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 <訪問地と時間> 

28日

20:00

岐阜発

29日

00:30

東京通過

05:30

松島着

 

10:15

松島発

13:30

鶴岡着

 

15:00

鶴岡発

15:30

酒田着

16:45

湯野浜着

30日

08:30

湯野浜発

13:30

喜多方着

14:30

会津若松着

 

16:40

会津若松発

20:45

東京着

 

21:30

東京発

31日

02:00

岐阜着

 全走行距離は2068kmとなりました。 実質運転時間は27時間30分でした。

<酒田>  全ルート説明図へ 「東北地方南部」図へ 「山形県南部」図へ

 庄内に来たら、鶴岡の次には、かの有名な酒田に行かねばなりません。
 
 高校の日本史の教科書には、実は、山形県のことはほとんど登場しません。
 
米沢藩の上杉氏のことは登場しますが、藤沢小説と映画で有名な酒井氏の庄内(鶴岡)藩は登場しません。県都の山形も登場しません。

 しかし、酒田は本文にはなくても、教科書の図に登場します。
 江戸時代に
河村瑞賢が開いた西廻り海運(山川出版本「詳説日本史」では、現在は西廻り航路ではなく、海運となっています。)の拠点の港として繁栄したのが、庄内平野の最上川河口にある酒田です。

 西廻り海運に関連して、
山居倉庫を訪問しました。


 1976年の酒田の航空写真から地図をつくりました。航空写真6枚の合成写真です。例によって古い写真ですが、河口の状況は把握できます。

 上の写真は、いつも利用させていただいている、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の写真を6枚合成してつくりました。国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。


 酒田は、戦国時代は、和泉の堺と同じように、有力者36人による自治が行われていた港湾都市でした。
 次いで、秀吉によって、上杉景勝が越後から会津に転封となると、庄内平野も上杉氏の領地となりました。

 しかし、石田三成と結んだ上杉が徳川家康に刃向かい関ヶ原の戦いが起こると、上杉氏の城のあった酒田は、徳川方に付いた山形城主最上義光によって攻め取られ、以後江戸時代初頭は、鶴岡と酒田は最上氏山形57万石の領地となります。
 この時、酒田港は修復され、近世港湾都市としての基盤ができあがります。
 
 そして、最上氏が一族の内紛により領地を没収されると、鶴岡の項で説明したように、酒田は
鶴岡庄内藩14万石の領地となります。この時、旧最上氏領の大半が天領となりました。
 
 17世紀後半、河村瑞賢による
西廻り海運が開かれます。これは、庄内平野を始めとする出羽各地の米を、日本海岸を西廻りに下関を経由して大坂(さらには江戸へ)へ運ぶための航路でした。

 酒田は、庄内平野の米の集積地、積み出し地として繁栄します。
 この地位は、明治・大正・昭和初期と、陸上の鉄道輸送に主役を奪われるまで、続きました。 
  
 山居倉庫
は、1893(明治26)年、旧藩主酒井家によって庄内米専用の倉庫として建てられました。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝える歴史的遺産です。以前には、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
 
 古いですが、現在も現役の倉庫です。庄内経済連が管理し、11棟からなる倉庫の米の収容能力は13、000トン(米俵22万俵、1俵は60kg)にものぼります。
 そのうちのひとつは、
庄内米歴史資料館となっており、ここを訪れました。


 資料館の展示品の写真を二つ紹介します。

 千石船の模型。江戸幕府は、鎖国令にともなって大船の建造も禁止しました。許された最大限の船が千石船です。
 
千石船は、その字の通り米千石を積載できました。石は、庄内14万石という時の石と同じで、容積の単位です。10合=1升。10升=1斗、10斗=1石、と10進法の単位です。

 
千石船は、米を何トン積載できるのでしょうか?
 この答えを見つけるには、容積の”石”を、重さの単位に換算しなければなりません。

 昔は、米は米俵に入れて運びました。
 米1俵=4斗で、容積では60kgでしたから、1000石船は、米150トンを積載できました。

<計算>

1000石÷4斗=1000÷0.4=2500俵
2500俵×60kg=150,000kg=150トン


 右は、郷土資料館にもよく展示されている、千歯扱(せんばこき)です。
 江戸時代に発明された脱穀具で、当時としては画期的に脱穀の能率を向上させました。郷土資料館によく見られるということは、戦後の高度経済成長期になって、農業がすっかり機械化されるまで生き残っていたことを意味します。


 この資料館見学で最も盛り上がったのは、次の体験コーナーです。

 すでに説明したように、昔から米1俵は60kgとしたものです。
 この米俵を肩の上に担ぐ体験コーナーが、左の写真です。

 私や、息子たちは、1俵は担ぐことができます。しかし、腰にヘルニア病気持ちの私には、相当しんどい重さでした。また、普通の体格の妻には、とても無理な話です。1俵はそれぐらい重いものです。

 
昔の人はその米俵を何俵運んだのでしょうか?
 左の写真の壁に当時の女性運びやたちの様子を写した写真が飾ってるのがわかります。それを再現した人形が右の写真です。
 なんと、
米5俵、つまり300kgを運んだのです。ちゃんと写真に映っていますから間違いありません。。熟練の技というのは恐ろしいものです。 


 酒田に関して、もうひとつ、有名なことがあります。
 それは、 「
本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と唱われた、あの大地主本間家です。
 
本間家旧宅というのも資料館になっていて、見学に行きましたが、年末年始の休館日にあたり、残念ながら外だけ見て帰りました。
 今度の旅行では、他にも、年末年始の休館で見ることができなかったところがありました。当たり前のことでしたが、この時期の旅行は、開館・閉館を確かめてから行かなければなりません。
 


 12月29日、午後4時頃、酒田を後にして、この日の宿泊地、湯野浜温泉に向かいました。国道112号線で30分弱です。
 
 天候は悪く、相変わらず強風と時々霰、雪の状態です。

「ねぇ、質問、質問。」

「何」

「この道(国道112号線)って、海沿いに走ってるんでしょ。さっきから、海が少しも見えず、松の木と畑ばっかり。」

「そういえば、そうだね。さっき見てきた資料館の、「米所、庄内平野」というのはどこの話だろう。水田も見えない。」

「それは、砂丘と防風林のため。」


 庄内平野の日本海岸は、日本3大砂丘のひとつ(他の二つは、鳥取砂丘と浜松中田島砂丘)に数えられる庄内砂丘となっています。南北延長55kmにも及ぶこの砂丘は、日本海からの強い風によって運ばれる砂によってつくられました。 
 
 この砂丘のため、庄内平野は、海側から、防風林(クロマツなど)、砂丘の畑作地帯(メロンなど)、水田と、景観がくっきり異なっています。航空写真で見ると見事な色分けになります。
 地理の学習に使えそうな特色ある景観です。 

 上の写真も、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の写真を4枚合成してつくりました。国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。


<湯野浜 夕陽>   全ルート説明図へ 「東北地方南部」図へ 「山形県南部」図へ

 そうそう、この旅行のテーマは、「朝日・夕陽と歴史」でした。
 歴史の方は、いろいろ勉強できました。
 さてさて、問題は、
日本海に沈む夕陽です。今日はその為に、朝早く、太平洋・松島湾に昇る朝日を見てきたのです。

 宿泊地として選んだ、山形県南部の
湯野浜温泉は、日本海に沈む夕陽がそれはそれは美しいと評判の所です。
 多くのホテルでは、温泉につかりながら沈む夕陽を見ることができるという景勝地です。

 しかし、この日は、奥羽山脈を越えてからは、天気はほとんど絶望的状況でした。
 鶴岡や酒田に来てからも、強風下、雨・霰・雪と、外で写真撮影もできないくらいひどい天気でした。

 午後4時25分、湯野浜温泉の
ホテル「游水亭いさごや」に到着しました。
 「全館全室夕陽が見える」という自慢のホテルでしたが、結果は悲惨なことになりました。


>

 2006年12月29日午後4時50分、ホテルの部屋から撮影。
 冬の大荒れの日本海、天候小雪。恐ろしいくらい不気味な日本海です。
 でも、これはまたこれで、迫力満点です。海のない所に暮らしている岐阜県人としては、部屋からこんな激しい波濤が見られるというのも、また感動ものです。冬の日本海は、想像を超える厳しさです。


 残念ながら、肉眼では、日本海に沈む夕陽は見ることはできませんでした。 

 このままでは、あきらめ切れません。そこで、フロントで頼んでみました。 

「今日は、朝宮城県松島に昇る朝日を見て、東北地方を横断し、同じ日の夕方には、山形県湯野浜に沈む夕陽を見ると言うテーマで、わざわざ岐阜から900kmも離れたここにやってきました。残念ながら、今日は無理ですね。」 

「そうですか。残念ですね。
つい一昨日までは、いい天気が続いていたんですけど・・・。」

「HPに旅行記を書きたいんですが、このホテルの夕陽の写真なんかを利用させていただいてよろしいですか。」

「ブログの写真は、私どもが撮影したものですから、ほかから著作権どうこうといわれるものではありません。よろしかったら、どうぞお使い下さい。」


 お言葉に甘えて、写真をお借りしました。
 上は、
ホテル「游水亭いさごや」(写真右)のブログから複写させていただいた日本海に沈む夕陽の写真です。感謝。
 2006年9月23日のものです。実に美しい夕陽ですね。水平線の直線も見事ですね。
 上の私の撮影した写真と同じ「波消しブロック」が映っていますから、間違いなくこのホテル前の海岸から写したものです。


 
湯野浜温泉のホテル游水亭 いさごや」さんにはいろいろお世話になりました。いい湯、おいしい食事、サービス心満点のおねえさんたち・・・・、ありがとうございました。

 山形県鶴岡市湯の浜1-8-7 電話 0235-75-2211
 ホテルのブログはこちらです。
   http://isagoya.air-nifty.com/ 

 ホテルの公式HPはこちらです。    http://www.isagoya.com/ 
 右上のホテルの写真は、海側から撮影したものです。どの部屋からも夕陽が眺められます。

【追伸】07/02/18追記
 ホテル「游水亭 いさごや」さんから、メールをもらいました。私のこの旅行記を、上記のブログに紹介していただいただけました。ありがとうございました。
 メールによると、夕陽が一番美しいのは、6月か11月とのことです。是非、またいきますから、よろしく。


 ところで、私がひとつ勘違いをしていて、もしも晴れていたら、家族から大非難を浴びるという失敗をしていました。

 「ホテルについて、すぐ夕陽を見る。うまくいけば風呂から夕陽を見る。」
 と宣言して、日程を考え、
16時25分頃にホテルに到着しました。
 出発前日の12月28日の
岐阜市の日没が16時48分でしたから、ホテル到着が16時半頃なら何とかなると思ったのです。

 ところが、現実には、ホテルのフロントに掲げてあった、「今日の日没」の時間を見てびっくり。
 なんと、
この地、鶴岡の12月30日の日没は、16時25分でした。

 岐阜よりずいぶん東・北に位置する山形県鶴岡では、日の出が20分以上早くなっているのでした。これでは、私の計画した日程によれば、晴れていても、ホテルの風呂から夕陽を眺めることはできなかったことになります。

 大失敗となるところでした。今度来る時は、よく調べて来たいものです。


 嵐の翌日の海岸。
 天気はずいぶん回復しましたが、この景勝地の温泉を悩ますものが出現しています。
 
 冬の大荒れ天気のあとは、砂浜は、ご覧のように、ゴミまたゴミです。日本各地に加えて韓国・北朝鮮・ロシアなどいろいろな国のゴミが打ち上げられます。
 春から秋には、市や温泉街を上げてのビーチ・クリーン作戦が展開され、みなさんのご尽力で海岸はきれいに維持されますが、冬は、天候が荒れると一夜でもとのもくあみになってしまい、事実上お手上げだそうです。

 今度は、夕陽が見られれる確率の高い、しかも砂浜がきれいな、春から秋の季節に再訪しましょう。


<喜多方・会津>   全ルート説明図へ 「東北地方南部」図へ 「山形県南部」図へ

 2006年12月30日朝、8時25分、湯野浜温泉を出発して次の訪問地、福島県の会津若松喜多方に向かいました。

 山形自動車道路鶴岡インターチェンジから東北自動車道路村田ジャンクション−郡山ジャンクションを経て磐越自動車道路会津インターチェンジまでは、およそ270km、3時間半の行程です。
 
 しかし、昨日から、会津磐梯山の付近は吹雪で、磐越自動車道路は途中通行止めとなっているとのことでした。
 通常なら、12時頃について、昼食は喜多方でラーメンという予定でしたが、遅れるのは確実です。

 案の定、磐越熱海インターチェンジ以西は通行止めとなっており、その手前の本線上で渋滞に巻き込まれてしまいました。


 吹雪がおさまった直後の会津磐梯山。磐越自動車道路より撮影。この旅行で見た一番の積雪量でした。 


 ラッキーなことに吹雪がおさまり、磐越自動車道路が開通したのは、12時を過ぎてから。

 ラーメン目当てに喜多方に急ぎました。13時35分、やっとの思いで、小雪の降る中、喜多方到着です。
 


 「るるぶ」から捜して、急いで入ったお店は、「さくら亭」。

 基本は醤油味ですが、いろいろなブレンドのスープがおいしかったです。麺は、太めの縮れ麺で、岐阜県人が普通に食べるラーメンというイメージとは少々違っています。しかし、お値段も手頃で、おいしいラーメンでした。
 


 14時10分、喜多方出発。目的地は、会津若松城です。
 

「会津藩といえば、藩祖の保科正之をはじめとして、京都守護職松平容保、白虎隊、戊辰戦争・・・。みんな、わが家にはなじみの歴史的できごとばかりだな。」

日本史教師の私の影響で、わが家の息子たちは普通の家庭以上には歴史に興味があります。彼らは、とりわけ江戸時代については、さるマンガのおかげで、ものすごく詳しい知識を共有しています。
そのマンガとは、みなもと太郎作『風雲児たち』です。詳しくはこちらに説明してあります。
「なんだこりゃ、『人生に重大な?影響をあたえたもの』」

K

「僕が大学の卒業論文(教育学部の社会科専攻)に戊辰戦争を選んだのも、それが影響している。」

「来年の正月特番で、『白虎隊』(1月6日・7日にテレビ朝日系で放送)というのがあるけど、白虎隊というんがなんなのかは、おおむねは知っている?K(長男)はわかるよね。残りの2人は。」

「よく知らない。」

「君には期待していない。」

「ぶー。」

「城が落城したと誤解して、少年たちが自殺するんだよね。」

「そうそう。少年たちは、16歳か17歳ぐらい、ちょうどD(三男)のと同じ高校生ぐらいの子たちだ。武士の子たちだったが故に、戦場に赴き、悲しいことに状勢を見誤って自害することになるのだけれど、おとうさんとしては職業柄、この少年たちを育てた当時の教育に興味がある。」

「日本史の教科書にも載っている、彼らが通った有名な藩校は、えーと・・・?」

日新館という。」

「それそれ。」

「日新館に子どもたちに教えるための『日新館童子訓』といいうのがあってね。クイズ的にいうと次のようになる。

  1. 年長のいうことにそむいてはなりませぬ。

  2. 年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。

  3. 〔   〕をいってはなりませぬ。

  4. 〔   〕な振る舞いをしてはなりませぬ。

  5. 〔   〕をいじめてはなりませぬ。

  6. 戸外でものを〔   〕はなりませぬ。

  7. 戸外で〔   〕と言葉を交えてはなりませぬ。

  8. ならぬことはならぬものです。

「3は嘘、4は卑怯かな。」

「4は普通に弱いものいじめだろ。」

「戸外はなんだろう?」

「3は正確には、『虚言』、6は戸外でものを食べてはなりませぬ。7は、女の人。」

「いわゆる、武士の男の子向けの道徳だよね。」

「そうだ。武士道の基本となる徳目のいくつかが含まれている。」

「堅苦しい時代だったんだ。」

「いや、そうでもない。時代を超えた大事なものもあると思う。」


 
嘘、卑怯、弱いものいじめ。そして、最後の8もいいですね。「してはいけないことは、理由とか説明とか四の五の言わずに、してはいけない。」
 
 7以外は 今の小学校の教室に貼っておけそうです。

 武士道については、軽々に現代にひっぱてくるのはあまり賛成できない点もあります。
 日本の精神文化と武士道については、またどこかで、一言ものもうさねばならないと思っています。


 雪の会津若松城。(撮影日 06/12/30)


 会津若松城の中が、歴史資料館になっていて、会津の歴史が非常に興味深く描かれています。
 私たちの訪問日は、年の瀬の12月30日の午後3時頃でしたが、観光客で一杯でした。とりわけ、中国や韓国からの外人団体観光客が多く、ちょっと意外な気がしました。

 この会津若松城は、戊辰戦争のハイライトでもあった会津戦争の際に、数千発の砲弾を撃ち込まれ、当時の写真に依れば、ぼろぼろの状態となって敗北を迎えました。
 明治維新後、1974(明治7)年に城は解体されました。

 戦前は、官軍の流れをくむ政府に対して、賊軍の会津が会津若松城を再建することはできないことだったのでしょう。
 しかし、戦後は再建への気運が高まり、市民等からの寄付も集まって、1965年7月に現在の天守閣は再建されました。


 会津若松城天守閣からは、市内が一望できます。
 これは東北東方面を撮影したものです。2枚の合成写真です。手前の山々の背景には本当は会津磐梯山がありますが、あいにくの天気で見えません。 
 飯盛山は、かの白虎隊の少年隊士が自害したところです。


 これで、宮城・山形・福島旅行記を終わります。
 いつものように旅行記らしくない旅行記に付き合ってくださってありがとうございました。

 実は、山形県は、私が1回も訪れていない都道府県のひとつでした。
 その一つを「踏破」できました。
 残るは、青森・秋田・沖縄の3県となりました。(ただし、新潟と愛媛は、ほんの少し通っただけというインチキもんですが・・・。(^.^))

 めざせ全国制覇。

【追記】
 2008年8月、新潟佐渡に旅行。
 2008年10月、沖縄に修学旅行。(引率者)
 2010年3月、愛媛道後温泉に旅行。

 この結果、残りは本当の意味で、青森県と秋田県のみとなりました。


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