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 瀬戸大橋  | 先頭へ ||地図01 行程と訪問地一覧へ 

 前日に讃岐うどんを満喫した、言い換えれば、飽きるほど食べた私たちは、次の日は、朝食のバイキングもそこそこに、朝早くホテルを出ました。
 目的地は、瀬戸大橋を渡った向こう、
岡山です。
 
 その途中、
瀬戸大橋を渡りました。うまい具合に先頭車両から写真が撮影できましたので掲載します。


 写真03-01  JR琴平駅  (撮影日 11/02/27)

 写真03-02   特急南風22号(撮影日 11/02/27)

 琴平駅7:33発、特急南風2号に乗って、岡山に向かいます。
 
南風2号は、早朝6:00に高知を出発し、岡山着は8:38です。早朝に高知を出る一番速い特急です。
 昨日の朝、岡山駅で見た松山行きの特急
しおかぜ3号は、「坂の上の雲」バージョンの列車でしたが、この南風2号は、「アンパンマン列車」です。JR四国はいろいろ工夫しています。

アンパンマン列車の案内はこちらのHPです。→http://www.jr-eki.com/aptrain/index.html 
アンパンマンの作者、やなせたかし氏は東京生まれですが実家が高知県ということもあり、JR四国が
アンパンマン列車を走らせています。


 写真03-03  しおかぜ1号(撮影日 11/02/27)

 写真03-04  いしづち5号 (撮影日 11/02/27)

 アンパンマン列車、南風2号は、先頭車両が自由席車両で、うまい具合に最前列の席があいていました。本当は指定席券を持っていたのですが、あえて、先頭車両に座りました。おかげで、運転席の窓越しに面白い写真がたくさん撮影できました。
 これは、予讃線と瀬戸大橋線(正確な名前は、
JR四国本四備讃線)が合流・分岐する宇多津駅の様子です。
 左の写真で、駅に最初から停車しているのは、7:23に岡山を出発した松山行きの特急
しおかぜ1号です。
 これに、右の写真の列車、7:23に高松を出発した特急
いしづち5号松山行きが後からやってきて連結し、一緒になって、松山に向かいます。松山到着は10:06です。


 単なる鉄道写真だけではマニアの方にかないません。これでは、インパクトがありませんので、社会科の教師らしい着想で、ひとつ話題を挿入します。
 下の左のグーグルの写真・地図と、右の1974(昭和49)年の写真を見比べてください。上の写真03-03・04の駅、宇多津駅周辺の38年前と現在との比較です。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、宇多津地域の現在の地図です。

 上の地図の基になっている写真は、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」の「カラー空中写真閲覧」の航空写真です。1974(昭和49)年のものです。サイトはこちらです。
 → http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.htm
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 ここで本編とはあまり関係ありませんが一つクイズをします。
 宇多津地域の左の現在の様子と、1974年の瀬戸大橋着工前の様子とでは景観上、随分大きな違いがあります。
 現在市街地となっている
新宇多津駅周辺は、右の地図の昔の写真では、何か縞模様(長方形の格子状)の土地利用がなされています。これは一体なんでしょうか? 


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 懐かしいクイズをしてしまいました。
 私が習った時の中学校の教科書には、次のように書かれていました。

「瀬戸内の製塩 わが国では、工業用の塩は輸入されるが、食用の塩は、大部分が瀬戸内の塩田で生産される。坂出(香川県)や赤穂(兵庫県)などでは特に産額が多い。瀬戸内が雨が少なく、海岸が遠浅で、潮の干満が適度なため、入り浜式塩田による製塩が行われてきた。しかしいまでは、能率の高い流下式になっており、働く人の数は減ったが、生産高はふえている。」 

参考文献1 安倍能成監修『中学社会1 地理的分野』P54-55

 また、宇多津駅については、次のように説明されています。

「宇多津駅 本四備讃線が予讃本線と接続する香川県綾歌郡宇多津町の宇多津駅は、本四備讃線の新設に合わせて、4,5km区間が海岸よりに付け替えられ、電化・高架化工事が行われた。
 同駅付近
186haも塩田跡地を地域振興整備公団が整備し、ニューシティー・新宇多津を建設した。」 

参考文献2 山陽新聞社編『瀬戸大橋全記録』P59

 塩田跡は、すっかり新しい街並みに代わっています。 
 さて、列車はいよいよ瀬戸大橋を渡ります。


 写真03-05・06  香川県から渡ると最初の橋は、南備讃瀬戸大橋です。  (撮影日 11/02/27)

 国道と鉄道の二層構造になっている部分へ、鉄道が合流する形です。 


 写真03-07・08 南備讃瀬戸尾大橋を通過中です (撮影日 11/02/27)

 右の番号が付けてある柱が中央の柱です。本来の計画では、下の説明図02のように、新幹線上下線、在来線上下線の合計4本の線路を敷くことができるように設計されています。
 しかし、実際には、中央部分に、在来線線路が往復2本敷かれているだけです。
 


 写真03-09 岩黒島橋の橋脚             (撮影日 11/02/27)

 手前に与島橋があり、右にカーブして、その向こうに、岩黒島橋が架かっています。10の橋からなる瀬戸大橋の中間地点です。


 写真03-10    下津井瀬戸大橋に入る曲線部分です           (撮影日 11/02/27)

 櫃石島(ひついしじま)高架橋から下津井瀬戸大橋に入る曲線部分です。対向列車でもあると最高ですが、そううまくはいきません。


 写真03-11     下津井瀬戸大橋中央部分             (撮影日 11/02/27)

 鋼鉄の吊り橋ですが、ちゃんと橋の真ん中部分が高くなっているのがわかります。ダイナミックな写真です。


 本当はこの橋の線路には、ほかの橋にはない秘密があります。
 下の図にあるように、かなりの重量がある列車が橋を通過すると、いくら鋼鉄製の吊り橋でも、たわみが生じます。そのたわみの分、線路を伸び縮みさせる必要があります。その装置が、
スライドレールです。



 そんな優れものの構造物があることなど、列車に乗っている私たちは全く知ることもなく、無事、瀬戸大橋を渡り終えました。


 備前焼製作体験  | 先頭へ ||地図01 行程と訪問地一覧へ 

 岡山駅について真っ先に向かったのは、備前焼の体験ができる陶芸教室です。岡山観光のメインは、この体験です。
 備前焼ですから、本来なら岡山市内ではなく、本場の
備前市(伊部)でやってもいいのですが、琴平から来ることや、帰りの新幹線の便を考えて、岡山市内のお店で体験をすることにしました。
 岡山駅前から、岡山電気軌道の路面電車の東山線に乗って、3つめの駅の城下で降り、鶴見橋方面へむかって7分ほど歩くと、「おかやま備前焼工房」につきました。ここで2時間の体験です。


 写真03-12 工房  (撮影日 11/02/27)

 写真03-13  体験場  (撮影日 11/02/27)

 「おかやま備前焼工房」は、城下町の古い商家を改良した趣のある建物です。
 体験場所は、生徒が4人ほど実習できるほどよい広さです。あまり大きなところで、一斉授業では、体験らしくありません。昨日(1ページ)の讃岐うどん打ち教室もこの備前焼教室も、私たちのほかは誰も受講者はおらず、おかげでいろいろ質問もでき、たっぷり教えていただくことができました。ラッキーでした。
 


 写真03-14  ろくろと模様を付ける印              (撮影日 11/02/27)

 ろくろは手回しです。初心者の体験ですからいきなり本格的にろくろを使うの方法ではありません。印は、いろいろな模様が付けられますが、初心者には、どれをどう使うと効果的なのか、なかなか判断に難しいものがあります。


 写真03-15   へらやその他の道具              (撮影日 11/02/27)

 へらも模様を付けたり削ったりする必須の道具で、これまた何種類もあります。使いこなすには何回も来る必要がありそうです。


 写真03-16   私たちの作品              (撮影日 11/02/27)

 1時間半あまりかかって作った私たちの作品です。一応、小皿と湯飲みのつもりです。
 小皿の形などは、初心者ですから独創性は全くなく、ほとんど先生に教えられたままです。模様については、ほんの少し好みが出ています。
 湯飲みはうすく仕上げるのがなかなか大変です。
 まあ、相対的に、ほとんど小学生の粘土細工の世界を超えてはいません。(-_-;)


 実は、私のふるさと岐阜県でも、特に東濃地方の多治見・土岐・瑞浪は、窯業が盛んであり、「美濃焼」として全国的にも有名です。そこで体験することもできるわけですが、あえてここまで来て備前焼の体験をしたのは、この焼き物に特別な興味があったからです。以下が、私の主観も含めた「備前焼の魅力」です。

古墳時代の須恵器以来の伝統を持つ日本の「六古窯」の一つであり、伝統的な焼き物の産地です。

六古窯のほかの地域がいずれも釉薬(うわぐすり)を使うのに対して、備前は釉薬を使いません。しかし、それでいて、素朴な模様・色合いが出ます。

磁器ではなく陶器であるにもかかわらず、非常に堅く、たたくといい音色が出ます。

 まず、窯業に関するごく基本的な一般教養クイズです。
 上記の、古墳時代の須恵器以来の伝統を持つ日本の「六古窯」とは、備前焼以外にどこのことでしょうか。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 このクイズのタイトルを「社会科クイズ」ではなく、「一般教養クイズ」とした理由は、この六古窯と言う概念は、中学校はもちろん高等学校の日本史でも学習しないからです。
 古墳時代の須恵器は学習しますし、鎌倉時代に「尾張の瀬戸焼をはじめ、各地で陶器の生産が発展をとげた。」とはありますが、「六古窯」と言う説明はありません。
 僅かに、室町時代の記述に、草戸千軒町の遺跡から、「備前・常滑・瀬戸などの国産陶器」が出土したこと、江戸時代の各地の特産物として、陶磁器「有田焼(伊万里焼)・京焼(清水焼)・九谷焼・瀬戸焼・備前焼」とあるのみです。

参考文献4 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史B』P111・128・185

 
 このことも含めて、工房の先生には、いろいろなことを教えてもらいました。

「備前焼はうわぐすりを使わないですし、しかも、粘土の成分からいっても磁器ではない陶器ですが、どうしてこんなに堅くて、しかもたたくと金属質の音色がするのですか?

「それは、粘土の質がどこよりもきめ細かく、長時間の焼成を行うからです。また、粘土に鉄分が多く含まれていることも影響しています。ただし、鉄分を含んでいるため、またうわぐすりがうまく発色せず、そのことがうわぐすりを使わない伝統を作ったとも言えます。」

「うわぐすりはなくても、文様が出るのですね。」

「はい、備前焼にはいろいろな文様が出ますが、今日作っていただいたものは、緋襷(ひだすき)の文様が入る予定です。」

「粘土は、伊部(備前市)の周辺の山から取ってくるのですか?」

「はいそうです。えー、正確に言えば、水田の下から取ってきます。」

「えー、水田の下!!」 

 戻ってから図書館から本を借りていろいろ調べてみました。
 次はその引用です。
 まずは、文様についてです。

「 日本の焼き物の歴史は世界で最も長く、縄文時代に始まり今日まで1万年以上の歴史がある。日本を代表する伝統的な焼き物の中に備前焼がある。備前焼は古墳時代の須恵器が発展したもので、六古窯(信楽、常滑、瀬戸、越前、丹波、備前)の一つとして知られ、1000年以上の歴史を有する伝統的な焼き物である。備前焼は、無釉焼き締め陶と言われ、釉薬を施さずに一回の焼成で完成される。しかし、焼成後の作品の表面には、様々な色の模様が現れるため「土と炎の芸術」とも称され、そのシンプルな美しさから「佗び寂び」の焼き物として珍重されてきた。
 代表的な備前焼模様には、燃料として使用される赤松の灰と鉄分の多い備前焼粘土との反応により現れる黄色模様の「胡麻」、還元焼成により現れるグレーや青色の「横切り」、灰や炭に埋もれて形成する黒、グレー、オレンジ色が織りなすグラデーションの「窯変」,稲藁との反応により現れる特徴的な赤色模様の「緋襷(火襷)」、強還元の焼成により現れる「青備前」などがある。.図1(略)に、特徴的な赤色の「緋襷」模様を示す。この模様の名前は、緋色の襷模様に由来するが、炎のような模様であることから「火襷」とも表記される。備前焼は、抽薬を施さずに焼かれるため、作品を詰めて重ねて焼かれるが、その際に作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため稲藁が使用される。これらを1200℃付近で焼成すると、稲藁と接触していた部分に特徴ある赤色模様が現れる。しかし,その微細構造および発色メカニズムについては現在まで明らかにされていなかった。われわれは最近、「緋襷」模様部の詳細な微細構造観察を行った結果、非常にユニークな酸化鉄(a-Fe
23,ヘマタイト)の結晶成長が起こっていることを見出した。」

参考文献5 草野圭弘・高田潤著「備前焼「緋襷」模様の赤色」『科学 2006年6月号』(岩波書店)所収

 備前焼の文様の詳しい科学的な分析は、まだこれからのようです。
 
 次は、粘土についてです。

「 備前では室町時代までは山土を用いていたが、桃山の大窯時代から本格的に田土を用いはじめた。田園で自然に水簸された田土は、山土より可塑性に富んでおり、経験を積んだ陶工たちは、この良土をいつしか掘り当てた。備前では田土のことを「干寄せ」(ひよせ)とよんでいるが、備前の田園の底にわずかしかない「米より大事」(陶陽の格言)な貴重な土だ。
 田土のある田園は農家のもの。農家と契約して掘らしてもらうか、田園ごと買いとり、農家に無償で貸している一部の陶芸家もあるが、粘土屋さんが管理している場合が多い。
 農閑期、水が枯れたところで田園の上土を退かし、3~4m掘りこむと黒く細かい粘土層が現れてくる。これがヒヨセで、この層は少ないところは20cm、多いところで1mほどの厚さがあり、これを煉瓦のように四角く切りだす。稲刈りの終わった晩秋には田園にユンボが止まっているのに出会う。現在では、このユンボで一気にとってしまうが、不必要な土までとってしまうので、土にこだわる一部の作家は昔の手掘りを奨励している。
 土は、伊部の観音土や下り松土、香登土、磯上土などのヒヨセがよく使われるが、金重遣明、藤原雄、山本雄一、中村六郎などは田井山の観音土を最上の土とし、大事に使っている。
 こうして採掘した土はいったん乾かし、数年間、寝かせる。
 「土を寝かせる」とは放置することではなく、荒い石や不純物をとり除いた土に水を含ませて成型しやすい堅さにした粘土を布に包み、その上にビニールなどを被せて風を遮断し、バクテリアなどの微生物がわくような状態になるまで静かに保存することをいう。」

参考文献6 黒田草臣著『やきもの魅せられて とことん備前』(光芸出版 1996年)P160-161

 初心者には難しいことはわかりませんが、水田の下から土を取るとは意外です。

「それでは、作られたお二人の作品は、こちらでお預かりし、焼成の上、宅急便でお送りします。二ヶ月ほどお待ち下さい。」

「はい、よろしくお願いします。」


 一月半程たった4月の中ごろに、作品が届きました。


 写真03-17 届いた荷物  (撮影日 11/04/15)

 写真03-18 割れてませんように(撮影日 11/04/15)

 写真03-19・20  私たちの備前焼              (撮影日 11/04/15)

 左が妻の作品、右が私の作品です。
 まあ、水漏れはしませんし、いちおう、自分の家なら使えることは使えます。(-_-;)
 威張って人に見せるようになるには、毎月のように岡山に通う必要があるようです。


 岡山城と市電  | 先頭へ ||地図01 行程と訪問地一覧へ 

 備前焼体験をすませた後は、ゆっくりと岡山市内見物です。
 といっても、漠然とではなく、ちゃんとねらいはあります。いつものテーマ、路面電車とお城です。 


 写真03-01  桃太郎像 (撮影日 11/02/27)

 写真03-01  駅前電停 (撮影日 11/02/27)

 岡山駅の駅前には、桃太郎とサルと犬とキジの銅像がありました。鳩は本物です。 


 写真03-01   岡山市内の路面電車             (撮影日 11/02/27)

 岡山駅前電停についた岡山電気軌道の路面電車です。行き先表示は、これから向かう清輝橋となっています。


 写真03-01   岡山城  (撮影日 11/02/27)

 写真03-01 岡山城礎石 (撮影日 11/02/27)

 岡山城は、戦国時代に備前西部から備中・美作に勢力を広げた宇喜多氏の居城でした。現在の地に天守を築いたのは豊臣秀吉の五大老の一人となった宇喜多秀家です。1597年の築造とされています。
 但し、天守閣は、1945(昭和20)年6月の米軍の空襲で焼失し、同じ場所に戦後コンクリートで建造されたのか、現在の天守閣です。
 右の写真の礎石は、410年余前の建造当時のもので、戦災で焼けた後、配置はそのままで元の場所から移築されました。
 


 これだけ立派なお城と、そして路面電車が走っています。
 きっとうまい具合の「路面電車とお城」の写真が撮れるに違いありません。その挑戦は、ページを変えて、→目から鱗:「各地の鉄道あれこれ18 各地の路面電車その7」で報告します。 


 【香川讃岐・備前岡山旅行記3 瀬戸尾大橋・備前焼 参考文献一覧】
  このページ3の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

安倍能成監修『中学社会1 地理的分野』(日本書籍出版 1967年)

山陽新聞社編『瀬戸大橋全記録』(山陽新聞出版局 1988年)

山陽新聞社編集局編『イラストで見る「瀬戸大橋」』(山陽新聞社 1983年)

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史B』(山川出版2005年)

草野圭弘・高田潤著「備前焼「緋襷」模様の赤色」『科学 2006年6月号』(岩波書店)所収
  黒田草臣著『やきもの魅せられて とことん備前』(光芸出版 1996年)


 これで、讃岐香川・備前岡山旅行記の本編を終わります。最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。


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