大和の遠距離射撃の「腕」はどうだったのでしょうか?
大和の行動記録をすべて掲載した資料はもちあわせていませんので、大和がいつどんかかたちの射撃訓練をおこなったかは、わかりません。ただし、次の4つのことは、事実です。
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1942(昭和17)年3月30日 |
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瀬戸内海三田尻沖で行われた訓練で、大和は初めての遠距離射撃を実施。
距離は3万8100mで、帝国海軍はじまって以来の長距離射撃訓練となりました。
結果は、失敗でした。高層風の測定を誤り、着弾は目標から大きくずれてしまいました。 |
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児島襄著『戦艦大和 上』(文藝春秋 1973年)P88−89 |
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1943(昭和18)年4月15日 |
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停泊しているトラック環礁内で、距離3万5000m遠距離射撃を実施。
結果は、またもや失敗でした。標的と背後の珊瑚礁との識別が難しく、照準を誤ったためです。 |
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1944(昭和19)年6月2日 |
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停泊しているタウイタウイ礁内で、武蔵とともに距離3万5000mの遠距離射撃を実施。
翌日の射撃研究会で、散布界が問題となりました。大和のそれは800m、武蔵のそれは1000mだったからです。
散布界というのは、主砲弾9発斉射の場合、その9発がどれぐらいの幅に落ちるかという数値です。前のページの引用の中に説明があったように、期待される値は、300mでした。800mでは、角弾の間隔は、100mにもなり、命中する確率は極端に下がってしまいます。
第1戦隊司令官宇垣纏少将は、「将に戦闘に赴く時、この状況は寒心に堪えない。何とか解決しようとするが未だ良薬に達せず」とその日記、「戦藻録」に記しました。 |
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1944(昭和19)年8月1日 |
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停泊しているリンガ泊地で距離2万7000mの射撃訓練。大和の散布界は、700mに縮小。武蔵は、以前1000mのまま。 |
そして、ついに、大和が本当に敵艦に向かって射撃をする唯一の機会がやってきます。
1944年10月にフィリピンの周辺で行われた、レイテ沖海戦の一つサマール島沖海戦です。
10月25日明け方、栗田司令長官の率いる第1遊撃部隊(大和・長門を含む、武蔵は前日空襲で沈没)は、レイテ湾へ向かう途中、サマール島沖で、アメリカ護衛空母艦隊と不意に遭遇します。敵艦隊の勢力は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦(駆逐艦よりは小型)4隻でした。
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<用語解説> |
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護衛空母 |
アメリカは、戦時中に17隻の正規空母を建造し、日本海軍を圧倒しましたが、それ以外に、巡洋艦から改造や商船から改造の小型空母・護衛空母を多数建造しました。その数は、合わせて、123隻になっています。
大和が遭遇した「敵空母」は、商船改造型の護衛空母艦隊でした。7800トン、搭載航空機数28機、最大速力19.5ノット。 |
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05:44 |
アメリカ護衛空母艦隊のマストを発見。距離3万7000m。 |
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05:59 |
射撃開始。距離3万1500m。 |
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08:25 |
射撃中止。艦隊集結命令。 |
このおよそ、2時間半及ぶ砲撃戦で、大和が46センチ徹甲弾104発を射撃したほか、戦艦長門40センチ同45発、戦艦金剛と榛名は36センチ同306発が発射されました。
戦果として、護衛空母1隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻を撃沈しました。
しかし、これらは、主に中距離砲戦によって与えた命中弾によるもので、距離2万4000m以上の遠距離砲戦では、大きな戦果は得られませんでした。
遠距離砲戦では、兵器及び各種の測定値などの多少の誤差も予想外の偏弾(はずれだま)となってしまうほか、砲撃を一方的に受けるアメリカ護衛空母側の、「一斉射が近弾として落下し始めると、標的にさらされるのを避けるため、最後に落下した弾着から離れるように操艦した。」とあるような、集中砲火を受けないように巧みな操艦も、効果を発揮しました。
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原勝洋著『決戦戦艦 大和の全貌』(アリアドネ企画 2004年)P96 |
距離3万mを越える砲戦では、弾丸は発射から着弾まで、40秒以上の時間を費やします。日本軍が、着弾を見て修正して次弾を放っても、敵空母側も敵弾が飛んでくる間に、微妙に進路変更を行えば、そう簡単には射撃する方の思うつぼにはならないわけです。 |