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 クルーザーは、地図Cの地点で左へ回頭し、横須賀本港(横須賀湾)へと入っていきます。

 「本日は、風もなく大変波静かで、乗船には最高です。しかし、反対に、風がない日は、海から立ち上るもやが海上に漂い、見晴らしは最悪です。天気がよいため、すべてもやっています。」(8月6日のガイドさんの話)

 これは本当に残念でした。見晴らしがいい日は、横須賀の北にある横浜のベイブリッジや、対岸の房総半島などもくっきり見えると言うことですが、8月6日も8月28日も、暑くて、風も弱く、湾内ですらも、もやってしまっています。


 Iの地点から、地図の間の米軍施設を撮影した。写真この地域は、トルーマン湾と呼ばれています。(05/08/06撮影)
 写真の左端の部分、地図に示した
6号船渠(第6ドック)は、戦前の横須賀海軍工廠最大のドックで、昔は、このドックで戦艦大和型の3番艦、信濃(途中で航空母艦へ改造)などが建造されました。
 ついでに言うと、大正時代に実現を目指したいわゆる八・八艦隊の1隻、帝国海軍戦艦
長門は、この横須賀が母港で、終戦時には、写真の左手にある小海岸壁(現在名第12バース)に繋留されていました。

 大和が沖縄へ向かう途中で沈んだ後も日本海軍には合計4隻の戦艦が残っていましたが、もはや、活動のチャンスはありませんでした。  

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 長門は、この小海岸壁に繋がれ、マストや煙突の上部を切断し、山から切ってきた樹木を載せて軍艦らしく見えないように偽装されて、敵機の襲来に備えました。
 もし、アメリカ軍が相模湾に上陸してきた場合は、横須賀港から山越えで上陸軍へ向けて、40cm主砲を打つという「奇抜」な作戦も考えられていました。
 おかげで、撃沈されるずに終戦を迎え、その後、アメリカ軍の原爆実験にかり出され、人知れず沈没したというのは有名な話です。

 阿川弘之『軍艦長門の生涯』(新潮社 1975年)
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 地図に停泊するアメリカ第7艦隊旗艦、ブルーリッジ
 (05/08/06撮影)

 艦隊の旗艦(艦隊司令長官が座乗し、指揮命令を行う)というと、第2次世界大戦以前は、戦艦など大きな軍艦が担っていました。
 このブルーリッジは、もともと1970年就役の揚陸指揮艦です。
  その通信・指揮性能のよさから、1979年から第7艦隊旗艦となり、横須賀を母港としています。


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 地図地点に停泊中のアメリカ海軍タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦、カウペンス。いわゆる、イージス巡洋艦です。
  アメリカは、初めてのイージスシステム搭載巡洋艦としてタイコンデロガを、1983年にに就航させ、同型艦を11年間の短期間に27隻を建造しました。
 全長173m、総排水量9500トンと、海上自衛隊のイージス艦より一回り大きめです。
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 アメリカ海軍アーレイバーク級ミサイル駆逐艦、ジョン・S・マッケーン。(イージス駆逐艦)
 アメリカ海軍のイージス艦には、タイコンデロガ級巡洋艦の他に、1991年に初めて就役した、ミサイル駆逐艦アーレイバーク級(全長158m、総排水量9000トン)があります。
 タイコンデロガ級巡洋艦が高性能・高価格であったのに対して、こちらは、性能を75%程に抑え、価格の安さを重視しました。
 日本の映画「亡国のイージス」のモデルとなった、海上自衛隊の金剛級イージス護衛艦は、こちらのアーレイバーク級に準じたものです。

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 左、イージス巡洋艦カウペンスを左舷から写した写真。
 手前の小さなボートに注目してください。
 右の写真は、それを拡大したものです。このボートは何をしているのでしょう?
 
 このボートは、実は我々のクルーズ船を監視しているアメリカ海軍のボートです。
 昔と違って軍港内に民間船が入ることは許されていますので、こうしたクルーズが成立するのですが、かといって、みだりに艦船に近づいてよいわけではありません。どこまで近づいてよいか、ちゃんと決まりがあるそうです。

 したがって、クルーズ船が来ると、アメリカ軍ボートが併走して、万一にもアメリカ海軍艦艇に近づかないように監視しているというわけです。

 乗組員は、武装しているようには見えませんでしたが、双眼鏡でこちらをしっかり監視していました。もし、我々がイスラム武装勢力で、自殺攻撃に走ったら、きっとこのボートはけなげにも体当たりかなんかで阻止するに違いありません。


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