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 バトル・オブ・ブリテンとは何か 11/04/11記述 11/04/15修正 11/04/17 3訂版

 コリンデールにあるイギリス空軍博物館のメインの展示は、なんといっても、イギリス本土航空戦(Battle of Britain)に関するものです。
 Battle of Britainとは何だったのでしょうか?最初に初歩的な説明を行い、あとでイギリス空軍博物館の展示を説明します。 


 まず、教科書には何と書いてあるでしょうか?
 日本の高等学校の世界史の教科書には、次のように書かれています。(赤字は引用者がほどこしました。以下同じです。)

「ナチス=ドイツは9月1日、準備していたポーランド侵攻を開始した。イギリス・フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。ポーランドはドイツ軍に圧倒され、1939年9月なかばにはソ連軍の侵入も受けて敗北し、両国間で分割された。ソ連は11月にフィンランドに宣戦して、翌40年国境地帯の軍事基地を獲得し、さらにバルト3国を併合して、ルーマニアからもベッサラビアを割譲させた。一方、西部戦線ではしばらく平穏であったが、40年4月、ドイツ軍はデンマーク・ノルウェーに、5月オランダ・ベルギーに侵入し、さらにフランスに侵攻して6月パリを占領した。ドイツの優勢をみて、イタリアもドイツ側について参戦した。
 フランス第三共和政は崩壊し、ベタン政府が成立してドイツに降伏した。フランスの北半はドイツに占領され、南半をベタンのひきいるヴィシー政府が統治した。しかし、ド=ゴールらは降伏を拒否し、ロンドンに亡命政府(自由フランス政府)を組織して抗戦をよびかけ、フランス国内にもやがてレジスタンス(対独抵抗運動)がおこった。
イギリスでは1940年5月、チェンバレンにかわってチャーチルが首相になり、激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した。41年4月、ドイツはイタリアを支援してバルカン半島に軍を派遣し、ユーゴスラヴイアとギリシアを占領した。
 ここまでは、戦場はヨーロッパとその周辺部に限定され、ドイツの侵攻による短期戦がくりかえされるという経過で進行し、ナチス=ドイツはヨ−ロツパ大陸の過半を支配するようになった。しかし、ドイツのバルカン進出はバルカンに関心をもつソ連との関係を緊張させ、ソ連は1941年4月、ドイツにそなえて日ソ中立条約を結んだ。」

参考文献1 佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』P206

 上記の説明の赤字部分のうちの、「激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した」がBattle of Britainの内容となります。日本の高校の教科書用語としては、Battle of Britainという表現は出てきません。

 では、本家本元のイギリスの教科書はどうでしょう。

「チャーチルが首相となったその日(5月9日)、ヒトラーは長く待たれていた西方での攻勢に出た。1914〜1918年の膠着状態の繰り返しはなかった。戦車及びその他の装甲車の点で優勢を誇っていたドイツ軍は、彼らの前にあるものをすべて一掃した。1914年と同様に、彼らは主要なフランスの要塞を迂回して北方から攻撃した。オランダとベルギーはまもなく蹂躙されて、イギリス軍は切断され、海岸まで撤退を余儀なくされた。5月24日から6月4日までに32万人のイギリスとフランスの軍勢が、ダンケルクおよびその近くの浜辺から撤退させられた。イギリス海軍は、フェリーポートや遊覧船や引き船、ヨットそれにトロール船を含む何百もの小さな船によって助けられた。チャーチルは、それを「奇跡の救出」とよんだ。しかし、戦車と大砲はすべて失われた。
 フランス軍はたちまちのうちに壊滅し、6月25日に降伏した。2週間前にイタFリアの独裁者ベニ卜=ムッソリーニは、彼が勝利の側と考えた陣営に彼の国を引き入れた。イギリス帝国は孤立していた。いっぼうヒトラーは英仏海峡を越えての侵入を準備していた。イギリス人のなかには、そのような状況を絶望的とみなしたものもいた。だが、チャーチルはそうは考えなかった。「いかなる犠牲を払おうとも、われわれはわれわれの島を守り抜くであろう。われわれはけっして降伏しない」と、彼はいった。海岸は有刺鉄線や地雷でおおわれた。教会の鐘は警戒警報を鳴らす時に備えて、静まりかえっていた。しかしながら、
ヒトラーの侵攻艦隊が無事に海に乗り出すことができる前に、彼は制空権を獲得しなければならなかった。ドイツ空軍を指揮していたゲーリングは、必要なことはただ「5日間の青天」である、とヒトラーに請け合った。彼らは二人とも予期せぬ成り行きに驚かねばならなかった。
 8月はじめに、ドイツ空軍は、イギリス空軍(RAF)と南イングランドの飛行場を破壊するという仕事にとりかかった。しかし、ドイツ空軍ははじめて、きわめて有能な敵軍に向き合うこととなった。すなわち、
イギリス側は、海岸沿いにレーダー観測所を備え、ドイツのメッサーシュミット機よりわずかに性能のすぐれたスビットファイア戦闘機が攻撃の先頭に立っていた。数的には劣勢であったけれども、イギリスのパイロットは敵に対して非常に深刻な損失を負わせたので、9月半ばまでにその侵攻作戦は無期延期の状態となった。実質上ドイツのイギリス大決戦は終わった。ヒトラーの計画は、数百人のRAF戦闘機操縦者の手腕と勇気によって覆された。そのパイロットのほとんどすべてが25歳以下であった。「これまでに、これほど少ない軍勢でこれほど多くのものを得たことはけっしてない」と、チャーチルはいった。ドイツ空軍は、イギリスの軍需生産に痛手を与えることを望んで、ロンドンおよびそのほかの主要な都市に対する夜襲に切り換えた。いわゆる電撃作戦(ザ・ブリッツ)は、1941年の春までつづいた。毎夜、サイレンが鳴って、家族に非難−地下室や特別に作られた防空壕や、ロンドンでは地下鉄の駅に−するように警告した。広範囲の破壊にもかかわらず、イギリスの抵抗は揺るがされなかった。」

参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』P288
もちろん、この教科書のこのページの挿入写真は、編隊で飛翔するRAFのスピット・ファイアー戦闘機隊です。

 さすがにこちらは詳しく書かれています。要点を確認すれば次のとおりです。

  1. フランスを降服させたのちヒトラーはイギリス侵攻を計画した。

  2. そのためはイギリスと英仏海峡の制空権の確保が必要であった。

  3. ドイツ空軍とイギリス空軍の決戦が1945年7月10日から行われたが、9月半ばには、最終的にドイツはイギリス上陸をあきらめざるを得なかった。

  4. イギリス空軍は数的には劣勢であったが、敵来週を探知するレーダー網や戦闘機スピット・ファイアーの活躍で、ドイツ空軍に深刻な打撃を与えた。

  5. イギリスに対する夜間の空襲は、1941年春まで続いた。

 別の文献の表現を引用すれば、の事情は、次のように説明できます。

「ダンケルタからの撤退、それにつづく6月22日のフランス降伏後、イギリスはナポレオン戦争と同様、世界中でただひとり強大な大陸の戦争機械に立ち向かっていた。6月18日、チャーチルはドイツ軍上陸の危険が迫っていると国民に訴え、「・・・・われわれはふるい立ち、義務を果たそう。そしてイギリス帝国とイギリス連邦とが1千年つづいても「これが最高のときだった」となお人々がいうように振舞おう」と呼びかけた。国民はドイツの空挺部隊の着陸を阻止するため、野原・平地・ゴルフ場に逆木やバリケードを築いた。バリケードには、乗用車、熊手、壊れた台所のレンジ、ベッドなどが動員された。幹線道路わきには簡易トーチカが構築された。150万の地方防衛義勇隊 Local Defense Volunteers のほかに鉄道・郵便局・BBC・各工場は独自の防衛隊を組織した。武器の不足したところではクリミア戦争・セポイ反乱当時のライフル銃すら持ち出された。
 7月16日、ヒトラーはイギリス侵攻命令を発した。しかし海軍力に劣るドイツは、「制空権を確保して初めて上陸作戦が可能」であって、「それもドーヴァー海峡対岸の狭い地域に限ら」れた。このためヒトラーは7月19日には再度イギリスに講和を呼びかけたが、イギリスは一時問後にはBBCを通じてこの提案を拒否した。ヒトラーは8月13日を空軍による上陸準備作戦開始の日と定め、この日からイギリス本土への本格的な空襲を開始した。この時、同時に「イギリスの戦い」Battle of Britain が始まったのである。攻撃開始の頃、
ドイツ空軍は1000磯の長距離爆撃携、300機の急降下爆撃機をもち、これを支援する戦闘機は約1000機、計2300機を保有していた。これに対しイギリス空軍は防衛に利用しうる戦闘機1500機弱であった。イギリス空軍の最大の悩みはパイロットの不足であったが、幸い戦闘が自国の上空で行なわれたため、撃墜されても再び機上の人となることができた。さらにイギリスに有利だったのは、海岸線に一帯にレーダー網が張りめぐらされていたため、これにより戦闘機は効果的に飛び立つことができ、搭乗員の消耗を防げたのである。」

参考文献3所収 藤村瞬一著「連合国の内部事情」、岩波講座『世界の歴史29 現代6 第二次世界大戦』P297 但し、Battle of Britain当時の両国の航空機の保有機数については、他に諸説あります。
チャーチル自身の回顧録には、次のようにあります。
「8月までにドイツ空軍は、爆撃機1015、急降下爆撃機346、戦闘機933、重戦闘機375からなる2669機の作戦機を集結した。」
参考文献7 W・Sチャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫版)P197

 ドイツ軍は、ヒトラーが侵攻命令を発した7月から本格的なイギリス爆撃を開始し、特に、8月に入ってからは大規模な攻勢をかけました。ドイツ空軍のコード名、「アドラーターク」(鷲の日)は8月13日に公式に発令され、連日1000機規模のドイツ軍機がイギリス上空へ向かったのです。
 しかし、結果的には、この戦いはイギリスの勝利に終わり、ヒトラーのイギリス本土侵攻計画は夢と終わりました。

 イギリスの勝利に終わったBattle of Britainについて、上記の視点からイギリス空軍博物館の展示などを紹介しながら、以下で詳しく説明します。

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 イギリスの成功 レーダーによる待ち伏せ | 先頭へ ||研修記目次へ

 まずは、勝利の大きな要因とされる、イギリスのレーダー網によるドイツ空軍の攻撃の探知と待ち伏せによるイギリス空軍戦闘機の待ち伏せの効果です。レーダー(Radar)というのは、Radio Detecting and Ranging を省略してできた造語です。
 電波探知の原理そのものは、すでに19世紀末にドイツで発明されていました。イギリスでは、1934年から、世界に先駆けてレーダーによる敵の探知の研究と施設の建設を進め、1940年時点では、海岸に対ドイツ空軍監視用のレーダー網を張り巡らしていました。その様子は次の図06と地図15のとおりです。


 イギリスは、高空域用と低空域用の二つのレーダー探知網を整備し、イギリス沿岸と英仏海峡対岸のフランス沿岸を見張りました。
 例えば英仏間の最短距離であるドーバー海峡のドーバー・カレー間を例に取れば、ドイツ軍攻撃隊がカレー上空で大編隊を組んだ時点で、その様子はほぼイギリスレーダー網に探知され、その後の進行方向をおおむね把握することができ、イギリス空軍戦闘機隊は待ち伏せ攻撃を仕掛けることができました。
 しかし、これは理想的な場合で、ドイツ軍の電波妨害、巧みな侵入コース設定、その日の天候などによる電波障害などによっては、レーダー管制がうまくいかない場合もありました。


 イギリス沿岸のレーダーサイトの設置状況と空軍基地の配置です。
 ドイツは、占領したオランダ・ベルギー・フランスに基地を整備し、海峡を渡って攻撃を仕掛けました。この地図の場所以外では、ノルウェーからの爆撃もありました。


 写真13−01   イギリス空軍博物館にある迎撃指揮所の実物大再現展示   (撮影日 10/11/16)

 各レーダー・サイトの情報や目視による監視情報は、各地区のセクター指揮所に集められ、各指揮所は管轄する戦闘機飛行隊を所定の位置に配置して防空体制を取りました。
 チャーチルは、あとで説明する9月15日、つまり「Battle of Britain day」にこのような指揮所の一つ、第11戦闘機大隊本部の指揮所を訪問しています。この大隊は、25個の中隊(飛行隊)を指揮下に収めていました。
 その時の様子は次のように描かれています。
「 私と妻は地下50フィート(引用者注 約15m)の防空壕の作戦室に案内された。この地下の指揮本部と電話線の体制が整っていなかったならば、いかにハリケーンやスビットファイアが舞い上がっても、なんら効果がなかったであろう。この設備は戦争前にダウディングの進言と推進によって、空軍省が考案し構築したものだった。最高指令は、スタンモーアの戦闘機部隊総司令部から発せられるのであったが、しかし各戦闘機中隊への実際の命令措置は第十一戦闘機大隊本部に賢明にも委ねられ、第十一大隊本部が各地域の戦闘基地を通じて戦闘機中隊を支配していた。
 大隊本部の作戦室は、小さな劇場に似ていた。幅60フィートほどの二階建てだった。われわれは二階正面席に腰をおろした。われわれの下には大きな地図テーブルがあり、その周囲に20名ほどの高度の訓練を受けた若い男女が、電話助手とともに集まった。われわれの前面、劇場ならば大カーテンがあるところに、巨大な黒板がかかっていた。その黒板は電球で縦に6つ欄に区切られ、6つの地区基地を示していた。さらにその一つ一つの電球の横線で6つに区分された細かい欄があった。このようにして、細かい欄の一番下にある一連の電球がつけば、2分の予告でその中隊が「待境中」であることを示し、次の一連は5分で「準備完了」を知らせ、その次の一連は20分で「出動可能」を示し、次いで離陸を示し、やがて敵機発見の報告、次は赤燈で「交戦中」を示し、一番上は「帰還中」を示した。
 左側には舞台脇の特別席に似たガラス張りの席があり、4、5人の将校がいた。彼らの役目は監視隊から送ってくる情報の確度を判断することであった。当時この監視隊員は、男女、青年を合わせて5万人を数えていた。レーダー(電波探知器)はまだ幼稚な時代であって、敵機がわが海岸に近づきつつあることを知らせることはできたが、陸の上空を飛ぶ敵機に関する情報は、主として望遠鏡と携帯用電話機を持つ監視隊員によって通報された。したがって戦闘中には何千という情報が入ってくる。すると地下の本部の他の幾つもの部屋にいる大勢のその道の専門家がそれをふるいにかけて、1分きざみで直ちに大土間のテーブルの周囲で待ち構えている図面記録係たちに伝達し、さらにガラス張りの特別席で監視している将校たちに伝えられる。
 右側にもう一つのガラス張りの座席があり、その中には高射砲隊の活動を報告する陸軍将校がいた。当時大隊管区には高射砲は200門あったが、これらの砲を、夜間わが戦闘機が敵機に迫る区域内では、発砲するのを止めさせるのは最も重要なことだった。戦争一年前、私がスタンモーアを訪れたときにダウディソグから説明を聞かされていたので、この体制の大体の輪郭について私は知っていた。それが相次ぐ戦闘において、形を整え、精密になり、いまや世界のどこにも存在しないぐらい、最も精密な戦争道具にまで作り上げられていた。」
 ※参考文献7 W・Sチャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫版)P203−204


 写真13−02   管制センターの戦闘機飛行隊情報             (撮影日 10/11/16)

 セクター指揮所の上方には(上の写真13−01の上方に一部映っている部分)、各戦闘機飛行隊の情報がプレートで示されています。右から4番目のプレートは303飛行隊のもので、ドイツに占領されたポーランド空軍から亡命してきたパイロットたちで編成された飛行隊です。
 1969年には、このBattle of Britainを部隊にしたイギリス映画が、製作・公開されています。この映画は日本公開名では『
空軍大戦略(原題はもちろん、Battle of Britain)』といいましたが、年配の方の中には、ご覧になった方もあるでしょう。私は、高校生の時に一人で映画館で見ました。(^_^)
 この映画の中にも、この303飛行戦隊のことが描かれています。勝手にポーランド語ばかりで会話し、わけがわからないイギリス軍の司令が頭に来るシーンが出てきますが、そういう壁はあったにしろ、この飛行隊の隊員は、祖国を奪われた恨みからドイツ空軍機に対して勇猛果敢な働きを見せ、数々の戦果をあげました。
 また中央にある501飛行隊は、テムズ川河口のグレイブゼンド基地のホーカー・ハリケーンの戦闘機隊です。


 このレーダー探知による防空戦闘隊の誘導の有効性については、当初はドイツ軍は全く気がついていませんでした。しかし、待ち伏せに遭う回数が増えるにつれその重大性に気付き、レーダーサイトへの攻撃を開始します。これは一時イギリスのレーダー管制に深刻な打撃を与えますが、イギリスもその修復に最大限の努力を払った結果、目に見えた効果にはなりませんでした。
 そのため、ドイツ空軍元帥ゲーリングは、レーダーサイトへの攻撃は全く効果がないと誤った判断を行い、レーダーサイトへの攻撃は徹底されませんでした。このため、レーダー探知はBattle of Britainの期間中ほぼ有効に機能し、イギリス軍の勝利に大きな貢献をしました。
 一方、レーダーサイト攻撃に限らず、ドイツ軍の攻撃目標の不徹底は、結局は他の要因と相俟って、ドイツを敗北に導くことになります。これはまたあとで説明します。


 ドイツの失敗1 不正確な情報収集 | 先頭へ ||研修記目次へ

 イギリスの勝利の要因のうち、イギリス側の成功と言えるものは一つで、あとはどちらかと言えば、ドイツ側の失敗と言えるものでした。
 その第1は、ドイツのイギリスに対する情報収集が不正確だったことです。
 ドイツ軍は高空からの偵察機の撮影やイギリス国内にいるスパイからの情報で、イギリスの軍備配置や航空機などの生産拠点の把握に努めました。しかし、この情報は必ずしも正確ではなく、また、実際の攻撃計画への反映も不確実でした。
 例えば、ドイツ軍爆撃機はイギリス南部にあるサウザンプトンを幾度も爆撃しましたが、この近郊にあるウールストンの工場は爆撃の対象となりませんでした。実はこの工場こそ、イギリス戦闘機スピット・ファイアーの製造工場だったのです。
 ※参考文献4 飯山幸伸著『英独航空戦 バトル・オブ・ブリテンの全貌』P355

 このような敵情把握の曖昧さのため、ドイツ空軍は爆撃目標の一つに「戦闘機工場」を掲げていましたが、全体として有効な打撃を与えることはできませんでした。
 このため、スピット・ファイアーの生産は次のよう維持されていきました。

「イギリスの制空権保持に大きく貢献したものには、これらのパイロットたちのほかにビーヴァーブルック航空機生産相の功績が挙げられる。ビーヴァーブルックは空軍関係者の主張する戦闘機・爆撃機の均衡のとれた生産計画を一擲し、戦闘機中心の生産体制に切り替えた。彼は一般家庭にアルミ製品の供出を呼びかけ、労働者には週7日・1日10時間労働を要求した。かくして戦闘機の生産は4月の月産256機に比べ、6月446機、7月496機、8月476機、9月467機とつねに計画を上回る生産実績をあげ、これによってイギリス空軍はついに予備機の不足を経験することなくすんだのである。」

参考文献3所収 藤村瞬一著「連合国の内部事情」、岩波講座『世界の歴史29 現代6 第二次世界大戦』P298 


 イギリスのこの戦闘機生産機数は、各月ともドイツ軍の生産機数を200機ほど上回るものでした。
   ※参考文献7 ウイリアムソン・マーレイ著手島尚訳『ドイツ空軍全史』P123
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 ドイツの失敗2 双発爆撃機が中心だった  | 先頭へ ||研修記目次へ

 ドイツ空軍は、次の爆撃機を所有して戦闘に臨みました。〔 〕内は爆弾搭載量

・ユンカースJu87スツーカ(単発急降下爆撃機)〔500kg〕   260機
・He111〔2ton〕,Do17〔1ton〕,Ju88〔2ton〕などの(双発爆撃機)  1000機

 これらの爆撃機は、のちに連合国軍のドイツ本土爆撃に使われる複数の4発大型爆撃機(爆弾搭載量最大3tonから6ton前後、次ページで紹介)や日本本土爆撃に使われたB29爆撃機(同最大6トンの爆弾搭載)に比べると爆弾搭載量は著しく少なく、また、対戦闘機用の武装も強靱ではなく、護衛戦闘機なしでは大きな被害が出てしまうものでした。
 
 所詮、単発機の爆撃や双発機の爆撃では、都市や産業拠点を根こそぎ破壊するという戦略的な効果は期待する方が無理でした。次のページで説明しますが、イギリス空軍には、この「戦略爆撃」に対する指向が強く、すでに1940年の時点でそのための大型爆撃機開発が進んでいました。しかし、ドイツでは、ヒトラーやゲーリング空軍元帥の思い込みから、爆撃機全機種に急降下爆撃の機能を要求するといった誤った発想にとりつかれており、大型の戦略爆撃機(水平爆撃機)の開発は進みませんでした。
 逆にドイツ空軍が、この時点で4発エンジンの大型爆撃を開発できていたら、イギリスの息の根を止める可能性はありました。


 写真13−03・04    ユンカースJu87スツーカ急降下爆撃機  (撮影日 10/11/16)

 ポーランド戦線や西部戦線では、地上軍の撃破に大活躍をして、ヒトラーに「爆撃機は急降下爆撃にかぎる」とまでの信仰を植え付けた飛行機でしたが、ポーランド・フランスでは、この機を迎え撃つ戦闘機が貧弱なものでしたから成功につながったのでした。
 イギリス空軍の優秀な戦闘機の前では格好の餌食となり、一時は出撃が「禁止」されるなど、活動は著しく制限されました。
 先に紹介した映画『空軍大戦略(原題Battle of Britain)』では、このことを意識してか、映画の中で真っ先に撃墜されるドイツ軍機がこのユンカースJu87スツーカに設定されています。
 


 ドイツの失敗3 Bf109の短い航続距離 | 先頭へ ||研修記目次へ

 Battle of Britain時のイギリス軍の中心戦闘機、スピット・ファイアーとホーカー・ハリケーンと、ドイツ軍の主力戦闘機メッサーシュミットBf109E型とでその性能を各種項目別に比較すると、それぞれ一長一短があり、どの機が圧倒的に優れているということはありません。
 しかし、Bf109にとって致命的だったことがあります。
 それは、以下の表24に示した点です。



 Bf109もスピットファイアーも、日本やアメリカの戦闘機に比べると、航続距離(ガソリンを満タンにして飛べる距離)は、著しく劣っています。もともとヨーロッパの大陸を舞台に戦う英独の戦闘機と、太平洋の島々を駆け巡る日米の戦闘機は、基本的な発想が違っていました。
 では、Bf109の670kmとスピットファイアーの760kmの差は問題かというと、これはたいした差ではありません。しかし、今話題にしている戦いは、ドイツ空軍が、フランスなどの基地から英仏海峡を渡ってイギリス本土を攻撃する戦いです。
 当然、戦闘機Bf109は、ドイツ軍爆撃機を護衛してイギリス本土で活躍できなければなりません。
 実は、これが、この航続距離では無理があったのです。
 ただし、この数値にはちょっと注釈が必要です。
 地図15で見ると、フランス西海岸からロンドンまでは、直線距離にして200km程であり、往復しても400kmにしかなりません。Bf109の航続距離670kmなら十分ではないかと誤解しがちです。しかし、この670kmというのは、あくまで経済的な速度で飛行した場合の数値であり、戦闘になってフル・パワーで飛べば、ガソリンは直ぐに消耗してしまいます。
 現実的には、ロンドン上空における戦闘でのBf109の活躍時間は、かなり限られた短いものとならざるを得ませんでした。

 このため、ドイツ空軍は、Bf109E型において翼下に取り付ける落下タンクを装備できるタイプを計画しますが、次のメジャーモデルチェンジ型(Bf109F型)の製造に中心を置いたため、落下タンクを装備したBf109E−7型が前線に登場したのは、Battle of Britainの趨勢が決した9月後半以降になってしまいました。
 このBf109の航続距離延伸への対応の軽視が、ドイツ戦闘機隊の自らの首を絞めることになったのです。


 写真13−05  メッサーシュミットBf109                  (撮影日 10/11/16)

 ダイムラー・ベンツの液冷エンジンと燃料噴射装置によって高速を実現し、一撃離脱戦法を得意としました。しかし、航続距離が短い点が、Battle of Britainでは決定的な欠点となりました。


 ドイツの失敗4 最大の失敗は・・・・ || 先頭へ ||研修記目次へ

 しかし、これらのことがあっても、7月から始まったBattle of Britainにおいては、連日に渡るドイツ軍爆撃機・戦闘機の攻撃によって、8月の末にはイギリス軍は苦境に追い込まれていました。(もちろん、ドイツ軍爆撃機・戦闘機にも大きな被害は出ていました。)
 この段階では、ドイツ軍爆撃機・戦闘機はイギリス東南部(ロンドンの東南)の航空基地を中心に爆撃を続行しており、基地の飛行場の施設や滑走路はダメージを受け、連日1日に何回も迎撃に飛び上がるイギリス空軍戦闘機隊のパイロットにも、疲労が蓄積していました。

 つまり、ドイツ軍から見れば、「もう一息」という状況だったのです。
 ところが、ドイツ軍の決断が、このイギリス軍の苦境を救い、形勢の逆転につながります。
 ちょっとクイズ形式で考えてみます。

 発端は少し前の、8月24日の深夜に起こった「事件」です。
 この日の攻撃にも、ドイツ空軍は爆撃機・戦闘機合計1030機を発進させました。
 そのうちの一部は、He111爆撃機による夜間爆撃であり、その目標はテムズ川河口の工場地帯とドックでした。しかし、そのうちの一隊は機の位置を見失い、爆撃目標を発見できず、仕方なしに適当な場所に爆弾を投棄しました。ところが、その位置は、何とロンドンの中心市街地であり、それまで、両軍が控えていた都市への無差別爆撃(軍事目標を爆撃するのではなく、都市の住民そのものを爆撃対象とする)を、偶然にもドイツ軍機が誤って行ってしまったのです。
 この事件が、それまでとは違う展開を生みました。次の黒板で考えてください。 


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 チャーチルの命令によって史上初のイギリス軍のベルリン爆撃が、8月25日に決行されました。ウエリントン、ホイットレー、ハンプデンの3機種の双発爆撃機からなる80機を超える編隊がベルリンを夜間爆撃し、これは以後数日続けられました。
 ※参考文献8 大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』P52

 「ベルリンには1発の爆弾も落とさせない」と大見得切っていた空軍元帥ゲーリングにとっても、この爆撃は耐えがたい屈辱でしたし、何より、ヒトラーはこの爆撃に激怒しました。

 9月4日のナチス党冬季救援キャンペーン大会の席上で、ヒトラーは次のように演説しました。
「何故彼らは来ないのかとロンドン市民は問うであろう。『もうすぐだ。まもなく行ってやるぞ。』ベルリンに1トンの爆弾を落とすなら、その百倍、いや千倍にして返してやる。」
 ※参考文献4 飯山幸伸著『英独航空戦 バトル・オブ・ブリテンの全貌』P222

 こうして、9月7日からドイツ軍の爆撃目標が変更され、1000機以上の爆撃機・戦闘機がロンドンへ向かったのです。

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 写真13−06・07   空襲下のロンドンの様子を示した展示  (撮影日 10/11/16)


 こうして、9月7日以降、ロンドンが犠牲となった見返りとして、イギリス軍戦闘機隊の基地への攻撃はおさまり、戦闘機隊は危機を脱出します。「一息付けた」わけです。
 チャーチルは回想しています。

「 この同じ期間(8月24日−9月6日)に、わが戦闘磯部隊の戦力は、全体として相当に減退していた。2週間のうちに操縦士103名が戦死し、128名が重傷を負い、466機のスビットファイアとハリケーソが破壊されるか甚大な損害を受けた。約1000名の全操縦士のうち、ほとんど4分の1が失われたのである。その補充は、元気こそ旺盛だが、260名の新しい操縦士によって、やっと埋めることができたが、それは訓練中の隊から引き抜いた未経験の操縦士であり、多数の者はまだ全課程を終えていなかった。9月7日から10日間にわたるロソドンへの夜間攻撃は、波止場や鉄道の中心地に対して行なわれ、多数の市民を殺傷したが、これはわれわれにとっては、最も必要とした息抜きの期間となった。」

参考文献7 W・Sチャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫版)P202 

 一方、ドイツ軍爆撃機・戦闘機隊の方は、護衛戦闘機メッサーシュミットBf109の航続距離の短さがたたって、ロンドン上空での十分な爆撃機護衛ができなくなります。この結果、爆撃機隊の犠牲はもちろん、無理をすることになる戦闘機隊の犠牲もそれまで以上に増加しました。

 それでも、ドイツ空軍は自分たちの勝利を信じ、毎日毎日迎撃に上がってくるスピットファイアーの戦闘機隊を見ては、「あれがスピットファイアーの最後の50機」と信じて、苦難の爆撃行を続けました。しかし、すでに上で述べたように、スピットファイアーの生産機数は予定以上を維持され、ドイツ軍の願う「最後の50機」はいつまでも実現しませんでした。

 やがて、決戦の時がやってきます。
 9月15日、自分たちが劣勢にあることを認めたくはなかったドイツ軍は乾坤一擲の大勝負に出てロンドンに大軍を送ります。また、今日こそ形成を一気に有利にするチャンスと思っていたイギリス軍は、力を振り絞って総力を挙げて迎撃に出ます。
 この日イギリス上空に来襲したドイツ軍の爆撃機総数は328機、戦闘機総数は769機とされています。
 イギリス空軍も出撃できる戦闘機隊はすべて舞い上がり、ドイツ軍の阻止を図りました。
 のち、この日は、「本土決戦の日」と呼ばれます。
 この日のイギリス軍の損害は26機、そして、撃墜されたドイツ軍機は60機。ロンドンへの爆弾投下もうまくいかず、イギリス軍の勝利は明白でした。
 ※イギリス・ドイツそれぞれの撃墜機数は、参考文献6、
   R・ハウ、D・リチャーズ著河合裕訳『バトル・オブ・ブリテン イギリスを 守った空の決戦』によりました。

 第二次世界大戦後、9月15日は、「 Battle of Britain day」として記念日にされました。

 9月17日、イギリス上空の制空権の早期確保は無理と判断したヒトラーは、「イギリス上陸侵攻の無期延期」を命令しました。だんだん日が短くなり、天候が悪化する秋に向かっては、もはや上陸作戦の結構は不可能でした。
 ただし、上陸侵攻準備は継続されました。10月12日になって、ようやくヒトラーは「上陸侵攻は春まで延期」と命令し、事実上イギリス上陸作戦は放棄されたのでした。
 
 ただし、ドイツ軍の空襲の方は、9月15日以降も執拗に続けられ、ロンドンやバーミンガム、マージーサイド(マージー川河口のリヴァプール港周辺)、ブリストル、サザンプトンは大量の爆弾に見舞われました。ロンドンは、9月7日から11月3日にかけて、毎夜平均200機のドイツ爆撃機による57日連続の空襲を受けています。
 このドイツ軍のイギリス空襲は、は、ドイツが対ソ連侵攻作戦を実施するためイギリス空襲を中止する、1941年前半まで続きました。
 しかし、イギリスの防衛力は最後まで維持され、航空機生産も続けられたのです。 

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 写真13−08 スピットファイアーとホーカー・ハリケーン            (撮影日 10/11/16)

 午後3時半頃というのに、霧で薄暗くなったRAFmuseum中庭の両機。


 写真13−09  スーパーマリン・スピットファイアー              (撮影日 10/11/16)

 スピットファイアーは、大戦期を通じて改良を重ねられ、ずっとイギリス空軍の主力戦闘機であり続けました。戦後もしばらく活躍し、各型合計23,000機が作られました。 


 写真13−10    ホーカー・ハリケーン                 (撮影日 10/11/16)

 ハリケーンは、帆布張り、木製桁を使った戦闘機であり、4か月後に登場するスッピットファイアーに比べると前近代的と思われがちですが、 軽いため高加速で操縦性もよく、何より、Battle of Britain が始まった1940年7月の時点では、スピットファイアー配備の戦闘機隊が17個であったのに対し、ハリケーンの総戦闘機隊は26個を数えました。機数では、ハリケーン462機、スピットファイアが279機で、戦闘当初ドイツ軍機を迎え撃った主役はスピットファイアーえはなく、ハリケーンでした。
  ※参考文献7 ウイリアムソン・マーレイ著手島尚訳『ドイツ空軍全史』P120
 大戦期を通じて、合計14,000機が生産されました。、


 上図でドイツ軍が1日の最大の被害、75機の損失を出したのは、8月15日のことです。
 この日は、ドイツ軍機はイギリス東南部で1日3度の出撃を行ったほか、イギリス空軍の戦闘機隊が手薄であろうと想像されたイギリス北部のニューカッスル地方へ向かって、ノルウェーの基地からHe111双発爆撃機・Ju88双発爆撃機合計111機を、メッサーシュミットBf110双発戦闘機21機の護衛を付けて送り込みました。
 ところが、Bf110双発戦闘機は戦闘機といいながら鈍重な機体のため、イギリス戦闘機の迎撃を防ぐことはできませんでした。このため、Bf110自身が6機撃墜された他、爆撃機14機を失うという大敗北を喫したのです。
  ※参考文献7 ウイリアムソン・マーレイ著手島尚訳『ドイツ空軍全史』P123−124
 
 結果的に、7月から10月目でのイギリス上空の戦闘で、イギリス軍は915機の戦闘機を失いましたが、ドイツ軍は、1733機の戦闘機・爆撃機を失いました。
  ※参考文献8 大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』P49

 ドイツ空軍は、爆撃機を中心に大きな被害を出し、一方イギリス軍は多くの戦闘機を失いながらもパイロットの補充と新たな戦闘機の生産増強に成功し、イギリス上空の制空権を保持したのです。

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写真13−11 映画『空軍大戦略(原題Battle of Britain)』のDVDです。今もレンタル屋さんにあります。

 8月13日のドイツ軍の「
アドラーターク」(鷲の日)作戦、ドイツ軍機のロンドン誤爆、報復に怒ったヒトラーのロンドン空襲宣言の演説、9月15日のBattle of Britain day などがちゃんと描かれています。
 むすびは、チャーチル首相がイギリス空軍の戦闘機隊員を賛辞するために残した次の言葉で終わっています。
「Never in the field of human conflict was so much owed by so many to few」
(人間の戦いの歴史の中で、これほど多数のものがこれほど少数のものの恩恵にあずかった例はない。)
 
 本物の飛行機が乱舞する見事な作品です。 


 ただし、ドイツ軍のイギリス空襲は、1941年の時点で終了したわけではありません。
 戦争末期には、V1号やV2号によるロンドン市内への無差別攻撃もありました。それについても、
RAFmuseumには展示があります。


 写真13−12       V1号              (撮影日 10/11/16)

 ジェットエンジンを積載した現代の巡航ミサイルの元祖。1944年6月から実戦配備となり、2000発以上がロンドンへ向けて発射されましたが、命中率は高くありませんでした。


 写真13−13      V2号              (撮影日 10/11/16)

 世界ではじめてロケットエンジンを積載した弾道ミサイル。3000発以上が発射され、うち1300発以上がロンドンを狙いましたが、大きな戦略的な効果を上げるには至りませんでした。それでも、V1とV2の両方で、英国人犠牲者は、死者8,938人、負傷者は22,524人に上りました。
 ※参考文献10 イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』P103


 【イギリス本土航空戦(Battle of Britain)  参考文献一覧】
  このページ13の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版2004年)

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』(帝国書院 1981年)

岩波講座『世界の歴史29 現代6 第二次世界大戦』(岩波書店 1975年) 

飯山幸伸著『英独航空戦 バトル・オブ・ブリテンの全貌』(光人社NF文庫 2003年)

三野正洋著『第二次世界大戦戦闘・兵器学教本 ドイツ軍の小失敗の研究』(光人社 1996年)
 

R・ハウ、D・リチャーズ著河合裕訳『バトル・オブ・ブリテン イギリスを守った空の決戦』(新潮文庫 1994年) 

  ウイリアムソン・マーレイ著手島尚訳『ドイツ空軍全史』(学研M文庫 2008年) 
  大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』(光人社NF文庫 2006年) 
  W・Sチャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫 新装版 2001年) 
  10 イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(みすず書房 2011年) 


 これで、2ページにわたって、イギリス空軍博物館(RAF museum)を紹介してきました。
 次ページにさらに続きます。
 次は、日本の教科書にはあまり紹介されていない、アメリカ軍・イギリス軍のドイツ本土爆撃についてです。年配のかたなら、昔放映された映画・テレビ映画「
頭上の敵機」(原題名 Twelve O’clock High)を覚えておられますでしょうか?あの世界です。


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