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街道を歩く6
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件3  事件発生まで   07/08/19作成 
 事件発生現場                                           | このページの先頭へ |

 牛頭材木店(説明は前ページです。←)から、上の地図中Aの生麦事件発生現場までは、旧東海道を東京(江戸)方面へ向かって、距離にして500〜600m程、歩いて7・8分です。

 直ぐ近くなんですが、実際に行ってみると一つ注意事項があります。
 実は、その現場は、運悪く宅配便の荷物車が停まっていたりすると、見逃しかねないものです。
 下が現在の事件発生現場の写真です。

 電柱に表示してある住所では、ここは横浜市鶴見区生麦3−16です。一体どういう風に事件現場と説明してあるのか、それと判別できるの、写真から分かりますでしょうか?


 旧東海道ですと説明されなければそれとは分からない普通の道です。 

 道路南側には、飯島葬祭・飯島斎場店があります。

 注目すべきは北側です。駐車場と、赤い道路コーンと・・・。
(撮影日 07/06/13) 


 この写真ならおわかりですね。

 実が北側の「池谷」さんという普通の民家の駐車場横のフェンスに、「生麦事件発生現場」という説明板が設置されているのです。

 これは、近くにある「
生麦事件参考館」が1999(平成11)年1月に設置したものです。
 「
生麦事件参考館」は京急生麦駅近くにある私設の資料館です。

 


 これが、その説明板のアップです。
 事件直後に生麦村の名主の関口氏が日記に書き留めた記録です。(「関口日記」については、前ページの「生麦事件2」で解説しました。 こちらです。←)


 日記でだけではなく、画家早川松山氏の錦絵「生麦之発殺」も憑いています。
 日記を訳すと概ね次の様になります(私が訳しました)。青文字は、日記中の言葉そのものです。

「 島津三郎様(島津久光のこと)の行列が京都へ上る途中に、外国人4人(一人は女性)が横浜からやって来た。生麦村本宮町勘左右衛門の家の前で、行列と外国人一行が行き会い、外国人が下馬しなかったため行列の侍に斬りつけられた。外国人は直ぐに後戻りして逃げ去ったが、侍が追いかけて一人を松原で殺し、他の3人は傷を負ったまま神奈川へ逃げ去った。幕府の役人が来たので、村役人は桐屋で説明をした。死亡した外国人の死骸は横浜から外国人が大勢来て引き取っていった。」



 
 つまり、この説明板の設置されたお宅の前で、
1862(文久2)年8月21日(太陽暦9月14日)に、薩摩藩の島津久光の行列に随行した家来によって、横浜在住の外国人4人が斬りつけられたのです。そして、そのうち1名は、結果的に生麦村内で死亡するという大事件となったのです。


 外国人と攘夷思想                                       | このページの先頭へ |

 このような外国人殺傷事件は、何故起こったのでしょうか?

 ペリー艦隊の武力を目の当たりにした江戸幕府政権は、220年に及ぶ鎖国政策を改め、
1854年には諸外国との和親条約、ついで1858年には通商条約の締結という極めて現実的な路線を選択しました。

 しかし、当時の武士階級、いや日本人の多くは、
攘夷思想に凝り固まっており、外国人を汚らわしい夷狄(いてき)ととらえ、彼らが日本で暮らすことを、国土が穢されると考えて忌み嫌いました。
「国土を穢す夷狄は打ち払うべし」

 その結果、通商条約によって横浜などに外国人が居住するようになると、
外国人殺傷事件があいつぎました。 

1859

横浜でロシア人水夫が殺傷される。

1860

アメリカ領事ハリスの通訳、ヒュースケンが殺害される。

1861

江戸品川東禅寺にあったイギリス公使館が襲撃される。


 実は、この時
薩摩藩の島津久光そのものは、政治路線として尊王攘夷ではなく、公武合体路線で動いており、江戸におもむいたのも、公武合体路線を現実化して、薩摩藩の政治的地位を高めようとするものでした。

ややこしい話ですが、生麦事件の一方の当事者である行列の主、島津久光は薩摩藩主ではありません。
 薩摩藩主は、英明の誉れ高かった島津斉彬の死後、その異母弟である久光の子ども忠義に継承されており、久光は、若い藩主を後見する実質的な藩主、国父という存在でした。したがって、島津久光の行列は、厳密には大名行列とは表現しません。


 しかし、藩の実権者の現実的な路線とは関係なく、
薩摩藩の武士たちも本質的に攘夷思想の信奉者でした。したがって、久光の行列に無礼を働く外国人があれば、日本人に対するのと同じように、切り捨ててしまうことについては、何ら疑問を持っていませんでした。もちろん、久光自身もこのことについては、当然と思っていました。

 こうして、開港地横浜に隣接して東海道という幹線道路が通っている神奈川宿においては、いつ事件が発生してもおかしくない状況になっていました。


 外国人の横浜居住と国内移動                            | このページの先頭へ |

 この項目では、視点を変えて、横浜の外国人がどうして薩摩藩の行列に入り込み、斬られることになったのか、外国人の視点から追跡して見ます。日本史の教科書にはあまり見られない視点です。

 この時、薩摩藩士に斬りかかられたのは、当時いずれも横浜在住のイギリス人で、次の4人でした。

氏      名

被害 事件時年齢 生没年 死亡場所

チャールス・レノックス・リチャードソン 死亡 29歳 1833−1862 生麦

ウィリアム・マーシャル 重傷 35歳 1827−1873 横浜

ウッドソープ・チャールス・クラーク 重傷 28歳 1834−1867 横浜

マーガレット・ワトソン・ボラデイル夫人 軽傷 28歳 1834−1870 ロンドン

生麦事件について詳しく知るための参考文献としては、次の3つがあげられます。

宮澤眞一著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年)当時の資料を丹念にたどって、死亡したリチャードソン氏の視点から事件を再現した著書です。

冊子『生麦事件』(横浜市教育委員会 生麦事件顕彰会 2002年)横浜市史に掲載された生麦事件関係項目を一部抜粋して増刷された冊子です。

吉村昭著『生麦事件』(新潮社 1998年)吉村昭氏の小説です。生麦事件から薩英戦争を経て薩摩藩とイギリスの和解までを、とてもいきいきと描写した名作です。


 そもそも、日本人が強烈な攘夷思想を持っている中で、なぜ、外国人が国内通行できる様な状況が生まれたかという点から説明します。
 
 日米和親条約締結(1854年)後、江戸幕府と1856年に
伊豆下田に赴任したアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの間に通商条約締結の交渉が行われました。江戸幕府側の担当であった海防掛岩瀬忠震らとハリスの交渉の回数は、実に13回の多きに上りました。
 この条約は1857年末にはまとまりましたが、1858年2月、幕府が「単なる儀式」とおもっていた朝廷による条約勅許が拒否され、調印は遅れました。
 井伊直弼の大老就任によって、将軍継嗣問題(病弱な第13代将軍家定の後継将軍をめぐる争い)とともに決着を見ます。
日米修好通商条約は条約は、朝廷の勅許のないまま、1858年6月に調印されました。

 アメリカに先を越されたイギリスは、代表のエルギン卿を上海から艦隊とともに送り込みました。1858年8月のことです。先にアメリカとの条約が結ばれていますから大きな問題はなく、その月のうちに
日英修好通商条約が調印されました。

 成立した通商条約の内容のうち、この事件に関係することが二つあります。

 開港場所とされた5カ所のうち、最も江戸に近いところは東海道の神奈川宿とされました。しかし、実際には、江戸幕府は神奈川ではなく湾を挟んだ南側に位置し、東海道の宿場町から離れた横浜村を開港地としました。

 アヘン戦争以後欧米列強は中国に対してさまざまな外交上の権利を認めさせていきますが、イギリスは日英数勝航海条約調印の直前、アロー戦争後の北京再進駐によって、天津など11港の新たな開港、外国人の中国国内での商用旅行の自由を認めさせています。
 しかし、江戸幕府政権は、あくまで開港地の居留地以外での商行為を認めないこととし、外国人の国内旅行の自由は認められませんでした。
 ただし、
横浜に居留する外国人が「遊歩」できる範囲は認めざれ、その距離は江戸方向は、横浜と江戸の中間の川崎まで、その他どの方角にも10里四方とされました。

井上勝生著『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社 2002年)P218−225


 この結果、開港地は一応は東海道の宿場町から街道をはずれた横浜村へと変更となり、宿場町における外国人と日本人との混住という
最悪の事態は避けられたものの、横浜在住の外国人は、居留地横浜外への「遊歩」を認められました。
 狭い居留地での鬱屈とした生活から気分転換を求める外国人は、東は、
東海道の鶴見川を越えた川崎大師まで「散歩」に出かけることが多くなりました。


 
 現在と横浜市の中心部の地図です。

 1872(明治5)年の新橋−横浜間の鉄道開業時の横浜駅は、現在の桜木町駅でした。
 これについては、「街道を歩く09 神奈川宿と横浜」で説明します。

 旧東海道の神奈川宿は、現在のJR東海道線東神奈川駅、京浜急行線神奈川駅のある地域でした。
 現JR横浜駅がその直ぐ西に位置しているため、「神奈川」と「横浜」の違いといわれても、そこに住んでいる住民でないとピンと来ません。


 
 幕末の横浜です。
 上の現在の地図では、神奈川と横浜の近いが今ひとつ分かりませんでしたが、この地図では明解です。
 
 海岸線を北東から南西へ走る旧東海道にそって神奈川宿があり、その「対岸」に横浜村がありました。

 横浜は宿場町神奈川とはまったく別の位置にある、戸数100戸足らずの半農半漁のひなびた村でした。
 大岡川・中村川の3河川の作るデルタと砂州からなる地域で、砂州の根元に当時の横浜村がありました。

 
 イギリス人商人                                       | このページの先頭へ |

 事件の犠牲者となった4人のイギリス人は、どのようにして運命の瞬間を迎えたのでしょうか。
 
 19世紀の中頃、本国にいてはそれほどの地位と財産も望めないイギリス人の若者にとって、 東アジアに出かけて貿易等に従事することは、多少の危険を冒し、冒険を経験することにはなるにしても、一攫千金の夢を実現する極めて具体的な手段でした。
 彼らは20歳前後で海外におもむき、商社で見習いとして働いたのち、経営者のパートナーとして経営に参画するか、独立して一旗揚げるかというのが通例のケースでした。
 イギリス本国では、馬を所有するというのは相当な地位と収入が伴わないと簡単にはできないことでしたが、中国や日本では容易に実現できる「夢」のうちのひとつでした。
 その馬に乗って許された範囲内を「遊歩」することは、狭い居留地に生活する彼らの最大の楽しみのひとつでした。
 
 生麦事件の犠牲者となる4人も、1860年末の段階では、すでにいずれも上海に滞在して貿易等に従事(ボラデイル夫人の場合は夫が)しており、それから2年の間に、それぞれの理由でさらに横浜に渡りました。
 4人のうち最も遅く横浜に着いたのは殺されたリチャードソンで、事件が起こる1862年の初夏、つまり、事件のおこる2ヶ月半ほど前に日本にやって来ました。
 
 旧暦8月21日の乗馬での遠出の計画は、日本での生活の先輩であり事件当時の年齢も一番高かったマーシャル(当時36歳)が立てました。
 ボラデイル夫人は、マーシャルの妻の妹という関係であり、遠出の主たる目的は、新しく横浜にやってきた義理の妹を慰めるためのものでした。これに、貿易会社に勤務するクラーク、マーシャル家の隣に住んでいたリチャードソンを加えたという格好で、4人の遠出の約束ができあがりました。

 マーシャルとクラークはすでに自分の馬を持っていましたが、残る2人はまだでした。マーシャルは、横浜で馬を手配し、配下のものを使って先に4頭の馬を陸路神奈川宿の船着き場まで連れて行かせ(陸路は横浜の西側を迂回する遠回りの道しかありませんでした)、自分たちは、横浜から舟で神奈川宿まで渡りました。
 そして、神奈川宿に待たせていた馬に乗り、通例のコースに従って、川崎大師を目指したのです。 



 横浜のランドマーク、その名もランドマークタワーから生麦・鶴見・川崎方面を臨む。
 右手前の半月型の印象的な建物は、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル。(撮影日 07/06/15)
 その上、右端奥の白い塔状の建物が写っている場所の奥が、鶴見川の河口。川崎大師はさらにその向こうです。写真で見るとかなり遠いところまでの「遊歩」です。

 | 「街道を歩く13」の地図へ行く |

 これは、現在の京浜国道1号線(国道15号線)の南側歩道から横浜市神奈川区宮の前商店街通りに面した州崎神宮を撮影した写真です。
 州崎神宮は、源頼朝の創建と伝えられる由緒ある神社で、京浜急行神奈川駅のすぐ南、歩いて3分の所にあります。

 上記の説明は、生麦事件当時の状況に変えると以下のようになります。
 
現在の宮の前商店街通りは、神奈川宿を通る旧東海道そのものであり、州崎神宮前には、南の海に向かって坂を下ったところに船着き場がありました。これを「宮之下河岸」といいました。横浜開港後は横浜と神奈川を結ぶ船便が往来する渡船場となりました。 (ちなみに、私が写真を撮影している場所は、当時は海でした。)
 
 1862年の事件当日、イギリス人4人は横浜からこの船着き場に到着し、手配して待たせておいた馬に乗って、東海道を東に向かいました。

 
 遭遇                                                   | このページの先頭へ |

 4人のイギリス人が州崎神社の前から東海道を東へ向かった時、すでに、島津久光の大行列は次の目的地神奈川宿を目指して、休憩した川崎宿を出発していました。
  
 4人は、この日本の地で、日本人によって斬りつけられるとは思ってはいませんでした。これまでの外国人殺傷事件は、水兵、通訳、公使館員などであり、民間の商人には危害は及んでいませんでした。彼らは誰一人ピストルすら持たず、まったく無防備で遠出に出かけました。

 また、一方、彼らは、大名やそれに類する行列というものがどんなものかと言うことも理解してはいませんでした。下馬して敬意を表すべきであるというような「日本の文化への理解」はまったく持ち合わせず、もし行列に遭遇しても脇によければ何とかなるぐらいの発想しかありませんでした。

 

「 先頭に進むリチヤードソンとマーガレットは、日本の交通習慣について、なんら明確な知識を持っていなかった。本当なら横浜在住老のマーシャルかクラークが、日本事情にまだしも明るいわけだから、このとき先導役につくべきだった。それだけ安心していたとも言える。呑気なピクニック気分に浸るばかりで、事件の予測はできなかったようである。

 とりわけ主要幹線としての東海道には特殊な事情があった。西国からの大名が頻繁に通過する。
 もし外国人が大名行列に出会った場合には、どのように双方が対応すればよいのだろうか。幕府としては苦しい立場にあった。

 一方で、大名に参勤交代を強いるかわりに、大名行列の通行にあたっては、大幅な権限を幕府は認めてきた。これは慣習法となっていた。行列を乱すようなものがいたら、犬や猫のように、相手かまわずに切り捨てても、お咎めなしなのである。相手が外国人の場合はどうなるのか。日本人の狼藷者と同じように、切り捨ててかまわない、と考える大名たちがいた。自分たちになんら相談もなく、勝手に幕府が外国と結んだ条約ではないか、なぜ全国諸藩の藩主がそれに縛られなければならないのか。ここは自分たちの国日本なのだから、外国人に道を譲る必要などない、と威勢のよい意見があちこちから飛び交っていた。外様大名たちである。薩摩藩もそうである。

 他方では、外国政府と取り交わした条約において、幕府は外国人の通行権を川崎まで認めた。
しかも、いったん条約で約束させたとなると、外国人はその権利を最大限に行使しようとした。少しでも限定を受けることに強く抵抗するのだった。大名行列の慣習的な権利。それに条約の3条に定めた外国人通行の権利。どちらも絶対的な権利なのである。同じ道路の上に、二つの絶対的な権利が両立できるものだろうか。権利の衝突は、遅かれ早かれ、起こりうる事態なのである。」

宮澤眞一前掲著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年) P138−139(行間調整は引用者が行いました。) 


 彼らは生麦村に入る前から、数人の侍に護衛された箱や荷物を運ぶ集団にいくつか出会います。大名行列というのはこういう
「先触れ」ともいうべき小集団がいくつかあって、やがて本隊の登場ということになるのです。

 
先触れの小集団は、それぞれの間隔が空いており、また人数も少なく、街道幅が3m〜4mはある東海道では、お互いが道の脇によることで、何もトラブルは起こることなくすれ違うことができました。
 
 しかし、行列の本隊が近づいてくると、そうはいきませんでした。 


「 ところが、街道のカーブを曲がってから、急に行列中心部の全景が、リチャードソンの視界に入った。総勢で何百人ほどになるのだろうか。この狭い道路に・・・・、とリチャードソンは内心動転した。街道の衆人や村人がどこへ消え去ったものか、ここにきて人影が疎らになった。

 平屋の民家に飛び込む男がいた。後ろ手で格子戸を閉めた。ピシャという音が、鳴りを静めた街道に鋭く響いた。前方に鶴見川の広い橋が見える位置である。

 大名行列の中心部との距離が縮まっていく。リチャードソンは一歩先に進み出る。マーガレットの前に出ると、馬の速度を落とした。一列縦隊で行列を通過させるつもりであった。街道の左脇に沿い、歩行速度で4人は徐行した。

 まず、布の袋に鉄砲らしいものを包んで運んでいる集団が、大挙して橋をわたり、接近してきた。馬は歩くというより、足踏み状態に近くなった。先頭の男がしきりに手を振っていた。道の端に寄れという仕種に思えた。しかし、これ以上脇へ寄ったら、街道脇の土手にでも登らなければならない。リチャードソンの手綱さばきはもたついた。馬脚が乱れはじめた。かえって道の中央に乗り出したりした。すると鉄砲組の中から、侍たちが腰の太刀を左手で押さえ、小走りに進み出ては、激しく右手を振った。脇に寄れと言うのか、それとも馬を下りろと命じているのか、見当がつかなかった。

 4人のなかの誰一人、馬を下りようと提案するものはいなかった。さらに中小姓の集団、約30人ほどの若い侍が、整然と隊列をつくり迫って来た。彼らの目付きは、険しく殺気だっていた。その一団に混じって、馬に乗った侍たち数人がいた。黒い漆塗りの帽子には、中央に旗と同じ紋章がついている。円の中に十字が入っている。マーシャルは一人つぶやいた。

「薩摩だ。チャーリー、後生だから、騒ぎを大きくしないでくれ!」

宮澤眞一前掲著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年) P147−148(行間調整は引用者が行いました。) 


 薩摩藩士の刀が抜かれる瞬間が迫ってきました。


 左の写真:牛頭材木店前から街道を東に臨んでいます。正面の交差点(信号機)のところから道は左(北側)へ折れていきます。
 イギリス人一行は、この写真の部分で、いくつかの先触れ小集団とすれ違いました。

 右の写真:左の写真の奥の交差点(信号機)の場所からさらに東方の事件発生現場を臨んだ写真です。
 イギリス人一行がここまできた時、4人のうち先頭を進むリチャードソンの視界には、道を一杯にして進んでくる薩摩藩士の何百人もの行列が入ったと考えられます。
 事件は、右の写真の、道路の奥に後ろ向きに停車している黒いバンのさらに向こうで起きました。


 ほとんど、連続TVドラマの様になってしまいました。
 続きは、来週掲載します。(^_^)


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