この項目では、視点を変えて、横浜の外国人がどうして薩摩藩の行列に入り込み、斬られることになったのか、外国人の視点から追跡して見ます。日本史の教科書にはあまり見られない視点です。
この時、薩摩藩士に斬りかかられたのは、当時いずれも横浜在住のイギリス人で、次の4人でした。
|
氏 名 |
被害 |
事件時年齢 |
生没年 |
死亡場所 |
1 |
チャールス・レノックス・リチャードソン |
死亡 |
29歳 |
1833−1862 |
生麦 |
2 |
ウィリアム・マーシャル |
重傷 |
35歳 |
1827−1873 |
横浜 |
3 |
ウッドソープ・チャールス・クラーク |
重傷 |
28歳 |
1834−1867 |
横浜 |
4 |
マーガレット・ワトソン・ボラデイル夫人 |
軽傷 |
28歳 |
1834−1870 |
ロンドン |
※ |
生麦事件について詳しく知るための参考文献としては、次の3つがあげられます。
宮澤眞一著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年)当時の資料を丹念にたどって、死亡したリチャードソン氏の視点から事件を再現した著書です。 |
冊子『生麦事件』(横浜市教育委員会 生麦事件顕彰会 2002年)横浜市史に掲載された生麦事件関係項目を一部抜粋して増刷された冊子です。 |
吉村昭著『生麦事件』(新潮社 1998年)吉村昭氏の小説です。生麦事件から薩英戦争を経て薩摩藩とイギリスの和解までを、とてもいきいきと描写した名作です。 |
|
そもそも、日本人が強烈な攘夷思想を持っている中で、なぜ、外国人が国内通行できる様な状況が生まれたかという点から説明します。
日米和親条約締結(1854年)後、江戸幕府と1856年に伊豆下田に赴任したアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの間に通商条約締結の交渉が行われました。江戸幕府側の担当であった海防掛岩瀬忠震らとハリスの交渉の回数は、実に13回の多きに上りました。
この条約は1857年末にはまとまりましたが、1858年2月、幕府が「単なる儀式」とおもっていた朝廷による条約勅許が拒否され、調印は遅れました。
井伊直弼の大老就任によって、将軍継嗣問題(病弱な第13代将軍家定の後継将軍をめぐる争い)とともに決着を見ます。日米修好通商条約は条約は、朝廷の勅許のないまま、1858年6月に調印されました。
アメリカに先を越されたイギリスは、代表のエルギン卿を上海から艦隊とともに送り込みました。1858年8月のことです。先にアメリカとの条約が結ばれていますから大きな問題はなく、その月のうちに日英修好通商条約が調印されました。
成立した通商条約の内容のうち、この事件に関係することが二つあります。
1 |
開港場所とされた5カ所のうち、最も江戸に近いところは東海道の神奈川宿とされました。しかし、実際には、江戸幕府は神奈川ではなく湾を挟んだ南側に位置し、東海道の宿場町から離れた横浜村を開港地としました。 |
2 |
アヘン戦争以後欧米列強は中国に対してさまざまな外交上の権利を認めさせていきますが、イギリスは日英数勝航海条約調印の直前、アロー戦争後の北京再進駐によって、天津など11港の新たな開港、外国人の中国国内での商用旅行の自由を認めさせています。
しかし、江戸幕府政権は、あくまで開港地の居留地以外での商行為を認めないこととし、外国人の国内旅行の自由は認められませんでした。
ただし、横浜に居留する外国人が「遊歩」できる範囲は認めざれ、その距離は江戸方向は、横浜と江戸の中間の川崎まで、その他どの方角にも10里四方とされました。 |
※ |
井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P218−225 |
この結果、開港地は一応は東海道の宿場町から街道をはずれた横浜村へと変更となり、宿場町における外国人と日本人との混住という最悪の事態は避けられたものの、横浜在住の外国人は、居留地横浜外への「遊歩」を認められました。
狭い居留地での鬱屈とした生活から気分転換を求める外国人は、東は、東海道の鶴見川を越えた川崎大師まで「散歩」に出かけることが多くなりました。
|