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戦艦大和について考える13
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認その10「片道燃料」について6
 第2艦隊                                                    | このページの先頭へ |

 大和は、沖縄に出撃する時、第2艦隊の旗艦でした。艦隊全体の指揮をとる、第2艦隊司令長官伊藤整一中将が座乗していました。

 この
第2艦隊とは何でしょう?第1艦隊はいるのでしょうか?
 
 レイテ沖海戦後の1944年11月15日、艦隊の編成の変更が発令されました。
 それまで、
大和武蔵長門とともに第2艦隊の第1戦隊を形成していましたが、僚艦武蔵の沈没によって、第2艦隊の独立の旗艦となりました。
 

<用語解説>

第2艦隊

 ちょっと肝心なことを説明しておきます。
 大和は、レイテ沖海戦の時点で、すでに、
第2艦隊に属しており、海戦後の11月の編成でも第2艦隊旗艦です。
 ということは、これとは別に、
第1艦隊がいるのでしょうか?

 レイテ沖海戦の時というと、小沢中将の率いる空母機動部隊が有名ですが、これは
第3艦隊です。

 実は、この時点では、
第1艦隊は存在しませんでした。
 日本海軍の建制(組織を作ること)上の約束で、
第1艦隊は、連合艦隊司令長官が直接に率いる艦隊とされていました。
 かの有名な
山本五十六連合艦隊司令長官大和に乗っていた時代(たとえば、ミッドウエイ海戦後)は、大和は、第1艦隊の独立の旗艦でした。

 しかし、1944年になって、時の
連合艦隊司令長官豊田副武大将は、軍艦に乗って戦場で直接艦隊を率いて指揮をとることをやめ、東京湾に単艦で停泊する軽巡洋艦大淀から指揮をとることを決断をしました。
 軽巡洋艦
大淀は、本来、潜水艦部隊を率いて戦うために建造された艦で、水上偵察機を多く搭載する格納庫をもっていました。しかし、戦争後半には、そのような潜水艦部隊を指揮するチャンスはなくなっており、その格納庫部分のスペースを改造して、司令部のための通信機能を強化した特別な艦となっていました。
 ちょうど、現在のアメリカ第7艦隊の旗艦が、戦艦でも航空母艦でもなく、
ブルーリッジという強襲揚陸艦であるのと同じ原理です。
(第7艦隊旗艦ブルーリッジの説明はこちらです。
  
 したがって、建制上は、豊田連合艦隊司令長官が艦隊直接指揮を止めたこの時から、連合艦隊から第1艦隊は消滅し、大和は、第2艦隊の所属となります。これが、
大和沈没まで続きました。

 ついでにいうと、このあと、連合艦隊司令部は、軍艦から陸の上に移動し、神奈川県の日吉台の防空壕の中から指揮をとることになりました。
 その結果、軽巡洋艦
大淀は、レイテ沖海戦では、戦艦伊勢日向とともに、小沢中将率いる空母機動部隊(第3艦隊)の1艦として戦います。
 ※伊藤正徳著『連合艦隊の最後』(角川文庫 1974年)P295−296
 

 1945年1月10日の編成では、以下のようになっていました。

第2艦隊

第1戦隊大和長門榛名
 ※大和は独立の第2艦隊旗艦から、第2艦隊旗艦兼第1戦隊旗艦となっています。       

第2水雷戦隊 矢矧  

第2駆逐隊(早霜、秋霜) 
第7駆逐隊(潮、霞)
第17駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第21駆逐隊(初霜、時雨) 
第41駆逐隊(涼月、冬月)        

第1航空戦隊(雲竜、天城、葛城、隼鷹、龍鳳)

 第2艦隊には、第1航空艦隊という空母機動部隊が所属していました。
 しかし、すでに、空母に搭載する母艦航空隊は潰滅してしまっており、名前だけの機動部隊に成り下がっていました。(雲竜は、この少し前に潜水艦により、撃沈されており、実際には存在していません。)
 雲竜を除くこれらのこの空母群は、すべて、空襲等による大小の損傷を受けましたが、艦体としては、終戦時まで残りました。

 また、連合艦隊には、第2艦隊の他に、いくつかの艦隊があり(
連合艦隊ですから当然ですね)、シンガポール方面の艦艇は、南西方面艦隊の所属となっていました。その中には、第4南遣艦隊というのがあり、そこには、航空戦艦伊勢日向がいました。

 前ページで説明したように、
伊勢日向、そして軽巡洋艦大淀は、1944年2月に、北号作戦によって、燃料と物資を満載して、奇跡的に日本へ帰ってきます。


 さて、艦隊のことが概ね説明できましたので、ここで前ページで書いたことを、もう一度強調しておきます。

 レイテ沖海戦直後の時点では、連合艦隊には、まだたくさんの大型艦が存在していました。
 戦艦は、
大和の他、長門榛名伊勢日向金剛と合計6隻いました。このうち金剛は、このあとすぐ日本へ戻る途中、潜水艦に撃沈されました。しかし、それ以外の戦艦は健在で、大和が沈む、1945年4月の始めまで、5隻の戦艦がいたのです。

 しかし、前ページで説明したように、この5隻のうち、大和を除く4隻は、1945年の3月のはじめまでには、戦艦としてではなく、「
浮き砲台」として存在していました。
 
理由は、油不足と戦艦の存在意義の消滅です。1945年となると、戦場は日本本土の近くもしくは本土そのものへ移ってきており、艦隊決戦はすでに非現実的となりました。
 
 あり得ない決戦のために無駄な油や資材を使うよりも、本土決戦用の航空機、特攻兵器を量産し、窮乏している戦争経済を維持しながら、持久戦体制を作ることが日本のこの時点での戦略であり、それらのための油を確保することが、最優先課題でした。

 では、
大和の場合は、どうだったでしょうか。
 大和は、レイテ沖海戦で爆弾の直撃弾を数発受け、また、無数の至近弾の被害によって、前部を中心に、数千トンの浸水の被害を受けていました。
 1944年11月24日呉軍港に帰着し、呉海軍工廠第4号船渠に入渠しました。これから2か月の間、損傷箇所の修理と、25ミリ三連装機銃など、対空機銃の増設がはかられました。

 この修理の間、大和に対する措置が決まりました。
 当初連合艦隊は、他の戦艦同様、
大和も「浮き砲台」として使う予定でした。
 しかし、第2艦隊から「
どうしても大和と矢矧は繋がないでもらいたい。作戦に使いたい。」という希望が出され、繋留艦艇とはならずにすみました。

吉田満・原勝洋著『日米全調査 戦艦大和』(文藝春秋 1975年)P56


 しかし、2月中旬に修理がすんで船渠から出てくると、大和にも厳しい環境が待っていました。
 動き回ることを許された戦艦大和にも、十分な重油が配給されなかったのです。
 2月の各艦への油の配給は、戦艦に対しては、12ノット5昼夜分とわずかな量になってしまいました。大和の最大戦速は、時速27ノットで、経済速度は18ノットでした。12ノット5昼夜分では、十分に動き回ることもできません。

 大和ともに出撃し、沈没することになる軽巡洋艦
矢矧は、どうなっていたのでしょうか。
 矢矧は、レイテ沖海戦では、大和と同じ第2艦隊に属し、直撃弾・至近弾数発を受け、船体破損により前部に浸水し、艦首が低下するなどの被害を受けましたが、大和などとともに、1944年11月23日には、瀬戸内海に帰還できました。

 11月下旬から、始めに佐世保で、ついで呉軍港で修理と兵器整備を行いました。これには、2か月を要しています。
 レイテ沖海戦後、矢矧は第2艦隊第10戦隊から、第2水雷戦隊に所属が変更となり、上表の駆逐艦部隊を率いることになりました。
 しかし、当初は、部隊の各艦は各地域にバラバラに存在しており、司令官の古村啓蔵少将は、シンガポールにいました。そのため、当初、第2水雷戦隊は、駆逐艦霞が旗艦となっていました。
 駆逐艦霞は、前ページで説明した「
北号作戦」において、伊勢日向・軽巡洋艦大淀を護衛して、1945年2月20日、無事呉に帰投しました。

 
古村第2水雷戦隊司令官は、そこで初めて、旗艦を矢矧に移します。
 水雷戦隊ですから、本来は魚雷攻撃が本務の戦隊です。しかし、時勢が時勢ですから、訓練は対空戦闘が中心になされなければなりません。
 ところが、燃料は、
軽巡洋艦矢矧には12ノット5昼夜分、駆逐艦には12ノット2昼夜分しか割り当てられませんでした。これでは、十分な訓練もできません。

池田清著『最後の巡洋艦・矢矧』(新人物往来社 1998年)P212−219


 結論です。
 前ページからこの項目にかけて、
第2艦隊と油のことを書いてきました。
 これはひとえに、次のような文章の背景にある事情を説明したかったからです。

 大和以下水上特別攻撃部隊の出撃に関する一般的な説明はこうなっています。(太青字は引用者がしました。)

「菊水1号部隊(引用者注 陸海軍航空特別攻撃隊のこと)の突入が開始された直後、6日午後4時、第2艦隊司令長官伊藤誠一中将は「大和」以下最後の連合艦隊水上部隊を率いて、山口県徳山沖を出発した。燃料は片道分だった。」

児島襄著『太平洋戦争(下)』(中公新書 1976年)P317−318


 「最後の連合艦隊水上部隊」という、一般的な言い方からは、「他には軍艦はいない」というイメージしか伝わりませんが、事実は、これまで説明してきたとおりです。
 「
油不足で動けない軍艦を除いた最後の艦隊」が正解なのです。


 出撃命令と片道燃料                                         | このページの先頭へ |

 では、その燃料の状況が苦しい時に、艦隊はなぜ沖縄に向かって出撃しなければならなかったのでしょう。

 そもそも、
大和含む第2艦隊の残存艦(正確には「動けるよう油を供給された第2艦隊の一部」ということですが、いちいち面倒ですから、普通の表現を使います。)をどのように使うかについては、連合艦隊に始めから一定の確固とした方針が合ったわけではありません。
 時系列で整理すると次のようになります。


図10 瀬戸内海西部及び九州北部の関係場所の地図

 写真は、グーグル・アースよりGoogle Earth home http://earth.google.com/


 第2艦隊の動き 1945年2月〜3月

2月27日

呉に停泊していた第2艦隊の大和、第2水雷戦隊(以下、沖縄特攻部隊を命令時の正式の呼称にしたがい、「第1遊撃部隊」と表記。)に、柱島泊地回航の命令。
内海西部(瀬戸内海の西部)で待機し、
航空作戦が有利に展開した場合には、特別命令により出撃し、敵攻略部隊を撃滅(1)する旨の命令を受ける。

3月19日

呉軍港に対して、アメリカ空母機動部隊の艦載機の初空襲。大和は、柱島泊地の西、岩国市東方方面で交戦。損害は軽微。
呉軍港内にいた戦艦
伊勢日向榛名、重巡洋艦利根、軽巡洋艦大淀に被害。

3月24日

第1遊撃部隊、呉軍港入港。

3月25日

第1遊撃部隊の乗組員、最後の自由上陸。

3月26日

アメリカ軍、沖縄諸島の慶良間列島上陸。連合艦隊、「天一号作戦(東シナ海地域における航空戦)」を発動。(4月1日から敵艦への体当たり攻撃を意図する特攻機が出撃。)

3月28日

第1遊撃部隊、呉出航。連合艦隊の命令、「敵機動部隊を日本軍の基地航空部隊の攻撃範囲内に誘引する(2)」(いわばおとりになる)により、佐世保へ向かう。
この日午後、敵機動部隊が沖縄方面に出撃していることが確認されたため、上記作戦は意味はなさなくなり、広島湾口で仮泊。

3月29日

第1遊撃部隊、未明、山口県三田尻沖へ向かい、同海域で待機。
軍令部総長及川古志郎海軍大将が、昭和天皇に、航空特攻攻撃による天一号作戦の発動を上奏(説明)。この時
天皇、「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はいないのか」と質問

4月1日

アメリカ軍、沖縄本島上陸開始。

4月4日

海軍軍令部は連合艦隊司令部の第1遊撃部隊による沖縄特攻作戦を了承。条件として、「燃料片道分」を示す。

4月5日

13:59第1遊撃部隊に、「海上特攻隊兵力として8日黎明沖縄突入を目途とし急速準備を完成」の命令発令。いわゆる、出撃準備命令
15:00第1遊撃部隊に、
出撃命令発令。「沖縄西方海面ニ突入シ、敵水上艦艇並ビニ輸送船団ヲ撃滅スベシ。(3)
三田尻沖から徳山湾へ移動。燃料補給。

4月6日

未明より燃料補給。
07:51連合艦隊司令部からの命令により部隊の陣容決定。
戦艦
大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦(8隻)冬月涼月磯風浜風雪風朝霜初霜、合計10隻。
徳山沖で不要物件陸揚げ。
13:00第1遊撃部隊の司令部・各艦長、大和で打ち合わせ。連合艦隊司令部より、草鹿龍之介参謀長他が大和へ赴き、第1遊撃部隊に連合艦隊命令の主旨を説明。作戦に疑義を表明していた第2艦隊司令長官伊藤整一中将は、「一億総特攻の先駆けになってほしい」との連合艦隊の申し出に、作戦を了解。
16:00第1遊撃部隊出撃。


この日、航空機による沖縄方面の連合軍艦艇(あまり有名ではないが、アメリカ海軍以外に、イギリス海軍の航空母艦などもいた)への航空特別攻撃である菊水1号作戦が実施された。
陸海軍機あわせて699機(そのうち特攻機は355機)が出撃。敵艦艇6隻沈没、17隻損傷。(ただし、沈没したのは駆逐艦以下の小艦艇のみ。)

4月7日

12:32アメリカ第58機動部隊の艦載機が第1遊撃部隊への攻撃を開始。
14:23
大和沈没。

平間洋一編『戦艦大和』(講談社 2003年)P118−159などより作製。第1遊撃部隊の動きに関しては、複数の書物を見ると、それぞれ独自の解釈による日付・時間が示されています。(たとえば、いつどこで最終的に燃料を搭載したのか)、前掲書がいろいろな点で最もつじつまがあいます。


 上の「動き」を見ていただくと、の行動目的がだんだん変化し、最後には沖縄への水上特攻に変わったことが分かります。ピンクの字の(1)(2)(3)部分です。
 最初の二つは、まだまだ生存率が高いものですが、(3)は、たとえうまく沖縄にたどり着いても、生還の見込みはありません。

 「大和以下の艦艇の沖縄特攻」については、沖縄にたどり着く見込みも薄いことから、当の第2艦隊の首脳を始め、当時の多くの人びとが作戦としての実施に反対し、または疑問視しました。
 それが最終的に実施された理由は、次の二つです。

日本海軍の誇りである大和にふさわしい「死に場所」を求める心情が働いた
 作戦立案の張本人とされる連合艦隊司令部の首席参謀神重徳大佐の次の主張に、心情的に反対できなかった。
「 もし大和を柱島あたりに繋いだままで、大和が生き残ったままで戦争に敗けたとしたら、何と国民に説明するのか。(中略)もしこれをやらないで(大和の沖縄突入)、大和がどこかの軍港で繋留されたまま野たれ死にしたら非常な税金を使って、世界無敵の戦艦、大和、武蔵を作った。無敵だ、無敵だと宣伝した。それをなんだ、無用の長物だと言われるぞ。そうしたら今後の日本は成り立たないじゃあないですか。」

 ※平間洋一編前掲書『戦艦大和』P120

海軍艦艇の活躍を求める天皇の発言にも影響された
 海軍軍令部などの海軍の統帥の中枢にある高官たちが、連合艦隊司令部の提案を拒否できなかった背景には、上記の「第2艦隊の動き」にあるように、軍令部総長及川古志郎大将が天皇に奏上した際に受けた発言、「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はいないのか」が少なからず影響をあたえた。
 沖縄への敵上陸という重大時に、現実には存在している海軍艦艇をただ「浮き砲台」としてのみ働かせるという処置をつらぬくことは、なかなか胆力のいる決断でした。


 この結果、大和を始めとする、第1遊撃部隊は、「1億総特攻のさきがけ」という、非合理的な名目のもとで、沖縄に向かったのです。


 実際には、どれぐらいの油を積載したのか                          | このページの先頭へ |

 さて、長々と書いてきた、この「片道燃料」もいよいよ終わりが近づいてきました。

 誰がどのような目的で「片道燃料」といい、実際には、どれぐらいの燃料が積まれたのでしょうか?

 連合艦隊司令部が沖縄水上特攻作戦を立案した時、それを承認するとしても、燃料は「片道」しか与えられないとしたのは、海軍軍令部です。

 終戦後の回顧では、富岡軍令部第1部長が次のように証言しています。

「艦を出すのは連合艦隊の仕事だから結構だが、燃料がたりないときに、あの大艦いっぱい積んでいかれては困る。別に、二度と帰ってくるなというわけでもないし、非情なようだが、幕僚は、″白面鬼″ でなけれはならない。連合艦隊参謀副長の高田少将に電話して、燃料は片道だぞ、といいました。」

児島襄著『戦艦大和 下』(文藝春秋 1973年)P215


 この燃料不足の折、十分な油を与えることなどできない相談でした。
 油輸送の担当だった海上護衛総司令部では、もっと厳しい見方をしていました。参謀大井篤大佐の意見です。(青字、行間は引用者で設定)
 

「 当時護衛総司令部で計算したところでは、北支航路にフルに船団を動かして、大陸物資の緊急輸送を実施するとなると、護衛部隊用として、1カ月に約7000トンの重油がいるという勘定だった。もっとも、この7000トンの油の要求は、朝鮮海峡方面の哨戒を厳重にして、潜水艦が日本海にはいるのを防ぐための作戦をもり込んでのものだったが、この作戦は当然必要なものだった。もし、敵潜が日本海に躍り込み、日本海内でも護衛が必要になったら、7000トンやそこらの油どころのさわぎではない。それだから、7000トンは護衛側から見れば最小限の要求だった。ところが、当時は、日本全体として航空燃料も非常に不足であったが、重油の方はなお一層窮屈になっていた。護衛用だけに月7000トンも取られるということは、海軍の台所として、耐えられぬ負担であった。しかし、海軍省の燃料当局者には護衛の重要性を認識している人が多かった。彼らは二つ返事で承諾した。これが4月4日頃のことだった。

 4月6日、東京ではいやに冷える日であったが、桜はチラホラ咲きかけていた。護衛総司令部は前年11月24日以来、目黒の海軍大学校に移転していたが、同じ建物に軍令部の通信諜報班も同居だった。その班員の一人(天野盛高大佐)が総司令部の参謀室にやってきて「今、軍令部に行ったら、きいたんですが
、戦艦大和で沖縄に突入作戦をやるそうですよ。」
と参謀の一人(大井篤大佐)に耳うちすると、そそくさと出て行った。それから間もな海軍省(軍務局員藤田正路大佐)から電話が総司令部にかかってきた。
「この間、重油を7000トンやると約束したんだが、あれは駄目になったよ。
大和が沖縄に突入するからどうしても4000トンやらなけりやいけないことになったんだ。だから、3000トンしか護衛総隊には渡せないことになったわけだ。しかし、えらいことになったな。大和は特攻だってよ。片道だけの燃料しかもって行かないんだそうだ」

 電話についた護衛総司令部の参謀(大井)はピックリした。先程は「大和の突入」ときいても他人ごとのように聞き流したのであるが、7000トンの重油が4000トンに減らされるとなると、これは一大事である。北支航路の護衛計画はご破算である。まして、朝鮮海峡の対潜哨戒はろくなことはできなくなる。そう思うと反射的に、大和の特攻突入そのものが、実に不合理きわまる腹立たしいものに考えられてきた。
瀬戸内海西部から沖縄までは約600海里(約1100キロ)の航程である。どんな高速で走っても、約一昼夜の長い間、敵の有力な航空攻撃にさらされる。レイテ海戦の前シブヤン海に消えた姉妹艦武蔵の例から見ても、100%途中で撃沈されるだろう。しかし、もっとハッキリしたことを聞かなければ司令長官や参謀長に報告のしようもないので、連合艦総司令部との直通電話のハンドルをまわした。

 連合艦隊司令部にも護衛担任参謀(立花止大佐)がいたが、彼が電話に出た。
「大和部隊の出動のことですか?そのことで、いまちょうど、あなたのところに命令を伝えようとしているところでした」といって、先方からスラスラと説明をはじめた。豊後水道から九州の南端までの対潜掃討をやってくれとか、大隅海峡の機雷はどうなっているかを知らせてくれとか、いろんなことも言った。しかし、きいている方ではますます馬鹿らしくなってきた。
「しかし、沖縄に行って46センチ砲を撃ちまくると力んでみても、そんなところにつくまでに撃沈されてしまうにきまっているじゃないですか」
「その公算も大いにあるんですが、ねらいはほかにもあるらしいんです。
航空部隊にばかり特攻をやらせて、水上部隊が手をこまねいてみているわけにはゆかないという気持ちが大いにあるようです。(後略)」

大井篤著『海上護衛戦』(朝日ソノラマ 1992年)P361−363


 前ページで表で示したように、
4月当初の海軍の重油月頭在庫量は、僅か4万9162トンでした。
 大和部隊は、
4000トンの重油すなわち、在庫の8%の重油を使うというのですから、護衛総司令部としては頭に来るわけです。重油は、それほど貴重品でした。

 実際には、連合艦隊司令部からの指示は、艦隊の燃料は「
2000トン以内」にしろでした。

 上の引用文にもあるように、山口県沖から沖縄までは、実際に艦隊が取った、かなり迂回した航路で計算して、600海里(1100キロ、往復1200海里)ありました。(最短距離では、850キロ=470海里)

 大和は、燃料満載にするとその量は6300トンでした。16ノットの速度では、6300トンの燃料で、7200海里の航続が可能でした。つまり、1000トンで、1142海里を走行可能です。しかし、無論、戦いが始まると、時速を上げなければなりません。最高時速27ノットでは、1000トンの燃料では、555海里しか航続できません。

 軽巡洋艦矢矧は、満載で1420トン、18ノットで6000海里の航続が可能でした。200トンで845海里です。
 8隻の駆逐艦は種類が違いますからすべて同じではありませんが、たとえば、陽炎型駆逐艦雪風・浜風・磯風は、燃料満載622トンで、18ノットで5000海里の航続が可能でした。100トンで、800海里です。

 
大和=1000トン、矢矧=200トン、駆逐艦8隻=各100トンで、これで合計2000トンです。

 こう考えると、連合艦隊から指示された2000トンの燃料は、十分な燃料ではなかったものの、はじめから「片道燃料」というわけではなかったわけです。
 そりゃそうです。
 うまく沖縄にたどり着いて、敵の艦船や輸送船相手に攻撃をするための燃料も必要です。そう言う意味で、「片道」であるはずはありません。
 もし、この艦隊が、沖縄沖に無事たどり着いたとしたら、2000トンの燃料なら、そこで大暴れして、敵艦をいくつか撃沈することができたでしょう。
 しかし、多勢に無勢、そのうち、弾丸も燃料もつきて、「討ち死に」というのが、予想される「
最上のストーリー」でした。

 しかし、現実には、指示以上の燃料が搭載されました。
 
大和には、満載6300トンの63%にあたる4000トン、軽巡洋艦矢矧には、満載1420トンの88%にあたる1250トン、駆逐艦にはそれぞれ満載されました。合計1万トン強の量だったと推定されます。備蓄量の5分の1に相当したと思われます。
図11 第2艦隊航路と大和沈没位置

「これらの各艦に対する燃料補給作業は夜を徹して行われ、巡洋艦矢矧や駆逐艦は満タンになった。

 しかし、聯合艦隊から指示された大和の搭載量は片道分しかなかった。補給業務を担当した機関参謀の小林儀作中佐が、「たとえ、生還の算少なしとは言え、燃料は片道分しか渡さないと言うことは武人の情にあらず」と、呉鎮守府補給参謀の今井和夫中佐に依頼し、「聯合艦隊命令で、重油ほ片道分のみ補給するよう達せられているので、片道分は帳簿外重油より補給」することとした。そして、タンクの底に溜まっている燃料を手押しポンプで汲み上げ、往復に必要な4000トン (満載は6300トン)を搭載した。

 しかし、一部の駆逐艦は燃料がなく満州からの大豆油を積み込んだ。「馬力が出ない。それでも無理すれば30ノットは出た。煙突から豆を炊いている匂いがした。『はとみたいなものだな』と笑いながら、土気は上がっていた」という。」

平間洋一編前掲書『戦艦大和』(講談社 2003年)P133

右の写真は、NASAのWorld Windからの借用写真で作製しました。
衛星写真で、正確に緯度経度を算定すると、沈没地点と屋久島等の位置関係は、これまでの地図でしめされていたそれと、少しずれてきます。
NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。

 これらの重油の中には、3月27日にシンガポールから徳山湾に到着し、結果的に南方からの最後のタンカーとなった光島丸(重油1万800トンを搭載)からの、補給分も含まれていました。

 大和とその艦隊は、9000トン以上の貴重な油と、
かけがえないの4044人の命を、九州南西海上で失いました。
 大和の沈没時間は、1945年4月7日午後2時23分でした。


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