二つの世界大戦その9 |
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<解説編> |
このクイズは「授業で教える」というレベルからは全く逸脱した難問です。敢えてこのクイズを設定した目的は、2010年に私が参加したマンチェスター・ロンドン研修の時に、イギリス空軍博物館で撮影した航空機の写真を掲載することと、2013年に読んだ参考文献の紹介を目的としています。
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1 このクイズの元となった参考文献の紹介 |
正解の前にこのクイズを発想する元となった参考文献を紹介します。 |
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写真10-09-01 ドイツ空軍Me262ジェット戦闘機 (撮影日 10/11/16) |
イギリス・ロンドンの空軍博物館に展示されているメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機です。この博物館の様子は、以下をご覧ください。 |
2 念のため教科書の位置づけ |
念のために世界史の教科書の第二次世界大戦のドイツの戦況、敗戦に関する部分がどのように書かれているかチェックします。第二次世界大戦の記述は8ページにおよびますが、ドイツに関しては次のような表記があります。
第二次世界大戦では、これまでの戦いと違って、航空機による空の支配、つまり制空権のあるなしが戦いの趨勢を決めたことは、常識となっています。上に引用した教科書では、それとわかる表現は、1のドイツ軍の上陸阻止と、6の連合軍の空襲の二つしかありません。
そういう意味で、このクイズは、ドイツ崩壊の本質にせまるものではありません。当然ながら、Me262ジェット戦闘機などは、教科書に登場するヒマはありません。 |
3 正解です |
お待たせしました。それでは正解です。次の黒板のヒントを通して、お考えください。 |
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※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
ドイツの航空工業技術は当時の日本などに比べれば数段先んじており、ハインケル社が最初のジェット機の飛行に成功したのは1939年8月のことであり、翌1940年8月には、より実用的なジェット戦闘機ハインケルHe280が開発されました。
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写真10-08-02・03・04 開戦時からのドイツ空軍の主力戦闘機、Bf109 (撮影日 10/11/16) |
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大戦前から大戦中のドイツ空軍主力戦闘機、メッサーシュミットBf109。計量な機体と量産しやすい構造であったため、ドイツ空軍の急速な発展を支えました。しかし、航続距離が短いという決定的な弱点であり、運用方法に限界があった。(落下増槽なしで日本のゼロ戦の1880kmは特別としても、P51ムスタングの1530kmと比べても、Bf109は670km) |
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写真10-08-05 英空軍デ・ハヴィランド・モスキート戦闘機 空軍博物館の模型 (撮影日 10/11/16) |
1940年に初飛行したイギリス空軍の戦闘爆撃機。金属資源の節約のため、木製の部分を多く採用した異色機。最高時速650kmの高速を生かし、偵察、爆撃隊の先導機、夜間戦闘機などとして活躍しました。 |
写真10-08-06・07・08 以下の3枚の写真はいずれも、デ・ハヴィランド・モスキート(撮影日 10/11/16) |
空軍博物館には展示機がそれこそ「無数」にあり、うろうろしていると目移りして、いい写真の撮影ができずに通り過ぎてしまいます。モスキートの写真はその例です。どうみても、まともな写真は一枚もありません。三枚集めて、ようやく全体像がわかります。 |
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写真10-08-09 ノースアメリカンP51ムスタング (撮影日 10/11/16) |
レシプロ機の最高傑作機。最高時速703kmという驚異的な性能を誇った。 |
ガランド戦闘機総監がはじめてジェット機Me262を操縦したのは、1943年5月22日のことでした。試験飛行が十分になされ、高官であるガランドにそのできばえを確認してもらうという段取りでの飛行でした。 |
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写真10-08-10 Me262の正面のからの写真 (撮影日 10/11/16) |
この機体がすぐれていて点は、その特色が大戦後のジェット戦闘機に受け継がれていったことからも確認できます。 |
遅ればせながら、1944年10月から、Me262戦闘機を配備した戦闘機体が実戦に投入され、本土防衛に活躍し始めます。 |
4 参考文献から確認できたそのほかの興味深い事実 |
ヒトラーの「爆撃」偏重の考え方は、何もこの時に始まったわけではありません。 |
1 |
ヒトラーは基本的に攻撃一辺倒、反対に防御軽視の発想で凝り固まっており、ドイツ空軍全体として爆撃機重視の生産体制が取られた。爆撃隊による打撃、とりわけ急降下爆撃の華々しい成果を盲信していた。(P149-P153) |
1939年(第二次世界大戦開始の年)に生産されたドイツ空軍の航空機1491機のうち戦闘機は449機と、全体の3分の1以下にすぎませんでした。 |
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写真10-08-11・12 ドイツ軍ユンカースJu87スツーカー急降下爆撃機 (撮影日 10/11/16) |
敵戦闘機が防御網を敷いていなかった大戦初戦のポーランド戦線では、陸軍の支援戦闘機として大活躍をし、ヒトラーに急降下爆撃機の効果を盲信させる結果となった。爆撃機が自由に爆撃できる状態であれば、 水平爆撃によって高々度から大量の爆弾を落とすよりも、急降下爆撃でピンポイントの目標をねらう方が、効率的だったからです。 |
2 |
1942年から始まった英・米連合軍のドイツ本土爆撃は、1943年から本格化します。その代表例が7月24日夜からはじまったハンブルク爆撃です。6回にわたって合計3100機余の爆撃機による繰り返しの爆撃により、9000トン弱の爆弾が投下されました。ハンブルク市内には火災嵐が発生し、市内の全戸数の半分にあたる25万戸が破壊され、犠牲者は4万人、被災者は100万人にも上りました。
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この爆撃においては、連合軍は次のような新しい戦術を採用しました。
このハンブルク大規模爆撃は、ドイツ軍全体にとって、大きな危機感を感じさせる爆撃でした。 |
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※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
この黒板クイズが正解となった方は、このページのドイツ空軍に関して、「免許皆伝」です。あの世のアドルフ・ガランドから、「よく自分たちの苦悩がわかってくれた」といってもらえると思います。(^.^) |
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写真10-08-13・14 これもドイツ軍の報復兵器 (撮影日 10/11/16) |
左:現在で言う巡航ミサイルV1号 右:ロケット推進弾道ミサイルV2号 |
【参考文献】 このページの記述には、次の文献・資料を参考にしました。
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