| 旅行記のメニューへ  | | 全行程目次・地図へ | | 一つ前へ | | 次へ |



 松山城へ  10/04/18記述 | P1全行程目次・地図へ | |P2松山市・周辺地図へ | 先頭へ |

 昨年末のNHKドラマ『坂の上の雲』の放映によって、松山は今までにもまして一層脚光を浴びています。
  ※松山市と周辺地図は、こちらです→。
 
 道後温泉で朝湯につかって上機嫌となった私たちは、道後温泉駅から伊予鉄道の市内線(城南線)に乗って、松山城に向かいました。松山市内には、鉄道ファンがわくわくするぐらい、伊予鉄道の路線がいくつも走っています。(上の地図の赤線は市内軌道線、茶色は郊外線)
  ※伊予鉄道については、目から鱗の話:「各地の鉄道13 各地の路面電車3 松山(伊予鉄道)」で説明します。
 
 松山城の最寄りの電停は、大街道(おおかいどう)です。道後温泉からの所要時間は、僅か10分です。 


 写真03−01   大街道の電停                 (撮影日 10/03/14)


 電停から北へ向かう通りがロープウエイ街です。おしゃれなカフェや食品店、骨董品屋さんが並んでいます。妻はめざとく人々が行列している店を見つけて、名物の「抹茶大福!」を買っていました。(その間中、私は電車の撮影をしていました。)


 写真03−02   ロープウエイ街                 (撮影日 10/03/14)

 この先の左手、電停から500m程のところに、ロープウエイ・リフトの駅があります。


 写真03−03   リフトとロープウエイ               (撮影日 10/03/14)

 天気もよかったので、私たちは、リフトに乗ることにしました。
 リフトはほとんど待たなくても乗れますが、所用時間は長く、ロープウエイの方が早く着きます。
 松山城は、勝山という標高132mの小丘陵の上に造られた平山城です。132mぐらいの山なら、リフトやロープウエイといった大げさなものを利用しなくても、ちょっと頑張れば歩いて登れます。私たちは、帰りは、歩いて降りました。


 写真03−04   なぜか28cm榴弾砲実物模型             (撮影日 10/03/14)

 リフト・ロープウエイの登り口駅の一角に、なぜか明治時代の大砲、陸軍の28サンチ榴弾砲のレプリカがありました。
 これぞまさしく、NHKドラマ「
坂の上の雲」の撮影に使われた大砲です。
 この28サンチ榴弾砲の本物は、日露戦争の時に旅順攻撃に使われたものです。日本海海戦で活躍した戦艦三笠の大砲が、30.5cmでしたから、陸上の大砲としてはずいぶんと口径の大きな砲ということになります。
 この大砲の本物は、もともと輸入されたイタリア製の砲を元に陸軍が模倣して作製しました。期待された性能を発揮したので、1887年に制式化されました。といっても、こんな大きな大砲は、普通の陸上の戦いに使用できるものではありません。実はこの大砲は、沿岸の砲台に備え付けて海岸に迫る敵軍艦を砲撃するための沿岸要塞砲として採用されたのです。

 沿岸要塞砲としては活躍の機会はありませんでしたが、日露戦争ではロシアの旅順要塞を攻撃するためにはこの大砲が必要ということで、沿岸砲台から外されて旅順に運ばれ、そこに突貫工事で砲床(砲を設置する土台)をつくり、18門が攻撃に参加しました。
 要塞そのものの攻撃だけではなく、要塞周囲の陣地の一つである203高地占領後に、旅順湾内に停泊中のロシア艦隊を攻撃する時にも使用され、艦隊を壊滅に追い込みました。


 松山城天守 | P1全行程目次・地図へ | |P2松山市・周辺地図へ| | P3松山市街中心部地図へ |

 リフトなら6分で丘陵頂部の南東下に到着です。
 そこから普通に歩いて10分ほどで、天守に到着できます。 


 写真03−05   太鼓櫓です                 (撮影日 10/03/14)

 南東側の丘陵頂部直下を南側から西へ回って、丘陵頂部に上がります。その途中の南西側にある太鼓櫓です。


 写真03−06   天守です。                 (撮影日 10/03/14)

 丘陵頂部から見た天守です。
 松山城は、豊臣秀吉の家臣の一人、加藤嘉明が築城しました。
 加藤嘉明は、秀吉によってこの地域に6万石の領地を与えられ、海岸線の伊予松前(まさき)に城を構えました。
 1600年の関ヶ原の戦いでは、嘉明は家康方について東軍に参戦し、その武功によって戦後家康から20万石へと加増を受けました。
 先の松前の城では手狭となったため、伊予平野の中央部にあった小丘陵の勝山(標高132m)に築城することを決めました。1602年のことです。その翌年、嘉明は丘陵下の地を新城下と定め、館を移して名前を松山とあらため、城も松山城としました。
 城の完成にはそれから20数年がかかり、完成は嘉明自身が会津へ転封となったあとの1627年頃といわれています。

 嘉明の後、城を完成させたのは、嘉明の後に入封した蒲生氏里の孫忠知です。彼は二之丸も築造しています。蒲生家の断絶の後、1635年に伊勢桑名城主松平定行が入封し、以後明治維新まで、松平家が松山城の主であり続けました。
 松平家というぐらいですから、徳川の一門です。定行の父は、徳川家康の異父弟でした。この入封は、徳川一門として、初めての四国入りでした。

 天守は、完成時は五層でしたが、1642年に定行が三層に改築しました。
 その後、天守は1784年に落雷で焼失してしまいましたが、1820年から松平藩によって再建工事が行われ、幕末の1854年(日米和親条約の締結の年)に完成しました。これが今の天守です。国の重要文化財です。


 写真03−07                    (撮影日 10/03/14)

 松山城の別名は、丘陵の名を取って勝山城であり、さらに、金亀城とも呼ばれます。
 城を築城する際、山麓の南西角が深い淵となっており、そこに金色の亀が住んでいたところから、そう呼ばれました。


 さて、この天守ですが、熊本・高知と同じように、「路面電車と天守閣」という写真になるでしょうか?
 それは、目から鱗の話:「各地の鉄道13 各地の路面電車3 松山(伊予鉄道)」で紹介します。


 坂の上の雲ミュージアム     | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 松山へ来た目的は、道後温泉ともう一つ、坂の上の雲ミュージアムの訪問です。
 松山城から歩いて降りてきても、丘陵頂部から15分ぐらいで到着です。


 写真03−08   坂の上の雲ミュージアム               (撮影日 10/03/14)

 写真に納めにくい、変わったデザインです。


 写真03−09   門前のボランティアの方です                 (撮影日 10/03/14)

 秋山好古の陸軍騎兵将校の軍服姿をしたおじさんです。


 この坂の上の雲ミュージアムは、いうまでもなく司馬遼太郎氏の同名の作品をもとに、松山市全体をフィールドミュージアムとする構想により、2007(平成19)年4月に開館しました。
 つまり、司馬氏の『坂の上の雲ミュージアム』に描かれた松山出身の三人の主人公、正岡子規、秋山好古、秋山真之の軌跡に注目しつつ、司馬氏のメッセージを通して、明治国家という日本の近代国家建設がどういうものであったか、ひいては、今の日本がどうあるべきかを「哲学」するミュージアムとして構成されています。

 おりからNHKにおける同名の番組の放映とも重なって、開館から僅か2年半後の2010年1月には40万人目の入場者を記録しました。今大人気の、松山の観光名所のミュージアムです。
 
 ただし、展示物は、司馬遼太郎氏の文書やいろいろなメッセージ、3人の事跡の紹介などが中心で、はっきりいって、そういうことに興味のない人に、「すごい」と感じさせるものではありません。
 司馬遼太郎にも歴史にもそれほど興味のない妻には、このミュージアムは、それほどには感動を与えませんでした。
 
 妻は日本史教師の解説者付きで、辛抱して1時間余の館内周遊に耐えました。

「司馬遼太郎氏は君も知ってるように、いろいろな作品を残している。何か読んだものはある?」

「あまりない。大河ドラマは面白かった。大昔の『国盗り物語』なんか。

「『龍馬が行く』も有名だし、『街道を行く』シリーズもすごい。」

「それはあまり知らない。

「司馬氏が、どんな理由で歴史小説を書くようになったか知っているか?いいかえれば、彼の作家としてのテーマの根源が何か聞いたことはあるか?

「そんな難しいことは知らない。

 そうですね。そんなことは普通の方は知りません。

「司馬遼太郎氏は、第二次世界大戦が日本の敗戦で終わる1945(昭和20)年の8月には、戦車隊の小隊長として栃木県にいた。」

「フィリピンとか満州とかじゃないの?」

「違う。満州や南の島にいたら、とても生き残るなんてできなかった。日本の戦車はアメリカやソ連の戦車には全くかなわないお粗末なものだったから。」

「じゃ、日本にいてよかったわけじゃない。」

「そう、そうして生き残った司馬氏の心に強烈な疑問が起こった。簡単に言えば、『日本はなんてバカな戦争をしたんだろう。日本は昔からこんなバカな国だったのだろうか?』という疑問が。」

「へー。」

 
 これについては、司馬氏自らが次のように書いています。
 

「 私は、ノモンハン事件のことを調べてみたかったのです。ずいぶん調べました。資料も集めました。人にも会いました。会いましたけれども、一行も書いたことがないのです。それを書こうと思っていながら、いまだに書いたことがなくて、ついに書かずに終わるのではないか、そういう感じがします。
 日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をボンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
 この魔法はどこから釆たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。
 たとえば、戦国時代の織田信長(1534〜82)だったら考えもしないことですね。信長にはちやんとしたリアリズムがあります。自分でつくった国を大切にします。不利益になることはしません。
 国というものを博打場の賭けの対象にするひとびとがいました。そういう滑稽な意味での勇ましい人間ほど、愛国者を気取っていた。そういうことがパターンになっていたのではないか。魔法の森の、魔法使いに魔法をかけられてしまったひとびとの心理だったのではないか。
 私は長年、この魔法の森の謎を解く鍵をつくりたいと考えてきました。
 たとえば、これをマルクス主義に当てはめれば、パッと一言でこれこれだということになるのかもしれませんが、それでは魔法の森の謎を解くことはできません。
 手づくりの鍵で、この魔法の森を開けてみたいと思ってきたのです。どうも手づくりの鍵は四十年たってもできたのか、できていないのか −その元気があるのか、ないのか− とにかくその鍵を合わせて、ノモンハンについて書きたかったのですけれども。
あんなばかな戦争をやった人間が、不思議でならないのです。」

司馬遼太郎著『「昭和」という国家』(NHK出版 1998年)P5−6


「司馬氏は、いろいろ調べた結果、少なくとも明治国家を作った人々は、世界に誇りうる、立派な人間だったという結論にいたる。ついでにいえば、それをなさしめた要素は、江戸時代からの伝統であり、「武士道」であったと結論している。」

「NHKのドラマの最初の部分にも出てくる、『坂の上の雲』のあの有名なセリフ。」

「そうそう。ほらこのパネルにも書いてある。『まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。・・・・』」

 
 これについては、『坂の上の雲』に次のように表現されています。

「 余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。 
 小さな。
 といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三吉年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智意と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。」

司馬遼太郎著『坂の上の雲1』(文春文庫 1999年)P77


 また、別の本では次のように表現しています。 

「 リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム −私どもの日常の基礎なんですけれど−それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。このことは、何度目かに申しあげます。
 そこへゆくと、昭和には −昭和二十年までですが −リアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは、別国の観があり、べつの民族だったのではないかと思えるほどです。」

司馬遼太郎著『「明治」という国家』(NHK出版 文春文庫 1989年)P7

 展示室をぐるっと回っていくと、ちゃんと最後の方に、さらにうんちくのある引用が展示されています。

「日露戦争は頑張って勝利したのに、いつから日本はおかしくなったの?」

「司馬氏によれば、その日露戦争の「勝利」そのものがよくなかった。具体的には、戦争は「勝利」というより、薄氷を踏むぎりぎりの優勢勝ちでしかなかったのに、国民も多くの指導者も、「大勝利」と勘違いした。その逆の思い込みが、傲慢さや横柄さにつながっていく。そこのパネルを見てご覧。」

 パネルには次の文章が引用してありました。小説そのものではなく、その「あとがき」からの引用です。

「 要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。              .
 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。  昭和四十四年十月」

司馬遼太郎著『坂の上の雲8』(文春文庫 1999年)P321−322 「あとがき2」より

 観覧料400円で、たっぷりと「日本」を哲学できた1時間でした。


 亀望山展望台       | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 今回の旅行の最後の訪問地は、大島の亀老山展望台です。

 前回四国に旅行した時は、明石海峡大橋-淡路島-鳴門大橋で四国に渡り、帰りは、坂出−児島の瀬戸大橋で戻ってきました。つまり、3本の本四連絡架橋のうち、一番西の「
しまなみ海道」(西瀬戸自動車走路)以外は通ったことになります。
 そこで、今回は、時間的には少し余分にかかりますが、通常の松山から松山道路を経て瀬戸大橋という時間優先ルートではなく、松山から国道を坂出へ抜けて、
しまなみ海道を通るというルートを選択しました。

 途中、坂出から海を渡った最初の島である大島にある、亀老山展望台からの眺望が楽しみです。


 写真03−10   最初の橋                 (撮影日 10/03/14)

 坂出から渡る最初の橋、来島海峡大橋です。亀老山展望台は、一番右手の山の上にあります。


 写真03−11   亀老山展望台です                 (撮影日 10/03/14)

 大島南インターチェンジで国道317号線におり、すぐに田舎道に入ってくねくねと登坂道路を15分ほど上ると、頂上に立派な構造物が見えてきます。


 写真03−12   今渡ってきた来島海峡大橋です            (撮影日 10/03/14)

 天気がよくなかったのが全く残念です。夕焼けや夜景もきっとすごいでしょう。


 2時少し前に、亀老山展望台を出発し、再びしまなみ海道にもどって、帰路に就きました。
 展望台から自宅までは、山陽自動車道路−中国自動車道路−名神自動車道路を経て、およそ470kmです。
 普通にスムースに行けば、7時頃には到着できると思いましたが、日曜日の夕方に京阪神地区を通過するのは、やはりそう簡単ではありませんでした。
 山陽自動車道路と中国自動車道路の合流点である神戸ジャンクションの手前あたりから渋滞が始まり、結局、名神に入るまでに2時間ほど余分にかかってしまいました。
 おかげで帰宅は、21時25分とかなり遅くなりました。
 
 往復1343km、実質運転時間21時間30分でした。遠くまで行った分、歴史・温泉・鉄道と、とても充実した旅行となりました。
 これで、土佐高知・伊予松山旅行記を終わります。
  ※「路面電車と天守閣」については、目から鱗の話:「各地の鉄道13 各地の路面電車3 松山(伊予鉄道)」で
    紹介します。 


| 一つ前に戻る | | 次へ進む |