二つの世界大戦その9
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<解説編>
 

1009 ドイツジェット戦闘機、Me262の配備が遅れた意外な理由は?  13/12/15記述  |世界史問題編へ

 このクイズは「授業で教える」というレベルからは全く逸脱した難問です。敢えてこのクイズを設定した目的は、2010年に私が参加したマンチェスター・ロンドン研修の時に、イギリス空軍博物館で撮影した航空機の写真を掲載することと、2013年に読んだ参考文献の紹介を目的としています。
 「
マンチェスター・ロンドン研修」については、次のページをご覧ください。
  →
海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記13 バトル・オブ・ブリテン」
  →海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記14 ドイツ本土爆撃」
 
 次の順に説明します。
   1 このクイズの元となった参考文献の紹介  
   2 念のために教科書の位置づけ   
   3 正解   
   4 参考文献から確認できたそのほかの興味深い事実   

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 1 このクイズの元となった参考文献の紹介

 正解の前にこのクイズを発想する元となった参考文献を紹介します。
 本の名前は、
アドルフ・ガランド著並木均訳『始まりと終わり ドイツ空軍の栄光ーアドルフ・ガランド自伝』(学研パブリッシング 2013年)です。
 
アドルフ・ガランドは、第二次世界大戦史に明るい人なら知る人ぞ知る人物です。ドイツ空軍の撃墜王であり同時に空軍戦闘機総監などの要職をつとめ、最後は空軍中将として敗戦を迎えたドイツ空軍の異色の人物です。
 この本が、最初にドイツ語で発刊されたのは1954年で、それ以降世界14カ国で翻訳出版されました。日本でも、1972(昭和47)年にフジ出版から最初の邦訳版が出されています。しかし、同社版は、原本ではなく英語版からの翻訳であったため、第一章全体をはじめ省略されてしまった部分が多く不完全な内容でした。
 この2013年の学研パブリッシング版は、ドイツ語の原本から忠実に訳され、漏れのない完訳本となっています。同時に、著者の名前のカタカナ表記も、本人に確認した発音に忠実に、「
ガランド」と記されています。

 
ガランドは、訳者並木均氏によれば、
ガランドはドイツ空軍の中にあっても希有な存在である。それは、単にエース戦闘機パイロットとして大戦を生き延びたからという理由のみによるものではない。ガランドは戦闘機の格闘戦からドイツ空軍の戦術、戦略までの全て、つまり「空をめぐる戦いの」のミクロからマクロまで当事者として全て一人称で語ることができる人物であり、それができるのはガランドをおいてほかにいないからだ。」(同書 あとがき P702から)
という人物です。

 空軍のたたき上げの軍人として、空軍元帥の
ゲーリングに対してはもとより、時にはヒトラーに対しても、批判的な姿勢をもっていたという点で、その自伝はかなり骨太で読み応えのある作品となっています。


 写真10-09-01 ドイツ空軍Me262ジェット戦闘機     (撮影日 10/11/16)

 イギリス・ロンドンの空軍博物館に展示されているメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機です。この博物館の様子は、以下をご覧ください。
  ※詳しくは→海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記13 バトル・オブ・ブリテン」をご覧ください。
 
 手前には、ジェットエンジンが中味が見えるようにして展示してあります。ユンカース社製のエンジンです。
 この機体の上の天井部分にぶら下がっているのは、ドイツのジェット・ミサイルV1号です。

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 2 念のため教科書の位置づけ

 念のために世界史の教科書の第二次世界大戦のドイツの戦況、敗戦に関する部分がどのように書かれているかチェックします。第二次世界大戦の記述は8ページにおよびますが、ドイツに関しては次のような表記があります。

 

木村靖二・佐藤次高・岸本美緒他著『詳説世界史』(山川出版 2013年)新学習指導要領対応の山川世界史です。

 

「イギリスでは1940年5月、チェンバレンにかわってチャーチルが首相になり、激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した。41年2月、ドイツはイタリアを支援して北アフリカに軍を派遣し、、4月にはバルカン半島に侵攻し、ユーゴスラヴィアとギリシアを占領した。」P365

 

「1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を無視して、イタリア・ルーマニア・フィンランドとともにソ連を奇襲し、独ソ戦が始まった。ドイツ軍は年末にはモスクワにせまったが、ソ連軍は大きな損害を出しながらも押し返した。」同前 

 

短期戦に失敗したドイツは、戦争経済を支えるため東・西ヨーロッパの占領地から工業資源や食料を奪い、数百万の外国人をドイツに連行して強制労働につかせた。」P366

 

「1942年後半から、連合国軍は総反撃に移り、43年初めソ連軍はスターリングラード(現ヴォルゴグラード)でドイツ軍を降伏させた。北アフリカに上陸した連合国軍がイタリア本土にせまると、(中略)イタリア新政府(バドリオ政府)は無条件降伏を申し出た。」P368

 

「44年6月、アイゼンハワー指揮下の連合軍はノルマンディーに上陸した。」同前

 

連合軍の空襲で多くの都市や工業施設、交通網を破壊されたドイツは、1945年には総崩れになった。4月末ヒトラーは自殺して、ベルリンは占領され、5月7日、ドイツは無条件降伏した。」P369

 第二次世界大戦では、これまでの戦いと違って、航空機による空の支配、つまり制空権のあるなしが戦いの趨勢を決めたことは、常識となっています。上に引用した教科書では、それとわかる表現は、1のドイツ軍の上陸阻止と、6の連合軍の空襲の二つしかありません。
 ちなみに、ドイツ空軍に関して大戦中のあらすじを説明しておくと、次のようになります。
 ドイツは、バトル・オブ・ブリテンで勝利できなかった(ガランドは、決して敗北ではなく、勝利できなかったと主張しています)あと、北アフリカのバルカンに戦線を広げ、さらには無謀なソ連との戦いで消耗し、ドイツ空軍も次第に連合国軍に対する優位を失いました。1943年から本格化した連合軍の本土空襲にも徹底的な防御を発揮できず、連合国軍爆撃機に大きな負担を強いることはできましたがそれと同時に自らも限界を超える犠牲の中で弱体化していきました。このため、1944年6月のノルマンディー上陸作戦の時には、すでに巨大となった連合国軍の空軍力に立ち向かう術はなくなっていました。連合軍の上陸に対しては、ドイツ空軍は有効な反撃は全くできず、ガランド自身も前掲書で、「(連合軍の上陸と言う時に)ルフトバッフェ(空軍)はどこにいる」と自嘲的な章を立てています。

 

ノルマンディー上陸の際の英米航空兵力は、およそ6000機から7000機。これに対して、西部方面でこれに対抗できたドイツ空軍機は、わずか481機に過ぎませんでした。(前掲書 P578)

 そういう意味で、このクイズは、ドイツ崩壊の本質にせまるものではありません。当然ながら、Me262ジェット戦闘機などは、教科書に登場するヒマはありません。
 しかし、問題自体と最終項の「4 参考文献から確認できたそのほかの興味深い事実」によって、ヒトラーとドイツ軍指導部の愚かな過ちについて、主題を支えるエピソードを構成できると考えています。

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 3 正解です

 お待たせしました。それでは正解です。次の黒板のヒントを通して、お考えください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 ドイツの航空工業技術は当時の日本などに比べれば数段先んじており、ハインケル社が最初のジェット機の飛行に成功したのは1939年8月のことであり、翌1940年8月には、より実用的なジェット戦闘機ハインケルHe280が開発されました。
 ハインケル社に遅れをとったメッサーシュミット社でしたが、1942年7月にユンカース社のジェットエンジンを装備したメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機の飛行に成功しました。しかし、遅れて登場したMe262の方が性能面でハインケルHe280を越えており、以後はMe262がドイツ空軍ジェット戦闘機の主力として開発されていきます。
 
 第二次世界大戦中のドイツ軍の主力戦闘機は、
メッサーシュミットBf109です。
 しかし、Bf109の最高時速は、大戦途中に改良されたG型で640kmであり、やや遅れて登場したドイツにしては珍しい空冷エンジンを積載した
フォッケウルフFw190の最高時速も各型で660kmから690kmでしたので、Me262ジェット戦闘機の最高時速870kmはとても魅力的なはずでした。
 もちろん、航続距離が短いため、長距離攻撃用には基本的に不向きでしたが、来襲する連合軍爆撃機・護衛戦闘機を迎撃するにはうってつけの存在でした。

 しかし、戦闘機としてのMe262の実戦参加、ジェット戦闘機の訓練と配備の実現は、そう簡単には進みませんでした。ヒトラー総統という大きな壁を乗り越えなければならなかったからです。
 そのひとつは、来襲する連合国軍爆撃機に対する空軍幹部とヒトラーとの危機感の相違でした。1943年段階で、イギリス軍とアメリカ軍の大型爆撃機によるドイツ本土空襲が本格化し始めますが、ヒトラーは、それに対する備えは、メッサーシュミットBf109フォッケウルフFw190で十分だと考えていました。その一方で、の大量生産は、「危険が大きすぎる」と拒否したのです。
 やがてヨーロッパ戦線に登場することが予想されていたアメリカ軍の高速戦闘機、
ノースアメリカンP51のことを考えると、ヒトラーの決断は保守的すぎたと言わなければなりません。
 もっとも、ヒトラーのドイツだけではなく、この問題はどの組織にもアナロジーできる課題です。現状を大きく改革するか否かという事態に直面した場合、最終的に決断するのはトップであり、それには危機的状況の予想と改革のリスクを比較し、どちらを適正に選択できるかということになります。「ヒトラーは愚かな独裁者だった」と簡単に片づけられない問題です。

 

航空機等のデータは次の文献を参照しました。
渡辺洋二著『ジェット戦闘機Me262―ドイツ空軍最後の輝き 』(光人社NF文庫 2012年)P73-84他

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 写真10-08-02・03・04 開戦時からのドイツ空軍の主力戦闘機、Bf109    (撮影日 10/11/16)

 大戦前から大戦中のドイツ空軍主力戦闘機、メッサーシュミットBf109。計量な機体と量産しやすい構造であったため、ドイツ空軍の急速な発展を支えました。しかし、航続距離が短いという決定的な弱点であり、運用方法に限界があった。(落下増槽なしで日本のゼロ戦の1880kmは特別としても、P51ムスタングの1530kmと比べても、Bf109は670km)
   ※詳しくは、海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記13 バトル・オブ・ブリテン」

 また、最高時速も次第に改良されて向上しましたが、1475馬力のエンジンを搭載した大戦中期の改良型G型で、 高度6400mで640km程度となっており、大戦後半期には、速力の面でもハンディは大きいものがありました。


 写真10-08-05 英空軍デ・ハヴィランド・モスキート戦闘機 空軍博物館の模型 (撮影日 10/11/16)

 1940年に初飛行したイギリス空軍の戦闘爆撃機。金属資源の節約のため、木製の部分を多く採用した異色機。最高時速650kmの高速を生かし、偵察、爆撃隊の先導機、夜間戦闘機などとして活躍しました。
 ガランドは次のように書いています。 (ガランド前掲書 P444)
「双発の
デ・ハヴィランド・モスキートはわれわれのどの戦闘機よりも速かった。日中は高高度で偵察を行ったが、「オーボエ」と呼ばれる正確な誘導法を使って爆撃も行った。夜間には単独あるいは小編隊で攪乱攻撃を行い、労少なくして大きな戦果を上げた。Me262ジェット戦闘機が投入されるまで、これに対してわれわれも無力も同然だった。」


 写真10-08-06・07・08  以下の3枚の写真はいずれも、デ・ハヴィランド・モスキート(撮影日 10/11/16)

 空軍博物館には展示機がそれこそ「無数」にあり、うろうろしていると目移りして、いい写真の撮影ができずに通り過ぎてしまいます。モスキートの写真はその例です。どうみても、まともな写真は一枚もありません。三枚集めて、ようやく全体像がわかります。 


 写真10-08-09  ノースアメリカンP51ムスタング           (撮影日 10/11/16)

 レシプロ機の最高傑作機。最高時速703kmという驚異的な性能を誇った。 


 ガランド戦闘機総監がはじめてジェット機Me262を操縦したのは、1943年5月22日のことでした。試験飛行が十分になされ、高官であるガランドにそのできばえを確認してもらうという段取りでの飛行でした。
 この時、Me262は、最高時速は水平飛行で時速850kmを記録し、飛行時間は50分から70分は可能というすぐれたものでであることが判明しました。
 
ガランドは、早速ミルヒ元帥(ドイツ空軍航空機総監)に打電しています。
「航空機Me262は誠に傑作機であります。敵がレシプロエンジンを使い続ける限り、本機は実戦において想像を絶するほどの優位を確実にもたらしてくれましょう。機体の飛行特性も非常によい印象でした。エンジンは離着陸時を除いて申し分ありません。本機こそ、全く新たな戦術的可能性を開花させるものであります」(前掲書P651)
 すばらしいものを獲得できたガランドの興奮が伝わってきます。

 しかし、このような高い評価を受けながらも、Me262の戦闘機としての大量生産、戦闘機部隊の創設という筋書き通りには決して進みませんでした。
 理由は明白でした。
 
ヒトラー総統が、このようなすばらしいジェット機は、高速爆撃機(彼の言い方では電撃爆撃機)に使用すべきだとの判断を下したからです。
 現実に1943年にから44年にかけて、
Me262の大半は高速爆撃機として生産されましたが、生産・訓練・実戦配備に時間がかかり、ノルマンディー上陸には部隊の展開が間に合わず、ようやく1944年8月に出撃したときには、すでにフランス西部における連合軍の優位は動かし難く、大きな戦果は得られませんでした。 

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 写真10-08-10  Me262の正面のからの写真            (撮影日 10/11/16)

 この機体がすぐれていて点は、その特色が大戦後のジェット戦闘機に受け継がれていったことからも確認できます。
 たとえば車輪のシステムです。この機体も、開発当初は、通常のレシプロ機と同じように、翼下輪と尾輪という形を採用していました。
 しかし、それでは尾翼・尾輪が浮いて機体が地面と平行となるまでの長い間、安定した水平状態が得られない、また前方が見えないという欠点につながってしまいました。このため、開発途中から前輪を採用し、機体の水平安定化を図ったところ、これが成功しました。 


 遅ればせながら、1944年10月から、Me262戦闘機を配備した戦闘機体が実戦に投入され、本土防衛に活躍し始めます。
 また、ガランド自身は、1945年1月になって、第44戦闘団の編成を命じられ、その部隊長となります。各地から戦闘機のエースが集められ、
Me262戦闘機による迎撃部隊が編成され、ガランド自らがその長となったのです。
 これはMe262の特性を生かすという点では画期的な部隊編成でしたが、多くの機数は得られず、しかもすでにドイツ全土は、連合軍の爆撃機とそれを護衛するP51ムスタング戦闘機が乱舞するという状況でした。
 敗戦前の数ヶ月、第44戦闘団のMe262は、ミュンヘンを中心に奮戦しますが、最後はザルツブルクの基地で、降伏の日を迎えました。

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 4 参考文献から確認できたそのほかの興味深い事実

 ヒトラーの「爆撃」偏重の考え方は、何もこの時に始まったわけではありません。
 そのことも含めて、このガランドの本に描かれた、ヒトラー総統の「誤った判断」のいくつかを紹介します。


 

 ヒトラーは基本的に攻撃一辺倒、反対に防御軽視の発想で凝り固まっており、ドイツ空軍全体として爆撃機重視の生産体制が取られた。爆撃隊による打撃、とりわけ急降下爆撃の華々しい成果を盲信していた。(P149-P153)

 

 1939年(第二次世界大戦開始の年)に生産されたドイツ空軍の航空機1491機のうち戦闘機は449機と、全体の3分の1以下にすぎませんでした。
 1940年には生産機数6618機、そのうち戦闘機1693機と前年よりさらにその数値は下がります。これが、1940年のバトル・オブ・ブリテンの時期のドイツ空軍の劣勢につながりました。
 つまり、戦闘機には、局地的な制空や陸軍を支援する対地攻撃は期待されても、本来戦略的に期待されるべき広域的な戦略的な制空権の確保は、想定されていませんでした。


 写真10-08-11・12  ドイツ軍ユンカースJu87スツーカー急降下爆撃機     (撮影日 10/11/16)

 敵戦闘機が防御網を敷いていなかった大戦初戦のポーランド戦線では、陸軍の支援戦闘機として大活躍をし、ヒトラーに急降下爆撃機の効果を盲信させる結果となった。爆撃機が自由に爆撃できる状態であれば、 水平爆撃によって高々度から大量の爆弾を落とすよりも、急降下爆撃でピンポイントの目標をねらう方が、効率的だったからです。
 しかし、地上の対空火器が防御網を形成し、優秀な迎撃戦闘機(ハリケーンやスピットファイアー)が存在したバトル・オブ・ブリテンでは、急降下爆撃機は全く力を発揮できませんでした。
 Ju87は、急降下爆撃のために編隊を解いて急降下に移るタイミングを敵戦闘機にねらわれ、また、自ら地上の対空火器の防御レンジまで接近することによって、犠牲を大きくしました。
 
 しかし、上記の失敗のあとも、急降下爆撃への信奉は解消されず、ドイツ空軍はこれ以降もあらゆる機種の双発爆撃機に急降下爆撃能力(急降下安定性、急降下制動板、自動水平飛行装置、急降下爆撃照準器など)を求めました。 

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 1942年から始まった英・米連合軍のドイツ本土爆撃は、1943年から本格化します。その代表例が7月24日夜からはじまったハンブルク爆撃です。6回にわたって合計3100機余の爆撃機による繰り返しの爆撃により、9000トン弱の爆弾が投下されました。ハンブルク市内には火災嵐が発生し、市内の全戸数の半分にあたる25万戸が破壊され、犠牲者は4万人、被災者は100万人にも上りました。
 この危機的状況に遭遇した時点で、ドイツ空軍は、これまでの方針を転換する必要性を感じました。しかし、ヒトラーがそれを許しませんでした。
前掲書P450-463「ハンブルクードイツ空軍の分水嶺」 

被災の状況は、前掲書よりもの文献に詳述されています。
イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(みすず書房 2011年)P155-158

 

 この爆撃においては、連合軍は次のような新しい戦術を採用しました。

攻撃力の1点集中

 

昼(米軍爆撃隊)夜(英軍爆撃隊)間連続した攻撃 

新たな手法の電撃的な投入:レーダー妨害(金属片の大量投下によるドイツ軍レーダー警戒網の攪乱)、爆撃機の河(散開した編隊による爆撃ではなく正面幅を小さくして爆撃機が河のように目標へ続いて飛行する爆撃方式への変更) 

 このハンブルク大規模爆撃は、ドイツ軍全体にとって、大きな危機感を感じさせる爆撃でした。
 さすがに強気の空軍元帥ゲーリングも、次のように総括せざるを得ませんでした。
「空軍はこれまで多大なる戦果を上げてきたが、そうした攻撃局面は終わり、今や西側に対する防御に転じなければならない。全戦力を集中し、この一の目的に邁進してこそ、本土に対する連合軍の攻撃を阻止し得るのだ。今や空軍の最重要任務は、空襲に脅かされている都市住民の生命と財産を守ることだけでなく、国の軍需能力を碓持することでもある。防空に特化した戦力の庇護のもと、空軍の攻撃力はすぐにでも強化されよう。そうすれば反撃に弾みがつくのだ。そのためには更なる新たな要求を課さざるを得ないことは承知している。だが、わが信頼すべき部隊が裏切ることなどないと固く確信しておる」
 先にも後にも、空軍指導部の責任者層がこれほどの決意を固め、意見を表させたことは今時戦争においてなかったことだ。ハンブルクの大惨事から受けた衝撃で、あたかも誰もが自分や組織の野心を二の次にしたかのようだった。参謀本部と軍需当局の問に対立はなく、爆撃機隊と戦闘機隊との間にもライバル心はなかった。そこにあったのは共通の意志のみであり、本土防衛のこの危機的瞬間に万難を排してあらゆる措置を講じ、これほど大きな国難の再来をなんとしてでも阻止しょうという決意だけだった。ゲーリングでさえ、こうした雰囲気に心揺さぶられているように見受けられた。そして、われわれをしばらくその場に残したまま、総統ブンカーの中へと消えていった。今後の対処方針について報告し、その即時実施の全権を求めるためである。
 あとに残されたわれわれは、期待に胸を膨らませて待っていた。この瞬間こそ、空軍の命運が決する分水嶺となるのだ。総司令官自らが対西方航空戦略の方向性の誤りを認めたのであり、われわれ同様、舵を180度切らなくてはならないと確信し、その意を固めたように見受けられたのだった。二年間にわたって、われわれは誤った方針に固執してきたのである。本来なら、バトル・オブ・ブリテンの後にすぐにでも西方の防衛に転ずるべきだったのだ。その際、爆撃機よりも戦闘機を優先する必要性さえあつたならば。ドイツの空襲に脅かされた英国が、攻勢に転じる前にそうしたように。自国上空の航空優勢を再度確立してこそ、われわれはいつの日か、自ら再び攻勢に転じ得る立場になれたはずなのだ。西方が無防備になった後に生じた劣勢は明白であり、そうした情勢下において実のない攻撃を続けること
は、意味がないばかりか有害でもあった。しかし、今やようやく指導部も然るべき認識に達したのだ。空軍を見かけ倒しの戦略的攻撃部隊から打撃力のある防御部隊へとごく短期に改変することは、難儀な作業となろう。だが、その成就を疑う者はわれわれの中には誰一人としていなかった。それによって爆撃機部隊の優位が一時的にせよ低下することをはっきりと認識していたはずの「爆撃機隊総監」ですら、ハンブルクという現実によって空軍の改変の必要性を確信したのだ。本土上空の航空優勢を奪還し、それを確保することがわれわれの総意だった。そして、目下の航空戦の情勢下においてそれが可能なのは、ひとえに戦闘機部隊のみだったのである。会議の参列者は自らの職責を肝に銘じ、本土防空を真剣に憂慮しながら迫り来る破滅を避ける道を探し求め、遂にそれを見つけ出したと確信した。今やヒトラーの決断の言葉に全てがかかっているのだ。私自身、ヒトラーが全権をもって承認、支持してくれるものと信じて疑わなかった。」

 しかし、ヒトラーは空軍首脳の判断とは異なる命令を下しました。
 正解は次の黒板に示します。お考えください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 この黒板クイズが正解となった方は、このページのドイツ空軍に関して、「免許皆伝」です。あの世のアドルフ・ガランドから、「よく自分たちの苦悩がわかってくれた」といってもらえると思います。(^.^)


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 写真10-08-13・14  これもドイツ軍の報復兵器           (撮影日 10/11/16)

 左:現在で言う巡航ミサイルV1号   右:ロケット推進弾道ミサイルV2号 


【参考文献】 このページの記述には、次の文献・資料を参考にしました。

 

アドルフ・ガランド著並木均訳『始まりと終わり ドイツ空軍の栄光ーアドルフ・ガランド自伝』(学研パブリッシング 2013年)

 

木村靖二・佐藤次高・岸本美緒・油井大三郎・青木康・小松久男・水島司・橋場弦著『詳説日本史』(山川出版 2013年)

 

渡辺洋二著『ジェット戦闘機Me262―ドイツ空軍最後の輝き 』(光人社NF文庫 2012年)

 

イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(みすず書房 2011年) 

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