日本銀行は、なぜ公定歩合の引き上げ=金融引き締めを行わなかったのでしょうか。
その理由は、二つあります。
もし、政治経済・現代社会の授業でこれを学習するとしたら、次のようなヒントを与えた発問による、謎解きがいいのではないでしょうか。
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公定歩合を引き上げなかった理由について考える その1 国際情勢 |
上の「日経平均株価と公定歩合の推移」グラフの中の▼ABCは、海外で起きた大きなインパクトを示しています。その三つと、さらに4番目の事情Dが、理由について考えるヒントです。
A プラザ合意成立(1985年9月)…すでに説明したように、円高・ドル安へ先進G5諸国が合意。ドル売りの協調介入と、ドルの価値を下げるための、ドル円の金利差(ドルの方が高い)縮小の政策をとることが合意される。
B ルーブル合意成立(1987年2月)…先進諸国は、これ以上のドル安は返って逆効果であるとの判断に達し、ドルの維持、そのための、貿易赤字国アメリカでは金利上昇、黒字国日本・西ドイツでの金利低め維持の政策をとることが合意される。
C ブラックマンデーの発生(1987年10月19日)…ニューヨーク株価は、この日、あの世界大恐慌の発端となった、1929年10月24日(暗黒の木曜日)の株価暴落を上回る史上最大の率で下落。資金がアメリカから逃げだし、株価・債権・ドル、三つの相場がすべて下落。G7諸国は、協調して、「市場の崩壊」をくい止める動きを行う。日本銀行は、金融調節の手段を総動員して市場に資金を供給し、市場金利を大幅に下げ、また為替市場では、果敢な円売りドル買い介入を行う。この国際協調により、「世界大恐慌再来の恐怖」はくい止められる。
D 円高…ルーブル合意以後も円高傾向は続き、1988年には、ついに1$=120円を切る寸前の所まできた。
このよっつ、とりわけ、BとCとDが、理由を考えるヒントです。いかがでしょうか?
では、理由を説明します。
簡単にいってしまえば、日本の金融当局は、ルーブル合意を守り、ブラックマンデーの再来を懸念し、さらに、これ以上のドル安を防ぐために、低金利を維持しつづけました。
アメリカの株価が維持され、ドル高傾向へ向かうには、アメリカに資金が集まらなければなりません。そのためには、アメリカドルに価値が出るよう、日本の金利は低めを維持しなければならなかったのです。
つまり、日銀は、国際協調政策に縛られて、日本独自の金融政策を出せない状況にあったのです。
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公定歩合を引き上げなかった理由について考える その2 国内情勢 |
もう一つの理由は、国内事情です。また、ヒントを二つ示します。
1989年5月31日のバブル景気期の第一次金融引き締めの際、公定歩合引き上げを発表した日銀の政策委員長の談話は、次のような ものでした。
「今回の措置が、今後とも物価の安定を確保しつつ内需中心の持続的成長を図っていくことに資するものと考えており…」
※田中隆之著『現代日本経済 バブルとポストバブルの軌跡』(日本評論社2002年)P126
バブル景気時代の消費者物価・卸売物価の指数は、右表のように推移していました。
さて、公定歩合を引き上げなかった国内事情は何でしょうか?
その理由は、次のとおりです。
「日銀自身の金融政策に対する考え方の問題がある。日銀は、金融政策の目標を第一義的に「物価の安定」においていた。すなわち、日銀は、バブル期にも、金融政策の決定にあたって、物価の安定を最重要視していた。景気が回復し、景気の拡大が進行していた87年、88年にも、物価は安定しており、インフレ激化の兆候が見られないとして、金融緩和を続けた。」
※衣川恵著前掲書P57
つまり、グラフにも明らかなように、物価は87年88年と極めて安定していました。卸売物価などはむしろ下がり気味だったのです。この結果、「インフレ阻止」を最重要目標としている日銀には、株価や地価(これらは物価には含まれていません)という資産価格が上昇しても、公定歩合を引き上げるという発想に乏しかったのです。
好景気にもかかわらず物価が安定していたのは、円高によって安価な海外製品や原料の輸入が可能となっていたからです。これは、プラザ合意以後の新しい条件で生じた事態だったのです。
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