与謝蕪村の有名な句に、「菜の花や月は東に日は西に」というのがあります。
一面の菜の花畑に、西の地平線に沈みゆく太陽、東の地平線に、まだ昇ったばかりの月という、いかにも春らしい情景を歌った句です。
江戸時代の日本では、いたるところに菜の花畑が広がっていました。この時代の照明用の油の多くがが菜の花の種子から採った油=菜種油でまかなわれていたからです。
江戸時代の農民にとって、菜の花を、油問屋に売って手っ取り早く現金収入を得る商品(換金)作物であり、水田の裏作やまた畑作として盛んに栽培されました。
しかし、菜の花の栽培とその種子から菜種油を採ることは、近世初期から始まり、江戸時代に急速に広がっていった技術です。
それまでは、どうしていたのでしょうか。故立教大学教授の宮本馨太郎教授著の『燈火−その種類と変遷−』(朝文社復刻版 1994年)からまとめると次のようになります。
照明の歴史は、旧石器時代や縄文時代の竪穴住居の地炉(家屋内の地面につくった炉)が始まりで、そののちも、囲炉裏が、その主役でした。
しかし、囲炉裏は冬は快適であったとしても、夏には耐え難いものです。
囲炉裏に燃やしていた木々のうち、松の根には油分が多く含まれることに気が付いた人々は、これを細かく割、燈台の上で燃やして照明としました。
これが、独立の照明器具の始まりです。これは宮廷でも使われました。
また、海に近いところでは、魚の脂を照明用の原料として燃やしていました。ただ、これは臭いのが欠点でした。
一方、木の実や植物の種を使う植物油は、仏教の伝来とともに、寺院などで使用され始めました。はじめは、椿などの果実油でしたが、平安時代の終わりから、荏胡麻(エゴマ)の使用が拡大していきます。
高校の日本史の教科書では、鎌倉時代に農民が「荏胡麻(灯油の原料)」の栽培を行っていることが記述されています。
鎌倉時代には、山城国(現在の京都府)の大山崎八幡宮の宮司が、「長木」と呼ばれる荏胡麻から油を絞る画期的な採油具開発し、大山崎八幡宮は、数々の特権を得て、これまた教科書で有名な、大山崎の油座をつくっていきます。
つまり、平安時代末から鎌倉・室町時代にかけては、荏胡麻が照明用の油の中心でした。しかし、その採油量は多くはなく、まだまだ高価なものでした。そのため、庶民が日常的に油を夜間照明に利用するという状況はまだ実現していませんでした。
ところが、近世に入って、菜の花(あぶらな)の種から絞り油する技術が確立すると、菜種油が急速に広がっていきました。
また、この時代には、木綿の原料となる綿花栽培も広がった結果、その綿の実から採油した綿実油も普及しました。この2種類の油特に菜種油が、庶民が日常生活において夜間に照明をつけることを可能としていきました。
夜間歩行照明用の行燈(あんどん)が、室内照明として定着していくのも、近世に入ってからでした。
※内阪素夫著『日本燈火史』(つかさ書房 復刻版1974年)P148
また、江戸時代には、浄瑠璃・歌舞伎など屋内での芝居が盛んとなりますが、劇場の室内照明を支えたのも、安価に手にはいるようになった、菜種油や綿実油の登場した結果です。
さて、授業では、是非、菜種油の明かりというものを経験させたいものです。理科の実験室とか、視聴覚室とかを借りるか、もしくは、教室に暗幕を持ち込んで「夜」をつくり、菜種油の火を灯してみると、なかなか幻想的です。
TVの時代劇のような、あんな明るさはとても望めません。本を読むのは、なかなかしんどいことがわかります。 |