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旧石器捏造
 
 何が起こったのか 03/04/06作成 

 2000年11月5日(日)の毎日新聞朝刊は、日本の考古学史上最悪の事件を特報していました。それまで、東北地方を中心に数々の旧石器時代の遺跡の発見をしていた、東北旧石器文化研究所の副理事長、藤村新一氏が、発掘現場で事前に石器を埋め、あとからそれを自分で掘り出して、「石器発見」と偽っていたことがスクープされたのです。
 藤村氏は、その直前の10月23日、自らが団長として発掘にあたっていた宮城県築館町の上高森遺跡で、早朝一人で石器を埋めている現場を毎日新聞の取材範囲撮影されていました。
 スクープの現実、毎日新聞取材班からその事実を突きつけられた藤村氏は、石器発掘の捏造を認めたのでした。


 以下いくつかに分けて、この事件の要点をまとめます。参考にした主な文献は以下の通りです。
 ・河合信和著『旧石器捏造』(文芸新書2003年1月)
 ・毎日新聞旧石器遺跡取材班著『発掘捏造』(毎日新聞社2001年6月)
 ・岡村道雄著『日本の歴史01 縄文の生活誌』(講談社2000年10月)
 ・岡村道雄著『日本の歴史01 縄文の生活誌 改訂版』(講談社2002年11月)
 

 
 藤村氏とはどんな人物だったのか 03/04/06作成  
 藤村新一氏の「発見の業績」                         | このページの先頭へ |

  藤村氏は、1950年5月4日に仙台市の北約35qにある宮城県中新田町に生まれました。仙台の高校を出て、1968年東北電力系列の計測機器メーカーに就職。1972年になって突然に考古学にかかわるようになり、翌73年には宮城県岩出山町の座散乱木(ざざらぎ)遺跡などで調査を開始、旧石器を発見します。

 この時代には、引用した教科書の記述のように、日本に旧石器時代があることは事実として確認されていましたが、それはあくまで、約3.5万年前より新しい時代の後期旧石器時代に属する石器が発見されていただけでした。

 当時考古学界は、 「日本にもっと古くから人がいて文化を残したのか、つまり、日本に前期の旧石器文化はあったのかなかったのか」をめぐって論争が続いていました。 これを「前期旧石器存否論争」といいます。
 これに決着を付けることが、1970年代の考古学の重要課題でした。
  ※旧石器時代の区分は、初めは、前期と後期のみ、のちに、前期・中期・後期の3時代区分となります。

 藤村氏は、1975年には東北大学考古学研究室の若手研究者などの仲間と「石器文化談話会」を結成し、1976年からこの団体によって座散乱木遺跡などの本格的発掘が始まります。
 座散乱木遺跡発掘調査は、つごう3回実施されますが、1981年には、藤村氏の手によって、前期旧石器時代とされる地層から石器が発見されます。その石器は、4万数千年前のものとされました。

 もちろん、これは、本物の石器とされ、世紀の大発見となりました。 つまり、これによって、「前期旧石器存否論争」は決着し、日本にも前期旧石器時代があることが証明されたのです。
 
 (この発掘を受けて、しばらくのちの日本史の教科書には、座散乱木遺跡というのが登場し、私も生徒諸君に、この読み方が難解な遺跡の意義を教えたものでした。いかにも試験に出そうなこの「座散乱木」という遺跡名を一生懸命に覚えたことを記憶している方も多いでしょう。
 ちなみに、この遺跡も、2001年の調査によって、その前期旧石器の発掘が捏造と判明し、教科書から抹消されました。)

 藤村氏は、その後数年間にいくつかの旧石器を「発見」しますが、その業績を不朽のものにしたのが、1984年から88年にわたって行われた宮城県古川市の馬場壇A遺跡の発掘です。
 ここでは約17万年前のものとされる石器48点が発見されたほか、「ナウマン象を解体したあと」・「たき火または炉の跡」・「13万年前に浅い谷を囲んで暮らした7家族」など、さながら「発見のデパート」の様にめざましい「発見」がなされました。
 
 これに続く大きな発見は、1988年からはじまったた宮城県築館町の高森遺跡でした。
 この遺跡の発掘は、藤森氏らの石器文化談話会の調査によって始まりましたが、途中から宮城県教育委員会が中心となって進められました。1993年の教育委員会の発表では、「日本最古の約50万年前の遺跡」、「日本で北京原人とほぼ同時期の原人の存在が決定づけられた」と結論されました。

 近年の原人ブームは、実はこの高森遺跡の記者会見こそが原点でした。
 地元の築館町では、町長が「こんなに嬉しいことはない。国の宝だ。」との声明を発表し、遺跡周辺の観光地化を意図して舗装道路の整備に取りかかりました。
 同町は「原人の里」であることを宣伝文句に、町おこしを始めました。お土産「原人まんじゅう」はもちろん、日本酒「高森原人」や「原人ラーメン」までも売り出されました。

 ところが、高森遺跡では、途中で乗り出した宮城県教育委員会に功績を奪われた形となってしまったことを面白く思わなかった藤森氏らは、高森遺跡から約500メートルしか離れていない場所に上高森遺跡を「発見」し、1993年以降調査に入りました。藤森氏は同じ民間の考古学者鎌田俊昭氏らとともに、1992年には東北旧石器文化研究所を設立(理事長は鎌田氏、藤村氏が副理事長)しており、この東旧研がこの遺跡の発掘を進めていきます。

 そして、上高森遺跡では、期待通り、次々と「成果」が上がります。 

  • 1993年11月、約40万年前のハンドアックス(握り斧)を発見。(」10万年以上前のハンドアックスの発見は日本初)
  • 1994年10月50数万年前の日本最古の石器を発掘。石器6点が埋められた埋納遺構も発見。
  • 1995年10月60万年前の石器15点が敷き詰められた埋納遺構を発見。
  • 1998年11月60万年以上前の石器を発見。日本最古を更新。
  • 1999年11月70万年以上前の石器を発掘。日本最古をまた更新。

 こうして、上高森遺跡は、日本史の教科書に登場する存在となったのです。

 藤村氏は、他の場所でも大活躍を演じます。

 彼は埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡の発掘に協力していましたが、2000年2月、柱の穴の跡と14点の石器を発見しました。この地層は約50万年前のものとされました。それまで発見されていた住居の柱穴跡の最古のものは、鹿児島県立切遺跡の約3万年前でしたから、この発見で一挙に47万年も更新してしまったのでした。

 秩父市は、この発見で一気に「秩父原人」に沸き返りました。
 「秩父原人祭り」が開催され、西武鉄道秩父駅周辺のレストランには、「原人定食」・「原人ワイン」が登場し、土産物の菓子も「原人」の名前であふれました。
 

  
 神の手                                 | このページの先頭へ | 

 1970年代に考古学を初めて捏造発覚までのおよそ30年間、藤村氏は行くところ行くところで石器を「発見」し続けました。
 後から確認してみると、
石器文化談話会など彼の参加する団体はこの間に135回の発掘をしていますが、彼はそのうちの102回に参加し、なんと93回も石器を発見したのです。その確率は、91.2%です。まさしく掘れば出る状態です。
 参加して発見できなかったのは、わずか9回、率にして僅か8.8%です。特に、初期の10年間は、100%の発見率でした。
 同じ
石器文化談話会等の調査でも、彼が参加しない場合は、33回中、僅か6回しか発見されていません。その比率は、18.2%です。

 この神懸かり的「業績」によって、しだいに、「藤村神話」が形成されていきます。常に石器を掘り出す彼の手は、いつしか、「神の手」と呼ばれるようになります。
 
 周りの誰もが、「発掘捏造」などという愚かな行為が行われていることは、想像だにしませんでした。
 藤村氏と長く発掘をともにしてきた
東北旧石器文化研究所理事長、鎌田氏(民間の考古学者)は言っています。
「今ね、変な声があってね。なんで藤村だけが見つけるんだと難癖つけてくるやつがいるんですよ。(中略)見つかるんだから、しょうがないって思うんですよ。我々が5年、10年かかっても石器を出せない。藤村は1日で出すわけですから。これは分からない。持って生まれたものですよ」
 ※毎日新聞石器捏造取材班著前掲書 P92

 また、彼の業績は、高名な学者をも迷わせました。前掲『日本の歴史01縄文の生活誌』の中で、執筆当時文化庁の主任文化財調査官であった岡村氏は書いています。(P25)
「彼は私に、自分は目に疾患があるとうち明けたことがあるが、私たちには同じような褐色にしか見えない地層だが、ひょっとすると彼にはその微妙な色の違いが見えて、地層と地層の境、つまりかつて地表面であったある地層の上面を、するどく見極めることができるのだろう。そしてそこに残された石器を、めざとく発見することができるらしい。また、彼は何回も何回も同じ遺跡に通い、石器の出そうな場所を探り、鋭い目で石器が含まれている地層を見分ける。長年培った勘が、遺跡が隠されていそうな地形と石器の臭いを嗅ぎ分けるのであろう。」

 藤村氏が、丹念に現場を回る努力家であったことは事実でした。
 忙しい大学教授などはほとんど訪れない野山を、彼は休日に寸暇を惜しんで訪れました。その実直さが、「神の手」を信じさせることになってしまいました。

 
<補足>
 上に引用した岡村氏の著書は、それ以後2年間にわたって刊行される講談社の「日本の歴史」シリーズの01巻として、発行されました。2000年10月のことです。ところが、発行から1カ月もたたない間に、この事件が発覚しました。
 岡村氏は、自らその捏造が見抜けなかった非を認められ、著書の改訂を約束されました。

 早く改訂版をという岡村氏の思いとは違って、都道府県教育委員会などによる藤村氏のかかわった遺跡の検証に長い時間が費やされた結果、改訂版の出版は予定より遅れ、2002年11月になってしまいました。
 その改訂版が、この項の最初にあげた参考文献の4つ目のものです。
 
 岡村氏の意を受けた講談社も、旧版を同社へ返送すれば無料で改訂版を送付するという形で、岡村氏の汚名の返上に努めました。
 
 旧版と改訂版と2冊とも購入していた私が、あえて上記の部分を引用したのは、決して、岡村先生の失敗をあげつらうものではありません。

 岡村先生をしても、そう書かせてしまう何かが、藤村氏にはあったのです。
 その虚像は、彼一人が作り上げたものではありません。
 彼を「神の手」と呼んだ、マスコミも含めた周囲全体が、大きな虚像を作り上げてしまったのです。 

  
 なぜ20年以上も捏造がばれなかったのか03/04/12作成 
 学問自体を無意味にすることをするはずがない         | このページの先頭へ |

 藤村氏は、20年以上にわたって捏造を続けていました。自分で埋めた石器を、後から自分で掘るという大胆でかつ言い換えれば初歩的な行為を、なぜ、発覚することなく続けることができたのでしょうか。
 
 藤村氏個人に帰する部分では、彼が誠実で、考古学に労を惜しまぬ人物あり、周囲から信頼されていたことがあげられます。
 彼は会社員の本業を持ち、土日に発掘をつづける民間考古学者でした。その行為そのものがボランティア精神に満ちた賞賛されるべきものでした。

 そういう意味では、捏造という行為自体も、すさまじい労力に支えられたものでした。
 読者の方は、藤村氏がこの20数年間に一体どのくらいの石器を「埋めた」と思われますか?

 彼が発見した旧石器は、一つの遺跡で1個ではなく、数点もしくは十数点にのぼっています。また、彼が埋めて他の人が発掘したものもあり、さらには、まだ埋もれたままになっているものもあると想像されます。

 これからあげる数値はあくまで推定ですが、「東日本全体で埋めた石器は、合計2000点前後かそれを越すかもしれない。1回数点ずつでも、積もり積もればこれだけになるのである。飽くなき努力と言うしかない。」(河合信和著前掲書P184)とのことです。
 
 考古学に携わる人たちは、もっと根元的な部分で、「捏造」などはあり得ないと思っていました。
 本来考古学は、我々のルーツがどうなっているか、多くの分からないことから一つ一つ真理を解きだしてくれる夢とロマンのある学問であり、同時に発掘という地味な成果に基づいた学問です。
 
 ちょっとした出来心の1回だけのいたずらとか、ほんの一度の功名心とかならまだしも、継続的に20数年もの間、一人の人間が一つの学問体系を「作為」し続けるということ自体が、誰にも発想できないことでした。
 「その学問に携わるものが、学問的に無意味なことをし続けるはずがない」というのが、多くの考古学者の思いでした。 
 

  
 考古学の限界                                  | このページの先頭へ |

 捏造が長く続いた原因の一つには、考古学という学問の科学的な限界もあります。

 現在全国で確認されている全時代の遺跡の数は、およそ44万カ所という多数にのぼっています。そのうち、約5000カ所が旧石器時代の遺跡です。
 ただ、旧石器時代の遺跡が他の遺跡と異なる点は、縄文時代以降それよりのちの遺跡には、必ずと言っていいほど、住居や墓などの生活痕跡と土器など多種多様な出土品が存在しますが、旧石器時代遺跡には、通常、石器しか存在しない点です。

 その点は、捏造を見破りにくい基本的な要因です。

 また、その石器の年代の測定は、基本的には、石器が埋まっている地層が何万年前頃のものかということに依存します。
 これについては、特に東北地方の多数の研究者にとっては、学問上の師にあたる東北大学の芹沢名誉教授が唱えた、「層位は形式に優先する」という原則が、非常に重い意味をもっていました。
 つまり、古い地層から出た石器なら、どんな形であろうと、古い石器として扱う」という考え方でした。。


 地層の他には、石器自体の風化の程度を発掘する方法(石器の表面が風化して白っぽくなったりすりガラスのようになる、これをパティナと呼ぶ)や、以下の様な他の自然科学の分野の研究との連携による方法もあります。

  • 残留脂肪酸分析…石器等に付着している動植物の脂肪酸から、石器使用時の動植物の存在を確定する
  • 受熱分析…土が400度以上で焼かれるとその中の鉄分が新たに磁力を帯び、磁気方向がその時代の磁北(一定のサイクルで移動する)にそろって並ぶという性質を使用して、例えば、たき火のあとなどを特定する

 しかし、これらの方法にしても、全く誤謬が無いわけではありません。
 たとえば、脂肪酸分析では、馬場壇A20層で藤村氏が発見した石器からナウマン象の脂肪酸が検出されたと報告され、約13万年前の原人がナウマン象を解体した後だと言うことになりました。
 しかし、別の研究者の確認分析では、この脂肪酸は、もっとずっと新しいもので、現代人のものであろうという説が出されました。
 藤村氏が信じられた昔は、前者の説が正しいとされ、藤村氏の捏造が分かった今では、後者の説、ひょっとしたら、その脂肪酸は藤村氏の手指の脂肪、というのが正しいと考えられています。
 
 つまり、地層以外は、一つの説が、絶対的に信憑性があるというものではないのです。

 他の考古学者のチェックが甘かったことについて、岡村先生自身がつぎのように書いておられます。
「1980年頃から1986年まで、私は発掘現場を指揮し、この分野の研究を推進していたが、発掘中の遺跡に石器を埋めるという捏造行為を見抜くことはできなかった。座散乱木遺跡などでは、石器が裏表のどちらに向けて出土したか、どの方位を向いていたかなどについて、、石器の形を図に表して出土状況を記録した。ていねいな記録を取ったにもかかわらず、埋めた痕跡を見破ることができなかったのは、私たちの力不足であり、若さと未熟さであった。非常に遺憾であり、また重い責任を感じている。」(岡村前掲書、改訂版 P007
「私たちや学界の期待以上の「成果」を得たため、批判的・懐疑的な研究姿勢がおろそかになっていたと言う他ない。遺跡に数多く落ちている縄文時代の石器の中から、私などが予想していた中期旧石器の特徴に合致した石器、あるいはどの時代にも共通して存在する石器が捏造用に選ばれていた。そして、発掘や踏査の際に私たちや私たちが地質学者と交わす地層の年代・石器の特徴の見通し・予想などの会話に氏は耳をそばだて、期待通りの石器を年代予想にあう地層に埋め込んでいたようだ。
 完全に裏をかかれたのである。また、石器1点を埋め込むための所要時間は数秒ほどの瞬時であり、白昼の発掘現場においても、発掘区の隙と死角を利用して簡単に実行できたのだ。」(前掲書P79) 
 

  
 マスコミ                                    | このページの先頭へ |

 藤村氏の捏造を暴いたのは、次章で詳しく説明しますが、毎日新聞社の取材班のお手柄でした。

 しかし、藤村氏が「神の手」と呼ばれ、考古学界の「スター」になることができた大きな外部要因もまた、マスコミの考古学に対する報道姿勢でした。
 
 藤村氏がメディアに「デビュー」したのは、1981年の座散乱木遺跡での旧石器の発見でした。1981年9月2日の毎日新聞朝刊は、1面全15段のうち11段も使って、旧石器発見を報じました。
 これがきっかけとなって、前例を踏襲するように報道合戦が始まりました。それまではあまり報道されることがなかった地味な存在であった旧石器遺跡が、一面に取り上げられることによって、いわば全国区に躍り出たのです。

 新聞が歴史上の大発見を大々的に報じた初めは、1972年3月27日付け朝刊における、奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画の発見でした。朝日新聞が壁画のカラー写真を掲載したことで報道合戦に火がつきました。 
 それ以後、1978年の埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣銘の発見の報道など、一面を何段抜きという報道が相次ぎました。
 そして、旧石器時代の遺跡も、マスメディアの報道合戦の対象となりました。

 1993年5月13日には、またもや毎日新聞が「50万年前 日本に原人」という派手な見出しで、藤村氏の発見をスクープしました。この時は、藤村氏を「天才的眼力」と紹介しています。
 こうして「神の手」伝説が、作り上げられていきました。

 世界的な考古学の発見の報道の場合は、このサイトでも紹介している「最古の人類」のなどの例を見ても、ちゃんとした報告が出され、権威のある雑誌・学会誌に掲載されて定説となるというのが、普通の常識的なパターンです。
 ところが、東北旧石器文化研究所が主体となった、総信不動坂・ひょうたん穴・上高森・中島山・袖原3・一斗内松葉山の各遺跡の発掘においては、新聞紙上の「発表」のみで、捏造発覚の時点まで、正式な報告書はひとつも作成されていませんでした。
 
 しかも、なお悪いことに、高等学校の教科書会社も、正式な報告書のないものまで、新聞報道を鵜呑みにして、最古の遺跡として掲載してしまっていたのです。
 教科書執筆者が、必ずしも旧石器時代の専門家ではなかったと言うことはあるにせよ、マスコミの報道によって作られた「権威」が、いかに周囲を動かしていたかをはかり知る事実です。

  
 捏造はどうやって発覚したのか 03/04/15作成  
疑問                                       | このページの先頭へ |

 藤村氏の「神の手」に対して、疑問や批判の声を挙げていた人は、少数ながらいました。以下に紹介します。

1 発見された旧石器の中に鉄線状痕(てつせんじょうこん)やガジリがある
 藤村氏が発見した上高森遺跡の原人段階での「祭祀遺構」とされた石器15点の中の一つに鉄線状痕があり、また、他の一つに、ガジリ痕があるという指摘が複数の学者等からなさていました。

 鉄線状痕とは、石器に付着した酸化鉄の筋です。これは一体何を意味するのでしょう。

 実は、縄文時代以降の石器で農耕が可能な浅いところに埋まっているものは、これまでの歴史の中で農作業の最中に農民の鍬や鍬などの鉄製農具によって表面に強い打撃を受ける場合が多くありました。その場合、鉄製農具があたった部分には傷が付くと同時に、ほんの僅かですが鉄分が付着し、それがそののちに酸化して、鉄線状痕となるのです。
 つまり、これがある石器は、何万年も深い地中に埋まっていた旧石器であるはずがないのです。
 
 ガジリ痕とは、同じく鉄製道具が石器の縁辺や凸部を削った痕跡です。これも、鉄線状痕と同じく、新しい時代の石器を意味します。

 
2 発見された旧石器にの中に押圧剥離(おうあつはくり)の技術が見られる物がある
 石器の加工技術は、年代が下がるに連れて高度なものが発明されていきます。そのひとつに、押圧剥離があります。これは、石器素材を二次加工する際に用いられる技術です。
 まず大きな石材を目的とする石器のより少し多きなぐらいに成形し(一次加工)したあと、鹿の角や長めの骨など角を使って、手で押しながら素材に強い圧力を加え、剥片をはぎ取っていく技術です。ただ石と石とで打撃を加えて、打ち欠いただけの石器とは異なる高度な技術です。

 世界の考古学に詳しい竹岡俊樹氏(当時共立女子大学非常勤講師)は、この技術は、フランスで発見された後期旧石器時代のソリュートレ文化段階から始まるもので、藤村氏の発掘の成果である40万年前とされる原セ笠張遺跡の旧石器にこれが見られるのは、常識的には考えられないという指摘をしていました。 

  
3 藤村氏の発見は完全な石器ばかりで石器を作る際のくずが発見されない
 藤村氏は、縄文時代の石器などから選んだ、それ自体は石器として完全なものばかり埋めていました。ところが、普通の遺跡の発掘では、石器を作る際に打ち欠いた原石だとか、失敗作だとか、石器を作っている痕跡も同じく発見される場合が多いのです。
 このことは、藤村旧石器発見の初期の段階から、複数の研究者から疑問として投げかけられていました。

4 人類学的には日本の原人だけが高度の文化を持っていたなどとは信じられない
 藤村旧石器を正しいとすると、先にも紹介した上高森遺跡の「祭祀遺構」のように、日本にいた原人だけが、世界の他のどの地域における原人よりもはるかに進んだ「精神世界」を持っていることになります。
 この「非常識」さについては、国立科学博物館人類研究部長の馬場悠男氏などから疑問が出されていました。


5 地質学者は座散乱木遺跡の石器発掘層を火砕流の後と断定した
 藤村氏の発見の端緒となった座散乱木遺跡の地層の一部について、地質学者から、その地層は、火山の火砕流が堆積した地層であることが証明されました。
 火砕流とは、あの雲仙普賢岳の噴火で犠牲者が出た、火山の噴出物のことです。あの火砕流の堆積の狭間に人が住んでいると言うことはとうていあり得ないと言うことになります。


6 発掘コンサルタント会社は藤村遺跡の全体像から石器は嘘と断定していた
 長野県小諸市の発掘コンサルタント会社社長角張淳一氏は、インターネットのホームページで、「前期・中期旧石器時代は現代のおとぎ話か」という文章を載せ、以下の点で藤村石器の「嘘」を指摘していました。

  • 石器を発見する人はいつも藤村氏、同じ遺跡でも彼が来ない日は、発見はない。こんなことは常識ではあり得ない。
  • 一つの遺跡から出る石器には作り手の技術などから、ある程度の一貫性が生じる。ところが、藤村氏が同じ遺跡から発見した石器群は、それぞれの加工技術はしっかりしているものの、相互の類似性は一切ない。これは、バラバラに作られた石器を集めたものである。
  • 藤森氏の発掘は、なぜか、発掘現場の端の方からのみ発見される。
 氏は、國學院大學で博士課程を修了した考古学の専門家で、全国の自治体から委託を受け膨大な量の石器等の遺物を分析する会社を経営しています。その確かな目で、冷静に疑問を提示したのでした。

 しかし、これらの疑惑があるにもかかわらず、考古学界は、藤村石器について、自ら検証をしようとはしなかったのです。
 「発見」に対する興奮が、考古学界全体から冷静な判断を失わせていました。
 また、前項のように、マスコミも無批判に藤村氏を礼賛しつづけていました。
  
 スクープ                                  | このページの先頭へ |

 藤村氏の捏造をあばいたきっかけは、2000年8月25日に札幌の毎日新聞北海道支社報道部長のもとに、同根室支局記者から届いた一通のメールでした。
 記者のメールは、藤村石器が「まゆつば」らしいという情報を伝えるもので、これに対して、即日、取材班が結成されました。
  ※以下、この項目は、毎日新聞取材班著前掲書によります。

 前述のように、考古学界では、揺るぎない信頼があった藤村旧石器に対して、毎日新聞北海道支社は、どうして、この疑惑を捜査する積もりになったのでしょう。
 それは、ひとことでいえば、報道部長以下が、旧石器や考古学界の常識に全く無知であったことが幸いしたのでした。
報道部長は、取材班に言っています。「現時点では、海のものとも山のものとも分からない。短期決戦だから、結果が出なくても勉強と思ってやるように。だが、事実なら日本人のルーツにかかわる歴史の歪曲だ。21世紀に持ち込むわけには行かない」(前掲書P41)

 つまり、偏見のない無知と、報道機関としての素朴な使命感が、この取材の原点でした。

 おりしも、この直後の、8月28日から10日間、北海道新十津川町の総信不動坂遺跡の発掘調査が行われ、藤村氏もこれに参加することが分かっていました。
 取材班は、基礎資料を集めて細部を固める一方、機材を調達して、現場での「張り込み」準備を整えました。暗号名、「F作戦」(Fは藤村の頭文字)の開始でした。

 張り込みを始めてから二日目の9月4日の早朝、取材班は期待通り、移植ゴテ(発掘に使う)を持って、石器を埋めに来た藤村氏を確認します。
 現場から約50m離れて潜んでいた取材班の前で、藤本氏は、15分ほどの作業で、石器を埋めるような仕草をしました。
 しかし、この時は、撮影した写真はアングルが悪くて使い物にならず、取り扱いが不慣れだったビデオカメラは、テープではなくメモリースティックのみを入れていたため、なんと肝心の画像が撮影できていないという大失敗をしてしまい、決定的な証拠を入手し損ないました。
 また、取材班自身の目にも、明らかな石器埋納行為が視認されたわけではありませんでした。

 9月5日午前、藤村氏は4日朝目撃された場所付近から、合計25点の旧石器を発見しました。これらは地層学的に約20万年前のものと判断され、翌日の新聞に報道されました。
 取材班は、地団駄を踏んで悔しがります。

 「またもう一度やる」
と判断した取材班は、9月末から発掘が行われる埼玉県小鹿坂遺跡、さらには、10月下旬に発掘が行われる宮城健男上高森遺跡の情報が集めました。
 現地の地形などから、次の張り込みは、上高森遺跡と決定されます。

 東北旧石器文化研究jが発表した上高森遺跡の発掘スケジュールも、疑惑を高めるものでした。
  10月21日発掘開始  同27日記者発表  同29日現地説明会

 「あらかじめ、記者会見が予定されている」ということは、今度も何かが起こる確率は高い。」

 張り込み開始の10月22日の早朝、藤村氏が、発掘現場に現れました。
 取材班に見られているとは知らない藤村氏は、今度も大胆かつ慎重に、石器を埋めました。取材班にとってラッキーだったのは、前とは違って、今回は彼らが潜む草地の僅か10数メートル手前でその行為がなされたことです。
 取材班の目も、ビデオも写真も、明確にその一部始終をとらえました。

 案の定、発掘団は、10月27日の記者会見で成果を発表し、なんとこの時は、藤村氏は記者会見の最中に、新たな石器を掘り出してみせるという離れ業をやってのけました。
 
 しかし、取材班はこの撮影写真のみを証拠にスクープ記事を書くという、写真週刊誌のような軽はずみなことはしませんでした。
 11月4日、取材班は藤村氏本人に単独会見を求め、ビデオと写真を確認させて、「魔がさした」という藤村氏自身の「自白」を確認して上で、記事にしました。
 翌11月5日の毎日新聞朝刊紙面は、この日に備えて練りに練られた特集記事で埋め尽くされました。

 「旧石器発掘ねつ造」「宮城上高森遺跡」「調査団長の藤村氏、 自ら埋める」「「魔がさした」認める」「早朝たったひとりで」などという見出しのもと、十数枚の証拠写真が掲載されました。

 こうして、捏造事件が発覚したのです。
 

  
 日本の旧石器時代像はどいうなったのか 03/04/15作成  
 捏造の総決算                              | このページの先頭へ |

 石器捏造は、日本考古学界を大きな動揺をもたらしました。藤村氏の証言は、当初は、上高森・総信不動坂など一部の遺跡に関しての捏造を認めるものでしたが、それが本当かどうか、それ以外のものは捏造がないのかどうか、調査する必要が生じました。
 
 文化庁が各都道府県に依頼して調査した結果、藤村氏が関与した遺跡は全国で186カ所、そのうち発掘を行った遺跡は33カ所であることが分かりました。
 それらの多くについて検証が行われました。
 検証のポイントは次の三つです。

  1. 鉄分や黒色土が付着していたり、ガジリと呼ぶあたらし剥離や二重パティナと呼ぶ新旧の剥離が求められる石器は存在しないか

  2. 旧石器の作成の方法としては一般的ではない押圧剥離や熱処理という高度な石器加工技術で作られた石器が存在していないか

  3. 縄文時代の石鏃やヘラ状石器に似た石器が存在してはいないか

 線状の鉄分は、もともと埋まっていた石器を農作業の際に鉄製の鍬や鍬で強くこすった際に石器の表面に付着したもの、ガジリは同じく鉄製道具が石器の縁辺や凸部を削った痕跡、黒色土は、旧石器時代とは異なるのちの時代の農業に適する土壌に埋まっていた証拠です。
 二重パティナのパティナとは、石器加工面の風化のことです。最初に作られて使用されていた時の刃こぼれや加工痕跡のパティナと、それとは異なったのちの時代に剥離したり打ち欠いたりした面のパティナが存在することを二重パティナと呼びます。

 2001年5月、日本考古学協会も前・中期旧跡問題調査研究特別委員会を正式に設置し、藤村氏が発見した石器の検証開始しました。

 また、藤村氏自身は、2001年夏から秋にかけて、宮城県の座散乱木・馬場壇A・高森・上高森、埼玉県の小鹿坂など42遺跡の一部あるいは全体を捏造したことを告白しました。
 中には、当初想定できなかった思いがけない遺跡も含まれており、あらためて藤村氏の捏造事件の影響の大きさが確認されました。

 検証と再調査の結果、日本の旧石器時代は大きく書き換えられました。
 
 2002年5月にまとめられた日本考古学協会による検証結果の報告書『前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告』や各自治体の検証結果報告書などによると、右上図のように、たくさんの旧石器遺跡が黒もしくは灰色とされてしまったのです。
 中には、群馬県下川田入沢や福島県七曲のように、発見された旧石器がすべて偽物と判明し、石器がゼロ、つまり、遺跡でなくなってしまったところも出てしまいました。
  

  
 現在の確実な旧石器時代像                           | このページの先頭へ |
 この結果、右の表のように、日本から前期及び中期旧石器時代の遺跡の大半は、消し去られてしまいました。
 
 現時点で確実に言えることは、次の諸点です。
  1. 日本の旧石器時代発見の第一人者である相沢忠洋氏が昭和20年代に発掘していた、群馬県の桐原・不二山・権現山などの遺跡にからは、約5万年前から約4万年ほど前の、中期旧石器時代末から後期旧石器時代にかけての石器群が出土している。

  2. 長野県の野尻湖底からは、30年以上の調査によって、約5万年前から3万3千年前の地層から、石器やナウマン象の骨など数多くの遺物が発見されている。

  3. 1985年に調査された岩手県金取遺跡では、約8万年前の地層からハンドアックスが出土している。

  4. 大分県早水台遺跡からは、芹沢長助氏ら調査によって1964年に中期旧石器時代の石器群が発掘されたが、今日では、その年代は、8万年をさかのぼることはないとされている。なお、人工的に作られた石器ではなく、自然破砕礫であるとの反対意見も強い。

  5. 1964年に愛知県の加生沢遺跡からナイフ状石器などが見つかった。地層から、20万年前から十数万年前のものとされているが、確証はない。

  6. 山形県の富山遺跡から見つかった頁岩製の石器は、形態や製作方法からヨーロッパの前期旧石器時代のものと類似しているとされているが、縄文時代のものだとする意見も強い。

 これらの結果をまとめると、約5万年前より新しい中期旧石器時代末期の遺跡は多く存在するものの、確実にさかのぼることができるのは、岩手県金取遺跡の中期旧石器時代の8万年前までです。
 日本における前期旧石器時代の人間の足跡は、まだ確実には検証されていません。

 2003年から使われている高校の教科書では、次のような記述となっています。
「日本列島で発見されている旧石器時代の遺跡の多くは約3.5万年前以降の後期旧石器時代のものであるが、各地で中期(約3.5〜13万年以前)旧石器時代にさかのぼる遺跡の追究が進められている。」
 ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜敏彦著『詳説日本史』(山川出版2003年版)P7

 1980年から2000年にかけて高校生時代を過ごした方が日本史を学んだ時に目にした、座散乱木、馬場壇A、高森という遺跡名は、もちろん掲載されてはいません。

 日本の旧石器時代の考古学は、20年前に逆戻りしてしまいました。

  
 日本考古学界の最終報告 03/07/21作成  
 日本考古学協会の最終報告                      | このページの先頭へ |

 2003年5月24日、日本考古学協会は東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長による旧石器発掘捏造問題に関する調査研究特別委員会の最終報告を行いました。
 これによって、この事件は、次のように結論づけられました。

  1. 藤村氏の関与した遺跡の数は合計約180であるが、そのうち159遺跡と3遺跡の一部で捏造があった。159箇所は遺跡そのものが捏造であり、学術的な価値は全くない。これによって、氏の関与した前・中期旧石器時代の全遺跡が否定された。

  2. たとえば、教科書にも登場した座散乱木遺跡は、石器が出土した地層は人が生活できない火砕流のあとであり、遺跡そのものが捏造である。

  3. 残る遺跡は後期旧石器時代や縄文時代の遺跡として確定しており、捏造はなかった。

 また、氏の捏造の行為ついては、「藤村氏の遺跡、石器探しは当初から捏造を目的としたと判断せざるを得ない」とし、動機についても「学問的な探求心ではなく、名声の獲得を目的とする行為であった可能性が強い」との厳しい見解を示しました。
   ※『毎日新聞』『日本経済新聞』2003年5月25日朝刊
 そう断定するのが当然でしょう。

 それでは、氏が関与していないわずかに残った前期旧石器・中期旧石器時代の遺跡についてはどうなのでしょう?
  ※遺跡の年代分布は、「現在の確実な旧石器時代像」を参照。

 これについて、2003年7月6日、日本考古学協会は、岩手県宮守村の金取遺跡で石器が出土した地層が、9万〜8万年前に堆積した火山灰によってできた地層であるという調査結果を発表しました。
   ※『中日新聞』2003年7月7日朝刊

 金取遺跡は、1984年に発掘調査が行われた遺跡で、四つの地層から石器が出土しました。このうち最下層の地層からは、石斧やスクレイパー(削器)など9点が出土していました。
 考古学協会は、捏造問題以後、藤村氏が関与していないこの遺跡についても3回にわたる慎重な現地調査を実施し、採取した火山灰の年代測定を自然科学分野の専門家に依頼して分析をしてもらい、この結論を得ました。

 これによって、現段階では、この遺跡が、確実に証明できる日本最古の旧跡遺跡ということになりました。(これより古いものとして、「現在の確実な旧石器時代像」の表と説明で紹介した、愛知県加生沢遺跡の「20万年前か」というのがありますが、確実にはなっていません。)

 これで、2000年11月に始まった、旧跡捏造騒動はやっと最終的な結末を迎えました。

 現在の高校の日本史の教科書には、「日本列島で発見されている旧石器時代の遺跡の多くは約3.5万年前以降の後期旧石器時代のものであるが、各地で中期(約3.5万年〜13万年前)や前期(約13万年前以前)旧石器時代にさかのぼる遺跡の追究が進められている。」となっています。
 ※石井進他著『詳説日本史』(山川出版2003年)P7
 
 この記述は、次回の改訂から、ほんの少し具体的に記述されることになるでしょう。


<追記1>2004年1月20日記述
 2003年12月19日、長崎県教育委員会は、同県平戸市山中町の入口遺跡で、約10万年前の地層下層)および約9万年前の地層(上層)と考えられる地層から、計27点の中期旧石器が見つかったと発表しました。

 上層は上述の金取遺跡と同じ、下層はさらにそれを1万年さかのぼる日本最古の旧石器の出土ということになります。
 年代測定は、奈良教育大の長友恒人教授の研究室が光ルミネッセンス法で測定し、上層9万年プラスマイナス1万1000年、下層10万3000年プラスマイナス2万3000年となっています。
 プラス、マイナスは測定誤差です。
 ※『朝日新聞』(2003年12月20日朝刊1面)


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