明治末~昭和初期
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<解説編>
 
808 ドラゴンレール大船渡線の独特の形状はどのような理由で生まれたのか?

 次の章立てで説明します。
大船渡線の形状と現状
正解です 大船渡線が鍋鉉線となった理由

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大船渡線の形状と現状    12/05/15記述追加      | このページの先頭へ |

 JR大船渡線ドラゴンレールという愛称をもらった理由は、次の路線図を見ると明らかです。


 一ノ関駅と(さかり)駅間が大船渡線です。図のの部分です。気仙沼駅から先は、となっていますが、この部分は、2011年3月11日の東日本大震災以来普通となっている部分です。 

 

 全体として龍が体をくねらせているような形状の路線となっているのがわかります。
 ドラゴンレールという愛称が付いたのはまだ新しいですが、この路線は、「歴史的」にも有名な路線で、以前は、「
鍋鉉(なべつる)」線とあだ名されていました。あだ名の理由は、陸中門崎猊鼻渓(げいびけい)ー摺沢(すりさわ)ー千厩(せんまや)の部分で、鍋の取っ手(正確な漢字を使えば、鉉=つる)のような形をしているためです。なお、この部分の表現を、「鍋弦」や「鍋蔓」と表現している書物もありますが、漢字の正確な意味からは、「」(ゆみのつる)、「」(植物のつる)ではなく、「」(鍋等の取っ手)です。
 この部分は何故このような形をしているのでしょうか?
 地形的に
陸中門崎千厩間に、山岳地帯とかがあって、鉄道敷設に向いていないという理由はありません。それが証拠に、国道284号は、気仙沼一関間をほぼ直線で結んでいます。国道は陸中門先駅の近くでは、やや南に迂回してそのまま千厩に向かうルートを通っており、この地域が鉄道敷設に適さない土地というわけではありません。陸中門先千厩を直接結ばないで、猊鼻渓芝宿摺沢方面を大きく迂回した理由は、一体なんでしょうか?

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 正解です 大船渡線が鍋鉉線となった理由        | このページの先頭へ |

 その理由は、大正時代後半、この鉄道が建設される際に、この地の政治情勢が影響を与えたことによるものでした。そのことを理解するためには、まず、岩手県出身で政友会総裁となり、1918年に平民宰相として初めての本格的な政党内閣を率いた原敬の存在について、理解しなければなりません。
 原自身については、中学校の歴史の教科書に登場しますから、多くの方がご存じです。しかし、表面的な理解に留まる場合には、二つの誤解が生じます。
 一つ目は、彼が「政党内閣を率いた進歩的な政治家」であるという誤解です。彼はもちろん、大正期の政治において、山県有朋を中心とする官僚勢力と対抗し、官僚統治とは別の論理による政治を実現しました。しかし、原自身は旧南部盛岡藩の家老級の家柄の出身であることも背景として、いわゆる民衆の権利を積極的に伸張する政治家ではありませんでした。彼は普通選挙の実施には、「時期尚早」という意見でした。
 二つ目は、原自身は政治の腐敗を憎む一青年によって東京駅頭で刺殺されましたが、だからといって彼が汚職にまみれた政治家であるというのは大きな誤解です。彼は、政治手法として寧ろ地元の岩手県を優先するという方策は取りませんでしたし、ライバルの山県有朋が褒めざるを得なかったように、「清廉」な政治家でした。
 もちろん、彼の意図にかかわらず、政党政治というものが自ずと利益誘導的な政治となり、地方においては、ライバル党に勝利するために、あからさまに利権を餌にして選挙に勝つという状勢が生まれてしまったのは事実でした。
 それによって、「
我田引鉄」という言葉が生まれました。もちろん、「我田引水」のパロディです。元の熟語は、自分の水田に自分の利益だけを考えてわがままかってに水を引くということから、「強引に自分の都合のいいように計ること」(『国語辞典』三省堂版 1982年)となっていますが、その水の代わりに、「引鉄」、つまり、鉄道を引く(敷設する)ことによって、自分たちの利益を実現することの意味で使用されています。
 原敬内閣は選挙法を改正して、納税資格を引き下げて有権者を拡大し、また同時に小選挙区制を定めました。この小選挙区制の実施は、結果的に地方における政党間の対立をより先鋭なものにしました。
 1920(大正9)年の総選挙は、原敬が首相在任中に唯一行われた選挙ですが、この時岩手県の政友会の面々は、当然ながら首相の地元での圧勝を願っていました。
 ところが、県南部に有力なライバルがいました。1908(明治41)年の選挙で政友会のライバルの憲政本党所属で初当選した柵瀬軍之佐です。彼はその後、立憲国民党、立憲同志会と所属を変え、1917年からは憲政会(政友会と並ぶ2大政党)に所属していました。
 岩手県の政友会としては、柵瀬を倒すべく有力な政友会候補者を立てる必要がありました。それに選ばれたのが
摺沢(現在は東磐井郡大東町)を地元とする有力者佐藤秀蔵・良平親子です。政友会は彼らを自党に入党させるために、「我田引鉄」をおこないました。
 すなわち、1918(大正7)年に予算が付き建設が計画されていた大船渡線は、当初の
陸中門崎千厩を通るルートではなく、陸中門崎猊鼻渓摺沢を通るルートに変更されたのです。このことが後押ししたこともあって佐藤良平は当選し、岩手政友会は全6選挙区で当選するという、圧勝を実現しました。大船渡線一ノ関摺沢間は、1925年7月に開通します。

 しかし、状勢が変化すればまた逆のことも起こることになります。
 この選挙後、ひどい仕打ちを受けた千厩地域の住民には政友会の反対党である憲政会に入党するものが増加しました。1924年の総選挙(教科書に出てくる第一次護憲運動の結果おこなわれた総選挙)においては、今度は政友会が敗北(憲政会の柵瀬軍之佐が復活当選)します。この選挙によって、憲政会を率いる
加藤高明の護憲三派内閣が成立しました。
 こうなると、また「
我田引鉄」がおこなわれます。すなわち、摺沢から大船渡までの残り路線については、摺沢から南下して千厩を経由し、気仙沼に向かう路線に変更されたのです。こうして、摺沢-千厩間の延伸路線は1927年7月に開通し、その後も路線延長が続けられて、1935年9月には、一ノ関駅-盛駅間が全通しました。
 かくて、「
鍋鉉線」が誕生したわけです。
 つまり、この特色ある形状は、
政友会と憲政会の双方の「我田引鉄」の結果でした。
  ※日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 第9巻』(日本国有鉄道 1972年)P32
  ※長江好道他著『岩手県の百年 県民百年史3』(山川出版 1995年)P98-105 


 写真01・02 盛岡市の中心部にある岩手県公会堂敷地内にある原敬像(撮影日 10/11/05)

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 ※上は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、東日本大震災後の大船渡線陸前高田駅の写真です。

※東日本大震災の被災地、陸前高田については、こちら →旅行記「蔵王・南三陸2 陸前高田」へ

 写真03     東日本大震災後の大船渡線陸前高田駅              (撮影日 12/02/26)

 この陸前高田駅は、高田松原のある海岸線から2250mほど離れていますが、標高は2m程と高くなかったため、10mを越える津波に襲われました。駅舎も何もありません。背景は岩手県立高田病院です。


 【クイズ808 ドラゴンレール大船渡線 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 第9巻』(日本国有鉄道 1972年)P32

 

長江好道・三浦黎明・藤澤隆男・浦田敬三・早坂啓造・渡辺基著『岩手県の百年 県民百年史3』(山川出版 1995年)P98-105