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戦艦大和について考える12
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認その9「片道燃料」について5
 涸渇する油                                             | このページの先頭へ |

 前ページのような輸送船団の実態であれば、油は順調に運ばれてくるはずもありません。
 
 次の表は、1944年後半期と、1945年の石油還送実績です。


 アメリカ軍がフィリピンのルソン島に上陸するのが、1945年1月9日です。直後にハルゼー大将指揮下の空母機動部隊が南シナ海に侵入し、航行・在泊していたタンカー群は大打撃を受けます。
 これ以後、タンカーによる油送は、ほとんど成功しなくなり、3か月の間に、僅かタンカー6隻分しか手に入りませんでした。それが、上表の3月分に計上してある8万7000キロリットルと考えられます。

 海軍については、備蓄量も明らかにされていますから、表を引用します。

表7 海軍の内地月頭在庫量 (単位:原油・重油はトン、航空揮発油はklキロリットル)
     1944年                 1945年
10月 11月 12月 1月 2月 3月 4月 5月
原油トン 26,428 24,048 18,714 18,435 5,127 3,827 1,285 1,285
重油トン 107,714 67,474 55,117 46,013 51,475 38,060 49,162 46,245
航空揮発油kl 57,704 35,841 35,868 32,659 21,272 36,491 24,727

三輪宗弘前掲『太平洋戦争と石油』P188の表の一部を引用。引用書には、航空揮発油の1月の数値は、385,521となっています。前後と桁が一つ違うため、誤記載とも考えられるが、確認できないのではずしました。

  
 大和の出撃が計画されるのは、
1945年3月です。この月の月頭の重油備蓄量は、僅か3万8000トンになってしまっていました。キロリットルに換算すれば、およそ4万2000キロリットルです。
 これがどのくらいの油の量なのかは、なかなか、分かりづらい所です。
 
 過去の海戦ではどれぐらいの量が消費されているのでしょう。
 前掲書によれば、
ミッドウエー海戦では60万キロリットルマリアナ沖海戦では35万キロリットルレイテ沖海戦で20万キロリットルを消費したということだそうです。
 ということは、僅か、4万2000キロリットルでは、もはや、海軍の戦いはできないに等しいということです。
 
 大和は、燃料を満載すると、6300トンも積めました。備蓄量の1割以上です。こういう比較をすると、そろそろ「
片道燃料」の意味が見えてきます。


 1944(昭和19)年末〜1945(昭和20)年初めの海軍の艦隊     | このページの先頭へ |

 1944年10月23日、24日を中心にレイテ沖海戦等、フィリピンをめぐる海戦が行われて結果、日本軍は惨敗を喫してしまいました。これで、もう二度とアメリカと互角に艦隊決戦を行うことはできない状態に追い込まれました。

 正確に言うと、この前の1944年6月19日を中心に行われたマリアナ沖海戦において、すでに、日本海軍の空母機動部隊は、アメリカ海軍のそれに完璧に敗れ、この時点で空母対空母の決戦の勝負はついていました。そして、このレイテ沖海戦では、残りの戦艦や巡洋艦といった水上兵力の勝負においても、日本海軍の敗戦が決定したのです。

 
表8 日本海軍艦艇の隻数

 

レイテ沖海戦に
参加数

同海戦での
沈没数

その後に
沈没

1945年2月末の
内地残存数

残存艦名

戦艦

大和、長門、伊勢、日向、榛名

航空母艦

隼鷹、竜鳳、鳳翔、葛城、天城、海鷹

重巡洋艦

13

青葉、利根

軽巡洋艦

不明

大淀、酒匂、矢矧、鹿島、北上、


 

 しかし、まったく潰滅したわけではありません。

 上表にあるように、1945年1月の時点で、内地には、
戦艦は大和以下5隻、航空母艦は6隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦5隻、駆逐艦は多数存在していました。

 しかし、やはり
問題は油だったのです。
 
 レイテ海戦後、戦艦大和を始めとする第2艦隊の残存艦は、ボルネオ島のブルネイに入り、1944年11月16日までそこを根拠としていましたが、いくら油田に近いところでも、軍艦が油井から直接油をもらうわけにはいきません。製油所で原油を重油に精製したものを、タンカーに積み替えて補給しなければなりません。
   ※(地図はこちらです。Battle_Ship_Yamato08_04Oil_occupation1941.gif',641,576,641,576
 ところが、タンカーの手配がうまくいかず、油田近くのブルネイにおいても、燃料の心配をしなければなりませんでした。

  ※児島襄著『戦艦大和』(文芸春秋社 1973年)P172〜176
  
 11月15日に第2艦隊に内地旗艦の命令が下ります。その時の命令書である連合艦隊電令作第419号の文面は、「TYB(第1遊撃部隊のこと。大和、第3戦隊の長門、金剛、矢矧、駆逐艦4隻。)ハ□□□□ノ上、内地ニ回航、夫々(それぞれ)所属軍港ニオイテ急速整備ヲ実施スベシ」となっていました。

 ここで、ちょっとクイズです。
 「
□□□□ノ上」と条件を示す部分がありますが、どういう内容か想像できるでしょうか?(漢字4文字です) 


 これは、戦艦長門です。
 レイテ海戦では、戦艦大和・武蔵とともに第2艦隊第1戦隊の一艦として戦いました。損傷を受けましたがブルネイを経て、大和とともに無事日本へ帰還しました。
大和沈没時は、神奈川県横須賀軍港に停泊していました。
 写真は、戦前の写真はがきより。煙突が2本あり、第2次改装の前の艦容です。


 答えは、「燃料満載」です。

 「重油を積んで戻ってこないと割り当てはないぞー」とでも言いたそうな命令の文面です。

 しかし、重油をもって帰ったとしても、これらの軍艦の運命は、なかなか過酷なものでした。

 まずは、戦艦長門の話です。 
 
長門は、広島県呉が母港の大和とは違って、神奈川県横須賀が母港です。

 長門が帰港した1944年11月25日の時点では、横須賀港内には、横須賀海軍工廠で完成したばかりの
航空母艦信濃が停泊していました。信濃は、大和型戦艦の3番艦でしたが、ミッドウエイ海戦で4隻に航空母艦を失った時点で、その不足を補うために建造途中で航空母艦に改装された艦です。

 11月28日に
信濃が呉へ向けて出航すると、その翌日長門は、大型艦が横付けできる唯一の岸壁、小海岸壁に繋留されることになりました。(ちなみに、信濃は、29日午前3時過ぎ、潮岬沖でアメリカ潜水艦により撃沈されました。)
  ※横須賀港については詳しくはこちらをどうぞ。
 
 繋留ということはどういうことか?
 
普通に出動できる状態にしておくとただそれだけで重油を毎日50トンも使ってしまう長門は、重油節約の命令によって、最早軍艦とはほど遠い存在となってしまいました。つまり、自分でもって帰った重油以外配給されるあてがないので、無駄な重油は使えないでのす。

 確かに、ブルネイから重油を満載してきたとしても、長門はタンカーではありませんから、普通に重油タンクに積載してきただけです。ドラム缶等余分なものを積まないで、普通にいわゆる「満タン」にしただけなら、5780トンの重油しか積むことはできません。
 そして、ブルネイから横須賀まではおよそ4500km強(約2500海里)あります。この間に、当然たくさんの重油を消費しています。横須賀到着時の残量がどれぐらいか、計算して推定してみましょう。
 長門は、44年11月16日19:00に出発し、23日午後大分臼杵湾に仮泊し、翌24日06:00出航し、25日14:45、横須賀に着いています。197時間ほど航海したことになります。
 長門は、16ノットの経済的なスピードなら、重油満タンで10600海里航続できますが、この時はもう少しゆっくりと航海していたようですから、燃料は節約できたかもしれません。おおざっぱな予想ですが、
横須賀到着時には、4000トン以上が残っていたと推定されます。
 しかし、それでも、上述のように、何もしないでも、
毎日50トンも消費するのであれば、1945年2月上旬には、残量ゼロとなる日が来てしまいます。


 海軍当局は、やがて来る「本土決戦」に備えて、飛行機や特攻兵器(たとえば、体当たりモーターボートの震洋)の生産や訓練に、限られた油や資材を優先的に振り向ける方針をとっており、動けば油だけを消費し勝ち目のない連合艦隊の大きな艦艇には、油も資材もあてがいませんでした。


 この結果、長門は次のような状況となりました。

  • ボイラーは一部を残して火を落とす。必要最低限の機械を動かす以外は、無駄な重油は使わない。

  • 艦の横の岸壁に石炭を燃料とするボイラーを設置し、そのボイラーから蒸気や湯をもらう他、電気も供給してもらう。

  • 主砲と副砲以外、高角砲・機銃などは取り外し、陸上に配備する。

  • 上空の敵機から発見されにくいように、ペンキを塗って迷彩を施し、樹木などでカモフラージュする。

 これでは、まるで、大きな大砲を積んだだけの、ただの鉄の塊です。
 それでも、1945年1月のうちは、乗組員の中には、「いつか南方へ出かける」という噂も出ていましたが、それも、2月になって沙汰止みとなりました。

 2月10日付で、長門の所属が代わったのです。
 
長門は、連合艦隊第2艦隊から、横須賀鎮守府所属の警備艦になったのです。つまり、港を警備する艦になれというわけです。端的に言うと、「浮き砲台」になれということです。
  ※阿川弘之著『軍艦長門の生涯 下』(新潮社 1975年)P301〜P306

 長門は、もちろん、大和出撃の時もそのままの状態で横須賀に停泊していました。

 次は、航空戦艦
伊勢・日向です。
 この2隻は、もともと36cm砲12門をもつ戦艦として建造されました。
 しかし、伊勢・日向もミッドウエイ海戦後の空母補充策の対象となり、いちばん後ろの2連装4門の主砲を取り外し、そこに、飛行甲板を作って、航空戦艦という、戦艦と空母のあいの子に改造されました。
 予定では、それぞれ22機の飛行機を搭載するはずでした。

 しかし、改造工事に長い期間を要し、やっと完成したと思ったら、なんと、積む飛行機が間に合わず、結局は、航空戦艦としては活躍できませんでした。
 ただし、部隊編成上は、あくまで戦艦の戦隊ではなく、2隻で第4航空戦隊を組織していました。伊勢・日向のこの戦隊は、レイテ沖海戦の時は、大和・武蔵の属した戦艦・巡洋艦の部隊である第2艦隊ではなく、空母を中心に編成された小沢中将率いる第3艦隊の1戦隊として、フィリピン東北方の海上で戦いました。

 第3艦隊は、4隻の空母すべてを撃沈されて、空母機動部隊としては全滅しました。しかし、伊勢・日向は大きな損傷も受けずに、呉軍港に帰投できました。

 ただし、この2隻は、長門と違って、そのまま港につながれるということはありませんでした。損傷を整備したあと、すぐに南方進出を命じられました。石油が豊富なスマトラ島のリンガ泊地にあって、巡洋艦・駆逐艦部隊と訓練に励むとともに、リンガ泊地・シンガポール・マニラ間の兵員の輸送などに従事しました。

 ところが、1945年1月のアメリカ軍のフィリピンのルソン島上陸によって、いよいよ、南方海域が安全でなくなり、日本へ帰還しなければならなくなりました。そして、それに乗じて、「北号作戦」なるものが、立案されました。

 前ページで説明したタンカーによる「南号作戦」と同じ発想で、伊勢・日向と軽巡洋艦
大淀、駆逐艦霞・朝霜・初霜で特別部隊を編成し、重油・航空揮発油・資材などを、積めるだけ積んでもどってくるという作戦です。この部隊は、部隊と呼ばれました。
 伊勢・日向の飛行甲板は、これまで何の役にも立ちませんでしたが、今回は、飛行機を格納する甲板の下の格納庫が、ドラム缶や資材を積むのに役立ちました。両艦は、航空機用ガソリンや重油入りのドラム缶1万本以上はじめ、生ゴム・すずなどを満載しました。
 伊勢・日向だけでなく、軽巡洋艦大淀や護衛の駆逐艦にも物資が積まれました。
 

「 翌日も、ガソリンやドイツの潜水艦が運んで来た水銀などの積込みをした。水銀は鉄製の容器に入っていて60キロくらいの重量があり、大変な貴重品だということであった。

 2月の9日には、駆逐艦がぺナン島から運んで来た
の積み込みをした。
 ほかに、艦内の備品などが陸揚げされ、私達の第二種軍装や外套なども集められて陸揚げされてしまった。すこしでも多くの重要物資を内地に輸送する為なのだ。

 
水銀や錫などの小物は艦内の居住区などに積み込み、大型の物資は甲板上に山と積まれた。航空用ガソリンのまわりには生ゴムの固まりが積みあげられ、銃撃の防護用とされた。
 上甲板に満載された物資はシートで覆い、ロープで厳重に結束された。」

小淵守男著『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯』(今日の話題社 1991年)P417−418


 
部隊は、1945年2月10日にシンガポールを出発しました。
 前ページで説明したように、この時期の南号作戦では、タンカーの帰還率、30分の6という低さでした。日本までの10日ほどの航海のうちに、きっと何度も敵機や敵潜水艦の襲撃を受けるに違いありません。
 そこで部隊は、偽装進路をとってルソン島のアメリカ艦隊攻撃を目指す部隊のように見せかけるなど、巧に敵の攻撃をかわすつもりでしたが、そうはいきませんでした。
 実は、日本軍の暗号電報が解読されてしまっており、4グループの潜水艦隊と、陸上からの爆撃機が
部隊を待っていました。
 しかし、結果として艦隊は幸運でした。
  
 発見が遅れたにもかかわらず潜水艦からの魚雷攻撃を辛くもかわすことに成功し、
 また、50機以上の敵機に襲われましたが、スコールの雲に隠れるというラッキーな面もあって、なんと、伊勢・日向以下6隻の艦隊すべてが、2月20日にほとんど無傷で帰還することができたのです。奇跡的な成功でした。

 シンガポール−日本はおよそ4704kmです。
 20ノット以上の快速で飛ばせば、半分の5日ほどで到着できます。しかし、南シナ海や東シナ海の真ん中を突っ切る航路は危険すぎるため、ベトナムや中国の沿岸をとおり、さらに、揚子江の河口から、黄海を横切って朝鮮半島南端を回って来るという、大迂回航路を取って呉軍港に戻りつきました。

 ただし、これだけ苦労しても、運んだ物資の総量は、たいしたことはありませんでした。軍艦に物資を積んでも、貨物船やタンカーに比べれば、たかがしれているのです。
 無事運べた物資は、ガソリン約2000キロリットル、重油3000トン、ゴム、すず、タングステン、水銀など3700トンでした。

加藤寛「「伊勢」「日向」の北号作戦」 奇跡を呼び起こした人艦一体の物資輸送」『歴史群像』(学研 2004年10月号)

 
 しかし、油の輸送に成功してお手柄を立てたその後には、伊勢・日向にも、
長門と同じ運命が待っていました。
 この2隻は、呉の近くの海岸に繋留され、同じく、浮き砲台とされてしまい、海原を駆けめぐることは2度となかったのです。
 戦艦大和出撃の時は、呉軍港の近くに停泊していました。

 上の表の中にあった、もう1隻の戦艦、
榛名も呉にあって同じような取り扱いを受けていました。
 
 つまり、
連合艦隊の生き残りは、油不足と戦況の逼迫によって最早その価値を失い、ただの浮き砲台となってしまっていたのです。


 これは、戦艦榛名です。戦艦金剛とともに、第3戦隊を形成し、大和ら第2艦隊の一艦としてレイテ海戦を戦い、損傷を受けながらブルネイに帰還しました。レイテ海戦のひとつ、サマール島沖海戦では、大和の46センチ砲ではなく、金剛・榛名の36センチ主砲がアメリカ護衛空母を撃沈した可能性が高いといわれています。
 レイテ沖海戦後しばらく南方に留まり、のち無事日本へ帰還しました。
大和沈没時は、広島県呉軍港に停泊していました。
 (写真は、岐阜県各務原市の航空自衛隊岐阜基地の資料館の写真より。)


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