まず、教科書には何と書いてあるでしょうか?
日本の高等学校の世界史の教科書には、次のように書かれています。(赤字は引用者がほどこしました。以下同じです。)
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「ナチス=ドイツは9月1日、準備していたポーランド侵攻を開始した。イギリス・フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。ポーランドはドイツ軍に圧倒され、1939年9月なかばにはソ連軍の侵入も受けて敗北し、両国間で分割された。ソ連は11月にフィンランドに宣戦して、翌40年国境地帯の軍事基地を獲得し、さらにバルト3国を併合して、ルーマニアからもベッサラビアを割譲させた。一方、西部戦線ではしばらく平穏であったが、40年4月、ドイツ軍はデンマーク・ノルウェーに、5月オランダ・ベルギーに侵入し、さらにフランスに侵攻して6月パリを占領した。ドイツの優勢をみて、イタリアもドイツ側について参戦した。
フランス第三共和政は崩壊し、ベタン政府が成立してドイツに降伏した。フランスの北半はドイツに占領され、南半をベタンのひきいるヴィシー政府が統治した。しかし、ド=ゴールらは降伏を拒否し、ロンドンに亡命政府(自由フランス政府)を組織して抗戦をよびかけ、フランス国内にもやがてレジスタンス(対独抵抗運動)がおこった。イギリスでは1940年5月、チェンバレンにかわってチャーチルが首相になり、激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した。41年4月、ドイツはイタリアを支援してバルカン半島に軍を派遣し、ユーゴスラヴイアとギリシアを占領した。
ここまでは、戦場はヨーロッパとその周辺部に限定され、ドイツの侵攻による短期戦がくりかえされるという経過で進行し、ナチス=ドイツはヨ−ロツパ大陸の過半を支配するようになった。しかし、ドイツのバルカン進出はバルカンに関心をもつソ連との関係を緊張させ、ソ連は1941年4月、ドイツにそなえて日ソ中立条約を結んだ。」
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参考文献1 佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』P206
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上記の説明の赤字部分のうちの、「激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した」がBattle of Britainの内容となります。日本の高校の教科書用語としては、Battle of Britainという表現は出てきません。
では、本家本元のイギリスの教科書はどうでしょう。
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「チャーチルが首相となったその日(5月9日)、ヒトラーは長く待たれていた西方での攻勢に出た。1914〜1918年の膠着状態の繰り返しはなかった。戦車及びその他の装甲車の点で優勢を誇っていたドイツ軍は、彼らの前にあるものをすべて一掃した。1914年と同様に、彼らは主要なフランスの要塞を迂回して北方から攻撃した。オランダとベルギーはまもなく蹂躙されて、イギリス軍は切断され、海岸まで撤退を余儀なくされた。5月24日から6月4日までに32万人のイギリスとフランスの軍勢が、ダンケルクおよびその近くの浜辺から撤退させられた。イギリス海軍は、フェリーポートや遊覧船や引き船、ヨットそれにトロール船を含む何百もの小さな船によって助けられた。チャーチルは、それを「奇跡の救出」とよんだ。しかし、戦車と大砲はすべて失われた。
フランス軍はたちまちのうちに壊滅し、6月25日に降伏した。2週間前にイタFリアの独裁者ベニ卜=ムッソリーニは、彼が勝利の側と考えた陣営に彼の国を引き入れた。イギリス帝国は孤立していた。いっぼうヒトラーは英仏海峡を越えての侵入を準備していた。イギリス人のなかには、そのような状況を絶望的とみなしたものもいた。だが、チャーチルはそうは考えなかった。「いかなる犠牲を払おうとも、われわれはわれわれの島を守り抜くであろう。われわれはけっして降伏しない」と、彼はいった。海岸は有刺鉄線や地雷でおおわれた。教会の鐘は警戒警報を鳴らす時に備えて、静まりかえっていた。しかしながら、ヒトラーの侵攻艦隊が無事に海に乗り出すことができる前に、彼は制空権を獲得しなければならなかった。ドイツ空軍を指揮していたゲーリングは、必要なことはただ「5日間の青天」である、とヒトラーに請け合った。彼らは二人とも予期せぬ成り行きに驚かねばならなかった。
8月はじめに、ドイツ空軍は、イギリス空軍(RAF)と南イングランドの飛行場を破壊するという仕事にとりかかった。しかし、ドイツ空軍ははじめて、きわめて有能な敵軍に向き合うこととなった。すなわち、イギリス側は、海岸沿いにレーダー観測所を備え、ドイツのメッサーシュミット機よりわずかに性能のすぐれたスビットファイア戦闘機が攻撃の先頭に立っていた。数的には劣勢であったけれども、イギリスのパイロットは敵に対して非常に深刻な損失を負わせたので、9月半ばまでにその侵攻作戦は無期延期の状態となった。実質上ドイツのイギリス大決戦は終わった。ヒトラーの計画は、数百人のRAF戦闘機操縦者の手腕と勇気によって覆された。そのパイロットのほとんどすべてが25歳以下であった。「これまでに、これほど少ない軍勢でこれほど多くのものを得たことはけっしてない」と、チャーチルはいった。ドイツ空軍は、イギリスの軍需生産に痛手を与えることを望んで、ロンドンおよびそのほかの主要な都市に対する夜襲に切り換えた。いわゆる電撃作戦(ザ・ブリッツ)は、1941年の春までつづいた。毎夜、サイレンが鳴って、家族に非難−地下室や特別に作られた防空壕や、ロンドンでは地下鉄の駅に−するように警告した。広範囲の破壊にもかかわらず、イギリスの抵抗は揺るがされなかった。」
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参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』P288
もちろん、この教科書のこのページの挿入写真は、編隊で飛翔するRAFのスピット・ファイアー戦闘機隊です。
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さすがにこちらは詳しく書かれています。要点を確認すれば次のとおりです。
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フランスを降服させたのちヒトラーはイギリス侵攻を計画した。 -
そのためはイギリスと英仏海峡の制空権の確保が必要であった。 -
ドイツ空軍とイギリス空軍の決戦が1945年7月10日から行われたが、9月半ばには、最終的にドイツはイギリス上陸をあきらめざるを得なかった。 -
イギリス空軍は数的には劣勢であったが、敵来週を探知するレーダー網や戦闘機スピット・ファイアーの活躍で、ドイツ空軍に深刻な打撃を与えた。 -
イギリスに対する夜間の空襲は、1941年春まで続いた。
別の文献の表現を引用すれば、の事情は、次のように説明できます。
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「ダンケルタからの撤退、それにつづく6月22日のフランス降伏後、イギリスはナポレオン戦争と同様、世界中でただひとり強大な大陸の戦争機械に立ち向かっていた。6月18日、チャーチルはドイツ軍上陸の危険が迫っていると国民に訴え、「・・・・われわれはふるい立ち、義務を果たそう。そしてイギリス帝国とイギリス連邦とが1千年つづいても「これが最高のときだった」となお人々がいうように振舞おう」と呼びかけた。国民はドイツの空挺部隊の着陸を阻止するため、野原・平地・ゴルフ場に逆木やバリケードを築いた。バリケードには、乗用車、熊手、壊れた台所のレンジ、ベッドなどが動員された。幹線道路わきには簡易トーチカが構築された。150万の地方防衛義勇隊 Local Defense Volunteers のほかに鉄道・郵便局・BBC・各工場は独自の防衛隊を組織した。武器の不足したところではクリミア戦争・セポイ反乱当時のライフル銃すら持ち出された。
7月16日、ヒトラーはイギリス侵攻命令を発した。しかし海軍力に劣るドイツは、「制空権を確保して初めて上陸作戦が可能」であって、「それもドーヴァー海峡対岸の狭い地域に限ら」れた。このためヒトラーは7月19日には再度イギリスに講和を呼びかけたが、イギリスは一時問後にはBBCを通じてこの提案を拒否した。ヒトラーは8月13日を空軍による上陸準備作戦開始の日と定め、この日からイギリス本土への本格的な空襲を開始した。この時、同時に「イギリスの戦い」Battle of Britain が始まったのである。攻撃開始の頃、ドイツ空軍は1000磯の長距離爆撃携、300機の急降下爆撃機をもち、これを支援する戦闘機は約1000機、計2300機を保有していた。これに対しイギリス空軍は防衛に利用しうる戦闘機1500機弱であった。イギリス空軍の最大の悩みはパイロットの不足であったが、幸い戦闘が自国の上空で行なわれたため、撃墜されても再び機上の人となることができた。さらにイギリスに有利だったのは、海岸線に一帯にレーダー網が張りめぐらされていたため、これにより戦闘機は効果的に飛び立つことができ、搭乗員の消耗を防げたのである。」
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参考文献3所収 藤村瞬一著「連合国の内部事情」、岩波講座『世界の歴史29 現代6 第二次世界大戦』P297 但し、Battle of Britain当時の両国の航空機の保有機数については、他に諸説あります。
チャーチル自身の回顧録には、次のようにあります。
「8月までにドイツ空軍は、爆撃機1015、急降下爆撃機346、戦闘機933、重戦闘機375からなる2669機の作戦機を集結した。」
参考文献7 W・Sチャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫版)P197
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ドイツ軍は、ヒトラーが侵攻命令を発した7月から本格的なイギリス爆撃を開始し、特に、8月に入ってからは大規模な攻勢をかけました。ドイツ空軍のコード名、「アドラーターク」(鷲の日)は8月13日に公式に発令され、連日1000機規模のドイツ軍機がイギリス上空へ向かったのです。
しかし、結果的には、この戦いはイギリスの勝利に終わり、ヒトラーのイギリス本土侵攻計画は夢と終わりました。
イギリスの勝利に終わったBattle of Britainについて、上記の視点からイギリス空軍博物館の展示などを紹介しながら、以下で詳しく説明します。
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