21日の戦いは、信長に関する一級の資料『信長公記』(しんちょうこうき)によれば、次のように展開しました。長篠の戦いの場面の現代語要約です。
(赤太字は、私が勝手に施しました。)
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「信長は家康陣所にやってきて、佐々成政ら5人を奉行に千挺ばかりの鉄砲隊を編成し、21日の日の出ころからまず足軽を出して戦闘を開始した。武田方では一番に山県昌景の軍隊が推太鼓を打って突撃したが、昌景をはじめとして鉄砲でさんぎんに打たれて引き退くと、二番に武田信廉隊、三番に小幡一党というように次々とくり出した。しかし、信長軍は鉄砲でこれを迎え撃ったので、昌景のほか真田信綱ら有力部将が次々と討たれ、馬場信房らも奮戦の末討ち死にした。午後二時頃になると、武田方は無勢となり、退却を余儀なくされた。追撃を受けてさらに多くの戦死者を出した。」
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池上裕子著『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(講談社 2002年)P60 |
ここで文献の説明をはさみます。
上に引用した『信長公記』(しんちょうこうき)は、信長の家臣であった太田牛一が残した、信長の記録に関する第1級の文献です。太田牛一は、以前は、信長の右筆(書記官)とされていました。そう説明している書物も多くあります。
しかし、最近では、牛一は、若いときは信長の武将であり、信長の死後は秀吉に仕え検知奉行などを務め、さらにその後は秀頼にも仕えたという人物で、信長・秀吉・秀頼の同時代の記録をいろいろ書き残している人物であることが分かってきました。この人物の没年は分かりませんが、1610年に84歳で健在であったことは確かです。
つまり、 『信長公記』は、信長軍の戦闘にも参加した人物の書いた記録であり、軍事史的には一級の資料です。しかし、江戸時代に出版されなかったために、長い間かえりみられませんでした。
そして、その間に、「虚像」が広がります。
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藤本正行著『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)P17
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先の引用部分をよく読むと、この『信長公記』には、鉄砲の3段うちとかの表現は出てきません。
実は、巷間に語り継がれている「3000挺鉄砲の3段撃ち」というのは、もう一つ別の書物、『信長公記』の少し後の1622年に書かれたとされる、小瀬甫庵による『信長記』に書かれています。
小瀬甫庵は信長の家来や豊臣秀次に医師として使えた人物ですが、のちには、かの有名な『太閤記』を著述する人物です。先の『信長公記』と名前が似ていますから、これ以後は、小瀬甫庵の『信長記』または『甫庵信長記』と表現します。
この『甫庵信長記』は、基本的には『信長公記』を下地にしながら、重要な場面で創作を交えた「作品」であり、軍事的資料としては、価値の低いものでした。
藤本氏は、『甫庵信長記』について次のように評されています。
(青太字は、私が勝手に施しました。)
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「すなわち甫庵は『甫庵信長記』で、事実を歪めたり、誇張したりするばかりでなく、本書の第二章「美濃攻め」のところで述べるように、合戦をまるまる一つ創作さえしている。そして甫庵の創作した合戦譜のいくつかは、今日、史実として扱われている。なぜ甫庵の創作が史実として安易に受け入れられるのか。その理由の一つは、『甫庵信長記』では、登場人物が矛盾のない行動をとり、合戦は矛盾なく推移するからである。すなわち合理的に行動する側が常に勝者となるし、敗者はしばしば判断を間違えて敗戦へと突き進む。つまり勝者は常に勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れるのである。読者にとって、これほど理解しやすいことはない。
だが、現実の社会では、合理的な行動が成功につながるとはかぎらないし、誤った判断が失敗につながるともかぎらない。それにもかかわらず、現実社会にしばしば見られる、こうした矛盾が、甫庵の著書からは見事に欠落している。それは甫庵が結果から逆算しながら書き進めたためである。結果論に立って創作された事件が万事合理的に運ぶのは当然であり、読者にもまた理解しやすいのである。甫庵の著書の読みやすさの秘密、大衆に受け入れられた理由の一つがこれである。
『甫庵信長記』は江戸時代に版を重ねておおいに普及し、また同書をもとにして多くの書物が作られた。この結果、甫庵およびその後継者たちの創作は史実として流布、定着した。そのうち特に軍事に関するものは、明治時代になっても批判訂正されることなく史実として歴史家に受け継がれた。それは昭和二十年(一九四五)の敗戦までは、中・近世の軍事史(便宜上「古戦史」と呼ぶ)の研究が軍人主体で行われたことに起因する。軍人による古戦史の研究は、主として、過去の事例をモデルケースとして現在に生かすためと、精神訓話の具体例を得るためとに行うものであるから、戦闘経過や勝因、敗因の明白な事例を必要とする。
それには甫庵のような作家が結果論により創作した合戦の記事が、最適だったのである。」
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この本が、3段撃ちの「定説」を作りました。
それが無批判に受け入れられ、「虚像」となってしまったのです。
そのことについて、先に紹介した批判的研究者鈴木眞哉氏は次のように指摘しておられます。
(赤太字と改行は、私が勝手に施しました。)
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「「定説」 では、その新戦術を説明して、信長は予定戦場に三重の馬防柵を設け、その背後に三千人の銃兵を配置し、千人ずつ代わる代わる発砲させて武田の騎馬隊を撃滅したのだといい、戦場に柵を設けたのも、これはど大量の鉄砲を集めたのも、すべてこの戦いが最初であったとうたっている。はなはだしくは、多くの小銃を何段にも備えて一斉射撃をかけるという戦法はヨーロッパでもいまだ開発されていなかったと説く人すらいる。
この「定説」がおかしいのは、学問的に信頼できる史料の裏付けがまったくなく、江戸時代に成立した俗説に寄りかかってでき上がっているところである。最初にこういうことをいい出したのは小瀬甫庵の『信長記』で、遠山信春の『織田軍記(総見記)』などがこれに追随し、それを陸軍参謀本部が明治三十六年(一九〇三) に発刊した 『日本戦史・長篠役』 で取り上げ、士官教育などに利用するようになった。それを軍事史家、銃砲史家を初め広く歴史家の人たちが受け入れ、作家やもの書きの人々もその真似をした。こうして典型的な俗説にすぎなかったものが一気に定説化してしまったのである。もっとも、明治になるとヨーロッパ式の銃隊戦術や騎兵隊戦術の知識が加わったため、小瀬甫庵がいい出した初期の形に比べると、随分緻密な説明がされるようになっている。
戦後の歴史学界では、戦前に定説とされていたものはとかく疑われ、あれこれと批判されることが多かったが、長篠の「定説」はいささかも揺るがず、手つかずに踏襲された。それも単に消極的に受け入れられたというのではなく、積極的にちょうちん持ちを努める学者も少なくなかった。それがいかに浸透しているかは、司馬遼太郎氏のような人までが見事に引っかかって、「柵にむかって怒涛のように突撃してくる騎馬集団は、信長の考案した『妄射撃』という世界史上最初の戦術の前にうそのように砕け去った」と「定説」をそっくり集約したようなことを書いているのを見ても分かる。
学者や作家が「定説」をふまえて、長篠合戦について記したものはきわめて多いが、金太郎飴のような記述をいくつも並べてみてもはじまらないから、典型的な例を挙げておこう。ある学者は「信長は、(武田の)長槍・騎馬隊と正面衝突することを避け、密集部隊を鉄砲でいっせいに射撃するという戦術を採用した」といい、そのために鉄砲隊を三段に配置して交替で射撃させ、発射間隔を短縮することに成功したが、こうした大量の鉄砲を必要とする戦法は信長であればこそなしえたところだとしている。陸軍参謀本部的解釈の拡大再生産のようなものだが、この人はまたこの戦いを総括して「著名の古い頃馬・長槍部隊と無名兵士集団の新しい技術との戦い」、「新旧勢力の交替を示す決戦」としている。長篠の戦いを「頃馬対鉄砲の戦い」あるいは「人力対機械力の戦い」とみるのは、「定説」を取る人たちに共通している。
繰り返すが、「定説」は信頼できる史料からは証明できない話ばかりで成り立っている。たとえば武田軍は騎兵隊を想わせるような騎馬隊など持ってはいなかったし、まして密集して攻撃することなどはありえなかった。信長が鉄砲隊を三段に配置して交替で射撃させたというのも事実無根であるし、大量の鉄砲を使用することは信長に始まったわけではない。「定説」の中で辛うじて事実と認められるのは、信長が予定戦場に何垂にも柵を設けたという、その一点くらいのものである。要するに、小瀬甫庵あたりの与太が広まるうちにいつの間にか学問的な装いをまとって定着してしまったのが、この「定説」なのである。 |
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※鈴木眞哉著『鉄砲と日本人−「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)P72〜74 |
これまでの通説、すなわち、
鉄砲隊と騎馬隊の戦いであった
鉄砲隊は馬防柵を築き3000丁の鉄砲を使って有効な射撃を加えた。
結果的に古い戦いの方式は消滅し、日本人の戦い方は一変した。(戦術革命が起こった)
は、どのような理由で「虚像」なのでしょうか。
次回からは、鈴木氏、名和氏、藤本氏の意見を紹介しながら、虚像の一つ一つを検証し、なぜそれが虚像なのか、反対に「実像」はどうなのかに迫ります。
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