| 未来航路Topへ | | メニューへ | |  前へ | | 次へ |

街道を歩く7
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件4 リチャードソン殺害その1 07/08/26作成 07/08/30一部修正
 事件発生                                              | このページの先頭へ |

 ついに事件が発生します。1862(文久2)年8月21日(新暦9月14日)の午後2時過ぎのことです。

 引き返しもせず、また、馬から下りることもなく、道一杯の行列の中に入ってしまったイギリス人4人(先頭は
リチャードソン、直ぐ後にボラデイル夫人マーガレット、やや遅れてマーシャル、続いてクラーク)に対して、薩摩藩士の怒りが高まります。

 
島津久光の籠の右後ろを随行していた奈良原喜左衛門は籠前に出て、イギリス人に向かって、「引き返せ」と叫びました。
 事態が大変まずい状況となっていることに動揺した
リチャードソンは、馬の首をめぐらして、引き返そうとします。そして、後ろを向いてマーガレットに叫ぼうとしました。

 しかし、これは結果的に、ますます行列の中に馬を入り込ませることになりました。
 次の瞬間、
奈良原の剣が抜かれ、薩摩示現流の達人の太刀がリチャードソンを襲いました。
 間をおかず、別の侍が
マーガレットに斬りかかります。さらに、マーシャルクラークには、すでにすれ違っていた、先の一団から引き返してきた何名かも含めて、数名の武士が太刀を浴びせました。
 最も深手を負ったのは
リチャードソンです。奈良原によって左脇腹と左肩に致命傷を負いました。
 
 4人のイギリス人はピストルも剣も持っていません。できることは、早く馬の首をめぐらして、神奈川方向へ逃げることだけです。
 4人それぞれの状況、馬の反応が違い、逃げた順序は、
クラークリチャードソンマーシャルマーガレットとなりました。

 先を行く警護の武士の中にいた、
久木村治休は、逃走してきたリチャードソンマーシャルに斬りつけました。
 
マーシャルはかすり傷で済みましたが、リチャードソンは不運にも久木村の太刀も浴び、傷口の左脇腹を押さえていた右手もろとも再び左脇腹を斬られてしまいました。
 


<生麦事件発生時のイメージアニメーション>

 あらすじは、資料等により明らかとなっていますが、現場にいた武士の数やイギリス人含めてそれぞれの人間の位置の詳細は、まったくの想像です。

アニメスタート

アニメ繰り返し


【余談です】  
 ちょっと脱線です。
 ことを荒立てるわけではありませんが、高校の教科書の不備を指摘しておきます。
 生麦事件については、詳しい記述はなく、次のように簡単に書かれています。(文字の色つけは引用者が施しました。)


「1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦で、江戸から帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷され( 生麦事件)、(以下略)」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P231


「その帰途、横浜郊外の生麦村で島津久光の行列を横切り、イギリス人殺傷される事件が起こった(生麦事件)。」

青木美智男・深谷克己・鈴木正幸・木村茂光他著『日本史B』(三省堂 2005年)P230 


 ついでに、予備校の先生の本も引用します。

「さて、久光が幕府を指導して意気揚々と江戸からもう一度京都へ戻る途中、生麦事件が起こります。横浜のすぐそばの生麦というところで、行列の前を、馬に乗ったイギリス人が横切り、久光の部下によって切り殺された。」

石川晶康著『石川日本史B講義の実況中継B 近世〜近代』(語学春秋社 2006年)P118 

 
 「行列を横切」るという表現が一般には流布していますが、上で説明したように、彼らは街道を対向してきたのであり、決して横切ったのではありません。「
引き返そうとして行列の中に割り込んだ」というのなら分かりますが・・・。

 事実と異なる表現が横行するのは、「横切る」の方が、外国人の無礼さを象徴的に説明できるからでしょうか。慎重にすべきです。


 リチャードソン死亡                                    | このページの先頭へ |

 重傷を負ったリチャードソンはどうなったでしょうか?

「 リチヤードソンは右手に手綱を取り、一町余り逃げ走ったが鉄砲組久木村利休が再び左腹の同所を左手甲にかけて切りつけたので、鮮血淋漓として血魂を落しつつ、十町余り逃げのびた。
    (中 略)
 ここに血魂を落しつつ馬を駈けたと書いたのは、鶴太十郎の報告に「一人は一二町逃退き、肩より腹へ切候
切口より臓腑之様成もの出桐屋と申料理屋の前にて落、夫れより二町程逃退、落馬いたし候」とあるに当る。桐屋源四郎宅というのは、遭難地から南へ約三町、現時は五四三番地に当っている。この桐星から凡そ二町も進んで、字松原というところで、彼は負傷に堪えかねて落馬した。当時あたかもその辺に水茶屋が一軒あった。これは百姓甚五郎の妻ふじの出していたものであるが、負傷者はここで一杯の水を乞うた。一少年がこれを認めた瞬間に、一挺の乗物が止まって、一士は彼に数創を加えたということを、ジャパン・エキスプレスに記してある。
(中 略)
 右ふじの近辺に住んでいた大工徳太郎の女房も来合せたので、その始末書を出したその中に、「落馬致候異人様は、並木縁りへ倒候を見受候処、左りの脇腹に深手有之苦身罷在候様子に見受候処、士分の者五六人程にて、右異人の手を取り、畑中へ曳込み候内、一人の士、剣を抜き候二付驚入陰へ入居候二付、其余の始末一切相弁不申候。・・・・往来静り候二付、尚又立出見候処、最早異人相果候様子にて、右死骸へ古蘆簀打掛け有之候」とあるに相当するのである。」

生麦事件碑顕彰会編『生麦事件』(横浜市教育委員会文化財課 2002年)P3 太字赤字青字は引用者が施しました。 

 
 2度斬られた
リチャードソンでしたが、馬にしがみついて必死に逃げました。

 途中、先に行っていた
クラークが馬を止めていて、意識があったリチャードソンは、クラークと会話をしました。しかし、出血はひどく、絶望的でした。クラークに追いつく前に、「桐屋」という料理屋の前で、斬られた左腹から「臓物」(腸の一部と推定されます)を落としているという状況でした。
 
 そこへ、遅れた
マーシャルマーガレットも追いつきました。
 
マーシャルは、マーガレットクラークを先に行かせ、自分は深手を負いながらも、リチャードソンを保護する役目をしながら連れ添って横浜を目指しました。
 しかし、事件現場から1km程の所で、ついに
リチャードソンは力尽きて落馬します。マーシャルは最早これまでと判断し、リチャードソンを置き去りにして馬だけつれて先を急ぎました。

 置き去りにされた
リチャードソンの元へ、薩摩藩士が駆けつけるにのそれほどに時間はかかりませんでした。
 上の引用文「乗物」に乗っていたのは、上のアニメでは先頭のグループの籠の中にいた人物、先導役の供目付
海江田武次でした。
 
 彼らは、その地の茶屋の女らに助けられてかろうじて道ばたの松の木にもたせかけられていた
リチャードソンを発見し、海江田がとどめを刺して首をはね(作法に従って首の皮一枚残す)、近くの小川の河原の草原に運んで放置しました。

 
リチャードソンの遺体は、事件から3時間ほどたって、横浜からやって来てイギリス領事らによって発見され、横浜に運ばれました。


  リチャードソンらの一行は、A地点で襲われ、東海道を神奈川の方角へ向かって必死で逃げました。
 しかし、ついに命運尽き、B地点で落馬。

  同行していたマーシャルも最早助けることは不可能と判断し、その場に残されました。
  ほどなく、
海江田武次ら薩摩藩士が到着し、とどめを刺しました。

上の地図は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。

 

 A地点(事件発生、リチャードソンら斬られる)少し先からからおよそ1km西方のB地点(リチャードソン絶命)をズームレンズで遠望。(撮影日 07/06/13)
 リチャードソンは、この道を、はらわたの一部(腸?)が落下する重傷を負いながら、馬にしがみついて必死に走りました。

 途中の左手の木の緑の多い部分はキリンビール横浜工場正門前。
 手前の交差点に止まっているオレンジ色の服の男性の頭の上の部分のはるか遠方に、絶命地点西にあるJR横浜貨物線の青いガードがほんの少し見えます。
 
 A地点B地点間の距離については、上の引用文の「鶴太十郎」の報告とは、積算距離が違っていますが、現在の見解では、A地点B地点は、上の地図のように「判定」されています。

 

 「生麦事件現場付近の当時の東海道
 高校の日本史の教科書や資料集によく登場する写真です。

 同じ場所で、撮られた写真がもう一枚有ります。上の写真の右手の畑の中から街道を写したもので、上の写真とは違って街道上に人間が3人写っているものです。

上の写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 この2つの写真は横浜にいたイギリス人フェリックス・ベアト(イタリア生まれでのちイギリス国籍取得)の撮影によるものです。
 この二つの写真については、引用書・掲載書によっては、そのものずばり「生麦事件現場写真」とされている場合もありますが、実は、この写真の正確な撮影月日と正確な撮影場所は把握されていません。確かなことから言えば、「幕末の東海道の生麦事件の現場付近の写真」という説明になります。
 この写真の撮影者ベアトは、クリミヤ戦争やインドのセポイの乱、中国の阿片戦争など、イギリスの植民地で今でいう報道写真を撮っていましたが、日本に来て横浜居留地に写真館を開きました。
 横浜は当時日本最大の貿易港として多くの外国人が居留していました。江の島、鎌倉、金沢八景などの名所には多くの外国人が訪れ、また東海道を馬で散策する外国人も多かったのです。ベアトは、こうした外国人たちの帰国の際の日本土産として日本の風景や風俗を写した写真を販売する商売を始め、成功しました。


 100枚組のセット200ドル、50枚組のハーフセット100ドル、1枚は2ドルという価格の記録も残っています。上の写真1枚は、2ドルだったわけです。

 ただし、ベアトの来日は、1863(文久3)年春頃と推定されており、少なくとも上の写真は、事件の翌年以降の撮影ということになります。

 また、彼は写真にタイトル、注釈や解説を記述しています。
 上の写真に関しては、「View of the Tokaido, the spot where Mr. Richardson was murdered」というタイトルがあり、解説には次のように記されています。

 「ここを通ると我々外国人は、だれもみな人生の全盛期の年齢で殺された、この若い紳士の不幸な運命に同情を禁じ得ない。リチャードソン氏は東洋に長く滞在し、英国へ帰る直前のことであった。」
 
 
このタイトルと解説からすれば、写真の場所は、B地点であると思われます。
 

以上ベアトに関しては、次の資料を参考にしました。
横浜開港資料館編集『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料普及協会 1987年)P4、69、175〜181

 

 今回は、アニメーションの作成に時間がかかってしまいました。
 またまた「続きは来週」です。
 次ページでは、B地点、すなわち「
リチャードソン殺害現場」の現在の様子を説明します。 

  
| メニューへ | |  前へ | | 次へ |