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この香川・岡山旅行記は、右のTRIP ADVISER Japanのサイトで紹介されています。以下のURLです。(右下の「お役立ちリンク集」コーナーの「おすすめツアー・現地情報」のところです。)
http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g298231-Kagawa_Prefecture_Shikoku-Vacations.html
 


 琴平電鉄とレトロ電車   | 先頭へ ||地図01 行程と訪問地一覧へ

 午前9時から1時間半の間に3軒の讃岐うどん屋をはしごした私たちは、今日の目的地、讃岐の金比羅神社(正式名称は金刀比羅宮)へ向かいました。JR予讃線で多度津へ行き、そこで乗り換えて土讃線に乗って琴平駅へ向かうという手もありすが、JRは岡山から高松まで来るときに利用しました。同じ路線を戻るのは面白くありません。
 そこで、高松市内と琴平の町を結んでいる
高松琴平電気鉄道(通称「ことでん」、以下琴平電鉄)に乗って、ゆっくりと、琴平駅へ向かうことにしました。
 築港高松駅(11:30発)から琴電琴平駅(12:30着)までは、60分かかります。
   ※ちなみに、JRを使うと、快速サンポートで高松駅(11:43発)、から琴平駅(12:30着)まで、47分です。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、讃岐地方(高松市・琴平町など)の地図です。
 右上の高松市から国道32号線にほぼ沿って、琴平電鉄が琴平町へ向かっています。琴平神社は、地図の左下の
象頭山の南東の中腹にあります。
 高松自動車道路が横切っている飯野山が、別名
讃岐富士です。


 写真02-01   琴電高松築港駅              (撮影日 11/02/26)

 背景の高い建物は、高松駅と旧連絡線埠頭(鉄道桟橋)との間に新しくできた全日空クレメントホテルです。ホテルの背景に、ちょっとだけ高松シンボルタワーが見えます。
 1988年の
瀬戸大橋開業にともなって宇高連絡線は廃止されました。駅から鉄道桟橋まで敷かれていた線路は撤去され、その後が「再開発エリア、サンポート高松」として整備されました。クレメントホテルや高松シンボルタワーは、新しい高松市を象徴する建物です。
 発車待ちの電車のうち、黄色い電車は琴電琴平駅行き、ミントグリーンの電車は長尾駅行きです。
 讃岐地方の鉄道の歴史は、金比羅神社の参拝客の便を図ることを目的として発達しました。最初に敷かれたのは、1889(明治22)年の
讃岐鉄道で、丸亀-多度津-琴平を結ぶ路線でした。この年は、全国規模の鉄道史で言うと、東海道線が東京-神戸間で全通した年に当たります。全国にやや遅れて、四国にも鉄道の時代がやってきたということになります。
 この路線は、1897年には高松まで延長されます。後には、中国地方の山陽鉄道に買収され、その後国鉄となり、現在では、JR四国の
予讃線(高松-松山)・土讃線(多度津で分岐して高知へ)となっています。
 大正時代になると高松から坂出・丸亀・多度津を経て海岸沿いに琴平へ向かう路線とは別に、平野の中心部を通って琴平へ向かう路線の設置が計画されました。大正時代1926(大正15)年に部分的に開通し、1927(昭和2)年に高松-琴平間が全通しました。これが
琴平電鉄の直接のルーツです。この会社は、先に1911年営業を始めていた東讃電気軌道(高松-志度)及び1912年に開通した高松電気軌道(高松-長尾)と統合され、現在の琴電の3路線琴平線志度線長尾線が形成されました。
 現在は、金比羅神社へ参拝客を運ぶ鉄道は、
JR琴平電鉄琴平線の2本だけですが、実は、昭和前半の時代には、琴平参宮電鉄(丸亀・多度津-琴平)と琴平急行電鉄(坂出-琴平)の2社が設立され、激しい競争が行われました。それはまた、それだけ金比羅神社への参拝客が多かったことを意味します。
 しかし、琴平急行電鉄は戦時下に廃止され、また、琴平参宮電鉄は戦後のモータリゼーションの進行の中で廃線となり、現在の2路線となりました。
 ※参考文献1 後藤洋志著『琴電-古典電車の楽園-』P65-96
 ※参考文献2 大島一朗著『ことでん長尾線のレトロ電車』P99-135 

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 写真02-02 琴電電車と高松城                (撮影日 11/02/26)

 高松城は、豊臣秀吉の四国制圧後、讃岐の領主となった秀吉家臣の生駒親正によって築城されました。
 しかし、生駒氏が騒動の結果出羽に転封となったあとに、
1642年徳川御三家のひとつ水戸藩主徳川頼房の子松平頼重が12万石を与えられて新城主となり、この松平氏が廃藩置県まで高松を治めました。
 この少し前、1635年には隣国の伊予松山城城主に、旧豊臣秀吉家臣の蒲生氏に代わって、伊勢桑名城主松平定行(家康の異父弟の子)が入封しており、この時期、西国に対する徳川氏の支配が着々と進んでいくことがよく分かります。
  ※伊予松山城については、→旅行記「土佐高知・伊予松山」を参照してください。

 なお、この写真は、「お城と路面電車」シリーズに含めてもいいようないいアングルですが、残念ながら琴平電鉄は路面電車ではありませんので、シリーズには含められません。
  ※「お城と路面電車」シリーズはこちらです。→目から鱗の話:「各地の鉄道あれこれ11各地の路面電車1」


 写真02-03 琴電琴平線一宮駅             (撮影日 11/02/26)

 向こうに讃岐平野によく見られるタイプの山が見えますが、これは讃岐富士ではありません。


 写真02-04  琴電琴平駅 (撮影日 11/02/26)

 写真02-05 琴電琴平駅  (撮影日 11/02/26)

 琴電琴平駅は、JR琴平駅より金比羅神社に近い場所に位置しています。左の写真の手前の東西の道は県道207号線で、JR琴平駅とホテル街を結んでいます。中央の門のようなものは、実は改修中の大鳥居です。
 二つの写真の左手の川は、
金倉川です。この川は溜池で有名な満濃池に注ぎ込み、また、その池の北端の堰から流れ出て、丸亀平野を形成して、丸亀の西で瀬戸内海に注ぎます。

 ついでにいうと、江戸時代の
丸亀藩6万石の城主といえば、京極家です。
 2011(平成23)年のNHK大河ドラマ「江(ごう) 姫たちの戦国」に出てくる、浅井長政・お市の方の娘三姉妹のうちの、次女
の嫁いだ家が、京極家です。ただし、若狭国瀬山城主であった京極高次と初の間には実子はありませんでしたので、京極家は、庶子忠高によって嗣がれています。京極忠高はさらに、出雲松江26万石の領主に栄進しましたが、実子がなく、末期養子を迎えてようやく家名存続を果たしたものの、播磨龍野を経て讃岐丸亀6万石へと減封され、江戸時代末に至ります。 


 写真02-06     琴電レトロ電車            (撮影日 11/02/26)

 琴平電鉄は、鉄道マニアの方から「レトロ電車の宝庫」と呼ばれています。写真02-05・06に写っている、クリーム(フロリダサンド)色と茶(マルーン)色のツートンカラーの電車は、写真02-06の左が500号、右が120号です。

 
120号は、1000形と呼ばれる車両で、琴電開業時の1926(大正15)年に導入された5両の当時の最新鋭電車の生き残りです。当時の琴電は、讃岐鉄道(現在のJR)に対抗するため地方のローカル電車とは思えない高性能の電車を導入しました。最高時速75kmで高松-琴平間を走り、その颯爽とした姿から「讃岐の阪急電車」と呼ばれました。
 
500号は、5000形と呼ばれる車両で、琴電全通直後の1928(昭和3)年に3両導入されたうちの1両です。
  ※参考文献2 大島一朗著『ことでん長尾線のレトロ電車』P59-65、67-69


 写真02-07     琴電の「しあわせさんこんぴらさん号」            (撮影日 11/02/26)

 これはレトロ電車ではありませんが、とても琴平電鉄らしい車両です。
 前面と側面には赤字で○に金、その間に「
しあわせさん こんぴらさん」と文字が書かれています。そして、車体全体は金比羅神社のシンボルカラーの黄色と、まるで金比羅様の使いのような電車です。
 1970年製で、もともと京浜急行電鉄で使われていた車両です。



 讃岐の金比羅様   | 先頭へ ||地図01 行程と訪問地一覧へ

 琴電琴平駅(12:30着)についた私たちは、まず、「讃岐うどん手打ち体験学校」(→ページ1)に向かい、そのうどんづくりの途中の「生地熟成時間」を利用して、金比羅山に登りました。


 今回の旅行の第一目標は、なんといっても、金比羅神社の参拝です。
  ※金比羅神社(金刀比羅宮)の公式サイトはこちらです。→http://www.konpira.or.jp/
 
 まずは、金比羅神社の基礎的な学習です。上記HPの「由緒」によれば、その起源は次のようになっています。
「金刀比羅宮には主たる祭神の
大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。
 古伝によれば、
大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。その行宮跡に大神を奉斎したと伝えられています。
 
崇徳天皇は御名を顕仁と申し上げ、第75の代天皇でしたが、永治元年(1141)には故あって譲位され、保元(ほうげん)の乱に際し、讃岐国松山に遷られました。 その後9年間の寂しい生涯に、当宮を深く崇敬され、長寛元年(1163)には親しくこの山に参籠なされたといわれています。
今もその旧蹟である「御所の尾」と称される地が残っています。 長寛2年(1164)、崩御なされるや、翌永万元年(1165)7月、当宮との深い由縁をもって相殿に合わせ祀られました。」

 つまり、一応、神社の「正史」では、主祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)であり、後には崇徳天皇をも祀ったとされています。崇徳天皇というのは、高校の日本史の教科書にも登場する、保元の乱で敗れた上皇です。乱後、讃岐に配流され、その地でなくなりました。落語でも有名な、「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢わむとぞ思ふ」の和歌を詠んだ方です。

 しかし、金比羅神社には、このような正史とは別に、日本古代の宗教史の中での、遠くインドに起源を発する「金比羅信仰」が存在しています。
 
 別の文献には次のように書かれています。
「『こんぴら』とは、仏教の12神将の一つである
宮昆羅(くびら)の転化したもので、金比良・琴平・金刀比羅などと書く。」
  ※参考文献3 大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節編『日本の神仏の辞典』P538「こんぴら【金比羅】」の項

 それではここでクイズです。
 上記の引用の「仏教の12神将」とは、もともとインドの神々であったものが、仏教世界に取り入れられて、仏を守護する神となった12神を意味します。それでは、問題です。
 もともと、宮昆羅(くびら)とは、インドにいるある
動物の化身の神のことなのですが、その動物とは一体なんでしょうか。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 先に引用した参考文献3、『日本の神仏の辞典』の続きを引用します。

「宮昆羅は、サンスクリット語のクンピーラにつながるが、これはインドのガンジス川に生息するワニを神格化した河の神であり、仏教の日本渡来とともに海の神、航海の神として祀られるようになったと考えられる。この神を祭神とする金比羅神社は全国に700社あまりあるが、その本社が讃岐国(香川県)仲田郡琴平町の
象頭山に鎮座する金比羅権現(金刀比羅宮)である。象頭山はもともと霊山であり、山麓の村落の氏神であったとともに、海上交通の守護神として崇められてきた。近世以降これが金比羅信仰として全国的にひろまり、各地に代参講ができて多くの参詣者が訪れることになる。同時に、海上安全・大漁祈願のみならず、厄除けを含めた流行神としての性格を帯びて今日に至っている。」

 ガンジス川の河の神様が転じて海の神様となり、次第に守備範囲を広げていったと言うことですね。
 以下の説明は、主に次の二つの参考文献をもとに記述しました。
  ※参考文献4 大崎定一著『こんぴら物語 4版』(金刀比羅宮社務所 1965年)
  ※参考文献5 近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)


 ※日本全国の神社については、クイズをご覧ください。
  →クイズ日本の文化:「現在の日本の神社を信仰(祭神)によって分類すると、一番多いのはどの神様か。」


 写真02-08  琴電琴平駅前から眺めた象頭山             (撮影日 11/02/27)

 正面の山が象頭山です。この山は、北の高い峰は標高521mです。山の一部で南の低い峰は琴平山とも表現されます。
 古くから霊山とされ、裏山は禁則林(入山禁止の森林)となっています。山全体が信仰の対象となっていることについては、大和の三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)と同じような信仰と言えます。

 金比羅神社の本宮は、この写真では左手の山の中腹、方角で言うと南東側にあります。
 象頭山については、江戸時代のかの有名な外国人シーボルトも、江戸参府の途中に船上から見て、その印象を書き残しています。
「琴平山は孤立した円錐形の山で、讃岐の鵜足郡の内陸数里のところにある。山は遠く海上から見え、近づくと樹木が、こんもり茂っているのがわかる。なぜなら常緑の森が、山頂までおおっているからである。神殿・境内の森および庭園、およそこの山の全域が魅するような美しさだという。」
 ※参考文献5 近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)P9-10から引用
 
 ついでながら、正面のホテルが私たちが宿泊した
琴参閣です。
 なかなか豪華な温泉ホテルです。私たちが一連の旅行で宿泊したホテルの中では、宿泊費一人13,800円と内容を比較すると、最もお値打ちなホテルでした。ただし、「窓からの眺望は犠牲」という部屋を選択しましたので、窓からは同じホテルの外壁しか見えないと言う部屋になりました。
 この写真は、
琴電琴平駅前からの撮影ですが、手前の金倉川にかかる橋は、現在架け替え中のため、仮橋です。


 写真02-09  金比羅神社から見た琴平の町               (撮影日 11/02/26)

 上のとは反対の目線からの写真です。ホテル琴参閣は、手前右の建物です。
 手前のホテルの後側が
琴平電鉄の琴平駅、中央の白いホテルの両側に電車が見えています。
 また、右上の赤茶色の屋根の建物が
JR土讃線琴平駅です。JRは写真を真横に横切って、写真左手、方角で言うと北側の多度津方面に向かいます。JR琴平駅からまっすぐ参詣道路がホテルの方角に向かい、その途中に琴平電鉄琴平駅があります。道は駅のすぐ西で金倉川を渡ります。
 
琴平電鉄は同じく北に向かった後すぐに方角を変えて、JR土讃線のガードをくぐって大きくカーブし、画面中央上、方角で言うと東に向かいます。


 写真02-10 参詣道  (撮影日 11/02/26)

 写真02-11  最初の階段 (撮影日 11/02/26)

 左:いかにも神社の参道といった感じの風情のある表参道です。金比羅神社への参詣者が増えたのは、江戸時代になってからです。お伊勢参りと同じように、庶民の信仰の対象となりました。『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九も、『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いています。
 右:この階段が、本宮までの785の階段の最初です。


 写真02-12 シンボル色は黄色(撮影日 11/02/26)

 写真02-13  本宮到達 (撮影日 11/02/26)

 785段を上り終えて、やっと本宮に到着です。ただし、785段の階段があると言っても、階段がずっと続くわけではありません。坂道も平坦な道も所々にあります。よほどの高齢者の方には大変ですが、年配の方でも、下から1時間ちょっとあれば、十分往復できます。 


 写真02-14 本宮横の高台(展望台)からの眺めです              (撮影日 11/02/26)

 785段を上りきった本宮の標高は、海抜251mです。この金毘羅山の海抜が521mですから、ほぼ中間の高さです。
 正面左手の美しい景観の山が飯野山、別名讃岐富士です。左手奥に、瀬戸大橋の白い橋脚が見えます。橋の左手(西側)が丸亀、右手(東側)が坂出です。その向こうは瀬戸内海です。


 3人の子どもたちと、新しく家族となったばかりの長男の嫁に、それぞれお守りを買いました。
 きっといいことがあるぞ。
 なんてたって、もとは由緒ある
ガンジス川のワニの神様なんだから。(^_^) 

このページの参考文献一覧へ

 【香川讃岐・備前岡山旅行記2 琴平電鉄・金刀比羅宮 参考文献一覧】
  このページ2の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

後藤洋志著『琴電-古典電車の楽園-』(JTB 2003年) 

大島一朗著『ことでん長尾線のレトロ電車』(JTB 2007年)

大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節編『日本の神仏の辞典』(大修館書店 2001年)

大崎定一著『こんぴら物語 4版』(金刀比羅宮社務所 1965年)

近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)


 この日は、ホテル琴参閣で本日5食目の讃岐うどんを食べ、温泉に何度も入って、疲れを取りました。
 明日は、朝早く琴平を出て、瀬戸大橋を渡って、向かうは岡山です。次ページで続きます。


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