藤村氏は、1950年5月4日に仙台市の北約35qにある宮城県中新田町に生まれました。仙台の高校を出て、1968年東北電力系列の計測機器メーカーに就職。1972年になって突然に考古学にかかわるようになり、翌73年には宮城県岩出山町の座散乱木(ざざらぎ)遺跡などで調査を開始、旧石器を発見します。
この時代には、引用した教科書の記述のように、日本に旧石器時代があることは事実として確認されていましたが、それはあくまで、約3.5万年前より新しい時代の後期旧石器時代に属する石器が発見されていただけでした。
当時考古学界は、 「日本にもっと古くから人がいて文化を残したのか、つまり、日本に前期の旧石器文化はあったのかなかったのか」をめぐって論争が続いていました。 これを「前期旧石器存否論争」といいます。
これに決着を付けることが、1970年代の考古学の重要課題でした。
※旧石器時代の区分は、初めは、前期と後期のみ、のちに、前期・中期・後期の3時代区分となります。
藤村氏は、1975年には東北大学考古学研究室の若手研究者などの仲間と「石器文化談話会」を結成し、1976年からこの団体によって座散乱木遺跡などの本格的発掘が始まります。
座散乱木遺跡発掘調査は、つごう3回実施されますが、1981年には、藤村氏の手によって、前期旧石器時代とされる地層から石器が発見されます。その石器は、4万数千年前のものとされました。
もちろん、これは、本物の石器とされ、世紀の大発見となりました。 つまり、これによって、「前期旧石器存否論争」は決着し、日本にも前期旧石器時代があることが証明されたのです。
(この発掘を受けて、しばらくのちの日本史の教科書には、座散乱木遺跡というのが登場し、私も生徒諸君に、この読み方が難解な遺跡の意義を教えたものでした。いかにも試験に出そうなこの「座散乱木」という遺跡名を一生懸命に覚えたことを記憶している方も多いでしょう。
ちなみに、この遺跡も、2001年の調査によって、その前期旧石器の発掘が捏造と判明し、教科書から抹消されました。)
藤村氏は、その後数年間にいくつかの旧石器を「発見」しますが、その業績を不朽のものにしたのが、1984年から88年にわたって行われた宮城県古川市の馬場壇A遺跡の発掘です。
ここでは約17万年前のものとされる石器48点が発見されたほか、「ナウマン象を解体したあと」・「たき火または炉の跡」・「13万年前に浅い谷を囲んで暮らした7家族」など、さながら「発見のデパート」の様にめざましい「発見」がなされました。
これに続く大きな発見は、1988年からはじまったた宮城県築館町の高森遺跡でした。
この遺跡の発掘は、藤森氏らの石器文化談話会の調査によって始まりましたが、途中から宮城県教育委員会が中心となって進められました。1993年の教育委員会の発表では、「日本最古の約50万年前の遺跡」、「日本で北京原人とほぼ同時期の原人の存在が決定づけられた」と結論されました。
近年の原人ブームは、実はこの高森遺跡の記者会見こそが原点でした。
地元の築館町では、町長が「こんなに嬉しいことはない。国の宝だ。」との声明を発表し、遺跡周辺の観光地化を意図して舗装道路の整備に取りかかりました。
同町は「原人の里」であることを宣伝文句に、町おこしを始めました。お土産「原人まんじゅう」はもちろん、日本酒「高森原人」や「原人ラーメン」までも売り出されました。
ところが、高森遺跡では、途中で乗り出した宮城県教育委員会に功績を奪われた形となってしまったことを面白く思わなかった藤森氏らは、高森遺跡から約500メートルしか離れていない場所に上高森遺跡を「発見」し、1993年以降調査に入りました。藤森氏は同じ民間の考古学者鎌田俊昭氏らとともに、1992年には東北旧石器文化研究所を設立(理事長は鎌田氏、藤村氏が副理事長)しており、この東旧研がこの遺跡の発掘を進めていきます。
そして、上高森遺跡では、期待通り、次々と「成果」が上がります。
- 1993年11月、約40万年前のハンドアックス(握り斧)を発見。(」10万年以上前のハンドアックスの発見は日本初)
- 1994年10月50数万年前の日本最古の石器を発掘。石器6点が埋められた埋納遺構も発見。
- 1995年10月60万年前の石器15点が敷き詰められた埋納遺構を発見。
- 1998年11月60万年以上前の石器を発見。日本最古を更新。
- 1999年11月70万年以上前の石器を発掘。日本最古をまた更新。
こうして、上高森遺跡は、日本史の教科書に登場する存在となったのです。
藤村氏は、他の場所でも大活躍を演じます。
彼は埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡の発掘に協力していましたが、2000年2月、柱の穴の跡と14点の石器を発見しました。この地層は約50万年前のものとされました。それまで発見されていた住居の柱穴跡の最古のものは、鹿児島県立切遺跡の約3万年前でしたから、この発見で一挙に47万年も更新してしまったのでした。
秩父市は、この発見で一気に「秩父原人」に沸き返りました。
「秩父原人祭り」が開催され、西武鉄道秩父駅周辺のレストランには、「原人定食」・「原人ワイン」が登場し、土産物の菓子も「原人」の名前であふれました。
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