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戦艦大和について考える7

戦艦大和について考えます。その実像とは?

 
「戦艦大和神話」確認その4 アウトレンジは可能か 
 距離4万mの砲撃                                             | このページの先頭へ |

 話を元へ戻します。
 アウトレンジ戦法で勝利する前提条件である、大和とアイオワ型の射的距離の差は、どのくらいでしょうか。


 まず、大和型とアイオワ型の射程距離の違いは、以下のとおりです。

大和型

アイオワ型

18インチ(46cm)

主砲

16インチ(40cm)

4万1200m

射程距離

3万8000m

 そうです。
 この
射程距離の差、3200mに、大和は賭けなければなりません。

 すなわち、大和がアメリカ戦艦に楽勝するためには、距離4万2000m以上で敵を見つけ、ねらいを付けながら接近し、4万1200m以内に入ったらすかさず打ち始め、敵が撃ってくる前に、沈めてしまえばいいのです。 
  言うのは簡単ですね。4万m離れた相手のを射撃するってのは、どんな感じなのでしょうか?


 下の写真をご覧ください。濃尾平野の衛星写真です。
 これで、射程距離4万1200mというのを確認してみます。


写真の説明です。
は岐阜県庁の位置です。濃尾3川(右から、木曽川、長良川、揖斐川)が伊勢湾に注いでいます。
がJR名古屋駅です。岐阜県庁からは、直線距離で、3万mあります。
は新日本製鐵名古屋製鉄所です。岐阜県庁からは直線で4万1000mあります。

この写真は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。

 大和の射程距離4万1200mというのは、よく書物などでは、「東京駅から神奈川県の大船駅の先まで砲弾をとばすことができる。」などと表現されていますが。

 わが岐阜県に置き換えると、岐阜県庁から発射すると、JR名古屋駅ははるかに超えて、名古屋市南部まで届くというわけです。
 正確には、伊勢湾の奥の新日本製鐵名古屋製鉄所まで届く計算になります。
  ※新日本製鐵名古屋製鉄所については、×のシリーズでも紹介しています。
   岐阜・美濃・飛騨の話「西濃鉄道石灰石専用列車と大垣赤坂金生山」15新日本製鐵


46cm主砲塔の模型。呉市海事歴史科学館の展示より。
右の写真も同様。【撮影日】いずれも2006/01/03

46cm主砲弾。左は、徹甲弾(高さ198cm、重量1.46ton)
中は、三式焼霰弾(飛行機を目標に発射。時限爆発し多数の焼夷性弾子が広がる仕組みになっていた)


 艦橋トップの方位盤室から敵艦を見るとはどんな感覚?               | このページの先頭へ |

 その4万1200mという距離は、実際に目で見てみると、どのくらいの距離感覚なのでしょうか?

 下の写真は、岐阜県庁の写真です。
 岐阜県庁の最上階の高さと、大和の艦橋の高さは、ほぼ同じです。正確に比較してみます。

 岐阜県庁の写真。2003年撮影。2006年現在は、写真の右側に、県庁とほぼ同じ大きさの「岐阜県警察本部」の庁舎が建っています。


 長さはもちろん、岐阜県庁の104.4mに対して、大和は263.0mもありますから、大和の方が断然長くなります。
 しかし、大和の艦橋の高さは、岐阜県庁より少し低くなっています。
 
 ということは、岐阜県庁からの眺めは、大和艦橋トップの方位盤室からの眺めとほぼ同じになるはずです。

 そこで、岐阜県庁11階から名古屋の方面を撮影してみました。 


 これは、県庁11階の床の上に台を置いて撮影した名古屋方面の風景です。デジカメ写真3枚を合成したものです。
 【撮影日】05/12/28
 


 上の合成写真の一番左の部分。これで12倍ズーム。
 地平線左端の2組の背の高いビルは、JR名古屋駅のJRセントラルタワーズのツインビルです。高さ51階245mですから、よく見えます。
 これが、岐阜県庁から3万m(30km)の距離です。
 少し右手は、このページの一番上の東海地方写真で説明した新日本製鐵名古屋製鉄所(岐阜県庁から約4万1000m)の方向ですが、それらしきものをここで識別するのは不可能です。


 大和の方位盤室には、15cm双眼鏡及び12cm双眼鏡が付いていました。専門書によると15cm双眼鏡は25倍、12cmは20倍とのことです。

原勝洋著『戦艦大和すべて』(インデックス・コミュニケーションズ 2005年)P203

 しかし、この倍率が、たとえば、デジカメの5倍ズームという場合の5倍の表現と同じことを意味するものかは分かりません。
 したがって、単純な比較はできませんが、まあ雰囲気として、高さ38mの方位盤室から敵艦を眺めるというものがどのようなものかの感覚は、少し分かった気がします。


 遠距離射撃                                                | このページの先頭へ |

 大和の遠距離射撃の「腕」はどうだったのでしょうか?
 大和の行動記録をすべて掲載した資料はもちあわせていませんので、大和がいつどんかかたちの射撃訓練をおこなったかは、わかりません。ただし、次の4つのことは、事実です。

1942(昭和17)年3月30日

 瀬戸内海三田尻沖で行われた訓練で、大和は初めての遠距離射撃を実施。
 距離は3万8100mで、帝国海軍はじまって以来の長距離射撃訓練となりました。
 結果は、失敗でした。高層風の測定を誤り、着弾は目標から大きくずれてしまいました。

児島襄著『戦艦大和 上』(文藝春秋 1973年)P88−89

 

1943(昭和18)年4月15日

 停泊しているトラック環礁内で、距離3万5000m遠距離射撃を実施。
 結果は、またもや失敗でした。標的と背後の珊瑚礁との識別が難しく、照準を誤ったためです。

児島襄前掲著 P182

 

1944(昭和19)年6月2日

 停泊しているタウイタウイ礁内で、武蔵とともに距離3万5000mの遠距離射撃を実施。
 翌日の射撃研究会で、散布界が問題となりました。大和のそれは800m、武蔵のそれは1000mだったからです。
 散布界というのは、主砲弾9発斉射の場合、その9発がどれぐらいの幅に落ちるかという数値です。前のページの引用の中に説明があったように、期待される値は、300mでした。800mでは、角弾の間隔は、100mにもなり、命中する確率は極端に下がってしまいます。
 第1戦隊司令官宇垣纏少将は、「将に戦闘に赴く時、この状況は寒心に堪えない。何とか解決しようとするが未だ良薬に達せず」とその日記、「戦藻録」に記しました。

原 勝洋前掲著『戦艦大和のすべて』P220


1944(昭和19)年8月1日

 停泊しているリンガ泊地で距離2万7000mの射撃訓練。大和の散布界は、700mに縮小。武蔵は、以前1000mのまま。

原勝洋前掲著 P227−228

  

 そして、ついに、大和が本当に敵艦に向かって射撃をする唯一の機会がやってきます。
 1944年10月にフィリピンの周辺で行われた、
レイテ沖海戦の一つサマール島沖海戦です。

 10月25日明け方、栗田司令長官の率いる第1遊撃部隊(大和・長門を含む、武蔵は前日空襲で沈没)は、レイテ湾へ向かう途中、サマール島沖で、アメリカ護衛空母艦隊と不意に遭遇します。敵艦隊の勢力は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦(駆逐艦よりは小型)4隻でした。

<用語解説>

護衛空母

アメリカは、戦時中に17隻の正規空母を建造し、日本海軍を圧倒しましたが、それ以外に、巡洋艦から改造や商船から改造の小型空母・護衛空母を多数建造しました。その数は、合わせて、123隻になっています。
大和が遭遇した「敵空母」は、商船改造型の護衛空母艦隊でした。7800トン、搭載航空機数28機、最大速力19.5ノット。


05:44

アメリカ護衛空母艦隊のマストを発見。距離3万7000m。

05:59

射撃開始。距離3万1500m。

08:25

射撃中止。艦隊集結命令。

 
 このおよそ、2時間半及ぶ砲撃戦で、
大和が46センチ徹甲弾104発を射撃したほか、戦艦長門40センチ同45発、戦艦金剛と榛名は36センチ同306発が発射されました。
 戦果として、護衛空母1隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻を撃沈しました。

 しかし、これらは、主に中距離砲戦によって与えた命中弾によるもので、
距離2万4000m以上の遠距離砲戦では、大きな戦果は得られませんでした。
 遠距離砲戦では、兵器及び各種の測定値などの多少の誤差も予想外の偏弾(はずれだま)となってしまうほか、砲撃を一方的に受けるアメリカ護衛空母側の、「一斉射が近弾として落下し始めると、標的にさらされるのを避けるため、最後に落下した弾着から離れるように操艦した。」とあるような、集中砲火を受けないように巧みな操艦も、効果を発揮しました。

原勝洋著『決戦戦艦 大和の全貌』(アリアドネ企画 2004年)P96

 距離3万mを越える砲戦では、弾丸は発射から着弾まで、40秒以上の時間を費やします。日本軍が、着弾を見て修正して次弾を放っても、敵空母側も敵弾が飛んでくる間に、微妙に進路変更を行えば、そう簡単には射撃する方の思うつぼにはならないわけです。


 アウトレンジ戦法は可能か                                 | このページの先頭へ |

 これらの訓練や、サマール島沖海戦の様子を見れば、アウトレンジや遠距離の砲戦では、「期待」の通りの高い命中率というわけには、簡単にはいかないことが見て取れます。

 つまり、敵戦艦の有効射程外から命中弾を送り込み、自分は無傷でアメリカ艦隊のみを撃滅できるとか、遠距離砲戦で、訓練で得た高い命中率を利点に敵艦対を撃滅し、味方の被害は最小限にとどめるというアウトレンジ戦法は、そんなに簡単なことではなかったのです。

 訓練時の数値が高くても、何が起こるか分からない実戦では、その通りにはいかないものです。
 そう考えると、
46センチ主砲の技術と、訓練による技量の優秀性に依存したアウトレンジ戦法は、基本的には幻想であった感を強くします。
 その意味で、大和は、
軍艦の数が少ない「貧乏海軍」の主力艦として、非現実的な「役目」を負わされてしまった戦艦といえるのではないでしょうか。
 また、
大艦巨砲主義というのは、航空機時代の到来によって時代遅れとなったというよりは、そもそも、2万m程度の砲撃戦ならともかく、3万mも4万mも離れて砲撃戦するということ自体が、そう簡単ではなかったということになるでしょうか。

 
アウトレンジ戦法は、非現実的でした。


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