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銃砲と歴史2-2
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 長篠の戦い2 戦いの「虚像」とは・・ 05/10/23 作成 
 
 長篠・設楽原の戦いに至るまで 三河と遠江をめぐる争い       | このページの先頭へ |

 まずはじめに、織田・徳川軍と武田軍が長篠・設楽原の戦いに至る経緯を確認します。

年代

 事    件

1572

11

武田方秋山信友、美濃岩村城攻略。

信玄は、今川氏の没落後駿河を勢力下におき、南信濃から美濃東部への進出を企てていた。

12

武田信玄、家康を遠江三方ヶ原に破る。

1573

4

武田信玄病没。

1574

1

武田勝頼、美濃明智城を攻略。

信玄没後、勝頼はしばらくの間、国内の動揺を沈め対外的には勢力の現状維持に努めていたが、このころより、積極的な美濃・三河・遠江への進出を企図。

6

武田勝頼、家康方の遠江高天神(たかてんじん)城を攻略する。(下の「長篠・設楽原の戦い関係図1」」の右側の青い矢印) 

1575

4

武田勝頼、三河長篠城を攻撃。(下の地図の左側の青い矢印)

5

織田・徳川連合軍、設楽原の戦いで勝頼軍を撃破。

 1574年から亡父の遺志をついで、西への進出を企図した武田勝頼は、この年、遠江高天神城を攻略します。
 続いて、1757年にはいると、東三河に軍を進めました。ねらいは東三河の家康方拠点のひとつ長篠城を攻略し、さらには、家康が浜松にいることを幸いに、本拠地岡崎城を急襲する計画でした。

 ここを守っていた武将が、わが岐阜市民にもなじみのある(後で説明)、奥平貞能信昌父子です。(信昌は正確にはこの時点では、貞昌。1555年生まれの20歳。)です。

 もともと、奥平氏は、今川義元の家臣でしたが、父貞能は、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて今川家が衰退すると、今川氏から離反して家康の家臣となりました。家康が信長軍とともに戦った姉川の戦い(近江の浅井長政との戦い)では、奥平貞能・信昌が父子が出陣しています。
 ところが、武田信玄の勢力が強大化し、いよいよ三河侵攻と予想されるとなると、父貞能はその勢威を恐れて家康を裏切って信玄に降伏しました。
 ずいぶんと、コロコロと主君を変える武将ですが、戦国時代の特に勢力の境界ゾーンにいる一族としては、機を見て保身をすることが生き延びる重要な手段でした。

 さらに、今度は1573年に信玄が病死したため、貞能・信昌父子は、武田氏を裏切って、再び家康の家臣となりました。その時点では、父子は
三河作手城主(作手は長篠の西北10km)でしたが、その後、家康軍が武田方にあった長篠城を陥れ、しばらく後の1575年2月、奥平父子は長篠城主となりました。

 勝頼はこれに激怒しました。
 ちょうど折良く、奥三河の別の有力者が家康方から武田方に寝返るという動きもつかんだため、奥平氏が守る長篠をひねりつぶして、うまくいけば一挙に岡崎城をうかがえると勝頼は判断し、この時の三河出陣となったわけです。
 その兵力はおよそ、1万5千。 

 つまり、戦国大名武田勝頼としては、父信玄以来の三河・遠江の完全制圧の夢の実現のひとつ、つまりは
領土拡張をねらいとして、今回の三河遠征を実施しました。
 言い換えると、通常の戦国大名の発想から考えて、徳川家康やその同盟者織田信長との
大決戦を起こそうなどという考えは、彼にはなかったと考えられます。

 先に奥平氏の話をします。(岐阜市の歴史の興味のない方は飛ばしていただいてかまいません。)
 奥平信昌(戦いの時点では貞昌)は、岐阜市民にとっては、縁の深い武将です。
 信昌は、勝頼による長篠城包囲に耐え設楽原の戦いの勝利をお膳立てをした功により、その後、信長から一時もらって、
貞昌から信昌に改名しました。
 また、家康の家臣としても重用され、1576年には娘亀姫を妻にすることを許されました。

 家康の江戸入府(関東転封)にともなって、上野小幡3万石の城主となります。
そして、1600年の関ヶ原の戦いの後は、中山道の宿場町
加納(現在の岐阜市加納、加納に関する関するクイズはこちらです。)10万石大名となりました。

 それまで加納は単なる宿場町であり城はありませんでした。
 そこで、斎藤道三以来の城で、信長の居城にもなった岐阜城(金華山の頂上にある山城。関ヶ原の戦いの時は、織田信長の嫡孫秀信が城主。石田三成方として敗北改易。)を破壊して、その資材も使って、加納宿の東南部に新たに平城を建設しました。

 家康としては、関ヶ原の戦いに勝って江戸に徳川政権を開くとなったものの、大坂には豊臣秀頼がおり、また特に西日本に領地をもつ秀吉恩顧の大名に対する警戒を厳重にしなければなりませんでした。
 奥平信昌の加納10万石は、井伊家の彦根30万石、家康4男松平忠吉の尾張清洲50万石など並んで、中山道・東海道の交通の要衝を抑える配置でした。(関ヶ原の戦い直後は、まだ御三家の尾張藩はありません。)
 加納奥平家は、1632年に孫忠隆が25歳の若さでなくなり跡継ぎがなかったため、お家断絶となりました。
 現在の岐阜市の旧加納城跡から西500mのところには、奥平信昌の墓所のある盛徳寺があり、その付近は、
加納奥平町という町名となっています。


 2つの戦い−長篠城包囲戦と設楽原の戦い     【一部改訂 05/10/30】    | このページの先頭へ |

 長篠・設楽原の戦いの概要を示すと次のようになります。
   ※日付はいずれも旧暦を使用。決算の日、5月21日は太陽暦に換算すると、7月9日。)

1575年
(天正3)

4月21日

勝頼、奥平氏の長篠城を包囲。

5月 6日

勝頼、いったん軍を移動させ、吉田城(現豊橋市)を攻撃。

5月11日

勝頼、長篠城に戻り、本格的な攻城戦を開始。本陣は医王寺
これから10日間の長篠城包囲戦が正確な意味で長篠の戦い

5月13日

信長、長篠城救援のため岐阜城を出発。

5月14日

勝頼、長篠城に再度攻撃をかけ、奥平氏を本丸へ追いつめる。

5月15日 信長、岡崎に到着。家康と合流。
5月18日

信長・家康の連合軍、設楽原に到着し、それぞれ極楽寺山弾正山(下の地図の「家康本陣」)に布陣する。

5月19日

勝頼、小山田昌行を長篠城に、武田信実を鳶ケ巣山に残し、本陣を移動。

5月20日

勝頼、清井田に布陣。信長、酒井忠次を鳶ヶ巣山攻撃に差し向ける。

5月21日

織田・徳川連合軍と武田勝頼軍、設楽原で戦闘。教科書的にはこれも長篠の戦いの一部であるが、正確には、設楽原の戦い。(信長の戦時本陣を茶臼山に移す。下の地図の「信長本陣」。)

 つまり、戦いは、勝頼が意図したとおり長篠城包囲攻撃=殲滅→さらに進軍とはいきませんでした。
 勝頼が、長篠→吉田→長篠と動いているうちに、いつの時点か分かりませんが、家康が信長に援軍を要請し、信長はそれに応えて5月13日には岐阜出発し、18日には、長篠城の西数キロのところまで来てしまったのです。

 勝頼としてはそのまま長篠城包囲を解いて、退却するという手もありました。事実、配下の武将の多数はその意見でした。しかし、信長・家康軍の様子をよく知らないまま、設楽原に本陣を移し、21日には運命の「決戦」となってしまったのです。

 家康は、5月18日に真っ先に、図中の「家康本陣」に陣を張りました。
 勝頼は、本陣を長篠城の包囲戦の際の医王寺から、清井田に移しました。さらに、戦時には、戦いの動静を見るため、連吾川東の丘陵で「物見」をしています。
 信長は、当初は図の一番西の現在のJR飯田線茶臼山駅のさらに西にある極楽寺山(地図の外)に本陣を置き、3日かけて、連吾川西の丘陵手前に、馬防柵を築かせました。
 馬防柵は、連吾川に沿って、「24町」(1町は約100m、したがって、約2400m)に及んだと記録されています。

 地図の●の地点の橋「連吾橋」から北方を写した写真。デジカメ4枚の合成写真。


 設楽原の戦い−『信長公記』と『甫庵信長記』 【部分改訂 05/10/30】     | このページの先頭へ |

 21日の戦いは、信長に関する一級の資料『信長公記』(しんちょうこうき)によれば、次のように展開しました。長篠の戦いの場面の現代語要約です。
 (赤太字は、私が勝手に施しました。)

「信長は家康陣所にやってきて、佐々成政ら5人を奉行に千挺ばかりの鉄砲隊を編成し、21日の日の出ころからまず足軽を出して戦闘を開始した。武田方では一番に山県昌景の軍隊が推太鼓を打って突撃したが、昌景をはじめとして鉄砲でさんぎんに打たれて引き退くと、二番に武田信廉隊、三番に小幡一党というように次々とくり出した。しかし、信長軍は鉄砲でこれを迎え撃ったので、昌景のほか真田信綱ら有力部将が次々と討たれ、馬場信房らも奮戦の末討ち死にした。午後二時頃になると、武田方は無勢となり、退却を余儀なくされた。追撃を受けてさらに多くの戦死者を出した。」

池上裕子著『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』(講談社 2002年)P60

 ここで文献の説明をはさみます。
 上に引用した『
信長公記』(しんちょうこうき)は、信長の家臣であった太田牛一が残した、信長の記録に関する第1級の文献です。太田牛一は、以前は、信長の右筆(書記官)とされていました。そう説明している書物も多くあります。 
 しかし、最近では、牛一は、若いときは信長の武将であり、信長の死後は秀吉に仕え検知奉行などを務め、さらにその後は秀頼にも仕えたという人物で、信長・秀吉・秀頼の同時代の記録をいろいろ書き残している人物であることが分かってきました。この人物の没年は分かりませんが、1610年に84歳で健在であったことは確かです。
 つまり、 『信長公記』は、信長軍の戦闘にも参加した人物の書いた記録であり、軍事史的には一級の資料です。しかし、江戸時代に出版されなかったために、長い間かえりみられませんでした。
そして、その間に、「虚像」が広がります。

藤本正行著『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)P17

 先の引用部分をよく読むと、この『信長公記』には、鉄砲の3段うちとかの表現は出てきません。
 実は、巷間に語り継がれている「3000挺鉄砲の3段撃ち」というのは、もう一つ別の書物、『
信長公記』の少し後の1622年に書かれたとされる、小瀬甫庵による『信長記』に書かれています。
 
小瀬甫庵は信長の家来や豊臣秀次に医師として使えた人物ですが、のちには、かの有名な『太閤記』を著述する人物です。先の『信長公記』と名前が似ていますから、これ以後は、小瀬甫庵の『信長記』または『甫庵信長記』と表現します。
 この『
甫庵信長記』は、基本的には『信長公記』を下地にしながら、重要な場面で創作を交えた「作品」であり、軍事的資料としては、価値の低いものでした。

 藤本氏は、『
甫庵信長記』について次のように評されています。
 (青太字は、私が勝手に施しました。)

「すなわち甫庵は『甫庵信長記』で、事実を歪めたり、誇張したりするばかりでなく、本書の第二章「美濃攻め」のところで述べるように、合戦をまるまる一つ創作さえしている。そして甫庵の創作した合戦譜のいくつかは、今日、史実として扱われている。なぜ甫庵の創作が史実として安易に受け入れられるのか。その理由の一つは、『甫庵信長記』では、登場人物が矛盾のない行動をとり、合戦は矛盾なく推移するからである。すなわち合理的に行動する側が常に勝者となるし、敗者はしばしば判断を間違えて敗戦へと突き進む。つまり勝者は常に勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れるのである。読者にとって、これほど理解しやすいことはない。

 だが、現実の社会では、合理的な行動が成功につながるとはかぎらないし、誤った判断が失敗につながるともかぎらない。それにもかかわらず、現実社会にしばしば見られる、こうした矛盾が、甫庵の著書からは見事に欠落している。それは甫庵が結果から逆算しながら書き進めたためである。結果論に立って創作された事件が万事合理的に運ぶのは当然であり、読者にもまた理解しやすいのである。甫庵の著書の読みやすさの秘密、大衆に受け入れられた理由の一つがこれである。

  『
甫庵信長記』は江戸時代に版を重ねておおいに普及し、また同書をもとにして多くの書物が作られた。この結果、甫庵およびその後継者たちの創作は史実として流布、定着した。そのうち特に軍事に関するものは、明治時代になっても批判訂正されることなく史実として歴史家に受け継がれた。それは昭和二十年(一九四五)の敗戦までは、中・近世の軍事史(便宜上「古戦史」と呼ぶ)の研究が軍人主体で行われたことに起因する。軍人による古戦史の研究は、主として、過去の事例をモデルケースとして現在に生かすためと、精神訓話の具体例を得るためとに行うものであるから、戦闘経過や勝因、敗因の明白な事例を必要とする。
 それには甫庵のような作家が結果論により創作した合戦の記事が、最適だったのである。」

藤本正行前掲著、P67・68

 この本が、3段撃ちの「定説」を作りました。
 それが無批判に受け入れられ、「虚像」となってしまったのです。
 そのことについて、先に紹介した批判的研究者鈴木眞哉氏は次のように指摘しておられます。
 (赤太字と改行は、私が勝手に施しました。)

「「定説」 では、その新戦術を説明して、信長は予定戦場に三重の馬防柵を設け、その背後に三千人の銃兵を配置し、千人ずつ代わる代わる発砲させて武田の騎馬隊を撃滅したのだといい、戦場に柵を設けたのも、これはど大量の鉄砲を集めたのも、すべてこの戦いが最初であったとうたっている。はなはだしくは、多くの小銃を何段にも備えて一斉射撃をかけるという戦法はヨーロッパでもいまだ開発されていなかったと説く人すらいる。

 この「定説」がおかしいのは、学問的に信頼できる史料の裏付けがまったくなく、江戸時代に成立した俗説に寄りかかってでき上がっているところである。最初にこういうことをいい出したのは
小瀬甫庵の『信長記』で、遠山信春の『織田軍記(総見記)』などがこれに追随し、それを陸軍参謀本部が明治三十六年(一九〇三) に発刊した 『日本戦史・長篠役』 で取り上げ、士官教育などに利用するようになった。それを軍事史家、銃砲史家を初め広く歴史家の人たちが受け入れ、作家やもの書きの人々もその真似をした。こうして典型的な俗説にすぎなかったものが一気に定説化してしまったのである。もっとも、明治になるとヨーロッパ式の銃隊戦術や騎兵隊戦術の知識が加わったため、小瀬甫庵がいい出した初期の形に比べると、随分緻密な説明がされるようになっている。

 戦後の歴史学界では、戦前に定説とされていたものはとかく疑われ、あれこれと批判されることが多かったが、長篠の「定説」はいささかも揺るがず、手つかずに踏襲された。それも単に消極的に受け入れられたというのではなく、積極的にちょうちん持ちを努める学者も少なくなかった。それがいかに浸透しているかは、
司馬遼太郎氏のような人までが見事に引っかかって、「柵にむかって怒涛のように突撃してくる騎馬集団は、信長の考案した『妄射撃』という世界史上最初の戦術の前にうそのように砕け去った」と「定説」をそっくり集約したようなことを書いているのを見ても分かる。
 
 学者や作家が「定説」をふまえて、長篠合戦について記したものはきわめて多いが、金太郎飴のような記述をいくつも並べてみてもはじまらないから、典型的な例を挙げておこう。ある学者は「信長は、(武田の)長槍・騎馬隊と正面衝突することを避け、密集部隊を鉄砲でいっせいに射撃するという戦術を採用した」といい、そのために鉄砲隊を三段に配置して交替で射撃させ、発射間隔を短縮することに成功したが、こうした大量の鉄砲を必要とする戦法は信長であればこそなしえたところだとしている。陸軍参謀本部的解釈の拡大再生産のようなものだが、この人はまたこの戦いを総括して「著名の古い頃馬・長槍部隊と無名兵士集団の新しい技術との戦い」、「新旧勢力の交替を示す決戦」としている。長篠の戦いを「頃馬対鉄砲の戦い」あるいは「人力対機械力の戦い」とみるのは、「定説」を取る人たちに共通している。

 繰り返すが、「定説」は信頼できる史料からは証明できない話ばかりで成り立っている。たとえば
武田軍は騎兵隊を想わせるような騎馬隊など持ってはいなかったし、まして密集して攻撃することなどはありえなかった。信長が鉄砲隊を三段に配置して交替で射撃させたというのも事実無根であるし、大量の鉄砲を使用することは信長に始まったわけではない。「定説」の中で辛うじて事実と認められるのは、信長が予定戦場に何垂にも柵を設けたという、その一点くらいのものである。要するに、小瀬甫庵あたりの与太が広まるうちにいつの間にか学問的な装いをまとって定着してしまったのが、この「定説」なのである。

※鈴木眞哉著『鉄砲と日本人−「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)P72〜74

 これまでの通説、すなわち、

  1. 鉄砲隊と騎馬隊の戦いであった

  2. 鉄砲隊は馬防柵を築き3000丁の鉄砲を使って有効な射撃を加えた。

  3. 結果的に古い戦いの方式は消滅し、日本人の戦い方は一変した。(戦術革命が起こった)

 は、どのような理由で「虚像」なのでしょうか。

 次回からは、鈴木氏、名和氏、藤本氏の意見を紹介しながら、虚像の一つ一つを検証し、なぜそれが虚像なのか、反対に「実像」はどうなのかに迫ります。


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