスラム教徒の義勇兵の援軍を得て、未だ交戦中です。
 ロシア連邦軍は、現在も4万5000人がチェチェン領内に展開しています。

 これまでの紛争で、チェチェン人の死亡者は10万人近いと推定され、20万人が住む住宅が破壊され、チェチェンの領土の4分の1が焦土になってしまいました。
  ※ここまでの内容は、おもに、次の本を参考にまとめました。
   池上彰著『そうだったのか現代史パート2』(ホーム社2003年3月)

 ナターシャの故郷に関するメールは6月21日(土)にやってきました。

I am Russian.」 
 彼女のメールの本文の書き出しは、単刀直入でした。

「私は、スターリングラードの南西300qにあるロストフ(地図を参照)で生まれました。(彼女は私と同じ1955年生まれ)それから家族は、チェチェングロズヌイへ移住しました。

 グロズヌイは当時は、住民の半分はロシア人でした。私は、何の問題も起こっていなかった1983年に色丹島へ移りました。姉も結婚して極東へ移住しました。父はそのあと亡くなります。

 紛争が起こった時、母はずっと一人でグロズヌイに残っていました。私は毎年夏にはグロズヌイに行って、母に町から移るように説得しました。しかし、彼女は自分の仕事のこともあって、決して町を去ることに同意しませんでした。

 ある時、私がグロズヌイから帰ったすぐあと、私たちがずっと住んでいた建物が爆撃を受けて破壊されました。しばらくの間、母から音信が途絶えてしまい、とても心配しましたが、母は無事でした。
 結局、その後は母はようやくグロズヌイを離れることを決心し、私と一緒に色丹島に住んだり、姉と一緒に住んだりしました。
 今もとても元気で、モスクワの近くの町に独りで住んでいます。」
 
 ご無事で何よりでした。

 どんな家族にも、大なり小なり波瀾万丈の家族史があるものです。
 しかし、国土が広く複雑な事情がある国は、そのスケールも比べものにならないくらいすごいと感じました。チェチェン・色丹島・モスクワ・・・、地図見てるだけで、くらくらきそうです。 


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